龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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三十の下 韓信、国士無双なり

 

 

 蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)は、退出して韓信に対面した。

 蕭何(しょうか)が言う。

「漢王様は、『明日、結論を出して貴公を採用する』と(おっしゃ)っていたよ」

 

 韓信は皮肉な笑みを浮かべて、首を横に振った。

「いいや、そうはなりませんな。

 おそらく漢王は、ぐずぐずと悩み続け、結局、私を用いないでしょう。

 お二人が様々に心を(ろう)して推薦してくださったのも、みんな無駄に終わってしまうでしょうな」

 

 蕭何(しょうか)は、困り顔で笑った。

「もしそうなら、私も夏侯嬰(かこうえい)も官職を捨てて漢から去りますよ」

 そう言い残して、蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)は帰っていった。

 

 韓信は1人で自宅に戻り、おぼろげな(ともしび)の中で、思いにふけった。

 蕭何(しょうか)は国のために心を尽くして韓信を推薦してくれている。しかし、一方の劉邦は韓信の身分の低さを嫌いぬいている。

 

 ここまで己の才覚ひとつでやってきたつもりの韓信だったが、もう、能力だけではどうにもならないところへ来てしまったのではないだろうか。

 そんな考えが頭をよぎり、ふと、韓信の脳裏に詩文が浮かんだ。

 

 

  趙括(ちょうかつ)(しん)の将となる

  (かつ)て聞く、父の書を読むを

  世家(せいか)閥閲(ばつえつ)(したが)いて

  門第(もんだい)寒廬(かんろ)を笑う

  虎(おちい)りて群兎(ぐんと)を争い

  龍(かく)れて小魚(しょうぎょ)を見る

  風雲(いま)遭際(そうさい)せず

  経済郊墟(こうきょ)に隠る

  聖主(せいしゅ)前席(ぜんせき)(むな)しゅうし

  元臣(げんしん)慮抒(りょじょ)(とお)くす

  (ああ)()駑力(どりょく)して(あしな)いす

  懐抱(かいほう)(いま)(かつ)()びず

  (いず)れの日か、輪轂(りんこく)()

  絲綸(しりん)して釣魚(ちょうぎょ)()めん

  三秦(さんしん)(げき)を伝えて(さだ)

  群寇(ぐんこう)()()して除く

  ()(やぶ)りて寰宇(かんう)を清め

  勲労(くんろう)(もう)して独居(どっきょ)せん

 

 

 歌っているうちに、すっかり夜も()けてきた。

 

 そろそろ寝ようか、と韓信が立ち上がった、ちょうどその時。

 蕭何(しょうか)からの使いが、この真夜中に韓信の家を訪れた。

相国(しょうこく)が、今すぐ韓信様にお会いしたいと。

 相国(しょうこく)の邸宅までお運びいただけませんか」

 

 韓信は、すぐに衣服を整え、蕭何(しょうか)の邸宅を訪れた。

 蕭何(しょうか)に対面して、韓信が苦笑する。

「こんな時刻だというのに、相国(しょうこく)は、まだお休みにならないのですか」

 

 蕭何(しょうか)は、(かす)かに不安げな表情を浮かべた。

「国政のことが気がかりで、眠ろうにも眠れぬのです。

 その件で、貴公に(たず)ねたいことがございましてな。

 

 貴公が()におられたとき、1人范増(はんぞう)のみが貴公の才能を見抜き、項羽に推薦したそうですな。

 ということは、項羽に何か良策を奏上したこともあったのでしょう。一体どのような策を述べたのですか?」

 

 韓信が答えた。

(おっしゃ)る通り、()にいたとき、私を認めてくれたのは范増(はんぞう)だけでした。

 しかし、范増(はんぞう)がしきりに(すす)めても、項羽は私を用いようとしなかった。

 そこで私は、漢軍が桟道(さんどう)を焼き払ったと聞き、表文(ひょうもん)を上げて、こんなふうに項羽を(いさ)めたのです……」

 

 と、韓信は語りだした。

 桟道(さんどう)の焼失が漢の策略であると指摘し、(しん)要所の防衛を項羽に(すす)める諌言(かんげん)。かつて張良を驚かせた、あの奏上(そうじょう)文のことを。

(第二十三回参照)

 

 その内容を聞くうちに、蕭何(しょうか)は徐々に青ざめはじめた。

 最後まで聞き終えたころには、もう顔面蒼白である。

「なんということだ……

 もし項羽が貴公の表文(ひょうもん)を採用していたら、()の天下は磐石(ばんじゃく)(大岩)よりも堅固(けんご)になり、我らが漢王様は漢中に閉じ込められて(むな)しく死んでいくはめになっていた」

 

 韓信は、さらりと言う。

「ま、そうだろうと思いますよ。

 しかし項羽は、私の表文(ひょうもん)を引き(やぶ)って捨ててしまった。

 それで私は、もう()から去ってしまおうかと考え始めたのです。

 

 その少し前。陳平(ちんぺい)の計によって、范増(はんぞう)彭城(ほうじょう)(おもむ)くことになりました。

 その別れ際に、范増(はんぞう)は項羽に三ヶ条の諌言(かんげん)を残しました。

 

『第一、漢王を漢中へ入れさせてはならない。

 第二、咸陽(かんよう)を離れてはいけない。

 第三、韓信を重く用いよ。もし用いないなら、早く殺せ』

 と……

 

 項羽には、私を用いるつもりがない。となれば、遅かれ早かれ私は殺される。

 そういうわけで、私は()から逃げて、漢へ来たのです。

 ()()()()()()()()()()

 

 相国(しょうこく)殿。こんな夜中に私を呼び出したのは、こんな心配をしておられるからでは?

范増(はんぞう)は計略を深く用いる人物だ。韓信を間者(かんじゃ)として送り込み、漢中の様子を探らせたのかもしれない。

 先日ただ一騎で逃走したのは、漢中の長所と弱点を調べ尽くし、()に帰って范増(はんぞう)に報告しようとしていたのではないか?』……」

 

「う、いや、それは……」

 蕭何(しょうか)は、韓信に心の中を見透(みす)かされ、じわりと脂汗を浮かべた。

 

 韓信は笑った。

「ごまかさずともよろしい。相国(しょうこく)殿が、日夜(にちや)国のために心と力を尽くしておられることは、よく理解しています。

 

 ……そうだな。そろそろ潮時(しおどき)であろう。

 蕭何(しょうか)殿のようなお人を、これ以上悩ませるのは本意(ほんい)ではない。

 一つ、良いものをお見せして、相国(しょうこく)はじめ(みな)さんを安心させて(しん)ぜよう」

 

 と、韓信は(ふところ)から紙包みを取り出した。

 蕭何(しょうか)は、差し出された紙包みを、わけも分からずに受け取り、(あか)りを(かか)げて照らし見た。

 

 そこで蕭何(しょうか)は、驚きのあまり腰を浮かせた。

 韓信が差し出したものは、かつて張良が大元帥の(あかし)として書いた、あの割符だったのである。

 

「こ……! な……! なんということだ!

 韓信殿! どうして今までこれを出してくれなかったのです!

 おかげで私は昼も夜もずっと悩み苦しんでいたのですぞ。漢王様も、この割符を見れば、たちまち貴公を信用するでしょう」

 

 韓信は言う。

「申し訳ない。

 しかし、私は幼い頃からずっと貧しく、身分も低かった。

 実績も無ければ名声も無い。いきなり漢に来て大元帥に任命していただいても、人々が私を信用しないだろうと思ったのです。

 

 そこで張良の割符を隠し、漢の人々が私の才覚を知って自分から推薦してくれるのを待っておりました。

 

 今、相国(しょうこく)殿とも、夏侯嬰(かこうえい)殿とも、しっかりと心を通わすことができた。

 ここで割符を出せば、漢の人々はますます私を信用してくれるだろう。そう思ったので、今このときに割符を出したのです」

 

 蕭何(しょうか)は、理由を聞いてますます感心し、丁寧(ていねい)に再拝した。

「貴公は、まさに天下の豪傑(ごうけつ)です。

 並の人間なら、こんな危ない橋を渡り切れはしない。

 よろしい! それでは明日、朝一番で漢王様にこのことを奏上(そうじょう)いたそう!」

 

 かくして、韓信と蕭何(しょうか)は、はればれとした気持ちで別れた。

 蕭何(しょうか)はその夜のうちに夏侯嬰(かこうえい)の家へ使者を走らせ、韓信の割符のことを報告した。

 蕭何(しょうか)夏侯嬰(かこうえい)、そして韓信。3者それぞれ胸に期待を抱いて夜を過ごし、やがて……夜が明けた。

 

 

(巻六へ、つづく)

 

 

 

 

■次回予告■

 

 元勲(げんくん)たちに才を認められ、張良からの割符も示し、ついに漢軍の頂点に立たんとする韓信。だが大元帥任命の儀が始まらんとしたまさにその時、異議を唱える声ひとつ。劉邦の行列を遮って、飛び出す者は――豪傑樊噲(はんかい)

 

 次回「龍虎戦記」第三十一回

 『破楚(はそ)大元帥』

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 終盤に韓信が作っていた漢詩は、「西漢通俗演義」には存在しない。「通俗漢楚軍談」での創作である。
 詩の中に登場する趙括(ちょうかつ)というのは、名将であった父の跡を継いで将軍になったものの、実の母にさえ『あの子に将軍は務まりません』と酷評されてしまった人物。兵法書の丸暗記は得意だったようだが(詩の二行目はそのことへの言及だろう)、実戦では兵法書通りの布陣を敵に読み切られてしまい、案の定、惨敗してしまった。
 すなわちこの詩は、無能な二代目の代名詞たる趙括(ちょうかつ)を引き合いに出し、身分の差別によって認められずにいる自分を嘆くものである。
 以下に白文と、外清内ダクによる現代語訳を紹介しておく。
 趙括為秦将
 曽聞読父書
 世家循閥閲
 門第笑寒廬
 虎陥争群兎
 龍蔵見小魚
 風雲未遭際
 経済隠郊墟
 聖主空前席
 元臣遠慮抒
 嗟予駑力蹇
 懐抱未曽舒
 何日推輪轂
 絲綸罷釣漁
 三秦伝檄定
 群寇指揮除
 破楚清寰宇
 勲労首独居
(現代語訳)
 趙括(ちょうかつ)(しん)の将となった
 父の書を読んでいたと聞いたことがある
 世の名家は門閥の中で官職を回し合い
 名門の子弟は、低い身分の出身者を笑う
 私のような虎が、穴に落ちて弱いウサギと争っている
 私のような龍が、表に出られずに小魚ばかり見ている
 風雲には、いまだ出会わず
 経済の(はかりごと)は、家の中に隠したまま
 君主は重要な官職を空席のままにしていて
 家臣は遠慮して考えを述べられていない
 ああ、私などは、足の力を無くした駑馬(どば)
 胸の中に抱いている能力を、まだ外に出したことがない
 いつになったら止まった車輪を動かせるだろう
 いつになったら魚釣りを辞めて天子の命令で働けるだろう
 三秦(さんしん)などは、檄文(げきぶん)を伝えて平定してやる
 群がる盗賊(敵軍)どもは、軍旗を指して部下を動かし、取り除いてやる
 ()を打ち破って、世界をきれいにし
 功績を主君に申し上げて、その後は1人でのんびり暮らそう
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