龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

88 / 239
三十四の中 桟道、修復できません!

 

 

 樊噲(はんかい)は、人夫(にんぷ)に指示を飛ばして工事に取りかからせた。

 高いところに支柱を差し込み、低いところに橋をかけ、狭いところは岩石を掘って道を作り、息をつく暇もないほど精力を尽くして働いた。

 大変な難工事である。

 

 工事に携(たずさ)わる人々は、口をそろえて罵(ののし)った。

「張良がバカなことをしてくれたから、俺たちがこんな目にあってるんだ!」

 

 しかし、韓信の定めた軍法は極めて厳しい。

 人夫(にんぷ)たちは処罰を恐れ、昼も夜も力を出して働き続けた。

 

 その途中で、木に打たれ、石に当たって手足を負傷する者、数しれず。

 誰もが疲れ果て、悲しんで泣きわめく声が山の中に響き渡った。

 

 樊噲(はんかい)も必死で工事の指揮に駆け回ったが、力およばず。

「一体どうしたらいいんだ……」

 と、樊噲(はんかい)が肩を落として憂(うれ)えていると……

 

 ある日、太(たい)中(ちゅう)大(たい)夫(ふ)(天子へ助言を行う官職)の陸賈(りくか)が、千人ばかりの従者とともに工事現場を訪れた。

「韓信大元帥のご命令です。

 もうすぐ漢の大軍が東方へ向けて出陣します。すみやかに桟道(さんどう)修復を完了し、我が軍が通れるようにしなさい。

 

 期限は1ヶ月。決して遅れてはなりません。もし軍の進行が滞(とどこお)ったりしたら、軍法に従って容赦(ようしゃ)なく処罰しますよ!」

 

 樊噲(はんかい)は、悲痛に絶叫した。

「300里もの桟道(さんどう)を、一体どうやったら1ヶ月で完成させられるってんだ!

 陸賈(りくか)大(たい)夫(ふ)、お願いだ! せめて期限をもう少し緩めてくれよ!」

 

 恥も外聞(がいぶん)もなく泣き叫ぶ樊噲(はんかい)。

 陸賈(りくか)は、従者たちに命(めい)じて、周囲から人払いをさせた。

 

 二人きりになったところで、陸賈(りくか)は樊噲(はんかい)に近づき、そっと彼に耳打ちした。

「樊噲(はんかい)殿。今日私が来たのは、実は、韓信大元帥からの密命をお伝えするためなのです。

 周囲に悟(さと)られぬよう、落ち着いてお聞きくださいよ。

 密命というのは……這般(しゃはん)這般(しゃはん)(かくかくしかじか)……」

 

 陸賈(りくか)のヒソヒソ話を聞くうちに、樊噲(はんかい)の表情に、みるみる喜びの色が差してきた。

「あ……そういうことかっ」

 

 樊噲(はんかい)が思わず叫びかけると、陸賈(りくか)が、すばやく彼を手で抑える。

「お静かに。人夫(にんぷ)たちには決して悟(さと)られてはいけません。

 あとは打ち合わせ通りに……」

 

 すっかり元気を取り戻した樊噲(はんかい)は、大きく力強く、うなずいた。

「よしっ、任せろ」

 

 樊噲(はんかい)と陸賈(りくか)は、2人それぞれ顔面に怒りの形相(ぎょうそう)を貼り付けて、いかにも憤懣(ふんまん)やるかたない、といった様子で人夫(にんぷ)たちの前へ出て行った。

 

 樊噲(はんかい)が、得意の大音声をうならせる。

「こんな険阻(けんそ)な桟道(さんどう)を、こんな人数で修理するなど! 1年たっても終わるわけなかろうが!

 陸賈(りくか)め! もうお前なんかには頼まん! 俺が自分で漢王様に申し上げて、もっと人を送ってもらうわっ!」

 

 それに対する陸賈(りくか)も、負けじと怒声を響かせる。

「ああそうですか、じゃあ勝手にするがよろしい!

 だが、お忘れなさるな! 韓信大元帥のご命令は極めて厳格ですぞ! 絶対に期限に遅れてはならぬ! 遅れるなよ! 遅れるなよ!」

 

 人夫(にんぷ)たちが驚き目を丸くする中で、陸賈(りくか)は、ぷりぷり怒りながら去っていった。

 

 

   *

 

 

 さて、樊噲(はんかい)は、言葉通りに早馬を都(みやこ)へ飛ばした。

 樊噲(はんかい)が劉邦へ奉(たてまつ)った表(ひょう)は、こうである。

『桟道(さんどう)の工事は非常に大規模かつ困難で、人夫(にんぷ)の死亡事故も次々に起きております。

 韓信大元帥からは、1ヶ月以内に工事を完了せよ、もし期限を守れなかったら必ず軍法によって処罰する、と、そのように厳命を受けております。

 

 しかし、臣が見積もったところ、この工事は、とうてい1ヶ月程度で完成できるものではありません。

 臣は豊沛(ほうはい)で挙兵してからこっち、一度たりとも仕事で見積もりを誤(あやま)ったことはないでしょう。その臣が言うのだから確かです。

 このままでは、臣は命(いのち)を落としてしまいます。

 

 漢王陛下、どうか近隣の郡県にお触(ふ)れを出して、追加の人夫(にんぷ)を集め、こちらへお送りくださいませ。

 ほんの千人か二千人でも、かまいません。

 臣は今、眉に火がつくほどの、さしせまった危機に直面しております。

 どうか臣をお助けください!

 

 臣ら、恐懼(きょうく)感戴(かんたい)のいたりに堪(た)えません。

 ここに牙将(がしょう)李隆(りりゅう)を差し向け、表(ひょう)を奉(たてまつ)り申し上げます』

 

 劉邦は、表(ひょう)を読み終わると、すぐに御史(ぎょし)大夫(たいふ)(副丞相(じょうしょう)のような官職)の周苛(しゅうか)を普安(ふあん)郡(ぐん)へ派遣した。

 新たな人夫(にんぷ)を集めるためである。

 

 こうして樊噲(はんかい)の元へ送られた人夫(にんぷ)は、約千人。

 樊噲(はんかい)は大いに喜び、50人を1隊として分担を決め、昼夜(ちゅうや)兼行(けんこう)で桟道(さんどう)工事を続けさせた。

 

 

   *

 

 

 ある夜。

 樊噲(はんかい)は、ひそかに周勃(しゅうぼつ)と陳武(ちんぶ)を呼び寄せた。

 2人が樊噲(はんかい)の宿舎にやってくると、樊噲(はんかい)は、2人をそばに寄せて、ささやいた。

 

「お前たちに伝えねばならんことがある。

 先日陸賈(りくか)が来たときに、韓信大元帥の秘策を教えてくれたのだ。

 いいか、絶対に外に漏(も)らすなよ。実はな……」

 と、樊噲(はんかい)が2人に耳打ちする。

 

 周勃(しゅうぼつ)と陳武(ちんぶ)は、驚きに目を見開いた。

「あ……! なるほど、そういうことか」

「どうりで、無茶な命令だと思ったのだ」

 

 樊噲(はんかい)が、うなずいて言う。

「それで、お前たちに頼みたい仕事があるんだ。

 お前たち2人は、今夜のうちに……」

 

 そこからしばらく、3人は密談を重ね……

 

 草木も眠る深夜。

 周勃(しゅうぼつ)と陳武(ちんぶ)は、100人ほどの部下を連れて、そっと陣から忍び出た。

 蔦(つた)を手掛かりにして嶺(みね)をよじ登り、桟道(さんどう)を走り去っていく周勃(しゅうぼつ)たち。

 その行動に気づく者は、1人としていなかった。

 

 

   *

 

 

 一方。

 秦(しん)の都(みやこ)咸陽(かんよう)の西……

 秦(しん)と漢の国境を塞(ふさ)ぐ関門、大散関(散関)に、楚(そ)軍大将の章平という者が詰(つ)めていた。

 

 この章平という男、秦(しん)軍総大将の立場から楚(そ)に寝返った、あの章邯(しょうかん)の弟である。

 名将章邯(しょうかん)の弟だけあって、章平もなかなかの戦(いくさ)上手(じょうず)。鉅鹿(きょろく)の戦いの時は、英布に追い詰められた兄章邯(しょうかん)を窮地(きゅうち)から救い出したりもしている。

(第九回参照)

 

 それほどの実力者だからこそ、漢軍の侵攻を防ぐための重要地点の守りを任されていたのだろう。

 実際、彭城(ほうじょう)にいる軍師范増(はんぞう)からは、章平の元へ、こんな手紙が送られてきていた。

 

『漢王劉邦は、並大抵(なみたいてい)の人物ではない。

 関中の守りが手薄になっているのを狙い、急に軍を出して攻め上ってくるかもしれぬ。

 貴公が担当する散関は、漢の侵攻を防ぐ第一の守りである。常に用心して、決して油断しないように』

 

 そのため章平は、人馬をそろえて、しっかりと守りを固めていたのだった。

 

 そんな折(おり)である。

 軽視しがたい情報が、章平の元に転がりこんできた。

 漢王劉邦が樊噲(はんかい)に命(めい)じて桟道(さんどう)を修復させ、韓信を総大将として攻め上ろうとしている……というのである。

 

「范増(はんぞう)亜父(あふ)の仰(おっしゃ)る通りになったな」

 章平は、すぐに早馬を立て、三秦(さんしん)王(おう)たちに情報を伝えた。

 

 三秦(さんしん)王(おう)とは、秦(しん)から楚(そ)へ寝返った3人の大将たちのこと。

 すなわち……

 塞(さい)王司馬(しば)欣(きん)。

 翟(てき)王董翳(とうえい)。

 そして章平の兄、雍(よう)王章邯(しょうかん)。

 この3人である。

 

 さて、雍(よう)王章邯(しょうかん)は、弟の章平から連絡を受けると、鼻で笑った。

「韓信だと? あの淮陰(わいいん)の股(また)潜(くぐ)り男か?

 あれは長く楚(そ)に仕えていたが、とうとう出世できなくて、楚(そ)から逃げ出した奴だろう。

 

 あんな男、用いるような才能があるものか。

 漢王も、どうしてあんな奴を大元帥などに任命したのやら。

 韓信みたいに貧しく賤(いや)しい男を大将にしたら、将兵が心服しないだろう。三軍を制御することなど、できるはずがない。

 

 しかも、蜀(しょく)の桟道(さんどう)は300里に連なる天下の険(けん)。

 張良が全て焼き払ってしまったから、修復は1年たっても終わるまい。

 こんな状況で兵を動かそうとは。まるで子供の遊びだな」

 

 それに対して、周囲の大将たちが言う。

「范増(はんぞう)亜父(あふ)は、『常に怠(おこた)りなく用心するように』と命(めい)じなさいました。

 まさにその懸念(けねん)通り、漢軍が動き出したのです。

 ここは油断なく戦備を整え、しかるべき大将を援軍として章平のところへ送って、固く散関の守りを固めるべきです」

 

 しかしこの意見を、章邯(しょうかん)は笑い飛ばした。

「桟道(さんどう)の修復は、おそるべき大事業だ。漢軍は、すぐには前進できまい。

 漢の兵がもし来たら、また章平が改めて連絡してくる。それから軍馬の準備をしても十分に間に合うわ。

 まあ、私の推測では、漢軍が動き出したということ自体が誤報だろうがな」

 

 そういうわけで、章邯(しょうかん)は何の備えもせず、章平からの使者を帰らせた。

 兄の章邯(しょうかん)がこの調子であったから、弟の章平もまた、特に用心せずに、のんべんだらりと日を送ったのである。

 

 

(つづく)




●注釈
 本文中では陸賈(りくか)の官職が太(たい)中(ちゅう)大夫(たいふ)とされているが、実際に陸賈(りくか)がこの職に任命されたのは、作中現在から10年も後のことである。
 陸賈(りくか)は劉邦に仕えた弁舌の士で、本編では第十四回において、秦(しん)軍の守将に和睦(わぼく)を勧める使者として名前が登場している。
 作中現在から10年後、陸賈(りくか)は南越国(現在のベトナムと中国にまたがる地域にあった国)に派遣された。そこで南越王を言葉巧みに説得して信頼を勝ち取り、ついに漢への臣従を約束させた。この功績によって、陸賈(りくか)は太(たい)中(ちゅう)大夫(たいふ)に任命されるのである。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。