三秦の一つ、雍の都廃丘に、散関からの早馬が駆け込んできた。
「漢の大軍が、とつぜん散関を攻めてきました! 至急、救援の軍勢をお送りください!」
雍王章邯は、この報を聞いて驚愕した。
「バカな!
まだ桟道は完成していないのだぞ。漢の兵が出てくることなど不可能のはずだ!
……いや、そんなことを言っている場合ではないな。
現に散関が攻められているのだ。事は急を要する。
司馬欣と董翳にも連絡せねば!」
三秦王の他2人……
櫟陽に都する塞王司馬欣。
そして高奴に都する翟王董翳。
いずれも、秦に仕えていた頃から一緒に戦ってきた、章邯の腹心である。
章邯は、彼らに送る早馬を手配しつつ、手下の大将呂馬通・孫安らと慌ただしく出陣準備に取りかかった。
と、そこへ、章邯の弟の章平が、たった一人で転がり込んできた。
章平は散関を守る大将。
それが、耳を切り落とされた痛々しい姿で兄章邯の前へ来るや、涙を流して地に頭を付け、声を上げて号泣するのである。
このただならぬありさまを見て、章邯は色を失った。
「まさか、もう散関が落とされたというのか……!
漢軍は、一体どうやって桟道を越えたのだ!?」
章平は、むせび泣きながら、つぶさに語った。
漢の大将周勃・陳武が投降を装って潜入してきたこと。
韓信が陳倉道から襲来したこと。
そして内外で呼応して、たちまち散関を攻め取ってしまったこと……
話を聞いた章邯は、痛恨の思いで首を振った。
「范増亜父が、たびたび覇王様を諌めていたものだ。
『韓信は、まだ機会を得ていないのだ。もし重用する人物が現れたら、必ず楚にとって大きな憂を為すだろう』と……
しかし覇王様は、その諌言を用いようとは、なさらなかった。
それが今、こんな結果になろうとは!
章平よ、お前はゆっくり休め。傷の治療に専念するのだぞ。
お前の恨みは、この雍王章邯が雪いでくれる!
許さぬぞ、股潜り男、韓信!
わしが必ず誅殺してやる!」
しかし、章邯配下の大将たちは、口々に章邯を制止した。
「韓信は、詭道(人を騙す手口)を用いる男です。軽々しく戦いを挑むべきではないと思いますが」
だが章邯は、その言葉に耳を貸そうとしない。
「この章邯、戦場において兵を用いること三十余年。
股潜り男、なんぞ恐るるに足らん!」
*
一方、こちらは漢軍、夏侯嬰が指揮する先鋒部隊。
夏侯嬰は、廃丘から50里のところまで来ると、用心してひとまず部隊を停止させた。
そうして章邯を待ち構えていたところへ、後ろから韓信が兵を率いて追いついてきた。
韓信が、夏侯嬰のそばにやってきて、低くささやく。
「夏侯嬰殿。次の相手は章邯ですが」
「ええ。章平のように簡単には、いかんでしょうなあ」
「同感です。
章邯は秦の名将だ。正面から力でぶつかり合うのは得策ではない。
ここは計略を用いて章邯を擒にしてやりましょう。
貴公は明日、章邯に戦いを挑んで、こういうふうにしたまえ……」
韓信は、ひそひそと耳打ちして、夏侯嬰に計略を伝えた。
そして、次の日。
夏侯嬰は、兵を引き連れて廃丘へと押し寄せていった。
すると、その道の途中で、章邯の軍勢と出くわした。
一触即発の張りつめた空気の中、にらみあう両軍。
章邯が、夏侯嬰に向けて声をはりあげる。
「漢王劉邦は、せっかく漢中に封ぜられたのだから、その分を守っておればよいものを!
どういうつもりで股潜り男ごときにそそのかされて、国境を侵してきおったのか!
早々に漢中へ帰るがいい! でなければ、一人も生き残れぬぞ!」
この挑発に対して、夏侯嬰は大笑い。
「義帝は、『先に関中へ入った者を王とする』と約束なさったのだ!
我が漢王様は、刃を血に濡らすことなく、秦王子嬰を降伏させて、関中を平定なさった! ゆえに天下の主となって当然だったのだ!
それなのに、項羽は暴力にまかせて約束を破り、自分が王になったばかりか、義帝を弑逆した!
この大逆無道に、天下の万民みな牙を噛んでいる!(悔しさで歯を食いしばっている)
だから今、我々は仁義の軍を出して、無道を討伐しようとしているのだ。
汝こそ、いさぎよく首を洗って我らの刀を受け入れるべきなのに、陣の前に出てきて舌を動かすとは、なにごとだ!」
章邯は激怒した。
章邯とて百戦錬磨の名将である。普段の彼なら、もう少し冷静に戦えたかもしれない。
だが、今の章邯は頭に血がのぼっていた。耳を切り落とされた弟、章平の、みじめで痛々しい姿が目に焼き付いて離れなかったのである。
章邯は怒声を発して馬を走らせ、槍をひねって夏侯嬰へと突き込んだ。
対する夏侯嬰、刀を舞わせて10合あまり戦ったが、さすがに章邯は強い。
「くっ」
と夏侯嬰は顔面に焦りの色を浮かべ、馬を返して逃げ出した。
「逃がすな! 追えっ!」
章邯が、楚兵を駆って追いかける。
夏侯嬰は、近くの山へ向けて逃げ走り、丘の上に駆け上ったところで馬を止めた。
そして章邯の方を振り返り、大声で呼びかける。
「章邯! 再び私と快く勝負せよ!」
章邯は、嘲笑って叫び返した。
「夏侯嬰、汝は今わしに負けたところではないか!
負け犬の分際で『勝負』だと? とんだお笑い種だ!」
夏侯嬰が、笑い返す。
「怖いのか、章邯?
無理もない。汝はもう年老いて、体は骨と皮ばかりだ。そんな衰えた体では、私に敵うわけがないからな!」
章邯のまぶたが、ピクッ、ピクッ、と痙攣した。
「なん……だとォッ……! 誰が年寄りだ!」
章邯は、いよいよ怒って馬を突進させた。
矢のように夏侯嬰に駆け寄って、槍を突き出す。
夏侯嬰は、また10合ほど戦って、今度は松林の小道を目指して逃げ出した。
その後を、すぐさま章邯が追いかける。
章邯が松林の中へ駆けこんだその時、馬煙をあげて、韓信が打って出た。
韓信は、夏侯嬰と交替するように章邯の前へ出ると、声をはりあげ呼びかけた。
「ここで貴様を待っていたぞ、章邯!」
章邯は笑う。
「ほう? わざわざ首を落とすために待っていてくれたのか、股潜り男よ!」
章邯は、槍をひねって襲いかかった。
韓信も戟を振るって応戦したが、いかんせん、相手が悪い。
武器を打ち合わせての戦いでは勝負にもならず、韓信は、ほんの5、6合ほど打ち合っただけで不利を悟って逃げ出した。
逃げる韓信の背を、章邯は馬を走らせ追いかける。
そのとき。
「章邯様! お待ちください!」
と、背後から呼び止める声が聞こえてきた。
楚将の季良・季恒が、3千騎を従えて追ってきたのだ。
この2人、彭城の項羽の元から援軍として送られてきた大将たちである。
季良と季恒は、章邯のそばまで駆けてきて、口々に章邯を諌めた。
「韓信は、負けたフリをして、我らを誘い込もうとしてるのではないでしょうか?
軽々しく深入りすべきではないと思いますが」
章邯は大笑いした。
「伏兵でもあるというのか?
むしろ好都合! わしはな、漢の兵が全員攻めてきてほしいと願っているのだ。そうすれば、このわしが1人残らず殺し尽くしてくれるわ!
さあ、御辺ら2人も力をふるって攻めかかりたまえ!」
そこへ、前方から兵卒が来て報告した。
「韓信は、あんまり慌てて逃げたので、谷川の中へ転げ落ちてしまいました。
夏侯嬰たちが救出しようとしていますが、まだ救い出せていないようです。
すぐに追いかければ、まとめて生け捕りにできましょう」
章邯は、これを聞いて感嘆の声をあげる。
「おおぉ……! 股潜り男め、もうすぐ殺してやるぞ。
よし! 進めや、者どもっ!」
章邯は部下に鋭く下知して、逃げる漢軍の後を追い、川を越え、林を貫き、前へ前へと突き進んだ。
やがて狭い谷の中に入り込んだが、左右の山際には樹木ばかりが生い茂っていて、敵の姿などまるで見えない。
おりしも時刻は日暮れごろ。
章邯は、
「何かおかしい……」
と、迷い始めた。
「全軍、いったん止まれ!」
章邯は部下に停止を命じたが、これが良くなかった。
後ろからは、次々に大軍が追いかけてきているのだ。
前の連中がいきなり立ち止まったために、隊列が乱れてごったがえし、楚軍は大渋滞を引き起こしてしまった。
これでは身動きがとれない。
と……
そのときである。
山の上から鉄砲の炸裂音が木霊して、突如、章邯の四方で火の手が上がり、天まで焦がすほどに燃え上がった。
(つづく)