龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

85 / 197
三十三の中 外に在りては

 

 

 韓信の招きを受けた劉邦は、百官を引き連れ、訓練場を(おとず)れた。

 

 韓信は主君劉邦を出迎えながら、あえて拝伏しなかった。

甲冑(かっちゅう)を身に着けている間は、礼を行えません。()しからず」

 

 ここで韓信は、手にしていた文書を、劉邦に献上した。

「陛下。この文章をご覧いただき、よろしければ、この内容を全軍に通達していただきたいのですが」

 

 劉邦は、「なんだろう?」と首を(かし)げつつ、近臣に命じて文章を読み上げさせた。

 その内容は……

 

西楚(せいそ)の覇王項羽は、天命に(そむ)き、義帝を弑逆(しいぎゃく)し、下々(しもじも)の民衆に暴虐のふるまいを行った。

 その罪悪は天地に満ちて、神も人も、ともに(いきどお)っている。

 

 (ちん)は、先に関中に入った。以前からの約束によって、(ちん)が関中の王となるべきであった。にもかかわらず左遷(させん)された。

 道理に反するこの行いを見ても、項羽を征討(せいとう)すべきことは明白である。

 

 先日、韓信を破楚(はそ)の大元帥に任命した。

 汝ら大小の諸将、および各部隊の軍士たちは、韓信の統制を受け、韓信の指揮に従い、それを(ちん)の命令の代わりとして項羽を誅伐(ちゅうばつ)せよ。

 

 (ちん)への奏上(そうじょう)が通るのを待つ必要はない。

 韓信の(めい)を用いる者は栄え、韓信の(めい)を用いない者は死ぬ。

 陣中においては、韓信の専決を許し、独断で征伐(せいばつ)することを許す。

 

 汝らは、以上のことをよく承知して、(ちん)の命令に(そむ)くことがないようにせよ』

 

 漢軍の将兵は、整然と並んだまま、微動だにせずにこの言葉を聞いた。

 以前であれば、どんなに重要な通達をしているときでも、私語をする者、モゾモゾ動く者が絶えなかったのだ。あまりの変わりように、劉邦は限りなく喜んだ。

 

 さらに韓信は、大元帥の本営に大将たちを集め、軍における法令を定めた。

 その内容は、以下の通りである。

 

 

『その一。太鼓の音を聞いても進まず、(かね)の音を聞いても撤退せず、旗が上がっても立たず、旗が倒されても伏せない。これを悖軍(はいぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その二。名を呼んでも(こた)えず、点呼のときにその場におらず、命じた通りの時間に来ず、軍の規律に反した動きをする。これを慢軍(まんぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その三。夜、鐘の合図を聞いたのに報告を(おこた)り、警備の交代時間を守らず、はっきり聞こえる声で合図をしない。これを懈軍(かいぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その四。不満の言葉を多く発して、主将を(うら)み、命令を聞かず、兵の教育を邪魔する。これを横軍(おうぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その五。大声で笑い、軍の禁止事項を蔑視(べっし)し、軍門の中で走り回る。これを軽軍(けいぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その六。用いる武具について、弓や(いしゆみ)の弦が切れ、矢から矢羽や(やじり)が外れており、剣や(げき)の刃が()がれておらず、旗が破れている。これを欺軍(ぎぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その七。流言飛語を広め、鬼神の(たぐい)捏造(ねつぞう)し、夢のお告げを偽り、誤った邪説によって将兵を惑わす。これを妖軍(ようぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その八。弁舌(べんぜつ)(たく)みに、物事の正誤や善悪を勝手に決めつけ、官吏(かんり)や兵士をそそのかし、不和を引き起こす。これを謗軍(ぼうぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その九。行き先の土地で、住民を虐待し、婦女を凌辱する。これを奸軍(かんぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十。他人の財産を盗んで自分の利益とし、他人が取った首級(しゅきゅう)を奪って自分の功績とする。これを盗軍(とうぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十一。軍中で人を集めて密談し、私的に幕舎(ばくしゃ)に近づいて機密情報を聞く。これを探軍(たんぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十二。軍の計画や命令を聞き、外部に()らして敵に知らせる。これを背軍(はいぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十三。命令を受けたときに口を閉ざして返事をせず、眉を垂れ、顔を伏せて難色を示す。これを恨軍(こんぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十四。隊列を離れて勝手に動き、あるいは隊列の前後に割り込み、騒がしく話し、軍の規則に従わない。これを乱軍(らんぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十五。負傷や病気と(いつわ)って戦闘を避け、負傷や死を(よそお)って逃亡する。これを詐軍(さぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十六。金銭や食糧を管理したり、褒美(ほうび)を与えたりする時に、個人的に親しい者を贔屓(ひいき)して、他の兵卒に(うら)みを抱かせる。これを弊軍(へいぐん)という。犯す者は斬る。

 

 その十七。敵の進軍を見てもその状況を正確に把握せず、敵の様子を探っても詳細に調べず、敵が到着したのに到着したと言わず、敵が多い時に「少ない」と言い、敵が少ない時に「多い」と言う。これを悞軍(ごぐん)という。犯す者は斬る』

 

 

 以上の十七ヶ条を書き写して(たば)ねると、韓信は、その一冊一冊に大元帥の印を押した。

 こうしてできた法令集の最初の一冊を、まずは劉邦に献上。

 残りは軍政司曹参(そうさん)(めい)じて、全ての軍門に掲示させた。

 

 それから韓信は、劉邦の前で軍勢を動かして見せた。

 

「おお……!」

 劉邦は、感動の溜め息をもらした。

 漢軍の動きは、見事に統制されている。将の指示したがって、整然と進み、あるいは止まり、右へ曲がるも左へ曲がるも自由自在。一つの生き物のようにまとまって、少しも乱れないのである。

 

「こうしてみると、今までの漢軍の動きは、子供の遊びみたいなものだったんだなあ。

 これなら、東に向かって()討伐(とうばつ)するのにも、もう何の心配もないな!」

 

 劉邦は、上機嫌で朝廷に帰っていった。

 

 

   *

 

 

 さて……その翌日のことである。

 その日は、早朝から訓練を行うため、()(こく)(午前6時)に集合するよう、全軍に通達されていた。

 

 韓信も5(こう)(午前4時ごろ)に起きて訓練場に行くと、中軍に座って、大将たちを呼び集めた。

 そこへ時報を担当する官人が来て、約束の時刻になったことを報告した。

 

 韓信は立ち上がった。

「よし。では、まず点呼をとるぞ。

 樊噲(はんかい)!」

「は!」

曹参(そうさん)!」

「は!」

 

 こうして1人ずつ確認していったところ……

殷蓋(いんがい)!」

 と呼んだ時だけ、返事がない。

 

 よりにもよって、軍を監督する役目の監軍殷蓋(いんがい)が、約束の時刻に来ていないのである。

 

 韓信は何も言わなかった。

 殷蓋(いんがい)のことなど気にも()めていないかのように、そのまま訓練を開始した。

 

 漢軍の将兵が訓練に(はげ)むうちに時間はたちまち過ぎ去って、(うま)(こく)(昼12時)を過ぎた頃。

 殷蓋(いんがい)が、ぶらりと訓練場にやってきた。

 

 と、陣門の前で、門番が殷蓋(いんがい)の行く手を(はば)んだ。

「韓信大元帥が、今朝から人馬の訓練をしております。訓練中は、どの門も大将の指示がなければ人を通すことができません。

 もしお入りになりたいのなら、まず旗甲(きこう)(伝令兵)にその(むね)を伝え、旗甲(きこう)が陣門を担当する牙将(がしょう)に報告し、牙将(がしょう)から軍政司曹参(そうさん)様にお伝えし、軍政司が大元帥韓信様におうかがいを立てて、大元帥が許可なさる必要があります。

 私たちには、門を守る責任があります。許可なき者を入れることはできないのです」

 

 これを聞くと、殷蓋(いんがい)は大声で門番に怒鳴(どな)りつけた。

「どうしてこのわしが、そんな細々(こまごま)した面倒(めんどう)くさい手続きをせねばならんのだ!

 小人(しょうじん)めが、ちょっと得意になると、すぐ権力を振りかざしおって!

 貴様ら、さっさと牙将(がしょう)に報告して、わしを入らせろ!」

 

 門番は、慌てて陣の中へ駆け込んでいき、殷蓋(いんがい)が来たことを報告した。

 規定通りの手続きで連絡は伝わっていき、韓信の耳にも入った。

 

 韓信は、淡々と、巡哨(じゅんしょう)官(哨戒(しょうかい)の担当官)を呼んだ。

 そして大きな火牌(かはい)(正規の伝令の身分証)に筆を走らせ、ただ1文字、『進』と書き込むと、それを巡哨(じゅんしょう)官に持たせた。

「これが入場許可証だ。遅刻してきた者を中へ入れろ」

 

 巡哨(じゅんしょう)官が陣門に行き、通行が許可されたことを伝えると、殷蓋(いんがい)は悪びれもせず、それどころか逆に目を怒らせて、悠然(ゆうぜん)と陣の中へ入っていった。

 やがて殷蓋(いんがい)は、大元帥韓信の本営に来ると、形ばかりの長揖(ちょうゆう)(敬礼)をしてみせた。

 

 韓信は、殷蓋(いんがい)へ冷ややかな目を向けた。

「漢王陛下は、昨日あのように(みことのり)なさった。私もまた、固く法令を定めた。

 汝は、軍を監督する監軍の職にありながら、どうしてこうも遅れてきたのだ。

 ……今は(なん)(どき)か?」

 

 韓信が、時報の担当官に目を向けると、すぐさま、

(ひつじ)(こく)(午後2時)近くです」

 と答えが返ってくる。

 

 韓信は、あくまでも淡々と続ける。

「私は、()(こく)に来いと命令したはずだ。それを、(うま)(こく)の終わり際になって来るとは、どういうつもりだ?

 なぜこうも軍令を軽んじる? 汝は斬罪に(あたい)する」

 

 斬罪、と聞いてもなお、殷蓋(いんがい)は少しも恐れた様子を見せなかった。

「いやいや、確かに大元帥のご命令は聞きましたが、今日たまたま遠方から親しい人が(たず)ねて参りましてな。当然の礼儀として、酒を出し、もてなしていたのです。

 それが遅刻の理由でござる。罪をお許しくだされい」

 

 と。

 韓信は左右の兵に一声(ひとこえ)(めい)じた。

「縛れ」

 

 兵が殷蓋(いんがい)に殺到した。

 あっ……と殷蓋(いんがい)が顔色を変えたが、もう遅い。兵はたちまち殷蓋(いんがい)を地面へ突き倒し、後ろ手に縄をかけて、拘束してしまった。

 

 殷蓋(いんがい)(わめ)く。

「何をするかっ!」

 

「黙れッ!」

 韓信が、ここで初めて怒声を発した。

 切りつけるような一喝に、殷蓋(いんがい)が思わず震え上がる。

 

 韓信は怒涛(どとう)の勢いで殷蓋(いんがい)を責め立てる。

「汝は聞いたことがないのか!

 大将たるものには、私事(わたくしごと)を捨てて任務に(はげ)む責任があるのだと!

 

 任命されたその日から家のことを忘れ、親のことを忘れ、太鼓の合図を聞けば我が身のことすら忘れる……それが大将の道だ!

 

 汝は主君から(ろく)を受けた身。

 なのになぜ親子親戚などを()(わけ)にして国家の業務をないがしろにするのか!

 

 ……軍政司曹参(そうさん)よ!」

 

 横に(ひか)えていた曹参(そうさん)が進み出た。

「はっ」

 

殷蓋(いんがい)は、命令に反して遅刻した。この罪はどうするべきか?」

 

 曹参(そうさん)は、きっぱりと答える。

「軍で約束したにも関わらず遅れてくるのは、漫軍(まんぐん)の罪。

 斬って、他の将兵に軍令がきちんと履行(りこう)されていると示すべきです」

 

「よし。では、殷蓋(いんがい)を陣門に引き出して、すぐに斬れ!」

 

 命令を受けた武士たちが、すぐさま殷蓋(いんがい)を引きずって連れていく。

 

 予想だにしなかった急展開で、殷蓋(いんがい)は魂が体から飛び出るほどに驚き慌てた。

 陣門まで引かれていく途中、殷蓋(いんがい)は、樊噲(はんかい)が立っているのを見かけ、必死に目配(めくば)せして助けを求めた。

 

 だが樊噲(はんかい)は、つい先日、軍法違反の罪で斬罪になりかけたばかりである。

 軍法が怖くて、ただ殷蓋(いんがい)を見送ることしかできなかった。

 

 

(つづく)

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。