韓信は、安平関を越えて、その先の散関にやってきた。
前回と同様、批文(通行許可証)を見せて防衛部隊を欺き、悠々と関を通過する。
関門をくぐれば、そこは三岔山の道。
あたりの山河は急激に険阻さを増し、圧倒されんばかりの威容をもって韓信の前に立ちふさがっている。
韓信は関門の出口で馬を止め、張良から贈られた地図を広げた。
張良の話によれば、このあたりに漢中への抜け道があるはずなのだ。
韓信は、周囲の地形と地図を見比べて方角を確かめると、抜け道を目指して進み始めた。
と、そのとき。
背後の方から、馬の足音が聞こえてきた。
何者かが馬を飛ばして関門に近づいてきたようだ。
韓信は馬を止め、さりげなく背後に視線を向けた。
開かれた関門の向こうに、馬に乗った男の姿が見える。
その男は、大きな牌(文字を書きつけた板)を手に持っている。
男が、関門を守る兵士たちに向けて声を張り上げた。
「お前たち、この牌を見よ!
このあたりを単騎で通行しようとする者がいたら、ただちに追跡し、この牌に書いてある名前と照合するのだ。
もしこの人物であれば、すぐに捕縛せよ!」
どうやらこの男、君主からの指令を各地に伝える報事官らしい。
韓信は、わずかに目を細めた。
遠目で読みづらいが、報事官が掲げ持つ牌には、『韓信』と書かれているようだ。
韓信は、無言で馬に鞭を入れ、その場から駆けだした。
一方関門では、兵士たちが報事官にこう言っていた。
「それらしい男なら、つい先ほど、単騎で関門を通りましたよ。
批文を持っていたので、我々は特に素性を質しはしませんでしたが……
まだそのあたりにいるかと思います。今から追いかけてみてはいかかでしょうか?」
報事官は、急いで関門をくぐり、韓信を追いかけた。
先行していたとはいえ、韓信の位置は目と鼻の先。報事官は、たちまち韓信に追いつき、問いただした。
「そこの者、止まれ!
姓名を述べよ。いかなる理由で関を通過したのか?」
韓信は、言われるままに馬を止めた。
「私は李という者。
漢中に住んでいる親類に会いに行くところです」
もちろん偽名。目的も、いま考えたデタラメである。
報事官は、油断なく目を光らせながら問う。
「では、関の通行許可はお持ちか?」
韓信が、涼しい顔で、うなずく。
「印信の入った批文がありますよ。まあ、そう怪しまないでください」
韓信は、批文を差し出した。
報事官が批文を受け取り、開いて中を見ようとした……
そのとき。
韓信は宝剣を抜き放ち、報事官の喉を迷うことなく斬り裂いた。
この様子を遠目に見ていた関の番兵たちが、あっ! と鋭く声を上げた。
「あの野郎、やりやがった!
おい、行くぞ! 奴を捕らえろ!」
殺気だって韓信の方へ駆けてくる兵卒が、5人。
ここで韓信は、逃げるどころか馬を返し、逆に追手の兵へ駆け寄った。
兵卒たちは、韓信の思いもよらぬ行動に、一瞬たじろぐ。
その隙を狙って、韓信が宝剣を走らせる。
兵卒たちは、喉、手首、脚などの急所を的確に裂かれ、たちまち無力化されて地に倒れた。
韓信は、馬から降りて悠然と兵卒たちに歩み寄り、まるで単調な事務仕事を片付けるかのように淡々と、一人一人に止めを刺していく。
すべて片付け終えると、韓信は再び馬の背に飛び乗り、西へ向けて走りだした。
*
少し進んだ所で、韓信は、ふと馬を止めた。
「関の兵士を殺したからには、当然、さらなる追手が来るだろうな」
そこで韓信は、追手を撒くため、道を外れて山の中へ入った。
ところが、そこからが大変だった。
ほんの少し道から外れただけで、そこはもう恐るべき険阻の地。
幾重にも連なる山々は剣の如くそびえ立ち、壁の如き断崖は高さ幾千仞かも知れず。
渓流が轟々と声あげる中に、松や柏が葉擦れを交え、わずかに細い道はあれども、とうてい馬を走らせられるような場所ではない。
あまりの険しさに、さすがの韓信も、心に不安を抱きはじめた。
「この道は、ほんとうに大丈夫なのか?
このまま進んで、ちゃんと陳倉にたどりつけるのだろうか……」
韓信が、慎重に馬を歩ませていると、前方から一人の木樵がやってきた。
韓信は馬を止め、木樵に声をかけた。
「ちょっと尋ねるが、陳倉へ行く道は、ここでいいのか?」
木樵は、背負っていた柴(燃料にする木材)を地面に降ろし、山の向こうを一つ一つ指差しながら、親切に教えてくれた。
「ええ、ええ、この道で合っておりますよ。
この先の丘を越えると、小さな松林があります。
林を過ぎたら、乱石灘という渓流に、石橋が架かっておるのが見えるはずです。
橋を渡れば、そこが娥眉嶺。この山は、とんでもなく険しいですから、馬を降りて歩くといいですよ。
その先の太白嶺を越えたら、麓に人家が見えてきます。
さらに進んで孤雲山と両脚山を過ぎ、黒水って川を渡り、寒渓を過ぎたら、そこが漢中の都、南鄭の関です。
しかし、この道には狂暴な虎が棲んでおります。虎は夜に狩りをしますから、絶対に夜に通ってはいけませんぞ」
韓信は、手元の地図を開いてみた。
地図に書かれた道順は、木樵の教えてくれたものと、ピタリ一致している。
どうやら、この道で間違いないらしい。
韓信が喜んで礼を言うと、木樵はまた柴を背負って去っていった。
……が。
先へ進みかけた韓信は、ふと、馬を止めて振り返った。
「私は関の兵士を殺したのだ。追手がかかっていると見て間違いない。
あの木樵が、もし追手の兵と出会ったら? そして『この道で、それらしい人物と会った』などと報告したら……?
私の馬は疲れているし、道も悪い。この道を追手に知られたら、逃げ切ることはできまい。となれば……」
韓信は、木樵の背中に声をかけた。
「君! ちょっと待ちたまえ!」
木樵が立ち止まる。
韓信が、なにげない素振りで近寄る。
木樵が、首をかしげた。
「へえ? どうなさいました? まだ何か?」
「ああ。実はな……」
と、韓信はいきなり手を伸ばし、馬上から木樵の髻(髷)を引っ掴んだ。
そして、木樵の首に剣を突き刺し、一刀のもとに刺し殺してしまった。
「これでよし。この木樵さえ居なければ、たとえ追手の軍勢が来たとしても問題ない。
こんな間道を通っているとは夢にも思わず、みな桟道の方へ向かうはずだ」
韓信は、馬から降りて木樵の死体を土の中に埋め、その墓とも呼べぬ墓に向かって再拝した。
「すまんな。こんな不人情なことは私だってやりたくないが、止むを得なかったのだ。
いつか志を遂げた日には、必ずここへ来て君を手厚く弔い、今日という日の恩に報いよう」
韓信は、そんなことを呟いて、涙まで流しながら再び馬に跨った。
*
そこから韓信は、木樵に教わった通りに馬を進めた。
松林を過ぎ、乱石灘の石橋を渡り、娥眉嶺の難所を越えて、太白嶺を下ると、話に聞いた通り、麓に人家が見えてきた。
道沿いに何軒かの家が並び、ちょっとした村になっている。
その中に酒店もある。
韓信は馬を下りて酒店に入り、酒を注文した。
山越えで疲れ果てた身体に酒を流し込み、ようやく、ほっと息をつく。
ここまで追手に出会わなかった。うまく逃げおおせたと見てよいだろう。
だが、安心したとたん、殺してしまった木樵のことが頭をよぎり、罪悪感が重く心に圧しかかってくる。
韓信は立ち上がり、酒店の壁に対面した。
少し考えこみ、やがて、韓信は酒店の壁に文字を書きつけはじめた。
彼の山路の難に陟れば
崎嶇測るべからず
藤蘿、層巒に結び
狐兔、幽黒に蔵る
怪しいかな、この山の険しきこと
峻権、万億有り
天を去り、手攀づべし
回転、筋力の苦しむ
迷黯、竟に何にか往く
郷を問いて識るに由無く
忽ち見る、採樵の人
我に問う、将に安にか適かんと
馬を勒して山前に立つ
乃ち云う、西川の国
樵人、要路を指す
図を按ずるに差忒無し
忠亮なるを知るに足れり
孔云わく、宜しく徳に報ずべく
追兵忽ち至《いた》るを恐る
擒を受くれば反って自ら賊わる
汝を斬りて蹤跡を絶す
実に我が薄刻なるにあらず
汝を留むるは特り山樵
我を存ずるは帝翊なり
我、万夫の望みに当たる
群、殆良く惑わず
罪無くして霜鋒に遭うも
我が心、君が為に惻む
君が徳、終に報いんことを図る
君が後、我更に植えつ
蒼蒼として秋月明なり
疑うらくは君が顔色を照らすかと
よほど木樵を殺したのが後ろめたかったのか。言い訳に言い訳を重ね、自分の行為をひたすら正当化して許しを乞うような詩である。
韓信は、この詩に節を付けて歌いながら、酒を飲み続けた。
と、そのとき。
酒店の中へ、一人の壮士が入ってきた。
壮士が韓信の前に立ち、ニタリと笑って言う。
「その詩の内容からすると、どうやらお前は楚を裏切って漢に降り、道の途中で木樵を殺して、ここまで来たというわけらしいな。
それなら、お前を生け捕って覇王項羽様に送り、重く恩賞をいただこうか!」
(つづく)