龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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二十七の上 一次面接、夏侯嬰

 

 

 韓信は、安平(あんへい)関(かん)を越えて、その先の散関(さんかん)にやってきた。

 前回と同様、批文(ひぶん)(通行許可証)を見せて防衛部隊を欺(あざむ)き、悠々(ゆうゆう)と関(かん)を通過する。

 

 関門(かんもん)をくぐれば、そこは三岔(さんた)山(さん)の道。

 あたりの山河(さんが)は急激に険阻(けんそ)さを増し、圧倒されんばかりの威容(いよう)をもって韓信の前に立ちふさがっている。

 

 韓信は関門(かんもん)の出口で馬を止め、張良から贈(おく)られた地図を広げた。

 張良の話によれば、このあたりに漢中への抜け道があるはずなのだ。

 韓信は、周囲の地形と地図を見比べて方角を確かめると、抜け道を目指して進み始めた。

 

 と、そのとき。

 背後の方から、馬の足音が聞こえてきた。

 何者かが馬を飛ばして関門(かんもん)に近づいてきたようだ。

 

 韓信は馬を止め、さりげなく背後に視線を向けた。

 開かれた関門の向こうに、馬に乗った男の姿が見える。

 その男は、大きな牌(ぱい)(文字を書きつけた板)を手に持っている。

 

 男が、関門(かんもん)を守る兵士たちに向けて声を張り上げた。

「お前たち、この牌(ぱい)を見よ!

 このあたりを単騎(たんき)で通行しようとする者がいたら、ただちに追跡し、この牌(ぱい)に書いてある名前と照合するのだ。

 もしこの人物であれば、すぐに捕縛せよ!」

 

 どうやらこの男、君主からの指令を各地に伝える報事(ほうじ)官(かん)らしい。

 

 韓信は、わずかに目を細めた。

 遠目で読みづらいが、報事(ほうじ)官(かん)が掲(かか)げ持つ牌(ぱい)には、『韓信』と書かれているようだ。

 

 韓信は、無言で馬に鞭(むち)を入れ、その場から駆けだした。

 

 一方関門(かんもん)では、兵士たちが報事(ほうじ)官(かん)にこう言っていた。

「それらしい男なら、つい先ほど、単騎(たんき)で関門(かんもん)を通りましたよ。

 批文(ひぶん)を持っていたので、我々は特に素性(すじょう)を質(ただ)しはしませんでしたが……

 まだそのあたりにいるかと思います。今から追いかけてみてはいかかでしょうか?」

 

 報事(ほうじ)官(かん)は、急いで関門(かんもん)をくぐり、韓信を追いかけた。

 先行していたとはいえ、韓信の位置は目と鼻の先。報事(ほうじ)官(かん)は、たちまち韓信に追いつき、問いただした。

 

「そこの者、止まれ!

 姓名(せいめい)を述(の)べよ。いかなる理由で関(かん)を通過したのか?」

 

 韓信は、言われるままに馬を止めた。

「私は李(り)という者。

 漢中(かんちゅう)に住んでいる親類に会いに行くところです」

 もちろん偽名。目的も、いま考えたデタラメである。

 

 報事(ほうじ)官(かん)は、油断(ゆだん)なく目を光らせながら問う。

「では、関(かん)の通行許可はお持ちか?」

 

 韓信が、涼しい顔で、うなずく。

「印信(いんじん)の入った批文(ひぶん)がありますよ。まあ、そう怪しまないでください」

 

 韓信は、批文(ひぶん)を差し出した。

 報事(ほうじ)官(かん)が批文(ひぶん)を受け取り、開いて中を見ようとした……

 

 そのとき。

 

 韓信は宝剣を抜き放ち、報事(ほうじ)官(かん)の喉(のど)を迷うことなく斬り裂いた。

 

 この様子を遠目に見ていた関(かん)の番兵たちが、あっ! と鋭く声を上げた。

「あの野郎、やりやがった!

 おい、行くぞ! 奴を捕らえろ!」

 殺気だって韓信の方へ駆けてくる兵卒が、5人。

 

 ここで韓信は、逃げるどころか馬を返し、逆に追手の兵へ駆け寄った。

 兵卒たちは、韓信の思いもよらぬ行動に、一瞬たじろぐ。

 

 その隙を狙って、韓信が宝剣を走らせる。

 兵卒たちは、喉(のど)、手首、脚などの急所を的確に裂かれ、たちまち無力化されて地に倒れた。

 韓信は、馬から降りて悠然(ゆうぜん)と兵卒たちに歩み寄り、まるで単調な事務仕事を片付けるかのように淡々と、一人一人に止(とど)めを刺していく。

 

 すべて片付け終えると、韓信は再び馬の背に飛び乗り、西へ向けて走りだした。

 

 

   *

 

 

 少し進んだ所で、韓信は、ふと馬を止めた。

「関(かん)の兵士を殺したからには、当然、さらなる追手(おって)が来るだろうな」

 

 そこで韓信は、追手(おって)を撒(ま)くため、道を外れて山の中へ入った。

 

 ところが、そこからが大変だった。

 ほんの少し道から外れただけで、そこはもう恐るべき険阻(けんそ)の地。

 幾重(いくえ)にも連(つら)なる山々は剣(つるぎ)の如くそびえ立ち、壁の如き断崖(だんがい)は高さ幾(いく)千仞(せんじん)かも知れず。

 渓流(けいりゅう)が轟々(ごうごう)と声あげる中に、松や柏(かしわ)が葉擦(はず)れを交(まじ)え、わずかに細い道はあれども、とうてい馬を走らせられるような場所ではない。

 

 あまりの険(けわ)しさに、さすがの韓信も、心に不安を抱きはじめた。

「この道は、ほんとうに大丈夫なのか?

 このまま進んで、ちゃんと陳倉(ちんそう)にたどりつけるのだろうか……」

 

 韓信が、慎重に馬を歩(あゆ)ませていると、前方から一人の木樵(きこり)がやってきた。

 韓信は馬を止め、木樵(きこり)に声をかけた。

「ちょっと尋(たず)ねるが、陳倉(ちんそう)へ行く道は、ここでいいのか?」

 

 木樵(きこり)は、背負(せお)っていた柴(しば)(燃料にする木材)を地面に降ろし、山の向こうを一つ一つ指差しながら、親切に教えてくれた。

「ええ、ええ、この道で合っておりますよ。

 

 この先の丘(おか)を越えると、小さな松林があります。

 林を過ぎたら、乱石(らんせき)灘(たん)という渓流(けいりゅう)に、石橋が架かっておるのが見えるはずです。

 

 橋を渡れば、そこが娥眉(がび)嶺(れい)。この山は、とんでもなく険(けわ)しいですから、馬を降りて歩くといいですよ。

 その先の太白(たいはく)嶺(れい)を越えたら、麓(ふもと)に人家(じんか)が見えてきます。

 

 さらに進んで孤雲(こうん)山(ざん)と両脚(りょうきゃく)山(ざん)を過ぎ、黒水(こくすい)って川を渡り、寒渓(かんけい)を過ぎたら、そこが漢中の都(みやこ)、南鄭(なんてい)の関(かん)です。

 

 しかし、この道には狂暴な虎が棲(す)んでおります。虎は夜に狩りをしますから、絶対に夜に通ってはいけませんぞ」

 

 韓信は、手元の地図を開いてみた。

 地図に書かれた道順は、木樵(きこり)の教えてくれたものと、ピタリ一致している。

 どうやら、この道で間違(まちが)いないらしい。

 

 韓信が喜んで礼を言うと、木樵(きこり)はまた柴(しば)を背負(せお)って去っていった。

 

 ……が。

 先へ進みかけた韓信は、ふと、馬を止めて振り返った。

 

「私は関(かん)の兵士を殺したのだ。追手(おって)がかかっていると見て間違(まちが)いない。

 あの木樵(きこり)が、もし追手(おって)の兵と出会ったら? そして『この道で、それらしい人物と会った』などと報告したら……?

 私の馬は疲れているし、道も悪い。この道を追手(おって)に知られたら、逃げ切ることはできまい。となれば……」

 

 韓信は、木樵(きこり)の背中に声をかけた。

「君! ちょっと待ちたまえ!」

 

 木樵(きこり)が立ち止まる。

 韓信が、なにげない素振(そぶ)りで近寄る。

 

 木樵(きこり)が、首をかしげた。

「へえ? どうなさいました? まだ何か?」

「ああ。実はな……」

 

 と、韓信はいきなり手を伸ばし、馬上から木樵(きこり)の髻(もとどり)(髷(まげ))を引(ひ)っ掴(つか)んだ。

 そして、木樵(きこり)の首に剣を突き刺し、一刀のもとに刺し殺してしまった。

 

「これでよし。この木樵(きこり)さえ居(い)なければ、たとえ追手(おって)の軍勢が来たとしても問題ない。

 こんな間道を通っているとは夢にも思わず、みな桟道(さんどう)の方へ向かうはずだ」

 

 韓信は、馬から降りて木樵(きこり)の死体を土の中に埋め、その墓とも呼べぬ墓に向かって再拝した。

「すまんな。こんな不人情なことは私だってやりたくないが、止(や)むを得(え)なかったのだ。

 いつか志(こころざし)を遂(と)げた日には、必ずここへ来て君を手厚く弔(とむら)い、今日という日の恩に報(むく)いよう」

 

 韓信は、そんなことを呟(つぶや)いて、涙まで流しながら再び馬に跨(またが)った。

 

 

   *

 

 

 そこから韓信は、木樵(きこり)に教わった通りに馬を進めた。

 松林を過ぎ、乱石(らんせき)灘(たん)の石橋を渡り、娥眉(がび)嶺(れい)の難所を越えて、太白(たいはく)嶺(れい)を下(くだ)ると、話に聞いた通り、麓(ふもと)に人家が見えてきた。

 

 道沿いに何軒かの家が並び、ちょっとした村になっている。

 その中に酒店もある。

 

 韓信は馬を下(お)りて酒店に入り、酒を注文した。

 山越えで疲れ果てた身体に酒を流し込み、ようやく、ほっと息をつく。

 

 ここまで追手(おって)に出会わなかった。うまく逃げおおせたと見てよいだろう。

 だが、安心したとたん、殺してしまった木樵(きこり)のことが頭をよぎり、罪悪感が重く心に圧(の)しかかってくる。

 

 韓信は立ち上がり、酒店の壁に対面した。

 少し考えこみ、やがて、韓信は酒店の壁に文字を書きつけはじめた。

 

 

  彼(か)の山路(やまじ)の難(なん)に陟(のぼ)れば

  崎嶇(きく)測(はか)るべからず

  藤蘿(とうら)、層巒(そうらん)に結び

  狐兔(こと)、幽黒(ゆうこく)に蔵(かく)る

  怪しいかな、この山の険(けわ)しきこと

  峻権(しゅんけん)、万億(まんおく)有り

  天を去り、手攀(よ)づべし

  回転、筋力の苦しむ

  迷黯(めいあん)、竟(つい)に何(いずく)にか往(ゆ)く

  郷(ごう)を問(と)いて識(し)るに由(よし)無く

  忽(たちま)ち見る、採樵(さいしょう)の人

  我に問(と)う、将(まさ)に安(いずく)にか適(ゆ)かんと

  馬を勒(くつわ)して山前に立つ

  乃(すなわ)ち云(い)う、西川の国

  樵人(しょうじん)、要路(ようろ)を指(さ)す

  図を按(あん)ずるに差忒(さとく)無し

  忠亮(ちゅうりょう)なるを知るに足(た)れり

  孔(こう)云(い)わく、宜(よろ)しく徳に報(ほう)ずべく

  追兵(ついへい)忽(たちま)ち至《いた》るを恐(おそ)る

  擒(きん)を受くれば反(かえ)って自(みずか)ら賊(そこな)わる

  汝(なんじ)を斬りて蹤跡(しょうせき)を絶(ぜっ)す

  実(まこと)に我(わ)が薄刻(はくこく)なるにあらず

  汝(なんじ)を留(とど)むるは特(ひと)り山樵(さんしょう)

  我(われ)を存(ぞん)ずるは帝翊(ていよく)なり

  我(われ)、万夫(ばんぷ)の望(のぞ)みに当(あ)たる

  群(ぐん)、殆(ほとほと)良く惑(まど)わず

  罪無くして霜鋒(そうほう)に遭(あ)うも

  我が心、君が為(ため)に惻(いた)む

  君が徳、終(つい)に報(むく)いんことを図(はか)る

  君が後(のち)、我更(さら)に植(う)えつ

  蒼蒼(そうそう)として秋月(しゅうげつ)明(めい)なり

  疑(うたが)うらくは君が顔色を照(て)らすかと

 

 

 よほど木樵(きこり)を殺したのが後ろめたかったのか。言(い)い訳(わけ)に言(い)い訳(わけ)を重ね、自分の行為をひたすら正当化して許しを乞(こ)うような詩である。

 韓信は、この詩に節(ふし)を付けて歌いながら、酒を飲み続けた。

 

 と、そのとき。

 酒店の中へ、一人の壮士が入ってきた。

 壮士が韓信の前に立ち、ニタリと笑って言う。

「その詩の内容からすると、どうやらお前は楚(そ)を裏切って漢に降(くだ)り、道の途中で木樵(きこり)を殺して、ここまで来たというわけらしいな。

 それなら、お前を生(い)け捕(ど)って覇王項羽様に送り、重く恩賞をいただこうか!」

 

 

(つづく)




●注釈
 韓信が酒店の壁に書きつけた漢詩は、以下のようなものである。非常に長いが、山道を越える苦労や、そのとき木樵(きこり)と出会ったことなどを、ほぼそのまま書いているだけである。
 陟彼山路難
 崎嶇不可測
 藤蘿結層巒
 狐兔蔵幽黒
 怪哉此山険
 峻権有万億
 去天手可攀
 回転苦筋力
 迷黯竟何往
 無由問郷識
 忽見採樵人
 問我将安適
 勒馬立山前
 乃云西川国
 樵人指要路
 按図無差忒
 足知為忠亮
 孔云宜報徳
 追兵恐忽至
 受擒反自賊
 斬汝絶蹤跡
 実非我薄刻
 留汝特山樵
 存我為帝翊
 我当万夫望
 群殆良不惑
 無罪遭霜鋒
 我心為君惻
 君徳終図報
 君後我更植
 蒼蒼秋月明
 疑照君顔色
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