韓信が通された部屋で待っていると、部屋の奥の壇上に、夏侯嬰が現れた。
いよいよ面接開始である。
夏侯嬰は、韓信の顔を一目見て、わずかに眉を動かした。
韓信が持つ非凡な気配を、鋭く感じ取ったらしい。
夏侯嬰が心の中で思う。
「韓信か……名前は聞いたことがある。楚で覇王項羽に仕えている男のはずだ。
それが楚から離反して、こんなに遠く険しい土地まで来たか。これは何か理由があるに違いない」
そこで夏侯嬰は、こう切り出した。
「では面接を始めよう。
まずは韓信殿。貴公、どういう理由で漢にお越しになったのか?」
韓信が答える。
「私は楚の臣です。しかし、覇王項羽は私を重く用いようとはしなかった。
そこで、暗愚の主君を捨て、明君に従うべく、咸陽からやってきたのです」
夏侯嬰が重ねて問う。
「しかし、桟道は焼け落ちてしまったし、山道は非常に険しい。一体どの道を通って来たのだね?」
韓信は、口元に笑みを浮かべた。
「賢明なる主君を得たい一心で、藤や葛の蔦をつかんで崖をよじ登り、遠い道を進んできました。
期待で胸がいっぱいで、途中の苦労など忘れてしまいましたな」
「なるほど、すばらしい志だ。
では御辺、外の掲示はご覧になりましたな?
あの十三ヶ条のうち、どの才に秀でておられるのか? 一言で、貴公の能力をお示しあれ」
これに対して、韓信は平然と答えた。
「十三ヶ条ことごとく」
夏侯嬰が目を丸くする。
「ことごとく!? 全てですと!?」
「左様。あの程度のことなら、どれでもできる。
しかし、私の真の才能は、あの十三ヶ条以外のところにあります」
「その十三ヶ条以外の才能とは?」
「私の才能は文武を兼ね備え、学は天と人とを貫く。
外に出ては大将となり、内に入りては丞相となり、座ったままで中原を鎮圧し、百度戦って百度勝つ。
天下を取るなど、自分の手のひらを裏返すほどに容易い。
私なら、楚を打ち破る大元帥となることができる。
これは、十三ヶ条にも無かった才でありましょう?
もし詳しくお聞きになりたいなら、明快にその理を説いてさしあげよう」
夏侯嬰は、唖然とした。
とんでもない大言壮語。この韓信という男、ちょっと頭がどうかしているのではないか? と思わずにはいられない。
だが、もし本当であったら? 漢にとって、万が一にも逃してはならない人材ということになる。
ここは、とりあえず韓信を尊重する態度を見せた方がよい、と夏侯嬰は判断した。
そこで夏侯嬰は、わざわざ階段を下り、韓信を壇上の座席に迎え上げた。
着席した韓信に、夏侯嬰が改めて再拝する。
「この夏侯嬰、以前から韓信殿の名は聞いていたが、お会いしたことはなかった。
今、貴公が幸いにも漢へとお越しになった。これは某にとっての幸運というだけでなく、天下国家すべてにとっての幸運です。
どうか、黄金や宝玉にも匹敵する貴公の理論を伺いたい」
韓信が、鷹揚に、うなずく。
「では申し上げよう。
そもそも世に蔓延る大将どもは、無駄に兵法に詳しいだけで、実際に兵を用いることができていない。
孫子・呉子の兵法に習熟し、六韜・三略を諳じる(暗唱する)ことができても、それだけでは取るに足らない。
兵法を知っているのはもちろん、実戦でも上手く兵を操ってこそ良将というものです。
たとえば、こんな話があります。
昔、宋の国に、不思議な薬を持っている者がおりました。
その薬は、手に塗ると、寒気を浴びても、あかぎれを起こさなくなるという素晴らしい代物。
その家では先祖代々、川で絹を洗う仕事をしていましたが、この薬のおかげで、霜や雪の季節にも、あかぎれにならずに済んだのだそうです。
そこで、この宋人は薬の製法を深く隠し、誰にも教えぬ秘伝としていました。
あるとき、宋人の家を2人の客が訪れました。
客たちは銀100両を出し、こう言いました。
「この銀を差し上げますから、秘伝の薬の製法を我々に教えてくれませんか」
宋人は、家族みんなで顔を突き合わして相談しました。
『一日中絹を洗っていたって、稼ぎは知れている。
100両の銀が手に入るなら、絹を洗うよりずっと割のいい儲けになるぞ』
こうして宋人は、薬の製法を客に教えたのです。
さて、製法を覚えた2人の客は、呉の国に行きました。
当時、呉は宿敵の越国から攻撃を受けていました。
しかし折悪しく極寒の季節だったため、呉兵の手は酷いあかぎれを起こし、武器を握ることさえ、ままならなくなっておりました。
そこで、2人の客は、あの薬の製法を呉王に奏上しました。
薬を兵士たちの手に塗らせたところ、たちまち効果が現れて、兵士たちは、あかぎれの痛みから解放されました。
本来の力を取り戻した呉軍は、一戦にして越の大軍を打ち破り、大きな功を成したのです。
同じあかぎれ防止の薬でも、宋人はそれを使って絹を洗い、2人の客はそれを使って大敵を破った。
知識は使い方ひとつで、これほど価値を変える。
大将の道も、これと同じ。ただ兵法書を暗記するだけでは意味がない。実戦に活かして上手く兵を用いることこそ肝要なのです」
夏侯嬰は、低くうなった。
「なるほど……それは確かに仰る通りだ。
しかし、御辺が本当にそれほどの才能を持っているなら、なぜ楚で頭角を現せなかったのです?」
韓信は、溜め息をついた。
「昔、虞国に百里奚という大夫がおりました。
しかし、虞の君主は百里奚の諌言を用いることができず、それが原因で虞国は滅びてしまった。
その後、捕虜となった百里奚は、秦の穆公によって才覚を見出され、秦の国政を預かりました。
この百里奚の働きによって、秦は天下の覇者となったのです。
賢者の才覚が花開くかどうかは、主君が用いるかどうかにかかっている。
私は楚にいた時、しばしば計略を奏上したが、楚では、ついに用いられることはなかった。
あの范増が再三に渡って私を推薦してくれさえしたが、それでも覇王項羽は従わなかった。
項羽には、私を用いるだけの器がない。
そう確信したので、私は楚を捨てて漢にやってきたのです」
夏侯嬰が言う。
「御辺が楚では用いられず、そのために才能を活かせなかった、というのは分かりました。
では、我が漢王様があなたを上手く用いたなら、どのような功を立てることができますか?」
韓信は堂々と答える。
「漢王様が私を用いなさったなら、巴蜀の兵を統率して、仁義のために軍を出発させ、都へ向かって楚を討伐してみせましょう。
まずは三秦を落とし、次に六国を降伏させて項羽の翼を一つ一つもぎ取っていき、范増を策略によって苦しませる。
ま、数ヶ月のうちに咸陽は占領できましょう。
……とはいえ、こういう大きな成果を、漢はみすみす逃してしまうのでしょうな。
なぜなら夏侯嬰殿、貴公はおそらく私を推薦する気がないし、仮に推薦したにせよ、漢王には私を用いることができないないでしょうから」
夏侯嬰が眉間に皺を寄せた。
「また大きなことを仰いましたな。私は、貴公に口で言うほどの実力がないのではないかと疑っているのですよ。
項羽というのは、恐ろしい男です。項羽が声を荒げて りつければ、万民みな震えあがる。天下を縦横に駆け回ること3年、武勇は古今に比類ないほど秀でている。
それを御辺は、あまりにも簡単に討ち取るなどと言う。ちと自惚れが過ぎるというものではありませんか?」
韓信は、目を細めた。
「私は、あれほど険阻な千里の道を通って、わざわざここまで来たのですよ。
実力もないのに弁舌だけをふるって人を騙そうものなら、後で厳しく罰せられるに決まっている。
罰せられるために命がけの難所を越えてくるような愚か者がおりますか?
それに、漢の重鎮たる貴公は『項羽には敵わない』などと思っておられるようだが、私に言わせれば、あんな男は幼稚なガキだ。
武勇古今に比類なし、だなんて、とんだ過大評価ですな」
夏侯嬰が問う。
「では、六韜や三略は読んでおられるか?」
韓信が、うなずく。
「大将たるもの、詩書を熟読して深く政治について知るのが当然。上は天文から下は地理に至るまで、一つとして知らぬことなく、熟達しておらぬこともない。
六韜三略のみならず、他にも色々読んでおりますよ」
「では、六韜三略を暗唱してごらんなさい」
これは、明らかに夏侯嬰からの挑戦だったのだろうが……
韓信は、すぐさま口を開き、六韜三略の文章を唱え始めた。
その言葉は、うねり走る濁流のように滔々と口から溢れ出て、一瞬たりとも途切れることなく部屋の中に響き続けた。
夏侯嬰は驚き、別の書の名を挙げてみた。
韓信は、それもまた、すらすらと暗唱してみせた。
さらに別の書、またまた別の書……陰陽、医学、卜占などなど、古今東西ありとあらゆる書物の名を言えば、その文章がたちまち韓信の口から流れ出てくる。
しかも、その内容に、たった一字の誤りさえないのである。
また、夏侯嬰は、さまざまな武具についても尋ねた。
これについても韓信は淀みなく答えた。星の数ほどある各種兵器の由来、目的、使用法、その利点と弱点……一つ一つ説き示し、どれ一つとして知らないことがない。
その恐るべき知識量に、夏侯嬰は今度こそ驚嘆した。
「なんてことだ! 御辺は、まことに天下の賢人。この世に稀有なる人材だ!」
*
夏侯嬰は、韓信をその場に留まらせ、さらに対話を重ねて彼の才能を見極めようとにした。
だが、韓信の説くところを聞いても聞いても、次から次へと新たな知識と知恵が見えてくる。
夏侯嬰は、苦笑した。
「韓信の才覚は大きすぎる。私では量り尽くすことができないな」
そこで夏侯嬰は、韓信にこう告げた。
「明日、漢王様にお会いして、貴公を推薦してきましょう。必ず重く用いるように言っておきますよ」
だが、韓信は、またしてもこの推薦を拒絶した。
「いいえ、まだ漢王に謁見すべき時ではありません。
それよりも、私を相国の蕭何殿に対面させていただきたい。
蕭何殿にも私の才能を知っていただき、そのうえで、貴公と蕭何殿の2人で漢王様に推薦してください。
そうすれば、漢王様も私が用いるべき人材であると納得なさるでしょう」
夏侯嬰は、手を打った。
「なるほど、確かに、それがいいかもしれん。
では、私は今晩、蕭何殿に会って、この件を伝えておきましょう。
そして明日、貴公を連れて蕭何殿のところへ参るとしよう」
かくして、韓信は招賢館を出て、宿屋へと帰っていった。
その道すがら……韓信は人知れず、会心の笑みを浮かべた。
「ふ……他愛もない。『兵法書の丸暗記では意味がない』と説いたばかりなのに、暗記の羅列だけで落ちるとはな。
さて、次は蕭何か。少しは歯ごたえがあるといいが」
(つづく)
■次回予告■
夏侯嬰に己が才覚を見せつけて、出世街道最初の一歩を踏み出した韓信。漢の中枢に昇りつめるべく、次なる対手との対話に挑む。
漢の三傑、相国蕭何。謹厳実直、博覧強記。縁の下から国を支えるこの重鎮を、大元帥の割符なしに心酔させることができるか否か。
次回「龍虎戦記」第二十八回
『二次面接、相国蕭何』
乞う、ご期待!