韓信が大元帥に任命された、その翌日。
文武百官が朝廷に勢ぞろいして、大元帥任命について祝賀の言葉を述べていたが、その中に、武士樊噲の姿はない。
任命式の前に秩序を乱して、捕縛されてしまった樊噲……
彼は縛られたまま朝廷の門の外に座らされ、処分を待っていたのである。
劉邦は、苦しげな表情で、朝廷に集まった家臣たちに問いかけた。
「樊噲は、俺の親戚だ。
しかし、これまでの功績を笠に着て、儀式を邪魔して暴言を吐いた。
これは、どう考えても臣下としての礼に違反する行為だ……
昨日から樊噲は拘束したままだ。
きちんと法律に基づいて罰を与え、全軍への戒めとしなきゃならないよな……」
ここで蕭何が、劉邦のそばに歩み寄った。
蕭何が、他の誰にも聞こえぬ声で、劉邦に耳打ちする。
「樊噲の罪は、間違いなく誅殺に値します。
樊噲が我が軍の支柱であればこそ、許すわけにはいきません。
彼が韓信に心服しなかったら、他の者も同調してしまう。韓信が全軍を指揮しようとしても、誰も言うことを聞かなくなってしまいます。
しかし……あれほど功労のある臣を殺すのは忍びない。
新たに大元帥を任命したばかりで、功績のある人物を処刑するのは、不吉でもあります。
そこで、臣にひとつ考えがございます。
漢王様は、詔を下して、樊噲を断罪してくださいませ。
その後のことは臣らにお任せください。国法が有名無実になるのを防ぎ、韓信の命令がよく行き渡るような手を打ちます」
劉邦は、喜色を顔に浮かべた。
「そんなことができるのか? よし、やってくれ」
*
蕭何の薦めに従い、劉邦は詔を下した。
その詔に曰く――
『蕭何は韓信を3度にわたって推薦し、張良は韓信に割符を託した。
朕もまた韓信の抱負を検討し、彼の論ずることを聞き、十分な才能を持った人物であると判断した。
それゆえに、朕は韓信を大元帥としたのである。
今こそ韓信に国外における軍務を任せ、東方へ遠征して楚を討伐せねばならない。
これは民衆の願いに適うことであり、公の議論にも合うこと。
ゆえにこそ、祭壇に登って儀式を行うにあたり、静粛たることを厳命したはずである。
にもかかわらず、樊噲は自分1人の功績が高いことを頼みとして、好き勝手に非常識な言動を行い、はばかりもせず国法に違反した。
1人の勝手なふるまいを許してしまえば、他の者たちに秩序を守らせることもできなくなる。軍全体の心が惑わされ、大いなる礼節の道から外れてしまう。
よって、詔を汝、相国蕭何らに下す。
道理に従った議論の結果、意見は一致した。
樊噲には大きな功績があるとは言っても、この罪を無かったことにはできない。
樊噲を誅殺せよ。
彼1人を懲らしめることで、全軍への戒めとせよ。
ここに汝らに詔命して、遺漏なく通達する……』
*
劉邦の詔は、すぐに蕭何によって公開された。
朝廷の門前で、樊噲は縛られたまま詔を伝え聞いた。
故郷の沛にいたときから、本当の兄弟のように過ごしてきた劉邦。ともに呂氏の姉妹を娶った劉邦。反乱軍の旗揚げからずっと、死と隣り合わせの戦場を一緒に駆け抜けてきた、劉邦……
その劉邦の口から出た厳しい言葉に、樊噲は地に額をつけるほどにうなだれ、苦いうめき声を発した。
樊噲は、突然顔を上げて、周囲にいた者に声をかけた。
「頼む。周勃を呼んでくれないか」
周勃は、他の武将たちと連れ立って、すぐに駆けつけてきた。
この周勃も、沛県の出身者。旗揚げ当初から劉邦や樊噲と一緒に戦ってきた、古なじみである。
樊噲は、いつもの豪傑ぶりが嘘のように、顔をクチャクチャにして、周勃に訴えた。
「俺は……まちがっていた。大変なことをしでかしてしまった。
漢王様は、俺を断罪せよと詔を下したそうだ。
たのむよ、周勃。他のみんなも!
相国のところへ行って、俺の命乞いをしてきてくれないか? 鴻門の会の時、俺は漢王様を危機から救った……その功績で、命だけは助けてもらえるように頼んでくれよ。お願いだよ……」
周勃は、うなずいた。
「漢王様が大元帥を任命したのは、天下国家のためのこと。私利私欲のためではない。
私は昨日、韓信が方針を論じるのを聞いたが、彼は本当に大元帥にふさわしい才能の持ち主だと思う。
それに、お前が漢王様のお車を遮って止めたのは、たしかにとんでもない無礼だ。
誅殺を命じる詔が下されたのも無理はない……
でも、お前には大きな功績がある。きっと相国も許してくれるさ!
すぐに行ってくるよ。待っていてくれ、樊噲!」
*
周勃以下、漢軍の大将たちは、大勢で丞相府に押し寄せた。
彼らが蕭何に面会して、切々と訴える。
「樊噲は開国の功臣です。
確かに一度は法令を犯してしまいました。しかし、死罪というのは重すぎます!
相国、どうか樊噲の命をお救いください。これは、我ら漢軍将兵みんなの願いです」
蕭何が、苦しげに、うめく。
「漢王様は、この漢中に押し込められて、日夜、楚を打ち破る大元帥を探し求めておられたのだ。
今、韓信を得たことは、まことに国家の大いなる幸い。これによって、貴公らも東方の故郷へ帰る見込みが出てきたのだぞ。
それなのに樊噲は、そういう事情を考えもせずに無礼なことを言った。
だから漢王様もお怒りになり、誅殺せよ、との詔を下されたのだ。
だが……
私だって、よく分かっているよ。
これまでの樊噲の功績が、いかに大きいか。
彼は、私たちが皆で義兵を立ち上げた時からの旧臣だ。
……よろしい。力を尽くして救おうではないか」
蕭何は、酈生を呼んだ。
「酈生、お願いがあります。
どうにか樊噲を弁護して、命を救ってやりたいのです。
理路整然とした請願の表書を書いてくれませんか」
酈生は、にっこりと笑った。
「お安い御用だ。
まあ、言葉のことなら私に任せておきなさい」
(つづく)