それから数日が過ぎた、ある日。
散関の番兵が、章平のところへ報告を持ってきた。
「ただいま、漢の兵士が100名ばかり、訪ねて参りました。
彼らが言うには、『桟道の修復工事で苦しめられたため、樊噲を恨んで逃げてきた。こちらの軍に投降したい』と」
章平は喜んだ。
「ほう! 漢軍の動きを知りたいと思っていたところなのだ。
話を聞こう。その者たちを、すぐに連れてこい」
というわけで、漢兵たちは章平の前へ通された。
章平が問う。
「お前たちは何者か? どういう理由で投降してきたのか?
もし少しでも偽りがあれば、すぐに首を刎ねるぞ」
漢兵たちが口をそろえて答える。
「我々は、普安郡(漢の南西の土地)の住民です。
漢王の命によって桟道工事をさせられていたのですが、一日じゅう食べ物をもらえないうえに、樊噲が、やたらに催促して『1ヶ月以内に完成させろ!』と責め立てるのです。
ですが、山道はすさまじく険阻で、1ヶ月どころか、1年かけても完成できないほど。
漢王は、韓信を大元帥として軍勢を動かし、三秦に攻めのぼろうとしています。
しかし、兵士たちは恨み怒って、誰一人として心服していません。
私たちは農民で、もっぱら耕作を仕事としていましたが、みんな武芸を好む者ばかり。
どうか、章平将軍のもとで働かせてくださいませ」
章平は、うなずいた。
「そういうことなら、手下として用いてやろう。
この中に、誰か大将は、いないのか?」
すると、漢兵の中から2人の男が進み出た。
そのうちの1人が言う。
「私は姚龍、こっちは相棒の靳武と申します。
私たちは普安郡の猟師でしたが、漢王の命令で、100人の士卒を率いて桟道工事に携っておりました。
しかし、昼も夜も責め立てられるばかりで、飯さえもらえない。
このまま空しく死ぬくらいなら、と考え、部下を連れて章平将軍の元へ投降して参りました。
どうか、我らに仕事と食事を与えてくださいませ。
ここで命を繋いで、太平の時が来るのを待って、故郷に帰りたいと思います」
姚龍と靳武に、章平が問う。
「漢王は、一体どういうつもりで韓信などを大元帥にしたのだ?」
姚龍が、吐き捨てるように答える。
「韓信が兵法を語るのを聞いて、蕭何相国が、しきりに推薦したのです。
それで漢王もその気になり、ついに韓信を大元帥としたのですが、大将たちも兵卒たちも、まったく韓信には心服せず。
樊噲などは特に怒っておりますし、他にも愛想を尽かして逃亡する者が無数に出ております。
漢王も、すでに後悔しはじめているとか」
これを聞くと、章平は大笑いした。
「ははははは! そうかそうか。
よし、お前たち、私のもとで戦って功を立てるがいい。
しっかり働けば、必ず重く恩賞を与えよう」
かくして、姚龍と靳武は、章平の手下となった。
この姚龍と靳武が、また実によく働くのだ。
仕事ぶりは誠実で的確。
ためしに一部隊を任せてみると、章平の意をよく汲んで、そつなく兵を動かしてみせる。
そのうえ人付き合いも上手く、上の大将たちとも、下の兵卒たちとも、すぐに仲良く打ち解けてしまった。
元がただの農民だとは信じられないほどの有能さである。
「これはよい補佐役を得たぞ」
章平は喜んだ。
そしてわずか1ヶ月後には、姚龍・靳武を、大旗牌官という、命令伝達を担当する役職に抜擢した。
さらに章平は、姚龍・靳武から得た漢の情報を、三秦王にも報告した。
そのため、章邯をはじめとする三秦王たちも、すっかり安心しきってしまった。
*
一方、そのころ。
遥か東方、楚の彭城で……
覇王項羽は、日夜、酒色に耽っていた。
戦時には、あれほど峻烈な戦いぶりを見せた項羽も、いったん天下を手中に収めてしまえば、このありさま。
溺れるほどの佳酒、飽き飽きするほどの美食、そして、あらがいがたい美女の褥。これも男の性、なのであろうか?
いや、むしろ項羽は、退屈だったのだ。
戦が終わり、骨の髄まで武人たる項羽は、最も輝ける場を失った。張り合いを無くしてしまったのである。
もちろん天下の覇王となったからには、次は政治に力を入れるのが本当だ。
しかし項羽にとって、政治などは、面白くない面倒ごとに過ぎなかった。
そんな気分でいるから、ちっとも政治をかえりみようとしない。
当然、范増は、ことあるごとに項羽を諌めた。
しかし、例によって項羽は耳を貸さない。
楚の上層部からも、下々の民衆からも、覇王項羽に対する不満の声があがりはじめた。
范増は、片時も安心できなかった。
「このままでは、楚の天下が長く続かぬ……」
ある夜。
范増は、楚の未来を占うべく、天文を見た。
すると、西南の方角に旺気が盛んに沸き起こり、将星があちこちに散乱しているではないか。
「あ……!
あれは、劉邦が漢中から出陣する予兆に違いない!
楚を離反して漢に向かった韓信……劉邦なら、きっと韓信を重く用いるだろう。おそらく、あの男の仕業だな。
ここしばらく、項羽は仁の心ある政治をせず、殺伐ばかりを行って、人民の恨みを買い、諸侯の離反を招いている。
項羽が封じた国々でも乱の気配があり、中でも斉の国は特に強大な脅威になっている。
竹は、一部に割れ目が入ると、全体が一気に裂けてしまうものだ。
この状況で劉邦が攻め上ってきたら……
おそらく天下も破竹のようになる……」
翌日。
范増は、さっそく項羽に謁見して、天文の読みを報告した。
「さらに三秦の守りを固くして、劉邦の侵攻を防ぎなされ」
項羽は、鼻で笑った。
「あんな奴、恐れる必要があるものか」
だが、この日は范増も退かなかった。
范増が、あまりにしつこく諌めるので、項羽はとうとう根負けして、手下の武将を呼び寄せた。
「季良、季恒、お前たちに3千騎を授ける。
よく警戒するよう三秦に伝え、三秦と協力して漢中からの道を防衛しろ」
*
季良と季恒は、まず雍の都廃丘に行き、雍王章邯に項羽の命令を伝えた。
せ
すると章邯は笑って言った。
「まったく、范増亜父というお方は! 思慮深いのも、ちと度が過ぎますな。必要もないのに援軍をよこして来られた!
わしは、漢の情報を、よく知っておりますぞ。まあ、これをお読みなさい」
と、章邯は、章平から届いた書簡を見せた。
季良と季恒が、顔を見合わせる。
「この書簡を読む限りでは、漢王劉邦など恐るるに足らず、という感じですな。
考えてみれば、韓信は漂母に乞食し、股を潜って辱めを受けた男。
漢で大元帥になっても、人々が心服するわけがない。
まして、桟道は非常に険阻で、1年かけても修復は完了しない……となれば、どうして漢の軍勢がこちらへ出てくることができましょうか。
しかし、我ら2人は覇王様の命を受けて来ましたので、帰るわけにもいきません。とりあえず、ここに留まって防衛任務には就こうと思いますが……」
章邯は、上機嫌に、うなずいた。
「それはそうですな。
せっかく遠いところを来てくださったのだ。今夜は酒宴を設けて歓迎いたそう。
まあ、あまり肩肘はらず、のんびりしてゆかれよ」
こんな調子であったから、章邯はもちろん、援軍に来た季良・季恒の2将も、まったく用心していなかったのである。
(つづく)
■次回予告■
桟道修復が終わるまで漢軍の侵攻はありえない……そう思い込まされ油断しきった三秦を討つべく、韓信が軍勢を出発させた。
陳倉の小道より密かに迫る漢の軍勢。猛将数多、兵卒総勢45万。漢楚開戦まで、あと5日!
次回「龍虎戦記」第三十五回
『出陣』
乞う、ご期待!