龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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巻七 張良再び
三十八の上 韓信 対 章邯


 

 

 三秦(さんしん)の一つ、(よう)(みやこ)廃丘に、散関からの早馬が駆け込んできた。

「漢の大軍が、とつぜん散関を攻めてきました! 至急、救援の軍勢をお送りください!」

 

 (よう)章邯(しょうかん)は、この報を聞いて驚愕(きょうがく)した。

「バカな!

 まだ桟道(さんどう)は完成していないのだぞ。漢の兵が出てくることなど不可能のはずだ!

 

 ……いや、そんなことを言っている場合ではないな。

 現に散関が攻められているのだ。(こと)は急を要する。

 司馬(しば)(きん)董翳(とうえい)にも連絡せねば!」

 

 三秦(さんしん)王の他2人……

 櫟陽(れきよう)(みやこ)する(さい)司馬(しば)(きん)

 そして高奴(こうど)(みやこ)する(てき)董翳(とうえい)

 いずれも、(しん)に仕えていた頃から一緒に戦ってきた、章邯(しょうかん)の腹心である。

 

 章邯(しょうかん)は、彼らに送る早馬を手配しつつ、手下の大将(りょ)馬通(ばとう)・孫安らと慌ただしく出陣準備に取りかかった。

 

 と、そこへ、章邯(しょうかん)の弟の章平が、たった一人で転がり込んできた。

 章平は散関を守る大将。

 それが、耳を切り落とされた痛々しい姿で兄章邯(しょうかん)の前へ来るや、涙を流して地に頭を付け、声を上げて号泣するのである。

 

 このただならぬありさまを見て、章邯(しょうかん)は色を失った。

「まさか、もう散関が落とされたというのか……!

 漢軍は、一体どうやって桟道(さんどう)を越えたのだ!?」

 

 章平は、むせび泣きながら、つぶさに語った。

 漢の大将周勃(しゅうぼつ)陳武(ちんぶ)が投降を(よそお)って潜入してきたこと。

 韓信が陳倉(ちんそう)(どう)から襲来したこと。

 そして内外で呼応して、たちまち散関を攻め取ってしまったこと……

 

 話を聞いた章邯(しょうかん)は、痛恨の思いで首を振った。

范増(はんぞう)亜父(あふ)が、たびたび覇王様を(いさ)めていたものだ。

 『韓信は、まだ機会を得ていないのだ。もし重用する人物が現れたら、必ず()にとって大きな(うれい)を為すだろう』と……

 しかし覇王様は、その諌言(かんげん)を用いようとは、なさらなかった。

 

 それが今、こんな結果になろうとは!

 

 章平よ、お前はゆっくり休め。傷の治療に専念するのだぞ。

 お前の(うら)みは、この(よう)章邯(しょうかん)(すす)いでくれる!

 

 許さぬぞ、(また)(くぐ)り男、韓信!

 わしが必ず誅殺(ちゅうさつ)してやる!」

 

 しかし、章邯(しょうかん)配下の大将たちは、口々に章邯(しょうかん)を制止した。

「韓信は、詭道(きどう)(人を(だま)す手口)を用いる男です。軽々しく戦いを挑むべきではないと思いますが」

 

 だが章邯(しょうかん)は、その言葉に耳を貸そうとしない。

「この章邯(しょうかん)戦場(いくさば)において兵を用いること三十余年。

 (また)(くぐ)り男、なんぞ恐るるに()らん!」

 

 

   *

 

 

 一方、こちらは漢軍、夏侯嬰(かこうえい)が指揮する先鋒部隊。

 夏侯嬰(かこうえい)は、廃丘から50里のところまで来ると、用心してひとまず部隊を停止させた。

 そうして章邯(しょうかん)を待ち構えていたところへ、後ろから韓信が兵を率いて追いついてきた。

 

 韓信が、夏侯嬰(かこうえい)のそばにやってきて、低くささやく。

夏侯嬰(かこうえい)殿。次の相手は章邯(しょうかん)ですが」

「ええ。章平のように簡単には、いかんでしょうなあ」

 

「同感です。

 章邯(しょうかん)(しん)の名将だ。正面から力でぶつかり合うのは得策ではない。

 ここは計略を用いて章邯(しょうかん)(とりこ)にしてやりましょう。

 貴公は明日、章邯(しょうかん)に戦いを挑んで、こういうふうにしたまえ……」

 

 韓信は、ひそひそと耳打ちして、夏侯嬰(かこうえい)に計略を伝えた。

 

 そして、次の日。

 夏侯嬰(かこうえい)は、兵を引き連れて廃丘へと押し寄せていった。

 すると、その道の途中で、章邯(しょうかん)の軍勢と出くわした。

 

 一触即発の張りつめた空気の中、にらみあう両軍。

 章邯(しょうかん)が、夏侯嬰(かこうえい)に向けて声をはりあげる。

「漢王劉邦は、せっかく漢中に(ほう)ぜられたのだから、その(ぶん)を守っておればよいものを!

 どういうつもりで(また)(くぐ)り男ごときにそそのかされて、国境を(おか)してきおったのか!

 早々(そうそう)に漢中へ帰るがいい! でなければ、一人も生き残れぬぞ!」

 

 この挑発に対して、夏侯嬰(かこうえい)は大笑い。

「義帝は、『先に関中へ入った者を王とする』と約束なさったのだ!

 我が漢王様は、刃を血に()らすことなく、(しん)子嬰(しえい)を降伏させて、関中を平定なさった! ゆえに天下の(あるじ)となって当然だったのだ!

 

 それなのに、項羽は暴力にまかせて約束を破り、自分が王になったばかりか、義帝を弑逆(しいぎゃく)した!

 この大逆(たいぎゃく)無道に、天下の万民みな牙を噛んでいる!(悔しさで歯を食いしばっている)

 

 だから今、我々は仁義の軍を出して、無道を討伐(とうばつ)しようとしているのだ。

 汝こそ、いさぎよく首を洗って我らの刀を受け入れるべきなのに、陣の前に出てきて舌を動かすとは、なにごとだ!」

 

 章邯(しょうかん)は激怒した。

 章邯(しょうかん)とて百戦錬磨の名将である。普段の彼なら、もう少し冷静に戦えたかもしれない。

 だが、今の章邯(しょうかん)は頭に血がのぼっていた。耳を切り落とされた弟、章平の、みじめで痛々しい姿が目に焼き付いて離れなかったのである。

 

 章邯(しょうかん)は怒声を発して馬を走らせ、槍をひねって夏侯嬰(かこうえい)へと突き込んだ。

 

 対する夏侯嬰(かこうえい)、刀を舞わせて10合あまり戦ったが、さすがに章邯(しょうかん)は強い。

「くっ」

 と夏侯嬰(かこうえい)は顔面に焦りの色を浮かべ、馬を返して逃げ出した。

 

「逃がすな! 追えっ!」

 章邯(しょうかん)が、()兵を駆って追いかける。

 

 夏侯嬰(かこうえい)は、近くの山へ向けて逃げ走り、丘の上に駆け上ったところで馬を止めた。

 そして章邯(しょうかん)の方を振り返り、大声で呼びかける。

章邯(しょうかん)! 再び私と(こころよ)く勝負せよ!」

 

 章邯(しょうかん)は、嘲笑(あざわら)って叫び返した。

夏侯嬰(かこうえい)、汝は今わしに負けたところではないか!

 負け犬の分際(ぶんざい)で『勝負』だと? とんだお笑い(ぐさ)だ!」

 

 夏侯嬰(かこうえい)が、笑い返す。

「怖いのか、章邯(しょうかん)

 無理もない。汝はもう年老いて、体は骨と皮ばかりだ。そんな(おとろ)えた体では、私に(かな)うわけがないからな!」

 

 章邯(しょうかん)のまぶたが、ピクッ、ピクッ、と痙攣(けいれん)した。

「なん……だとォッ……! 誰が年寄りだ!」

 

 章邯(しょうかん)は、いよいよ怒って馬を突進させた。

 矢のように夏侯嬰(かこうえい)に駆け寄って、槍を突き出す。

 夏侯嬰(かこうえい)は、また10合ほど戦って、今度は松林の小道を目指して逃げ出した。

 

 その後を、すぐさま章邯(しょうかん)が追いかける。

 

 章邯(しょうかん)が松林の中へ駆けこんだその時、馬煙(うまけむり)をあげて、韓信が打って出た。

 韓信は、夏侯嬰(かこうえい)と交替するように章邯(しょうかん)の前へ出ると、声をはりあげ呼びかけた。

「ここで貴様を待っていたぞ、章邯(しょうかん)!」

 

 章邯(しょうかん)は笑う。

「ほう? わざわざ首を落とすために待っていてくれたのか、(また)(くぐ)り男よ!」

 

 章邯(しょうかん)は、槍をひねって襲いかかった。

 韓信も(げき)を振るって応戦したが、いかんせん、相手が悪い。

 武器を打ち合わせての戦いでは勝負にもならず、韓信は、ほんの5、6合ほど打ち合っただけで不利を悟って逃げ出した。

 

 逃げる韓信の背を、章邯(しょうかん)は馬を走らせ追いかける。

 

 そのとき。

章邯(しょうかん)様! お待ちください!」

 と、背後から呼び止める声が聞こえてきた。

 ()将の季良(きりょう)季恒(きこう)が、3千騎を従えて追ってきたのだ。

 この2人、彭城(ほうじょう)の項羽の元から援軍として送られてきた大将たちである。

 

 季良(きりょう)季恒(きこう)は、章邯(しょうかん)のそばまで駆けてきて、口々に章邯(しょうかん)(いさ)めた。

「韓信は、負けたフリをして、我らを誘い込もうとしてるのではないでしょうか?

 軽々しく深入りすべきではないと思いますが」

 

 章邯(しょうかん)は大笑いした。

「伏兵でもあるというのか?

 むしろ好都合! わしはな、漢の兵が全員攻めてきてほしいと願っているのだ。そうすれば、このわしが1人残らず殺し尽くしてくれるわ!

 さあ、御辺(ごへん)ら2人も力をふるって攻めかかりたまえ!」

 

 そこへ、前方から兵卒が来て報告した。

「韓信は、あんまり慌てて逃げたので、谷川の中へ転げ落ちてしまいました。

 夏侯嬰(かこうえい)たちが救出しようとしていますが、まだ救い出せていないようです。

 すぐに追いかければ、まとめて生け捕りにできましょう」

 

 章邯(しょうかん)は、これを聞いて感嘆の声をあげる。

「おおぉ……! (また)(くぐ)り男め、もうすぐ殺してやるぞ。

 よし! 進めや、者どもっ!」

 

 章邯(しょうかん)は部下に鋭く下知(げち)して、逃げる漢軍の後を追い、川を越え、林を貫き、前へ前へと突き進んだ。

 やがて狭い谷の中に入り込んだが、左右の山際には樹木ばかりが()(しげ)っていて、敵の姿などまるで見えない。

 

 おりしも時刻は日暮れごろ。

 章邯(しょうかん)は、

「何かおかしい……」

 と、迷い始めた。

 

「全軍、いったん止まれ!」

 章邯(しょうかん)は部下に停止を(めい)じたが、これが良くなかった。

 後ろからは、次々に大軍が追いかけてきているのだ。

 前の連中がいきなり立ち止まったために、隊列が乱れてごったがえし、()軍は大渋滞を引き起こしてしまった。

 これでは身動きがとれない。

 

 と……

 そのときである。

 

 山の上から鉄砲の炸裂音が木霊(こだま)して、突如、章邯(しょうかん)の四方で火の手が上がり、天まで焦がすほどに燃え上がった。

 

 

(つづく)




●注釈
(1)
 章邯(しょうかん)の手下として、(りょ)馬通(ばとう)という人物が登場した。「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」では『(りょ)馬通(ばとう)』だが、「史記・項羽本紀」での表記は『(りょ)馬童(ばどう)』である。
 この人物、項羽とは古い友人同士であるらしい。それ以外に目立った特徴はなく、大きな活躍もしないのだが、物語の終盤、巻十二において一度だけ極めて重要な役割を果たすことになる。

(2)
 ()軍の季良(きりょう)という人物が登場している。第三十四回で、項羽の元から援軍として送られてきた将である。
 筆者の調べた限りでは史書に季良(きりょう)という名前は見あたらなかったが、漢字のよく似た李良(りりょう)という人物は存在する。元は(しん)の身分ある臣であったが、陳勝(ちんしょう)・呉広の乱のとき反乱軍に味方した。しかし後に反乱軍をも裏切って(しん)に舞い戻り、章邯(しょうかん)の配下となった人物である。
 「西漢通俗演義」や「通俗漢楚軍談」に登場する季良(きりょう)は、この李良(りりょう)をモデルとしているのかもしれない。あるいは李良(りりょう)のつもりで漢字を間違えたとも考えられる。いずれにせよ、本作では季良(きりょう)の名で統一することにした。
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