龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】 作:外清内ダク
一方そのころ。
漢の朝廷では、劉邦と官僚たちが、ざわつきはじめていた。
というのも、
何かあったのではないか? と一同が気を揉んでいるところに、武将の
「最近、漢王様に従ってきた大将たちの中に、故郷を恋しがって逃亡する者が多数出ておりますが……
劉邦は驚き
「
他の逃げ去った大将たちは、招き集めて採用した奴とか、追いつめられて降参してきた
でも
俺と
なんで今になって俺を捨てたんだよ、
劉邦は、激しく動揺した。
立っても座っても心が落ち着かず、食事も飲み物も
そこへ、宮廷の門番が駆け込んできた。
「
劉邦は、玉座から飛び上がった。
顔の半分で喜び、顔の半分で怒り、とにかく大慌てで
「バカーっ! お前は俺に従ってもう数年、一度も離れたことがなかっただろ!
他の大将が逃げていくのは分かる。でも、なんでお前まで逃げちゃうんだよ!」
「臣は、長く漢王様に
臣が2日間、外出しておりましたのは、漢から逃げ去ろうとしていた人を追って、夜を日に
全ては漢王様のため。天下平定の計略を実現させるためです」
劉邦が、涙目で問う。
「追っていたって……誰を?」
「
劉邦は、これを聞き……
「は……あーっはっはっはっは!
……って、ンなわけあるかあ!
逃げた大将は今までたくさんいたが、お前は一度も奴らを追いかけたりしなかっただろ!
それを、よりにもよって韓信なんか追ってたなんて。大嘘もたいがいにしろよな」
「嘘ではありません。
並の大将なら、逃げてもまた簡単に得られます。
しかし……韓信のような賢士は、国じゅう探しても
韓信、国士無双なり!
漢王様!
もしあなたが、このまま漢中で老いて死んでいくおつもりなら、韓信が去るのを放っておいてもよいでしょう。
しかし、もし項羽と互角に戦い、天下を
漢王様がどうしても韓信を用いないと
後で項羽に負けて捕虜となるのは嫌ですからな」
そこへ、
「
漢王様、どうか
しかし劉邦は、まだ納得していない。
「いや、ちょっと、冷静になれよ。韓信が議論するのを聞き、ちょっと才能があるのを見ただけで、そんなにも驚くことはないだろ?
俺は思うんだけど、大元帥ってものは、とてつもなく重大な役職だ。国の安全も危険も、軍の存亡も、みんな大元帥の手にかかってくる。
仮に韓信を大元帥に任命して、漢30万の軍勢を授け、70人の武将や文官を統率させ、韓信の命令を聞くよう全軍に告知したとしよう。
それで
でももし、韓信が口先だけ上手くて実務力のない男だったらどうする?
戦争が始まってから『やっぱり能力が足りませんでした』なんて言ってみろ。俺らが捕虜になるってだけじゃない、武将も文官も30万の兵士たちも、みんな殺されることになるんだぞ。
その時になって後悔しても遅いだろ!
俺が韓信を用いる気になれないのは、これが理由だよ。
まして韓信は、自分の親が死んだときに葬式を出すこともできなかった。これは計略が無いからだ。
そして市場で荒っぽい連中の
3年間も
昔の人も、『心の内に持っている物は、必ず心の外に形となって現れる』と言ってるだろ。
韓信に本当に才能があるなら、自然とそれが外に見えてくるはずだ。
もし韓信に大元帥の資格があるという
でも、中身のない言葉だけを聞いて、大元帥なんていう重要任務に
なあ
「漢王様が
孔子の生涯を思い起こしてくださいませ。
そして結局ほとんど活躍できないまま、孔子は老いて死んでしまいました。これは
韓信も孔子と同じです。
韓信が
臣は、韓信が天下の奇才であり、まさに大元帥となるべき人物であること確信しております。
単に弁舌のみで判断したわけではありません。
臣は
それなのに、今、目の前にすばらしい賢者がいて、それを
そのために、臣は昼夜、苦しい思いをしております。
だからこそ臣はこうして、死を覚悟してでも漢王様と争い
どうか、この思いをお察しくださいませ」
劉邦は困り果てた。
だが
劉邦が腕組みして悩んでいるうちに、外からは赤い夕陽が差し込みはじめた。
劉邦は、
「もう日が暮れちまったな……
とりあえず、今日はこのへんで切り上げようや。
明日、朝一番の
(つづく)
●注釈
(1)
『心の中に持っている物は、必ず心の外に形となって現れる』……この言葉は「孟子・告子下」に見られる。以下に引用する。
有諸内必形諸外
(
(2)
孔子が
孔子は、50代半ばから十数年に渡って、仕官先を求めて中国各地を放浪した。その途中、孔子は
ちょうどその頃、
これに危機感を覚えたのが、
「孔子は賢者だ。彼は我々
そこで
このとき孔子は、従者や弟子たちが病や飢えに苦しむ中、普段通りに講義や音楽の演奏を行っていた。弟子の
「
(3)
『孔子が
上で述べた放浪の旅の中でのこと。孔子は
「私が前にここへ来たとき、あの城壁の崩れたところを通ったんですよ」
これを聞いた
そのため
(4)
『孔子がほとんど活躍できないまま老いて死んだ』と
「史記・孔子世家」によれば、孔子は若いころから貧しく不遇であったが、
しかしその直後、孔子の才覚を恐れた
このことで
しかし結局、孔子が再び官職を得ることはなかった。十数年に及ぶ旅も不発に終わり、晩年は弟子の育成と執筆活動に専念していたが、息子や愛弟子に先立たれるなどの不幸もあり、とうとう孔子は不遇のまま死んでしまった。