龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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三十の上 韓信、国士無双なり

 

 

 それから数日が過ぎた。

 このところ、韓信は自宅に()もりきりである。

 

「どうやら、このままでは状況が動かないようだな。

 漢王には私を重用する気がない。

 主君が私を尊重していない以上、漢の官僚たちも私には従うまい。

 

 こんな状態では、どんなに(すぐ)れた軍略を提示しても無駄だ。

 となると……このあたりで、ちょっと蕭何(しょうか)を刺激してみるか」

 

 韓信は一計を案じ、自宅の門番にこう申し付けた。

「足の早い馬を用意してくれ。

 明日の5(こう)(午前4時頃)に、遠くまで出かける用事があるのだ」

 

 門番は、すぐに駿馬(しゅんめ)を準備した。

 韓信は荷物をまとめると、まだ夜も明けないうちに馬にまたがり、(みやこ)の東門を抜けて走り去っていった……

 

 

   *

 

 

 このとき、(みやこ)から飛び出ていく韓信の姿を目撃した者たちがいた。

 彼らは顔をつきあわせて、ささやき交わした。

「なあ。いま走って行ったのは、治粟(ちぞく)都尉(とい)の韓大人(たいじん)だよな?」

「ああ。たった1人で、あんなに急いで出ていくなんて……これはちょっと変なんじゃないか?」

 

 そこで彼らは、急いで丞相(じょうしょう)()に駆け込み、韓信が出ていったことを報告した。

 

 ちょうどその時、蕭何(しょうか)は早朝の会議を終えて、朝廷から帰ってきたところだった。

 蕭何(しょうか)は報告を受けるや、飛び上がるほどに驚いて叫んだ。

「いけない!

 もし韓信が漢を去ってしまったら、私たちは死ぬまで漢中に閉じ込められることになるぞ!」

 

 すぐさま蕭何(しょうか)は韓信の家へ走った。

 家の者たちに(たず)ねてみれば、返ってきたのはこんな答え。

 

「韓信様は、昨晩、『ちょっと遠くへ行きたい』と言って、馬の用意を私らに(めい)じなさいまして。

 私らとしても従わないわけにはいかず、銀色のたてがみの駿馬(しゅんめ)を準備いたしました。

 

 まさか一夜にして(たび)支度(じたく)を整えてお出かけになるとは思いもよらず。

 どこへ向かわれたのかも、私らには、ちょっと……

 そうだ。出かける前に、韓信様は詩を1首、家の壁に書き残して行かれましたよ」

 

 蕭何(しょうか)は韓信の家に入ると、壁に書かれた詩を見た。

 それは、1(ぺん)の短い歌であった。

 

 

  日(いま)だ明らかならず、小星光を競う

  運(いま)(むか)えず、才能隠蔵(いんぞう)

  ()(てい)蹇滞(けんたい)して、身を(こと)なる(ごう)()

  (りゅう)(せん)埋没して、(にぶ)きこと(こう)無きが(ごと)

  (しば)函谷(かんこく)(しょう)ず、(たれ)(とも)(たん)()さんや

  (らん)深林(しんりん)(ちょう)ず、(たれ)かその(こう)()らんや

  (いずく)んぞ美人を得て、従え(とも)に遊ぶを願わん

  心(おな)じうして(きん)()ち、(らん)()(おう)()

 

 

 自分の才能が世間(せけん)に認められないことを、ひたすらに(なげ)き、自分の真価を理解してくれる同志の出現を強烈に願う……そういう内容の詩である。

 蕭何(しょうか)はこの詩を読むと、(くや)しさのあまり、足の裏を叩きつけるようにして床を踏みしめた。

 

「私が何度も推薦したのに、漢王様は用いてくださらなかった。だから、とうとう韓信は逃げ去ってしまったのだ。

 こうしてはおれん! いま韓信を追いかけて連れ戻さねば、天下の大事を誤ってしまう!」

 

 悠長(ゆうちょう)に劉邦の了解を取り付けている時間などない。

 蕭何(しょうか)朝服(ちょうふく)(朝廷に出るための衣服)を着たまま、手近な駅馬(えきうま)(伝令のため駅に常備されている馬)に飛び乗り、走りだした。

 

 あっという間に(みやこ)の東門にたどりつき、蕭何(しょうか)は門番たちに(たず)ねた。

「お前たち、銀色のたてがみの馬に乗って、剣を()いた人を見かけなかったか?」

 

 門番は、すぐに答えた。

「そういう人物が、昨夜の5(こう)に、この門から出て行かれました。

 ずいぶん時間が経ちましたから、今ごろ50里(20km)は先に行ってしまっていると思います」

 

 これを聞くと、蕭何(しょうか)は馬に(むち)を入れ、ますます足を速めて先へ進んだ。

 途中で農村を通りかかったので、そこの村人に蕭何(しょうか)(たず)ねた。

「君、この道で1人の将軍を見なかったかね?」

 

 村人が答える。

「ああ、剣を背負った人が、見事な銀のたてがみの馬に乗って、大急ぎで東の方へ走って行きましたよ。今ごろはもう50里か60里か、そのくらい先まで進んでるんじゃないでしょうか」

 

 蕭何(しょうか)呆然(ぼうぜん)とした。色濃い疲労が、蕭何(しょうか)の表情にありありと浮かんでいる。

 

 乗馬というのは、意外にも、かなり体力を消耗(しょうもう)する。激しく揺れる馬の上で体の安定を保ち続けるのは、自分の足で走るのと大差ないほどに筋肉を使うのである。

 

 まして蕭何(しょうか)は、この日、まだ朝餉(あさげ)も食べていなかった。

 体も馬も、もう限界である。

 

 蕭何(しょうか)は、近くの村人の家に頼んで食事をとり、少し馬を休ませた。

 ()えと(かわ)きを癒やしたところで、蕭何(しょうか)は再び馬にまたがって走りだした。

 

 韓信を、このまま行かせてはならない。

 その一心で、蕭何(しょうか)は、がむしゃらに走り続けた……

 

 

   *

 

 

 走り走って丸一日。

 あたりがすっかり暗くなり、明月(めいげつ)一輪(いちりん)昇る頃。

 ようやく蕭何(しょうか)は、寒渓(かんけい)という渓流(けいりゅう)の川辺に辿(たど)りついた。

 

 時は7月初旬(しょじゅん)。当時の(こよみ)では秋である。

 (よる)(しず)かにして(こう)(さむ)く、山路(やまじ)(はなは)だ険しくて、さらには先日からの長雨で渓流(けいりゅう)の水量は(あふ)れんばかり。とても渡れそうにない。

 

 蕭何(しょうか)は、山の()から(ほの)めき出る月影を(たよ)りに、浅瀬を探して川沿いを進んでいった。

 

 すると……遥か川下のほうに、馬の(いなな)く声がする。

 

 蕭何(しょうか)喜色(きしょく)(あらわ)にした。

「おお! あれはきっと、韓信が川を渡ろうとしているところに違いない」

 

 そこで蕭何(しょうか)は、声を張り上げて呼びかけた。

「韓信殿!

 どうしてそんなに、つれない態度を取るのですか!

 私たちが交際して、すでに1ヶ月。別れの挨拶(あいさつ)さえくれずに去ってしまうとは、水臭いではありませんか!」

 

 蕭何(しょうか)は馬を走らせ、川下のほうへ急いだ。

 

 と、そのとき。

 蕭何(しょうか)の背後から、また別の者が馬を飛ばして追いかけてきた。

 蕭何(しょうか)は馬を止め、振り返って叫んだ。

「誰だ!」

 

 すると、

夏侯嬰(かこうえい)だ!」

 との答え。

 

 蕭何(しょうか)は喜んだ。

 暗闇の中で近づいてきた騎馬の上には、確かに同志夏侯嬰(かこうえい)の姿がある。

「おお、滕公(とうこう)! 君も韓信を追ってきたのか」

 

 夏侯嬰(かこうえい)が、うなずいた。

「ああ。私が朝廷から退出したところへ、倉庫の役人が駆けつけてきてな。韓信が東門から飛びだしていったことを教えてくれたのだ。

 

 先日、漢王様が重く用いてくださらなかったから、韓信は他国へ逃げ去ろうとしているんじゃないかと、そう心配してここまできたんだが……貴公のほうが一足(ひとあし)早く彼を見つけてくれたようだ。

 

 国のために賢人を推薦する忠義。(けわ)しい山さえ(いと)わず、どんな苦労も恐れない心。蕭何(しょうか)殿、貴公はまさに真の宰相ですな」

 

 実はこのとき、韓信はすこし離れた暗闇の中に(ひそ)んで、2人のやりとりを聞いていた。

 韓信は深く感動し、つい、()め息を()らしてしまった。

 

 蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)が、暗闇へと顔を向ける。

「今の声は!」

「韓信殿、そこにおられるのだな?」

 

 こうなっては、もう逃げ隠れもできない。韓信は2人の前に進み出た。

蕭何(しょうか)殿。夏侯嬰(かこうえい)殿。

 あなたがたは、なんと純粋な(こころざし)の持ち主なのだろう。

 

 だいたい、世の中の宰相なんて連中は、賢人を(そね)み、有能な者を(ねた)み、自分1人で権力を独占し、()びへつらう部下だけを愛し、己のちっぽけな了見(りょうけん)固執(こしつ)して、他人の意見を用いようとしないものだ。

 

 ところが、あなたがたはどうです?

 主君に食ってかかってでも諌言(かんげん)し、国のために忠義を尽くし、才能のある賢人を推薦するために全力を(そそ)ぎ、自分自身の身を小さくしてへりくだる。

 

 貴公らは、古今(ここん)(まれ)に見る忠臣です。あなたがたさえいれば、漢は必ず天下を統一できる。私はそう確信しました。

 

 そのお二人が、朝服(ちょうふく)を脱ぐ()()しみ、こんな夜中に私を追ってきてくれた……

 この非才(ひさい)韓信に、どうかそんなに気を使わないでください。むしろ、こちらからお願いします。私を、あなたがたの門下(もんか)に加えてくださいませ」

 

 蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)は、月明かりの下、韓信の手を固く握った。

 蕭何(しょうか)は、かすかに涙ぐみながら言う。

(いにしえ)より、『()は己を知る者に会って死す』という。

 

 韓信殿、貴公は伊尹(いいん)や太公望にも匹敵する才能を持っている。()を滅ぼして漢を(おこ)すことができる人材だ。

 私はそれをよく理解しているつもりだが、漢王様は、貴公の身分が低いことばかり気にして、いまだに貴公の大きな才能に気づいておられない。

 

 どうか、お願いです。しばらく、もうしばらくだけ耐え忍び、私が推挙(すいきょ)するのを待っていてくださらないか。

 夏侯嬰(かこうえい)と2人、力を尽くして漢王に推薦いたす。

 

 もし、それでも漢王が貴公を用いなかったら……

 そのときは、もう知らん!

 私も夏侯嬰(かこうえい)も辞職して故郷に帰る。漢中に閉じ込められて一生を終えるのは、まっぴら御免(ごめん)ですからな」

 

 かくして、韓信、蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)の3人は、連れだって(みやこ)へと戻っていったのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 韓信が家の壁に書き残した詩は、やはり「通俗漢楚軍団」と「西漢通俗演義」で微妙に何文字か異なっている。本編では「演義」の白文をもとに、外清内ダクによる書き下し文を記した。以下に、その白文も引用しておく。
 日未明兮 小星競光
 運未逆兮 才能隠蔵
 驢蹄蹇滞兮 身寄殊郷
 龍泉埋没兮 若鈍無鋼
 芝生函谷兮 誰為与探
 蘭長深林兮 孰識其香
 安得美人兮 願従与遊
 同心断金兮 為鸞為凰

(2)
 『()は己を知る者に会って死す』という言葉は、「史記・刺客列伝」の豫譲(よじょう)の項に由来する。「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」では上記の文章になっているが、本来は『己を知る者のために死す』である。
 豫譲(よじょう)(しん)国の人物で、政治家の智伯(ちはく)に仕え、厚遇されていた。当時の(しん)はいくつもの有力な家が主導権争いで対立しており、ほとんど分裂状態にあった。その状況の中で、智伯(ちはく)は敵対する趙襄子(ちょうじょうし)を滅ぼそうと攻撃を仕掛けたが、味方の裏切りにあって、逆に殺されてしまった。
 趙襄子(ちょうじょうし)智伯(ちはく)(うら)みを抱いていたため、智伯(ちはく)の頭蓋骨に(うるし)を塗って酒器を作った。(あるじ)亡骸(なきがら)(はずかし)められた豫譲(よじょう)は、山の中へ逃げ込みながら言った。
「ああ! 士は己を知る者の為に死に、女は己を(よろこ)ぶ者のために着飾る」
 しばらくして、豫譲(よじょう)(あるじ)の敵討ちをするため、(かわや)の壁塗り職人に化けて趙襄子(ちょうじょうし)の館にもぐりこんだ。そこで趙襄子(ちょうじょうし)が用をたしに現れたところを狙って刺そうとしたが、趙襄子(ちょうじょうし)に見抜かれてしまい、捕らえられた。
 趙襄子(ちょうじょうし)は、あくまで忠義を尽くす豫譲(よじょう)の心がけを誉め、罪を許して釈放した。
 だが、豫譲(よじょう)はそれでも諦めなかった。今度は(うるし)を顔に塗って肌をただれさせ、炭を飲み込んで声まで変えて、別人になりすました。あまりの変わりように、妻さえ豫譲(よじょう)であるとは気づかなかった。
 豫譲(よじょう)は、その姿で橋の下に隠れ、趙襄子(ちょうじょうし)を待ち伏せた。しかし橋を通過する直前、趙襄子(ちょうじょうし)の馬が怪しい気配に気づいて暴れだしたため、またしても襲撃を察知され、豫譲(よじょう)は捕まってしまった。
 趙襄子(ちょうじょうし)は、豫譲(よじょう)に尋ねた。
「お前は、智伯(ちはく)に仕える前に、范氏(はんし)中行氏(ちゅうこうし)にも仕えていただろう。彼らはどちらも智伯(ちはく)に滅ぼされたのだぞ。その時お前は敵討ちをしようとはしなかった。
 なのに、なぜ智伯(ちはく)を殺した私だけ、そんなにも執念深く討とうとするのか?」
 すると、豫譲(よじょう)は答えた。
范氏(はんし)中行氏(ちゅうこうし)は、私を人並みに(ぐう)してくれた。だから私も人並みに報いた。
 しかし、智伯(ちはく)様は私を国士として(ぐう)してくれた。だから私も国士として報いるのだ」
 これを聞いた趙襄子(ちょうじょうし)は感動して涙まで流したが、もはやこれ以上豫譲(よじょう)を生かしておくこともできず、処刑を決断した。
 死を覚悟した豫譲(よじょう)は、最後に趙襄子(ちょうじょうし)にこう頼んだ。
「あなたの衣服を私に下さらんか。あなたを討つ代わりに衣服を討ちたいのだ」
 趙襄子(ちょうじょうし)は、こころよく衣服を与えた。豫譲(よじょう)は衣服へ3回剣を打ち込み、
「これで智伯(ちはく)様へ報いることができた」
 と呟くと、そのまま剣を自分に突き刺して命を絶った。
 この鮮烈なる最後を見て、人々は皆、涙を流したという。
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