招賢館で韓信が夏侯嬰をうならせた、その夜のこと。
夏侯嬰は、蕭何に会うべく、丞相府(丞相や相国が政治を行う役所)を訪れた。
夏侯嬰は蕭何の前へ行き、韓信が楚を離反して漢に来たことを、興奮ぎみに語り聞かせた。
「いろいろ試験してみたが、韓信の才は、すごいぞ! まさに天下の名士と呼ぶべき男だ」
蕭何は、感心して溜め息を漏らした。
「ほう、君がそこまで言うほどの人材か。
韓信の名前は、私も知っている。
楚の執戟郎を務めていた人物だろう。
范増が韓信の才を見抜いて、しきりに推薦したが、項羽は用いなかったそうだな。
だから楚を捨てて漢に来た、というのは分かるが……
これは、少し困ったなあ。
韓信については、良くない噂も、いろいろ聞くぞ。
身分が低く貧乏で、淮水で魚を釣って暮らしていたとき、漂母(洗濯業の女性)から食べ物を恵んでもらった、とか。
市場で侮辱してきた男の股の下をくぐった、とか。
こういう評判を漢王様が耳にしたら、我々がどんなに勧めても、重用なさらないのではなかろうか。
あれでけっこう、権威や名誉を気にする人だからなあ」
夏侯嬰は、うなりながら、うなずいた。
「私も、そんな気がしているのだ。
実に惜しい……韓信は、まだ機会を得ていないだけだ。もし彼が重く用いられれば、きっと大きな功を立てるぞ。
とにかく蕭何さん。
明日、韓信を連れてくるよ。
韓信がどれほどの人物か、君自身で見極めてくれ」
*
翌日。
韓信は、夏侯嬰に連れられて、丞相府を訪れた。
丞相府の官吏の案内で、韓信は1人、奥の堂へと進んでいく。
中庭を横切って堂の前までくると、蕭何の姿が見えた。
蕭何はちょうど、韓信を迎えるために軒下まで出てきたところだった。その招きに従って、韓信は堂の中へ入っていく。
と、そこで韓信は、わずかに眉を動かした。
堂の中には、韓信のための座席も用意されていない。
蕭何は自分1人で椅子に座り、目の前に韓信を立たせたまま、言う。
「夏侯嬰が、御辺の才を高く評価しておりましたぞ。
お会いできて光栄です」
韓信は、露骨に失望の色を浮かべた。
「楚にいたとき、噂をよく聞いておりましたよ。漢王は明君だ、相国蕭何は賢臣だと。
彼らが賢者を求める態度は、喉の渇きに苦しむ者が水を求めるように切実だと。
賢者に対して礼を尽くし、身を低くして迎えているのだと。
だからこそ、私は千里の道も厭わず漢に来て、夏侯嬰殿にも会った。
だが、蕭何殿にお会いして、私は今すぐ故郷に帰りたくなった。
我が志を踏みにじられるくらいなら、山林に籠って隠棲したほうがマシだ」
蕭何は驚き、戸惑った。
「何を仰る?
御辺はまだ、嚢中の錐を出してもいないではありませんか。
どうして今すぐ帰るだなんて言うのですか」
嚢とは、袋のこと。
袋の中に入った錐は、放っておいても袋を突き破って外に飛び出てしまうもの。
そこで、秘められた才能が自然と世に現れ出ることを、たとえて嚢中の錐と言う。
韓信は、ふてぶてしく鼻を鳴らす。
「賢者を求める時には、まず丁重に礼を尽くすべきなのだ。
だが蕭何殿は、私を招いておきながら、まことに無礼な態度をとっている。
こんな扱いを受けてまで、わざわざ嚢中の錐を取り出して自分を売り込むつもりはない」
蕭何が言う。
「分かりません……一体どういうことなのか、貴公の高論をお聞かせいただきたい」
韓信は、短く息を吐き、淡々と語りだした。
「昔、斉国に、瑟(大型の琴)を好む王がいました。
斉王は、国外に瑟が上手い賢士がいるという噂を知って、ぜひその演奏を聴きたいと思い、賢士を斉に招待しました。
賢士が斉を訪れると、斉王は、堂の上に座って対面し、こう言いました。
『瑟を弾け』
しかし賢士は従おうとしません。
訝しむ斉王に、賢士は言いました。
『斉王様。
あなたが瑟を深く愛しておられるからこそ、私はこの堂を訪れたのです。
陛下が本当に深く瑟を好んでいらっしゃるなら、まず香を焚き、演奏にふさわしい座を用意してくださいませ。
その後でなら、私は心を尽くして陛下のために瑟をお弾きしましょう。
しかし斉王様は今、私を呼びつけ、奴隷を扱うように命令しておられます。
それに従うことは、わざわざ自分の身を自分で賤しめることに他ならない。
なぜそうまでして瑟の演奏などできましょうか』
このように、単なる瑟の奏者でさえ、王の前に立たされることを恥じたのです。
ましてや蕭何殿、あなたは漢の相国の任にある。
食事中に客が来たら口の中の物を吐き出してでも即座に会い、入浴中に客が来たら濡れた髪を手で絞りながらでも即座に会う。それほどの覚悟で賢者を求めねばならない立場でしょう。
それが今、賢者と会って国を治める方法を聞こうという、まさにそのとき、貴公は座席すら用意せず、こんな驕った態度で対面している!
これが、こんな国など早く立ち去って故郷に帰りたいと感じた理由だ!」
蕭何は、韓信の言い分を聞くや、慌てて立ち上がった。
韓信を上座に座らせ、丁重に再拝して言う。
「これは面目ない……
不見識にも、賢者を敬う礼節の心に欠けておりました。どうかお許しください」
韓信は、表情を一変させ、静かに微笑んだ。
「蕭何殿が賢士を探し求めておられるのは、まさに国家のためでございましょう。
私がここへ参ったのも、心血を注いで国のお役に立ちたいと思ってのこと。
私も貴殿も、1人の私ではない。公のために働く同志です」
蕭何は、うなずいた。
「まさに、その点をお聞かせください。
天下の情勢について論じ、どこが安全でどこが危険かを判別し、国が治まる道と乱れる道を明確に示して、漢と楚の強弱を説き示していただきたい」
韓信は、滔々と語りだした。
「秦の領域たる関中は、102の山河を擁する天府の国。古より、帝王の都が建てられてきた土地です。
覇王項羽は、この関中を捨てて、彭城へ遷都しました。
これによって、項羽は天下の形勢を、みずから手放してしまいました。
一方、漢王劉邦様は、僻地漢中に左遷されたとはいっても、ここでじっくり勢力を養い、力を蓄えている。
これは、野生の虎が山の中に潜んでいるようなものです。どんな知恵者でも、山の中の虎に対して計略を用いることはできない。
すなわち、漢王様は天下の形勢を掴んでおられるのです。
項羽は向かうところ敵無しです。
天下の諸侯は、表向き、項羽の強さを恐れている。
しかし、胸の内では項羽に対する反発心を抱き続けている。
対する漢王様は、遠い漢中の地において人民の心を懐かせ、賢者を集め、軍の精鋭を育てておられる。
項羽は長江の中で義帝を弑逆しました。
荊州、襄陽、湖南地方の住民は、義帝を深く慕っておりましたから、みんな項羽を恨んでいて、いつか討伐したいと考えている。
まあ、遠からず大きな反乱が起きるでしょう。
しかし項羽は、まだそのことに気付いておらず、ただ自分の強さばかりを頼みとしている。
これは単なる匹夫の勇(学がない男の武勇)です。どうして天下を心服させることができましょうか。
ひるがえって漢王様は、煩雑な法を3章に簡略化し、秦の苛烈な政治を取り除きました。
漢中に左遷された今でも、天下は漢王様に期待しているのです。
もし漢王様が兵を起こして東に向かったら、人民は、こぞって服従するでしょう。
漢王様が関中の王になることを願わぬ者は、天下に1人もおりません。
章邯、董翳、司馬欣の3人もそうです。
彼らは秦国内の権力争いで追い詰められ、行き場を失って、楚に降伏した者たち。
しかし項羽によって20万の部下を生き埋めにされてしまい、みな恨み骨髄に入っております。
にも関わらず、項羽は彼らを三秦王に封じて、漢の兵を防がせようとしている。
これはもう、わざわざ漢を手助けしてくれているようなものです。
漢王様の兵が東に進出すれば、人民は、ことごとく漢のために命を捨てて戦うでしょう。
三秦などは、人民に決起をうながす檄文をバラまくだけで平定できます。
これが天下の情勢、安危、治乱、強弱。論じるまでもないことと思います。
相国ともあろうお方が、どうしてこんなことを心配しておられるのやら」
(つづく)