龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】 作:外清内ダク
さて、次の日。
まだ漢中の
「
このあいだ、『各地の郡県の長老たちを招き集めろ。俺から話しておきたいことがあるんだ』と
まだ長老たちは集まってないのか?」
「いえ。おびただしい数の人民や長老たちが、すでに朝廷の門前に集まっております。
どうも、漢王様が
しかし、ここ数日は昼も夜も漢王様の業務がギッシリ詰まっておりましたから、ご報告せずにおりました」
劉邦は、機嫌よく笑う。
「おいおい! みんな、俺を
すぐ連れてこいよ、はやくはやく!」
こうして朝廷に招き入れられた漢中人民は、実に数百人。
お互いに押しあいへしあい、先を争って劉邦の御前に
朝廷の番兵は、この民衆が無礼を働いてはまずいと思い、声を荒げて怒鳴りつけた。
「百姓、
だが劉邦は、逆に番兵のほうを りつけた。
「こらこら! この人たちは俺の民衆だぞ。でかい声を出して脅かすんじゃねえよ!」
そして劉邦は玉座から立ち上がり、
民衆はどよめき、一斉に拝伏した。
民衆の中で一番の長老が言う。
「漢王陛下が漢中の地にお越しになってからというもの、風雨も安定し、万民は日々の仕事に安心して取り組めるようになりました。
しかし陛下は、軍隊を出発させて
漢王様、いつ漢中に戻って来られますか? 再び我らを治めてくださる日は来るのでしょうか?」
長老の言葉を聞いて、あちこちから、すすり泣きの声があがりはじめた。
王の権力は、強大である。税も
もし悪い君主がのさばれば、たちまち民衆は地獄の苦しみに突き落とされるのだ。どうにかして寛大で親切な王に留まってもらいたい……そう民衆が切実に願うのも、無理のないことだった。
こうして民衆に引き止められることは、劉邦の政治の成果そのものと言える。劉邦は、民衆につられて涙ぐみ、うんうんと嬉しそうに、うなずいた。
「みんな、ありがとうよ。
でも、そんなに別れを悲しまないでくれ。俺は、凶暴な
長老が、また
「ですが、漢王陛下がこの地を離れなさった後、どんなお方が漢中を守りなさるのです?」
劉邦は、にっこりと笑って、広間の隅のほうを指した。
「ほら、そこにいる
漢中は
これを聞くと、長老は手のひらで、ペチン! と
「あ!
こりゃあ、私ら民衆にとっては一番の幸せだ!」
ここで劉邦は、民衆たちの中から
劉邦は、漢中を統治するにあたり、
まず街道の10里を1亭と定め、亭の
さらに10亭を1郷と定め、郷ごとに3人の責任者を置いた。これが
つまりは、村長のようなものだろうか。正式な役人ではないが、役人に準じる存在として行政の末端を
その
『
そうしてこそ上で行った政治が下々まで行き届き、素朴で情に厚い気風が広がり、一国が穏やかに平和を保って至高の統治にいたるのだ。
ゆえに今、お前たちに大切なことを教えさとしておこうと思う。
これは善を為し、悪を去り、吉に
まず、家には一家の長がある。
そして郷には一郷の長がある。
一家の長たる者は、その家の子弟に教えをほどこし、詩書を購読し、道理を明らかにせよ。
父は子に慈悲を持ち、子は父に孝行し、兄は弟を愛し、弟は兄を尊敬し、
仁愛と謙譲の心を持ち、互いに打ち解けあい、親睦し、
そうすれば、一家に幸福が
一郷の長たる者は、その郷の士農工商に次のようなことを勧めよ。
士は、義理を大切にし、課せられた業務をしっかり勤める。
農は、田畑をよく耕して、租税をきちんと納める。
工は、技術を役立てることを第一とし、度を超えた技巧に
商は、人々の暮らしを良くするために心を砕き、財産を
大人物も小人物も心を穏やかにし、年長者も若い者も仲良くせよ。
戦ったり告訴したりして刑罰を受けるハメにならないよう気を付けよ。
賭博や
手を遊ばせ、暇ばかり好んで、生きる意志を失うことのないようにせよ。
他人の財産を盗んでその人を死に追いやらせないようにせよ。
郷を出入りするときは同郷の者と一緒に行き、家畜の見張りをするときには互いに手伝い、婚姻や葬式の時には
このようにすれば、郷の中は礼節・音楽などの文化もゆったりとして、風俗は純朴な美しさを持ち、豊かになり、寿命ものび、気楽に太平を楽しめるようになる。
これが一郷の幸福というものだ。
こういう言葉がある。
『善を行えば天は百の
善悪への天の
お前たちをここへ呼び、こうして教えさとしているのは、お前たちに善の道を進んでほしいと思うからである。
もし
だから、よく
告文を聞かせ終わると、劉邦は民衆に酒と食事を
*
その後で、劉邦は
「
農業や
そうして本拠地の漢中を安定させ、俺たちの遠征軍に
これが
「
願わくは、一日も早く勝ち
さて……
直接戦場に出ることのなかった
にもかかわらず、戦後、最大の功労者として劉邦に名指しされたのは、他ならぬ
劉邦や韓信が
本拠地を安定させ、莫大な物資と増援の兵を絶え間なく送り続けて、漢軍を強力に支援する……という、地味で地道な戦いである。
安定した
鬼謀奇策で何度も状況をひっくり返した軍師張良。
大軍を率いて無敵の項羽とわたりあった大元帥韓信。
彼らのような華々しい活躍とは無縁だが、宰相
*
時に大漢元年、
この日、漢王劉邦は軍勢を
各地の郡県の人民たちも、劉邦を
劉邦もまた、
(つづく)
■次回予告■
かつて逃亡者として乗り越えた道を、韓信は大軍引き連れ進んでいく。あの日の出会いと約束を思い、韓信はある人物を探させた。
と、そのとき乱石灘の石橋へ、山より飛び出す虎一匹。さらに猛獣の後を追い、槍を片手に躍り出る男あり。荒ぶる獣を前にして一歩も退かぬこの勇士、はたしてその正体は?
次回「龍虎戦記」第三十六回
『虎殺しの男』
●注釈
『善を行えば天は百の
この言葉は「書経(尚書)・伊訓」に見られる。原典での表現は『作善降之百祥、作不善降之百殃』である。
「伊訓」とは『
しかしこの「伊訓」もまた、巻三の注釈で紹介した「偽古文尚書」に収録されたものである。