劉邦は、文武の百官を率いて丞相府に行き、韓信を馬車に乗せて、都の西門から出発した。
左右に立て並べらえた旗は陽光に輝き、打ち鳴らされた金鼓は天を震わせる。
文官は高く伸びた冠と幅広の帯を身に着けて左に並び、武将は兜を頂き甲冑に袖を通して右を進む。
清められた道は埃ひとつ立たず、街には、かぐわしい香が霧のように満ちる。
まさに、前代未聞の壮観だった。
さて。
漢の大将たちは、祭壇の建設が始まってからというもの、誰が大元帥になるのかと胸をわくわく弾ませていた。
しかし、劉邦の車が丞相府についたところで、現れたのは淮陰の韓信である。
「まさか、あの韓信が!?」
三軍の将も兵も、みんな驚き、色を失った。
このとき、樊噲は、劉邦の車の後ろについて、馬を進めていた。
韓信が劉邦の車へ迎え入れられるのを見ると、樊噲は、隣にいた周勃に顔を寄せて、ささやいた。
「冗談じゃない!
俺たちは、万の苦しみと千の辛みを乗り越えて、3年も兄貴に付いてきたんだぞ。その俺たちが、あんな、漂母に食べ物を恵んでもらうような腹ペコ野郎よりも格下だってのか!?
俺は男だ。こんな屈辱には耐えられねえ! 兄貴に一言言わなきゃ気がすまん!」
樊噲は、いきなり下馬すると、劉邦の車の前に飛び出し、拝伏して地面に頭を叩きつけた。
「兄貴……いや、漢王様! ちょっと車を止めてくだされい! 臣に一言、申し上げることがある!
韓信は、淮陰の食い詰め者。漂母に乞食し、股の下をくぐって辱められた男です。
楚で執戟郎となった後、楚を捨てて漢へ来て、唇と舌だけを動かして漢王様を騙そうとしている!
韓信は口先だけだ。餌も付けずに釣りをしてるようなもんだ!
まだ一尺一寸ほどの功績もないのに、漢王様は韓信を車に迎えて大元帥に任命しようとしている。
項羽がこの話を聞いたら、大笑いしますぞ!
天下の諸侯だって、「漢中には、よっぽど人材がいないのか」と考えるでしょう。
韓信なんかが大元帥になったら、戦う前から勝負は決まってしまう。
味方の三軍はやる気を失うし、逆に敵はこちらをナメて士気を高めるでしょう。
そんなことでは三秦を下すことなんてできないし、あの強い楚を打ち破るなんて、ますます不可能だ!
漢王様! このことを、よく考えてくだされい!」
劉邦は、何も言えなかった。
実のところ、劉邦の中には、まだ韓信への不信が残っていたのだ。
そこへ義弟樊噲の大音声を浴び、この期に及んで劉邦は再び迷い始めたのである。
と、そのとき。
「むっ、これはいかん」
蕭何が走り出てきて、珍しく声を荒げて樊噲を りつけた。
「いかん! いかんぞ!
樊噲、無用の言葉を吐くんじゃない!
樊噲よ。鋒を突き出して敵を打ち破るようなことにかけては、お前の力は発揮されるだろう。
だが、策を決めて勝敗を予測することに関しては、どうだ?
百戦して百勝すること、鬼神にさえ読めない策を練ること、そういうことがお前にできるか?
それができる者は、ただひとり、韓信しかいない!
お前たちは、韓信の指揮を聞いて戦うのが一番よいのだ。
それなのに、なぜ軽率なことを言って、我が軍の心を乱すのか!
大元帥の人事については、この不才蕭何が相国として取り仕切り、すでに決定したことなのだ。
お前は自分の小さな功績を頼みにして漢王様の行く手を阻み、妄言を吐いている。これは軍法違反であるぞ!
……漢王陛下。
この者を即座に逮捕し、大元帥任命の儀式が終わった後で、斬首し国法を正しなさいませ」
そこへ、夏侯嬰もまた進み出て言う。
「漢王様は、すでに号令をお出しになりました。
一度号令が出されたからには、どんな人間でも区別なく、みんな号令を守らなければなりません。
しかるに、樊噲は妄りに大声を出して、法を乱しました。
もし他の人々も樊噲の真似をしはじめたら、どうなりますか?
東に遠征することも、楚を打ち破ることも不可能になってしまいます。
韓信大元帥が「軍法を守れ」と言っても、誰も従わなくなるでしょう。
ゆえに、この罪は正さねばなりません。
樊噲1人の命を惜しんで、国家の大事を見誤ってはなりません」
劉邦は……うなずき、怒声を発した。
「樊噲を捕らえよ!」
その命令どおり、樊噲は縛られ、行列の後ろへと引きずられていった。
*
重苦しい空気が漂う中、劉邦、韓信、そして文武の百官は、祭壇へと到着した。
まず、劉邦は祭壇前の斎宮(身を清めるための建物)で、手を洗い清めた。
そして文武の百官に対して、こう告知させた。
「各人、自分の役割に従って儀式を行え。騒いで秩序を乱す者がいたら、軍法によって処罰する」
文武百官、誰もが樊噲の姿を思い浮かべた。
結果的に、樊噲を縛ったことは効果絶大であった。文官も武将も兵士たちも、しんと静まりかえり、粛々と礼を行ったのである。
鉄砲が3発鳴り響き、焚きあげられた香が風に乗って漂い流れる。
いよいよ儀式の始まりである。
引礼官(案内役)が韓信を導き、3層の祭壇の第1層へと登らせた。
第1層では、夏侯嬰が西向きに、韓信が北向きに立ち、太史官(天文を司る官職)が祝文を読み上げた。
『大漢元年、仲秋戊寅朔丙子の日。
漢王は、汝、夏侯嬰を遣わし、五岳・四瀆の名山・大川の神に明らかに告げて申し上げる。
ああ! 天は民衆をこの世に創造し、君主という羊飼いにそれを導かせようとしている。
だが、羊飼いが良い政治を行わなかったとき、その罪は誰の責任なのだろうか?
呂政(始皇帝を蔑んで呼ぶ名)は残虐暴虐を行って人民を苦しめた。
項籍(項羽)は、その地位を受け継いで、秦の王族を根絶やしにし、主君たる義帝を弑逆し、20万の兵卒を生き埋めにした。この大逆には、言葉も出ない。
よって私、劉邦は、この状況を見るに忍びなく、立ち上がることを決意した。
今こそ義の旗を立て、韓信を大元帥に任命して、民を救い、平和な国の基礎を打ち立てよう。
神よ。これを鑑み、ここに在りて、この大事業を助けよ!
願わくば、この饗を受けよ』
祝文が読み終わったところで、夏侯嬰が弓矢を捧げて言った。
「漢王の命により、汝に弓矢を賜う。
これをもって征伐に専心せよ」
韓信は、ひざまずいて弓矢を受け取り、従者に持たせた。
続いて引礼官は、韓信を案内して祭壇の第2層へと登った。
第2層では、先ほどと同様、相国蕭何が西向きに、韓信が北向きに立ち、太史官が祝文を読み上げた。
『大漢元年、仲秋戊寅朔丙子の日。
漢王は、蕭何相国を遣わし、日月・星辰・雷雨の神と、歴代聖帝・明王に告げて申し上げる。
神は国の興衰を知り、事業が成功するか失敗するかを知り、政治が治まるか乱れるかに通じて、人々の去就を明らかにするものである。
定められた天命は有れども、最終的な結果は徳によって決まる。
ゆえに、暴虐であった秦は、神によって血統を絶たれた。
項籍もまた、邪悪にして狂暴である。天の助けなど得られるはずがあろうか?
人民は塗炭の苦しみに喘ぎ、土地は無残に荒廃してしまった。今や、足を縛って逆さ吊りにされるほどの苦痛を、人々は味わい続けている。
人の上に立つ君主として、この災厄を取り除くには、世にも希な才によって為すしかない。
軍を率いて悪を征伐することにかけて、韓信ほど優れた者は存在しない。
天神地祇に願う。
加護をもたらし、我らを導け。
風雲を操り、戦況を変化させ、下々の民を救って、我が帝業を助けよ。
ここに誠心を尽くして祭祀を行う。
願わくば、この饗を受けよ』
祝文が終わると、蕭何が斧鉞(まさかり)を捧げて言った。
「漢王の命により、汝に斧鉞を賜う。
今日より、天命を承って悪を征討し、無道の者どもに誅罰を加え、民のために害を取り除き、天下のために福を作れ」
韓信は、ひざまずいて斧鉞を受け取り、また従者へ預けた。
さらに引礼官が、韓信をともなって第3層へと登る。
第3層で待っていたのは、他ならぬ、漢王劉邦その人であった。
(つづく)