龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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三十七の下 楚漢戦争、勃発

 

 

 章平配下の姚龍(ようりゅう)靳武(きんぶ)が、突如として、味方であるはずの章平に飛びかかり、押し倒した。

 予想だにしなかったこの事態に、章平は目を白黒させ、ツバを飛ばして、わめき散らす。

「貴様ら!? どういうつもりだ!?」

 

 だが姚龍(ようりゅう)靳武(きんぶ)は、まったく取り合わず、あっというまに章平を縛り上げてしまった。

 

 これには散関の兵士たちも、大いに驚き騒いだ。章平を救い出そうと近寄る者もいた。

 しかし姚龍(ようりゅう)靳武(きんぶ)の部下100人が刀を抜いて立ちはだかっているため、誰も章平を助けることができない。

 

 姚龍(ようりゅう)靳武(きんぶ)は、()兵に向かって声を張り上げた。

「漢王は仁徳の君主だ! 天下の人々は、ことごとく心服している!

 お前たちも、すぐに降伏するなら命は助けてやる!」

 

 ()兵たちは青ざめた。

 大将の章平は拘束されているし、門の外には漢の大軍が殺到している。

 このままでは無駄に殺されるだけ……

 そう悟った()兵たちは、みな拝伏して投降してしまった。

 

 散関の制圧が完了したのを見て、姚龍(ようりゅう)は部下に(めい)じる。

「よし! 城門を開け! 韓信大元帥をお入れしろ!」

 

 章平は、靳武(きんぶ)にねじ伏せられたまま、悔しげに歯を噛みしめる。

姚龍(ようりゅう)靳武(きんぶ)、貴様らァッ……さては、ただの農民ではないな!?」

 

 姚龍(ようりゅう)が、にまり、とほくそ笑んだ。

「ようやく気付いたか。

 私の本当の名は、漢の大将周勃(しゅうぼつ)。こっちは同じく陳武(ちんぶ)

 

 桟道(さんどう)工事が難航していると見せかけ、不満を持った農民のフリをして私たちが散関に(もぐ)り込む……

 一緒に来た100人の人夫(にんぷ)も、実は我らが腹心の部下だ。

 

 ここまで全て、韓信大元帥の策略だったというわけだ。

 お前が私らを重用してくれたおかげで、実に仕事がやりやすかったぞ、章平!」

 

 

   *

 

 

 かくして、難攻不落の大散関は、たったの一晩で陥落した。

 

 韓信は、散関の中に入ると、まず降伏した()兵5千人の命を保証し、安心させて手懐(てなず)けた。

 さらに、守将の章平を引き出させて言う。

 

「章平。

 汝は(よう)章邯(しょうかん)の一族。

 しかも()に仕えて、我ら天兵(てんぺい)(こば)んだ。

 

 すぐに首を斬ってやろうかとも思ったが、貴様ごときは(らい)()みの犬に過ぎん。斬っても我が刀の(けが)れになるのみだ!

 軍政司曹参(そうさん)よ。この犬を、とりあえず拘束しておけ」

 

 中国において、相手を犬((いぬ))呼ばわりするのは最大級の侮辱である。

 ここで章平に屈辱を味わわせ、しかも殺さずにおいたのも、もちろん次の戦いを見すえた韓信の策。

 

 ちょうどそのとき、伝令が韓信に報告を持ってきた。

「漢王陛下の後軍が到着しました!」

 

 漢軍の大将たちは、総出(そうで)で劉邦を出迎えた。

 早くも散関が落ちた! と聞いた劉邦は、おおはしゃぎである。

 

「散関は三秦(さんしん)でも指折りの要害だ。それを韓信、お前ってやつは、戦力をぜんぜん消耗(しょうもう)させずに落としてしまったんだな!

 三秦(さんしん)王たちがこれを聞いたら、心臓が止まるくらい驚くぞ!」

 

 対する韓信は、戦果を(ほこ)るそぶりも見せず、静かに微笑するのみ。

「散関は取りましたが、これは始まりに過ぎません。

 三秦(さんしん)は、いまだ(そな)えなく油断しきっている。ここで素早く(たた)みかけなければなりません。

 

 陛下は、この散関に留まり、後方支援をお願いいたします。

 蕭何(しょうか)相国(しょうこく)に連絡して兵糧(ひょうろう)を送らせ、同時に桟道(さんどう)工事の人夫(にんぷ)を増員して物資輸送の円滑化(えんかつか)を急いでいただきたいのです。

 

 臣の方は、これから(よう)(みやこ)廃丘へ速攻をしかけ、まずは(よう)章邯(しょうかん)を生け捕りに。

 その後、()ならずして三秦(さんしん)を平定してみせましょう」

 

 それから韓信は、拘束していた章平を引き出し……

「この犬の耳を切れ。

 命だけは助けてやる。章邯(しょうかん)の元へ逃げ帰るがいい!」

 と、章平の耳を切り落として解放した。

 

 章平は、血の(あふ)れ出す耳の傷口を押さえ、痛みと屈辱に歯を食いしばりながら、(みやこ)廃丘へと逃げ去っていった。

 その背中を見送りつつ、韓信は考える。

「よし……弟の章平をこのくらい(はずかし)めておけば、章邯(しょうかん)を十分に怒らせることができよう」

 

 こうして次の戦いの仕込みを済ませると、韓信は、すぐさま命令を(くだ)した。

 先鋒たる第一陣は夏侯嬰(かこうえい)。副将に辛奇(しんき)を添える。

 樊噲(はんかい)には支援を命じて第二陣とする。

 そして韓信みずから本隊を率い、名将章邯(しょうかん)に挑むべく、廃丘へ怒涛(どとう)の勢いで進軍していった。

 

 

   *

 

 

 この戦いから、兵法の極意の一つ、『明修桟道(さんどう)暗度(あんと)陳倉(ちんそう)』という言葉が生まれた。

 

『明らかに桟道(さんどう)を修め、(あん)陳倉(ちんそう)(わた)る』

 偽装工作によって敵を油断させつつ、素早く展開して奇襲を仕掛ける……そういう戦術のことである。

 

 たちまちのうちに要害を落とし、歴史に武名を刻んだ韓信……

 だがこれほど見事な戦いすら、大元帥韓信の快進撃の、ほんの始まりにすぎない。

 ここから韓信は、数々の戦場で数限りない功績を立てていくことになる。

 

 

   *

 

 

 思えば、ここまで多くの出来事があった。

 始皇帝の死。

 反乱軍の蜂起。

 項羽と劉邦の出会い。

 (しん)の滅亡。

 理不尽な左遷(させん)

 そして、静かに力を養い続けた漢中での日々……

 

 激動と苦難の年月(としつき)を越え、ついにこの時がやってきた。

 

 次なる天下の支配者は、()の虎・項羽か、はたまた漢の龍・劉邦か。

 龍虎(あい)()()漢戦争……中国の未来を賭けた戦いの幕が、今、切って落とされたのである。

 

 

(巻七へ、つづく)

 

 

 

 

 

 

■次回予告■

 

 散関陥落の勢いに乗り廃丘へ迫る韓信の大軍。だがその前に分厚い壁が立ち塞がる。

 戦場を駆けること三十余年、(また)(くぐ)り男なんぞ(おそ)るるに()らん! 項羽以外に敗北を知らぬ百戦錬磨の名将章邯(しょうかん)。憤怒に駆られて猛然と襲い来る強敵に、韓信はいかに立ち向かう?

 

 次回「龍虎戦記」第三十八回

 『韓信 対 章邯(しょうかん)

 

 ()う、ご期待!




●注釈
 韓信が、章平に対して『貴様ごときは(らい)()みの犬だ』と発言している。この部分の「西漢通俗演義」における表現は『本当斬首、量汝特癩狗、不足汚吾刀耳』。意味は、おおむね本文に記したようなものである。
 (らい)(びょう)は、細菌によって引き起こされる感染症の一種。発病すると皮膚の発疹や神経障害など様々な症状が出る。外見上の特徴や(けが)れの思想、感染への恐怖などから、この病気の患者は極めて残酷な差別にさらされてきた。そのため(らい)という表現自体が差別的な語句とみなされており、現在では病原菌の発見者である医師の名前からハンセン病と呼ぶのが普通である。
 以上の事情は承知の上で、今回は、あえて『(らい)()み』という表現の使用を決断した。このシーンにおいて、韓信は明らかに強烈な差別心をもって、章平を侮辱するためにこの言葉を使っている。韓信はこういうことを言う男なのである。その人物像を余すところなく伝え、また当時(楚漢戦争の時代ではなく「演義」が執筆された(みん)代)の価値観をなるべく()のまま描写するためには、この差別的な表現を改変せず用いるよりほかないと判断した。
 ここの表現を新約聖書の訳本などにならって『重い皮膚病』などとするか、あるいはいっそ省略するか……と、かなり悩んだうえでの決断である。その責任は全て筆者の外清内ダクにある。批判があれば甘んじて受け入れる覚悟である。ただ、ハンセン病患者に対する差別を肯定・助長する意図は一切無い、ということだけは、言い訳がましいが申し添えておきたい。
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