さらに人馬を進め、漢軍は太白嶺に近づいてきた。
ここで韓信は、大将の盧綰を呼んだ。
「私が漢中へ来たとき、太白嶺の麓で辛奇という男に出会ったのだ……」
辛奇――
それは、韓信が漢中への旅の途中で意気投合した男である。
(第二十七回参照)
「辛奇は義の心の豊かな人物だ。
私を一晩泊めてくれたうえ、義兄弟の誓いを交わして『いつか楚を討つ時には、ともに戦おう』と約束した。
このあたりで酒屋を営んでいるはずだ。
御辺、辛奇の家を訪ねて、私が会いたがっていると伝えてくれ。昔日の恩にお礼をしたいのだよ」
「分かりました。行ってまいります」
盧綰は、5、6騎ほどの部下を連れて、走って行った。
しかし、すぐに駆け戻ってきた。
あまりに帰りが早いので、韓信は眉をひそめた。
「どうした? ずいぶん早かったな」
盧綰が表情をくもらせる。
「それが……太白嶺の麓に行ったところ、あたりに人家の一宇も見えず。
そこらにいた人に尋ねてみると、
『去る7月、山から鉄砲水が溢れ出て、何もかも押し流してしまった。それで皆、山の北側へ家を移したのだ』とのこと。
それで、しかたなく帰ってまいりました」
韓信は、話を聞いて嘆息した。
「そうだったのか……
私も、この目で様子を見たい。とにかく行ってみよう」
というわけで韓信も太白嶺の麓に向かったが、たどりついてみれば、聞きしにまさる惨状だった。
どこもかしこも土砂に押し潰され、人の住んでいる気配さえない。
辛奇の酒屋があった場所にも、今は土と石くれが積み重なっているだけである。
辛奇の行方を探したいのはやまやまだったが、山の北側という手がかりだけでは、そう簡単に見つけられそうもない。
そして今は三秦征伐《せいばつ》のために進軍している最中。時間をかけて捜索している暇はないのだ。
「辛奇……君にもぜひ我が軍に加わってほしかったが、これではどうしようもないな……」
と、韓信は肩を落として軍勢を出発させたのだった。
*
そこからまた1日ほど進軍し、乱石灘の石橋を通りかかった頃のことだった。
行く手の山の木々の中から、突如、1頭の虎が飛び出した。
さらにその後ろから、1人の壮士が槍を片手に飛ぶが如くに走り出た。
虎は壮士に追い立てられ、狂乱の態で漢軍の方へ駆け寄ってくる。
「虎だっ! 気をつけろ!」
「囲め囲め!」
兵士たちが、槍を構えて虎の周囲を取り巻く。
虎は、逃げ道がないのを見てとると、近くの大岩に飛びつき、岩を蹴って跳躍し、背後の壮士へ飛びかかった。
壮士の両目が、ギラ! と光る。
壮士は避けるどころか逆に虎の懐へ飛び込み、脳天めがけて槍を突き込んだ。
これを紙一重で避けた虎は、ますますいきりたって跳び上がる。
鋭い牙が壮士に食らいつく! ……かに思われたその時、逆に虎の喉元へ壮士の槍先が突き刺さった。
地に倒れた虎。
そこへ兵士たちが殺到し、次々に槍を突き立ててトドメを刺した。
この一部始終を見ていた韓信は、驚きに目を見開いた。
「あの壮士は、ひょっとして!」
韓信が、みずから馬を進めて壮士へ近づいた。
近くで見れば……間違いない。虎殺しの壮士、彼こそまさに太白嶺の辛奇である。
「おお、やはり辛奇ではないか! こんなところで会えるとは!」
韓信は、下馬して辛奇に歩み寄った。
辛奇は目を丸くした。堂々たる鎧に身を包んだ大元帥、それがかつて義兄弟の契りを結んだ韓信その人であることに気づいたのだ。
辛奇は喜色満面、韓信の前に拝伏した。
「韓信大兄! なんとまあ、すっかり立派になられて……!
大元帥に就任されたという噂は、こんな山奥にも届いておりましたぞ。
桟道修復に取りかかったと聞いて、さては、いつかの約束通り楚討伐に出陣するのに違いない、と考えましてな。
この小弟も、すぐに駆けつけたかったのだが……老母の許しが得られなくて、先のばしになっておったのです。
それが今日、思いがけず大兄に出会うことができた。これで、我が望みも叶うというものだ」
韓信も、嬉しそうに頬を緩めた。
「御辺と別れた後、漢王様に仕えはじめたので、軍務に忙しくて連絡もできなかった。
そこで昨日、太白嶺の麓の集落を訪ねたのだが、洪水のために家を移したと言うではないか。
御辺を探す手がかりもなく、落ち込んでいたところだったのだが……何という幸運だろう。こんなところで御辺と会うことができた!
我が賢弟よ、私はかつて御辺に恩を受けた。それに義兄弟の誓いも交わしたのだ。御母堂に挨拶しておきたいな」
辛奇は、慌てた。
「いやいや! 韓信大兄は、いまや天下の大元帥ではござらんか。
互いに無官の男一匹だったあの頃とは違うのです。それがしのアバラ家なんぞにお招きするわけには……」
韓信は、珍しく心許した様子で、にっこりと微笑んだ。
「出世したからといって、身分だの何だのに拘り始める私ではないよ。あの日の恩は忘れていない……かまわないから、ぜひ御辺の住まいに連れて行ってくれ」
*
かくして、韓信は10騎ほどの兵のみを連れ、辛奇とともに進んでいった。
山を越えて2里ほど行くと、高い崖の麓に、民家が10軒ばかり連なっているのが見えてきた。
そのうちの1軒に、辛奇は韓信を案内していった。
屋根は茅ぶきの粗末なもので、扉に至っては柴を縦横に組んだだけの代物である。
これが辛奇の暮らす家なのだ。洪水で住まいを失ってからの困窮ぶりが、この家を見るだけでも、ひしひしと察せられた。
辛奇は、扉を開いて韓信を草廬に招き入れた。
韓信は中へ入ると、辛奇の老母へ丁寧に拝礼した。
「私は韓信と申す者。ご子息には、かつて大きな恩を受けました。
これはほんのお礼です。どうぞお受け取りください」
韓信は辛奇の妻を呼び、銀100両を差し出した。
これを見て、辛奇の老母が慌てた。
「そのような大金、受け取れませぬ!」
韓信が言う。
「いえ、これは漢王劉邦様よりの賜り物とお思いください。
御母堂を養う助けとして差し上げるものです。
辛奇には、これから私の手足となって働いてもらわねばなりません。彼はいつか楚を討伐し、大功を立てて名をあげるでしょう。
しかし、この険しい山中にお母上を置いては行けない……
そこで、当面のあいだ御母堂が暮らしていけるように、この銀子を差し上げたのです。
その後のことも、ご心配めされるな。御母堂を都南鄭に移して面倒をみてくれるよう、丞相府の蕭何相国に連絡しておきます」
横で聞いていた辛奇は、喜びをこらえきれず、再拝して感謝の言葉を述べた。
韓信が言う。
「なに、気にするな。
私たちは義兄弟……御辺の母は、すなわち私の母だ。
御辺は私に従って東方へ行くのだ。どうして老母をこの山中に置いておけようか。
軍政司曹参よ」
「はっ。丞相府に連絡ですな」
「ああ。『なるべく早いうちに頼む』とな」
辛奇は涙を流して老母に別れを告げ、また妻に向かってこう言った。
「それでは、韓信大元帥に従って戦場へ行ってくる。母のことを、よろしく頼むぞ」
かくして、また1人、頼もしい豪傑が韓信の配下に加わったのだった。
(つづく)