かくして、酈生が認めた表書が、蕭何以下、漢軍諸将の連名で劉邦へ奏上された。
その表書に曰く、
『私、大漢国の相国蕭何は、樊噲が犯した罪について協議を行いました。
まず、昨日の段階で君命は下されており、あらかじめ禁止事項は明示されておりました。軍事における重要任務においては、決して命令違反をしてはなりません。
にもかかわらず、樊噲は好き勝手に乱暴な行いをし、儀式の隊列を邪魔したうえ、言葉によって規律を乱して、我が軍の心を乱しました。
国法に従えば、まさに死刑に値する罪であります。
ただ、樊噲は豊沛から漢王様に付き従ってきた元勲であり、鴻門においては体を張って漢王様を守り抜きました。
この功績は極めて大きく、全軍の模範として奨励すべきものです。
ゆえに、樊噲の功績に対する褒賞を明確に示すため、彼に寛大な処置を下すべきと思われます。
無論、これはただ一度だけの特例。もし再び軍法に違反したなら、そのときは処刑の斧鉞を免れることはできません。
漢王陛下、なにとぞ聖裁くださいませ』
劉邦は表文を見終わると、不服そうに顔をしかめた。
「樊噲は、自分の功績を頼みにして無礼な行いをしたんだ。
その罪は許しがたい。
まったくもって許せん!
……が。
お前たちが、そこまで言うなら、無碍にもできまい。
俺としては不満だが、お前たちの願いを受け入れ、樊噲の罪をひとまずは許そう。
樊噲には、今後は韓信大元帥の指示に従うよう、よく言い聞かせておけ」
劉邦の近臣が、すぐにこの決定を伝えて、樊噲を解放させた。
縄を解かれた樊噲は、すぐに韓信の帷幕に飛んで行った。
韓信に対面すると、樊噲は深々と礼をして、謝罪した。
韓信は、にっこりと微笑んだ。
「樊噲殿。
功を立てるのは臣の職分。分をわきまえるのは臣の節度だ。
貴公は、言うまでもなく大きな功績のあるお方だ。それが、どうしてあんな驕ったことを言いなさったのです。
幸いにも、漢王様の恩情によって、貴公の重罪は許されました。
今後は謹んで国に奉公し、すばらしい功績を立ててその名を碑文に刻みつけ、誉を万世に伝えなさい」
樊噲は、深く拝謝して退出した。
それから樊噲は、朝廷に向かった。
劉邦に対面して、罪を許された恩に感謝の言葉を述べると、劉邦は、樊噲を、すぐそばにまで召しよせた。
「樊噲、このバカ野郎!
豊沛で一緒に義兵を起こしてから、お前は何度も何度も功労を立ててくれた。そのことを俺は、一瞬だって忘れたことはねえぞ!
これからは、よく慎んで、謙虚にへりくだって、でも志は大いに燃やして、君臣の分ってやつを、ちゃんと守ってくれよ。
なあ樊噲。
お前、知恵で張良に勝てるか?
人材を見る目で蕭何に勝てるか?
この2人はな、自分が大元帥の座につくことだってできたのに、あえて他人を推薦してきたんだ。
その人物こそが韓信なんだ。
となれば間違いなく、韓信は本物の天下の奇才だ。
それなのに樊噲、お前はよう。
王様の車は邪魔するわ、でかい声で好き放題に文句を言うわ……
とんでもない無礼だぞ。
俺はもう、頭に来ちまって。もし蕭何が弁護してくれなかったら、とっくにお前は死罪になってたんだぞ。
お前は俺の義弟だ。一番大事な家臣の1人でもある。惜しくないわけないだろう?
もしお前を殺しちまってたら……俺は、人生が終わるまでずっと立ち直れねえよ。
分かってんのか、バカ野郎! なんであんなバカなマネをしたんだよ、このバカっ」
樊噲は涙を流した。声を上げて、泣きに泣いた。
「俺……いや、臣は、ま、まちがっておりましたっ! やってしまったことは、悔やんでも取り返せませんが……
これからは、心を尽くして国のために働きます。漢王様からいただいた御恩に、きっと報いてみせますっ」
樊噲は激しく咽び泣きながら退出し、その足で蕭何の元へ向かった。
「相国! もし相国が救ってくれなかったら、俺は、死んでおりました!」
蕭何は、穏やかに樊噲の肩を叩いた。
「樊噲将軍。そなたは今や、国王陛下の身近に仕える、漢の大臣なのですぞ。あんな小人のような行いを軽々しくなさることはないでしょう。
さあ、これからは心を尽くし、忠義の心を燃やして、職務に邁進してくだされよ」
樊噲は、別人のように小さく体を折りたたみ、何度も何度もうなずいて、感謝と謝罪とを繰り返した。
そしてこの日から、樊噲は韓信の命令に従うようになったのである。
*
さて、樊噲が去っていくと……
1人のこった蕭何は、胸の中にずっと溜め込んでいた息を、ドッと吐き出した。
「ふーっ……どうにか血を見ずに済んだか……」
というのも、実はここまで全て、蕭何と劉邦が示し合わせての展開だったのである。
彼らの作った筋書きはこうだ。
まず劉邦が、死罪の詔を出す。
そうすれば、諸将はきっと樊噲の命乞いをするだろう。
その後、諸将の意見を汲み上げる形で、劉邦が樊噲の罪を許す。
「こうしなければ、ならなかったのだ。
もし簡単に樊噲を許したら、人々がどう思うか?
『法を犯しても大したことはない』とタカをくくるか。さもなくば『樊噲は漢王様の身内だから許されたのだ』と不公平に憤るか……
いずれにせよ、軍の秩序は保てなくなる。
ゆえに、まず漢王様が厳しい裁きを下す必要があった。
たとえ義弟といえども法を犯せば厳正に処分する、という姿勢を見せねばならん。
樊噲が許されたのは、諸将の嘆願、相国蕭何の協力、そして樊噲自身の多大な功績、これらの条件がそろって始めて実現したことなのだ……と、内外へ明確に示さねばな。
これから楚に戦いを挑もうというときに、樊噲ほどの人材を失うわけにはいかん。
しかし、軍規を軽んじる風潮が広まっても困る。
どちらも両立するには、この方法しか無かった。
しかしまあ……なんとか上手くいって良かった。心底ホッとしたわい……」
(つづく)
■次回予告■
奇才韓信の指揮のもと、調練に勤しむ漢軍将兵。兵家が最も貴ぶものは、厳格無比なる規律と秩序。いまだ心ゆるみ驕りの消えぬ将兵たちを引き締めるべく、韓信は峻烈な裁きを下す。
やらねばならぬ。ゆえにやる。たとえ王命に逆らってでも。
次回「龍虎戦記」第三十三回
『外に在りては』
乞う、ご期待!