項羽、という青年をご記憶だろうか。
かつて始皇帝の行列を見て、「俺が殺してやる!」と剣を抜いた、あの血気盛んな若者である。
(第三回参照)
その後、始皇帝の追及を恐れた項羽は、叔父の項梁とともに逃亡し、会稽郡(現在の浙江省)に隠れ暮らしていた。
その会稽に、太守の殷通という者がいた。
太守とは、郡の責任者である。
始皇帝が整備した郡県制においては、中国全体をまず48の郡に分け、その下へ、さらに細かな行政区画として県を置いていた。現代日本では県の中に郡が設置されるが、それとは上下関係が逆なわけだ。
だから、郡を統べる太守というのは、県令よりもさらに格上。ほとんど一国の王に匹敵するほどの、相当に強大な権力を持つ役職であった。
その太守殷通までが、
「私も秦に背いて反乱軍を旗揚げしたい……」
と考えていたのである。
そこで殷通は、項梁を招き寄せて、こうもちかけた。
「近ごろ秦の世を滅ぼそうとして、豪雄たちが蜂のように湧き起こっている。
私はこの地をきちんと治めているし、民はしっかりと心服している。だから今こそ兵を起こして、私も大義を為すために立ち上がろうと思う。
さいわい御辺がここにいらっしゃった。願わくは、私を補佐して共に功を立てていただきたい」
項梁は、表面上、これを快諾した。
だが、家に帰るなり、甥の項羽にこうささやいた。
「男たるもの、自ら立って事を為さねばならん。どうして鬱々と他人の下に身を屈していられようか。
私は殷通をよく観察したが、あれは大志を持たぬ男だ。王業を為せるような人物ではない。
ならばいっそ、奴を殺して会稽城を奪い取り、あちこちの兵力を駆り集めて、早く事を起こしてしまうと思う。
私は明日、お前を連れて殷通の前に行き、計略の相談をする。
お前は懐に剣を隠しておき、手早く刺し殺せ」
項羽が
「分かった!」
と元気よく同意して……
翌日。
項梁と項羽は、ともに殷通に会見した。
みなで秦を討つ方策を話していたところ……とつぜん項羽が、カッ! と目を怒らせた。
「楚の大将であった俺の祖父項燕は、かつて秦に殺された。だから秦は不倶戴天の敵だ。
しかし殷通! お前は長いあいだ秦から禄をもらって会稽の太守をやっていたのだろう。
それなのに今、反逆を企てている。これは不忠というものだ!
俺がお前を殺して、不忠は良くないという見本にしてやる!」
項羽は剣を抜き、一太刀で殷通の首を刎ねてしまった。
そして、うろたえる人々に向かって声をはりあげた。
「殷通は郡の太守だったのに秦に背こうとした。
だからもう殺した!
今から項梁を会稽の太守とする! 従わない奴は、みんなこの首のようにしてやる!」
周囲の人々は、震え上がって地にひれ伏した。
そこへ、殷通の部下であった二人の大将、季布と鍾離昧が駆け込んできた。
大将たちが怒って言う。
「よその国に来て主を殺し、国を奪って自分が主として立つ……それは義の行いではない! なぜ殷通を殺したのだ!」
項羽は言った。
「殷通は反逆者だ。
項梁は義の君主だ。
今、この大陸は乱れている。秦の土地を借りて楚の仇を討つのは天下の大智というものだ。
御辺ら二人も、もし俺に従ってともに暴秦を倒し、滅ぼされた六国を再興したなら、みんなから万世不朽の功を讃えてもらえるぞ。なのにどうしてグズグズと殷通みたいな小物にこだわっているんだ」
二人は顔を見合わせた。
もともと殷通に反感を抱いていたのか、あるいは項羽の強さを恐れたためか。理由は判然としないが、ともあれ、季布と鍾離昧は揃って項羽に再拝した。
「あなたの義兵に参加させてください。民を苦しみから救いたいのです」
項羽は喜び、この二人を都騎に任命した。
「項梁、立つ!」の噂は風のように広まり、周辺の郡県が情勢の流れを見て帰服してきた。
こうして、10日も経たぬうちに、項羽・項梁は数万もの精兵を得たのである。
*
項梁配下に加わった季布と鍾離昧は、すぐにこう進言した。
「軍を立ち上げるなら、まず武勇と戦略に優れた大将を得て、それと力を合わせるべきです。そうでなければ孤立してしまい、功をなすことはできますまい。
会稽にある塗山の麓に、于英、桓楚という二人の勇士がおります。彼らは八千の精兵を従えて山林に住み、盗賊などして暮らしています。
この二人を招いて大将となさいましたら、大きな助けになりましょう」
項梁は限りなく喜び、
「項羽。お前みずから行って招いてこい」
と命じた。
項羽はすぐさま出発し、季布を案内人として塗山にやってきた。
二将の拠点に近づくと、まずは弁舌に優れた者を使者として送り、こう述べさせた。
「楚の大将項梁が、武将項羽をあなたがた二将軍のもとへ遣わした。戦うためではない。大義について話し合い、民を救うためである」
于英と桓楚は、急いで出てきて項羽に対面した。
会見の席で項羽が言った。
「秦は無道をほしいままにしているから、英雄たちが蜂のように立ち上がり始めている。この残虐暴虐を天下から取りのぞいて民を塗炭の苦しみから救いたいと願わぬ者はいない。
あなたがた二将軍には、世に稀な才能がある。だから天下のために害を取りのぞく義務があるんだ。なのになんで山に隠れて日々を無駄に過ごしてるんだ?
俺は叔父の項梁とともに兵を起こした。秦を倒して、滅びた六国の仇を討ち、民を救いたいと思っている。
前々からあなたがたの名前は知っていたよ。尊敬もしていた。だからこうしてみずから来て大義を説いているんだ。
もし俺たちと力を合わせて王業を為そうという気持ちがあるなら、山を下りてきて項梁を助けてくれ!」
桓楚は低くうなった。
「秦が無道なのは確かだが、勢力はまだまだ強い。
君は義兵を起こしたと言うが、力が足りないかもしれん。意気が世を蓋いつくすほどの英雄でなければ、秦には敵うまい。
だから、君の勇気と力を試させてほしい。
もし君が万の軍勢にも匹敵するほどの力を持っているなら、我ら二人とも君に従おう。そうでないなら……君の話は、『虎を描きて成らず、かえって犬に類す』みたいなものだ」
『画虎不成、反類狗』――虎を描こうとしたが画力が足らず、犬みたいになってしまう。力が足りないのに分不相応の事業に取り組んで、大失敗してしまうことの喩えである。
こういう言い方をされて、引き下がれる項羽ではない。
「よーし、やってやろうじゃないか。何をすれば信じる?」
桓楚が言う。
「そうだな……この山の麓に禹王(古代の聖王)の廟がある。そこに石でできた巨大な鼎(足が3本ある器)が置かれているのだが、その重さは何千斤あるか分からないほどだ。(千斤で約250kg)
もし君がこれを押し倒して、また立て直すことができたなら、その力は天下無敵と言えるだろう」
項羽は荒く鼻息を吹いた。
「じゃあ行くぞ!」
(つづく)