龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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三十八の中 韓信 対 章邯

 

 

「火だと!? ……しまった!」

 などと後悔しても、もう遅い。

 ()軍は狭い谷の中に閉じ込められた形。前には山、後ろは自軍の軍勢が大渋滞。火から逃げようにも身動きが取れない。

 

 ()軍の人馬が、上へ、下へ、我先にと逃げ出したので、転んで味方に踏み殺される者が数知れず。

 さらに、狭い谷の入口に()軍が殺到したところへ、漢軍が火把(かは)(たいまつ)を投げ込んだから、たまらない。

 雨のように降り注ぐ火に、草木も人も逃げ場を失い、(かた)(ぱし)から焼き尽くされていく。

 

 章邯(しょうかん)は青ざめた。

「まずい……どうすればいい!?」

 

 そこへ、季良(きりょう)季恒(きこう)が走ってきた。

章邯(しょうかん)様!

 この山の横手に細道があるのです! 馬を捨てれば通れます! そこから鳳嶺(ほうれい)に出ましょう!」

 

「それしかないか」

 章邯(しょうかん)たち3人は、馬を乗り捨て、岩をよじ登って細道を進み、走りに走って、どうにかこうにか火炎地獄から(のが)れ出た。

 

 やっとの思いで鳳嶺(ほうれい)まで逃げてきて、章邯(しょうかん)たちは、ぜいぜいと肩で息しながら座りこんだ。

 

 が……そのわずかな休息さえ、漢軍は許してくれなかった。

 山の下で漢軍の(とき)の声が湧きおこり、しかも、火炎がますます広がって、山すべてを焼き尽くす勢いで燃え盛りだしたのだ。

 

 章邯(しょうかん)は額にビッシリと脂汗を浮かべ、満山(まんざん)の炎を見下ろした。

「ダメだ……ここに留まっていては危険だ。

 わしら3人は、馬を捨ててしまった。敵に見つかったら逃げ切れん。

 一刻も早く味方の陣へ帰還せねば」

 

 季良(きりょう)が言う。

「しかし、どちらへ逃げればよいものやら……」

 

 季恒(きこう)が、遥か彼方を指さした。

「ごらんください、あちらに(あか)りが見えます! きっと人家があるのでしょう」

 

 というわけで、章邯(しょうかん)たちは(あか)りを目指して歩きだした。

 

 

   *

 

 

 章邯(しょうかん)たち3人は遠い(あか)りを目印に、夜の暗闇の(とうげ)(みち)を一歩一歩(くだ)っていった。

 そうして行きついた先は、大きな宿場町だった。立ち並ぶ人家の数は、ざっと300軒ほど。

 泊るところを探したかったが、もう時刻は深夜。どこの家も門戸(もんこ)を閉ざし、寝静まっている。

 

 運よく、里の横の丘に古い(やしろ)が見つかったので、章邯(しょうかん)たちは、その(やしろ)に入って夜を明かすことにした。

 

 (やしろ)で静かに目を閉じて、疲れ果てた身体を休めていると……

 遠くから、人や馬の声が聞こえてきた。

 

「敵か……?」

 章邯(しょうかん)たちは、じっと息を殺し、扉の隙間から外をのぞき見た。

 

 耳を澄ましてみると、話し声が、かすかに聞こえてくる……

 どうやら()(なま)りのようである。

 

「敵は、谷の入口に火をかけたんだ。あれじゃあ身動きが取れない」

(よう)王様は、あの大混乱の中で()()になさったんじゃないだろうか……」

 

「味方だ!」

 と悟った季良(きりょう)は、(やしろ)から飛び出ていった。

 見れば、火把(かは)を持った兵の一団がこちらへ近づいてきていて、その先頭に、()の大将(りょ)馬通(ばとう)の姿がある。

 

 季良(きりょう)が叫んだ。

「おーい! (りょ)馬通(ばとう)殿! こっちだ!

 (よう)王様は、ここにおられる!」

 

 (りょ)馬通(ばとう)が、声に気づき、すぐさま下馬(げば)して駆けてきた。

「おお! よかった、ご無事でしたか」

 

 章邯(しょうかん)は、心底ホッとした様子で、頬を緩めた。

(りょ)馬通(ばとう)、どうしてここへ?」

 

 (りょ)馬通(ばとう)が言う。

(よう)王様が、勝ちの勢いに乗って漢勢を追撃なさったのを見て、章平殿が言ったのです。

 『韓信は、人を(だま)す計略を多用する奴だ。おそらく兄上は痛手をこうむるだろう。貴公が一軍を連れて行き、兄上を救出してくれ』と。

 

 ゆえに、それがしが千騎ほどを率いて出てきたのです。

 しかし、その途中で前方に火が起きたのを見まして。

 逃げのびてきた兵の口から、(よう)王様が火の中にいるらしいと聞き、谷に入ってお助けしようとしたのですが、火に(はば)まれて中に入れず……

 

 いったん西南に抜け、別の道から迂回(うかい)して(よう)王様を探しに参ったのです。

 しかし、いっこうに足取りがつかめず、途方(とほう)に暮れておりました。ここで落ち合えたのは、本当に幸運でした!」

 

 章邯(しょうかん)は、大喜びだった。

「まったくだ。(りょ)馬通(ばとう)、よく来てくれた。九死に一生を得たぞ!

 ところで、昨日から何も食べていないのだ」

 

 (りょ)馬通(ばとう)は、うなずいた。

「はっ。すぐ部下に準備させます」

 

 (りょ)馬通(ばとう)(めい)で兵士たちが食事の支度(したく)をし、それを(むさぼ)り食っているうちに、空も(しら)みはじめた。

 章邯(しょうかん)たちは(りょ)馬通(ばとう)の部隊に護衛され、ようやく(みやこ)廃丘へ帰還したのだった。

 

 

   *

 

 

 廃丘で章平や孫安の部隊とも合流し、どうにか一息つくことができたのだが……

 

 被害の程度を調べようと兵を点検してみれば、生き残った手勢は2千騎あまり。

 そのわずかな生き残りさえ、(ひたい)を焦がし、手足を火傷(やけど)(ただ)れさせた者ばかりで、無傷の兵は皆無(かいむ)に近い。

 

 章邯(しょうかん)は、後悔した。

 悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。

 あまりにも痛烈すぎる惨敗(ざんぱい)であった。

 

 だが、過ぎたことは今さらどうしようもない。

 それよりも、ここからどう立て直すかを考えねばならない。

 

 章邯(しょうかん)は気力を振り絞り、大将たちに命令を飛ばした。

「まず、門を固く閉ざせ!

 敗北直後の今、すぐに戦うのは無理だ。数日、兵を休息させてから敵に当たる。

 

 それから、櫟陽(れきよう)高奴(こうど)に早馬を飛ばせ!

 司馬(しば)(きん)董翳(とうえい)に援軍を求めるのだ」

 

 だが、その言葉を言い終わらないうちに、見張りの兵が慌てて飛び込んできた。

「漢軍が来ました! 韓信の軍勢が、この城を包囲しました!」

 

 章邯(しょうかん)は、眉間(みけん)に深く(しわ)を寄せる。

「チッ……早くも来たか。

 漢軍は、どんな様子だ? もう攻撃は始まったか?」

 

「いえ、それが、その……」

 

 

   *

 

 

 見張りの兵が言いよどんだのも無理はない。

 韓信率いる漢の大軍は、(うしお)の如く押し寄せたかと思うと、攻撃を仕掛けるでもなしに、章邯(しょうかん)を侮辱しはじめたのである。

 

 何十万もの軍勢がそろいもそろって、とてもここには記せないような汚い罵倒(ばとう)の言葉を口々に投げかけてくる。

 幼稚(ようち)かつ下品な悪口の大合唱は、さながら塵芥(じんかい)が集まってできた川のように、章邯(しょうかん)の耳に流れ込んできた。

 

 さらに、言葉での侮辱だけでは飽きたらず、漢軍は城の前に武具一式を持ってきた。

 ()兵の誰もが、その武具をよく見知っていた。それもそのはず……昨夜、逃げるために打ち捨ててしまった章邯(しょうかん)愛用の武具なのである。

 

「おい、章邯(しょうかん)は弱いなあ! 武具まで捨てて逃げるなんてな!

 ここまで取り返しに来てみろよ! できないだろう? 臆病者ーっ!」

 

 城内の章邯(しょうかん)は、

「ゥオァーッ!」

 激怒して絶叫し、壁に(こぶし)を叩きつけた。

 

「おのれ……おのれェーッ!

 わしは(しん)の将となって連戦連勝、六国の反乱を武威で(しず)めた男だぞ!

 わしを恐れぬ者など、この世に一人もいないのだッ!

 

 しかも、今や王爵(おうしゃく)(くらい)にあって三秦(さんしん)を守るこのわしだ!

 それが一介(いっかい)(また)(くぐ)り野郎ごときにこうも(はずかし)められながら、城の中に閉じこもることしかできんとは!」

 

 章邯(しょうかん)は怒りに任せ、ツバを散らして(めい)じた。

「門を開け! 打って出る! あの(また)(くぐ)りと雌雄を決してくれようぞ!」

 

 季良(きりょう)をはじめ、()の諸将は、口をそろえて章邯(しょうかん)(いさ)めた。

「いけません!

 あれは、どう見ても韓信の策略です。(よう)王様を(いか)らせ、打って出るのを待つ計です。

 今はただ固く守って人馬を休ませ、救援が来るのを待ってから一斉に攻撃を仕掛けるしか道はありません!」

 

 章邯(しょうかん)は、牙を噛んで立ち尽くした。

 まだ怒りは収まらない。だが軽々しく動くべきではないという理屈も分かる。

 1人の男としての激情と、歴戦の将としての理性が、章邯(しょうかん)の中で激しく衝突しているのだ。

 

 その間も、城外の騒ぎは続いている。

 挑発のために投げ込まれた鉄砲が絶えず鳴り響き、罵倒(ばとう)の大合唱が途切れることなく飛び込んでくる……

 

 そこへ、見張りの兵が、さらなる報告を持ってきた。

「漢軍は、我々が出陣しないことを(あざけ)り、臆病者と言っています。

 完全に我々をバカにして、馬から下りて地面で眠る者や、鎧を脱いで()(ぱだか)になる者までおります」

 

 章邯(しょうかん)は、この報告に眉を動かした。

「なに、裸だと」

 

 章邯(しょうかん)は、他の将たちとともに、城壁の(ろう)に登って外の様子を見た。

 たしかに、城壁の下では、漢軍の兵士たちが、まるで敵などいないかのようにだらけきった姿でたむろし、悪口を言い立てている。

 

 章邯(しょうかん)は、大将たちに言った。

「あれはもう2年前になるか……

 定陶(ていとう)の戦いのとき、武信君(ぶしんくん)項梁(こうりょう)(項羽の叔父(おじ))の軍勢は、わしの前で(おご)り、だらけた姿を(さら)した。

 

 その(すき)をつくことで、わしは項梁(こうりょう)()ったのだ。

 今の漢軍の様子は、あの時の()軍にそっくりではないか」

(第七回参照)

 

 季良(きりょう)が、慎重に、うなずく。

「確かに、韓信の兵たちは、警戒を(おこた)り、だらけきって、戦闘に備えていないように見えます。

 これは兵法が最も()むところ。今夜、夜襲を仕掛けて撃滅(げきめつ)してはいかがでしょうか?」

 

 孫安が進み出た。

「いやいや、韓信は(いつわ)りの計略を用いる男です。これも我々を(あざむ)く策なのかもしれません。

 敵を(あなど)って、うかつに夜襲を仕掛けたら、逆に敵の計略に(おちい)ると思います」

 

 2将がそれぞれ異なる意見を出したが、章邯(しょうかん)季良(きりょう)の方に同意した。

「昨日は、わしが、あまりにも勝ちすぎてしまったために、うっかり奴の計略にハマってしまったのだ。別に韓信の能力が(すぐ)れていたせいではない。

 あの漢軍の情けない姿を見れば、韓信の統率力はもう明らかだ。奴は軍の規律を正すことなど、できない男なのだ。疑う余地はない!」

 

 そこで章邯(しょうかん)は、諸将の配置を決め、手早く指示を飛ばした。

「今夜、漢の陣を(おど)かしてやるぞ!

 季良(きりょう)季恒(きこう)は、3千余騎で北門から出撃し、漢軍の左翼に攻めかかれ。

 (りょ)馬通(ばとう)、孫安の2人は、同じく3千余騎で南門から出て、漢軍の右翼を叩くのだ。

 

 わしは、1万騎を連れて西門から出撃し、漢の中軍を粉砕する。

 

 章平、お前は耳の傷が、まだ治っていないだろう。

 無理はせず、ここに留まって城を守っておれ」

 

 かくして章邯(しょうかん)たちは、夜襲の準備を整えながら、日が暮れるのを待った。

 

 

(つづく)

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