龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

92 / 197
三十六の上 虎殺しの男

 

 

 韓信大元帥は、漢軍の本隊を引き連れて、東へと駒を進めていた。

 劉邦より先行すること2日。桟道(さんどう)は使わず、陳倉(ちんそう)小路(こみち)を通って孤雲(こうん)(ざん)両脚(りょうきゃく)(ざん)へ出る。

 

 この陳倉(ちんそう)(どう)は、かつて韓信が()を離反して逃亡した時に通ってきた道である。

 今はちょうど、それを逆にたどっている形になる。

 

 山の裏の谷際から兵を進めていくと、いくらか通りやすく整備された道が現れた。先行する樊噲(はんかい)の部隊が切り拓いてくれた道である。

 

 だが、それでもなお、彼らの進む道は(けわ)しい。

 谷川の水が寒渓(かんけい)に集まり非常な急流となっているところを、石橋かけて渡っていく。

 断崖絶壁が屏風(びょうぶ)のように立っているのを、長い縄を下ろして魚貫(ぎょかん)(串刺しの魚のように大勢で列になること)して進む。

 

 さらに5里(2km)ほど行ったところで、広い道に行きあたった。

 広いことは広いが、そのぶん樹木がびっしりと覆い(しげ)っている。

 先陣の樊噲(はんかい)は、部下に命じてこれらの樹木を片っ端から切り倒していった。

 

 中軍の韓信は、道すがら、大将たちに言った。

「以前、私が1人で漢中から逃げてきた時、夜中にこの寒渓(かんけい)の川辺に来たのだ。

 ちょうど秋の長雨で水量が増し、渡れずにいたところに、蕭何(しょうか)殿が追いかけて来てくれた。

 もしあの時この川を渡っていたら、私は今ごろ、淮南(わいなん)の故郷に帰っていただろうな」

 

 大将たちが言う。

「まさに天の助けですな。

 漢の世を(おこ)そうと天が考え、川を増水させて大元帥を足止めしたのに違いありません。

 

 もし大元帥が漢を去っていたら、この道を知る者が誰もいなくなる。そうなれば、桟道(さんどう)は焼け落ちてしまっていますから、三秦(さんしん)を攻めることなど不可能。我らは(みな)、漢中で老いて死ぬ運命になっていたでしょう。

 この奇特(きとく)(奇跡)を、(のち)の世に伝えましょう」

 

 というわけで、大将たちは山頂に石碑を立て、

『漢相国邀韓信至此

 漢の相国(しょうこく) 韓信を(もと)めて(ここ)に至る』

 という8字を刻んだ。

 

 そして、鳥さえ飛び抜けがたいような(けわ)しい山や崖の中を、漢軍はさらに進んでいった。

 (ふじ)(つか)んでよじ登り、(かずら)(にぎ)って崖に張り付き……

 将も兵も(みな)、故郷へ帰りたい、その一心で疲れを忘れて進軍したのだった。

 

 

   *

 

 

 さて、そうしてしばらく進んだ後。

 先を行く部隊から、兵士が慌てて駆け戻ってきてきた。

「この先の渓流(けいりゅう)の岩場に、巨大な蛇がおります!

 その両目は、太陽や月のように爛々(らんらん)と光っていて……

 これ以上は進めません!」

 

 韓信は、呆れたように言う。

「そんな大蛇が道を(ふさ)いでいるなら、弓兵の100人も前に出して、(やじり)に毒薬を塗り、一斉に()かければよいではないか。

 さらに、鉄砲(爆弾)も投げつけて、大蛇が飛びかかってくるのを防げば万全だ」

 

 諸将も「もっともだ」と、うなずいていたところ、1人の将が、

「無用だ!」

 と大声をあげながら進み出た。

 

「たかが蛇1匹が道を(ふさ)いだくらいのことで、どうしてそんな大勢を用いる必要がありましょうか!

 たとえ蒼海(そうかい)蛟龍(こうりゅう)であっても、それがしには(かな)うまい。

 その大蛇とやらを、それがしが1人で斬って捨ててくれよう!」

 

 一体誰だ? と、人々が驚いて目を向ければ、信武侯(しんぶこう)靳歙(きんきゅう)である。

 この靳歙(きんきゅう)は、旗揚げ当初から劉邦に従って戦ってきた古参の大将。

 (しん)軍との戦いで数々の戦功を立て、たった一戦で57もの首を取ったことさえあるという、漢軍きっての豪傑である。

 

 韓信は、靳歙(きんきゅう)の申し出を喜んだ。

「なるほど、御辺(ごへん)の実力ならば、大蛇など、もののかずともしないだろう。

 だが、この山深く湿気た土地。ほとんど往来する人もない。踏み込むのは、さぞかし苦労であろう。

 酒を飲み、力をつけてから行きたまえ」

 

 韓信は、牛の角をくり抜いて作った巨大な(つの)(さかずき)を、佳酒でなみなみと満たして靳歙(きんきゅう)に与えた。

 靳歙(きんきゅう)は、この大きな(さかずき)で軽く3杯も飲み干すと、兵士の5・6人と道案内の男を連れて、山道の先へ向かった。

 

 靳歙(きんきゅう)たち一行は、岩壁に穴を穿(うが)って手がかりとしながらよじ登り、谷川を渡り、その先の山の切れ目に身を(ひそ)めた。

 話によれば、このあたりに大蛇とやらがいるはずだが……

 

 と。

 突如、電光が山の下へ()し込み、生臭い風が吹き寄せてきた。

 ゾッとするような寒気が、一行の肌を震わせる。

 ただならぬ気配に慄然(りつぜん)として先を見やれば、谷川の(ほとり)岩間(いわま)、その深い暗闇の奥に、月が明々(あかあか)と輝いている……

 

 兵士が、おびえて声を震わせる。

「あんなところに月がある。どういうことだ?」

 

 道案内の男が答えた。

「月じゃありません。大蛇の両目が光っているんですよ。

 人が近づくと、大蛇は雲のような息を吐き出す。その息は猛毒で、触れた者は必ず死んでしまう。

 靳歙(きんきゅう)将軍、あんな化け物と戦うなんて無茶ですよ。近づかないほうがようございます」

 

 だが靳歙(きんきゅう)は、おびえるどころか激怒して抜刀し、

「ヌオォォォーッ!」

 と大喝(だいかつ)一声(いっせい)、谷川の(ほとり)へと駆け下りた。

 

 靳歙(きんきゅう)の姿に気づいた大蛇が、岩の上へと(おど)り出る。

 その全長は実に数丈(仮に5丈なら11.6メートル)。巨体を不気味にうねらせながら、大蛇が毒の息を吐きかける。

 

 靳歙(きんきゅう)咄嗟(とっさ)に横っ飛び、岩の上を転がりながら毒を(かわ)した。

 そこへ大蛇が飛びかかる。(あぎと)を開き、靳歙(きんきゅう)を一飲みにせんと襲い来る。

 

 対する靳歙(きんきゅう)、ひらりと飛んで大岩に乗り、蛇を睨み下ろして剣を構えた。

 そして雷鳴の如く一声(おめ)くや、飛び降りざまに銀の刃を力任せに振り下ろす。

 

 ガッ!

 と響く鋭い打音。

 大蛇の首が()ね飛んだ。

 山じゅうの木々が動揺し、噴出する蛇の血で谷川がみるみる朱に染まっていく。

 

 慌てて兵士たちが駆け寄ったときには、大蛇はもう完全に事切れて、岩の上に転がっていた。

 

 

   *

 

 

 報告を受けた韓信は、蛇の死体を確認すべく、谷川の(ほとり)へやってきた。

 見れば、確かに長さ数丈もある大蛇である。化け物だという兵士たちの話は、誇張でも見間違いでもなかったらしい。

 

 左右の大将たちは、大蛇の死体を()の当たりにして、驚きを隠せないようだった。

「なんと長大な蛇だ……百年も生きてきた奴ではなかろうか? こんな化け物が昔からいたのか?」

 

 韓信は、片膝をついて蛇の死体をじっくり観察し、鱗を触ったり軽く小突いてみたりしながら、低くうなった。

「神仙の住む崑崙(こんろん)(さん)は周囲3万里(1万2千km)。上古(じょうこ)の時代には、その崑崙(こんろん)を取り巻くほどの大蛇がいたという。

 (いにしえ)の蛇は、これほどに大きかったのだ。それに比べれば、数丈の蛇など大きいとは言えんな。

 とはいえ……」

 

 韓信は、立ち上がりながら身震いした。

「私は、漢に来るときにこの道を通ったが、幸運にも、この大蛇には出くわさなかった。

 もし遭遇していたら……今ごろ、私はここにいなかっただろうな」

 

 そして韓信は靳歙(きんきゅう)に厚く褒美(ほうび)を与えたのだった。

 

 

(つづく)




●注釈
 本文中に『信武侯(しんぶこう)靳歙(きんきゅう)』とあるが、史実では、靳歙(きんきゅう)信武侯(しんぶこう)の爵位を与えられたのは作中現在より4年ほど後、漢六年のことである。蕭何(しょうか)などもそうであったが、「西漢通俗演義」と「通俗漢楚軍談」には、人物の最終的な官職や爵位を最初から名乗らせている例が多い。
 靳歙(きんきゅう)は、「史記」に列伝も立てられている劉邦配下の名将。その列伝を読むと、本文中に記した戦果以外にも取った首や捕らえた捕虜の数がズラズラと並んでいて、壮観である。生涯戦歴は、別動隊を指揮して敵軍を破ること14回、城を陥落させること59回、郡・国を平定することそれぞれ1回、県を平定すること23回……その中にはあの項羽を破ったという記録まであり、相当な戦上手であったことがうかがえる。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。