「火だと!? ……しまった!」
などと後悔しても、もう遅い。
楚軍は狭い谷の中に閉じ込められた形。前には山、後ろは自軍の軍勢が大渋滞。火から逃げようにも身動きが取れない。
楚軍の人馬が、上へ、下へ、我先にと逃げ出したので、転んで味方に踏み殺される者が数知れず。
さらに、狭い谷の入口に楚軍が殺到したところへ、漢軍が火把(たいまつ)を投げ込んだから、たまらない。
雨のように降り注ぐ火に、草木も人も逃げ場を失い、片っ端から焼き尽くされていく。
章邯は青ざめた。
「まずい……どうすればいい!?」
そこへ、季良・季恒が走ってきた。
「章邯様!
この山の横手に細道があるのです! 馬を捨てれば通れます! そこから鳳嶺に出ましょう!」
「それしかないか」
章邯たち3人は、馬を乗り捨て、岩をよじ登って細道を進み、走りに走って、どうにかこうにか火炎地獄から逃れ出た。
やっとの思いで鳳嶺まで逃げてきて、章邯たちは、ぜいぜいと肩で息しながら座りこんだ。
が……そのわずかな休息さえ、漢軍は許してくれなかった。
山の下で漢軍の鬨の声が湧きおこり、しかも、火炎がますます広がって、山すべてを焼き尽くす勢いで燃え盛りだしたのだ。
章邯は額にビッシリと脂汗を浮かべ、満山の炎を見下ろした。
「ダメだ……ここに留まっていては危険だ。
わしら3人は、馬を捨ててしまった。敵に見つかったら逃げ切れん。
一刻も早く味方の陣へ帰還せねば」
季良が言う。
「しかし、どちらへ逃げればよいものやら……」
季恒が、遥か彼方を指さした。
「ごらんください、あちらに灯りが見えます! きっと人家があるのでしょう」
というわけで、章邯たちは灯りを目指して歩きだした。
*
章邯たち3人は遠い灯りを目印に、夜の暗闇の峠道を一歩一歩下っていった。
そうして行きついた先は、大きな宿場町だった。立ち並ぶ人家の数は、ざっと300軒ほど。
泊るところを探したかったが、もう時刻は深夜。どこの家も門戸を閉ざし、寝静まっている。
運よく、里の横の丘に古い社が見つかったので、章邯たちは、その社に入って夜を明かすことにした。
社で静かに目を閉じて、疲れ果てた身体を休めていると……
遠くから、人や馬の声が聞こえてきた。
「敵か……?」
章邯たちは、じっと息を殺し、扉の隙間から外をのぞき見た。
耳を澄ましてみると、話し声が、かすかに聞こえてくる……
どうやら楚訛りのようである。
「敵は、谷の入口に火をかけたんだ。あれじゃあ身動きが取れない」
「雍王様は、あの大混乱の中で討ち死になさったんじゃないだろうか……」
「味方だ!」
と悟った季良は、社から飛び出ていった。
見れば、火把を持った兵の一団がこちらへ近づいてきていて、その先頭に、楚の大将呂馬通の姿がある。
季良が叫んだ。
「おーい! 呂馬通殿! こっちだ!
雍王様は、ここにおられる!」
呂馬通が、声に気づき、すぐさま下馬して駆けてきた。
「おお! よかった、ご無事でしたか」
章邯は、心底ホッとした様子で、頬を緩めた。
「呂馬通、どうしてここへ?」
呂馬通が言う。
「雍王様が、勝ちの勢いに乗って漢勢を追撃なさったのを見て、章平殿が言ったのです。
『韓信は、人を騙す計略を多用する奴だ。おそらく兄上は痛手をこうむるだろう。貴公が一軍を連れて行き、兄上を救出してくれ』と。
ゆえに、それがしが千騎ほどを率いて出てきたのです。
しかし、その途中で前方に火が起きたのを見まして。
逃げのびてきた兵の口から、雍王様が火の中にいるらしいと聞き、谷に入ってお助けしようとしたのですが、火に阻まれて中に入れず……
いったん西南に抜け、別の道から迂回して雍王様を探しに参ったのです。
しかし、いっこうに足取りがつかめず、途方に暮れておりました。ここで落ち合えたのは、本当に幸運でした!」
章邯は、大喜びだった。
「まったくだ。呂馬通、よく来てくれた。九死に一生を得たぞ!
ところで、昨日から何も食べていないのだ」
呂馬通は、うなずいた。
「はっ。すぐ部下に準備させます」
呂馬通の命で兵士たちが食事の支度をし、それを貪り食っているうちに、空も白みはじめた。
章邯たちは呂馬通の部隊に護衛され、ようやく都廃丘へ帰還したのだった。
*
廃丘で章平や孫安の部隊とも合流し、どうにか一息つくことができたのだが……
被害の程度を調べようと兵を点検してみれば、生き残った手勢は2千騎あまり。
そのわずかな生き残りさえ、額を焦がし、手足を火傷で爛れさせた者ばかりで、無傷の兵は皆無に近い。
章邯は、後悔した。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれなかった。
あまりにも痛烈すぎる惨敗であった。
だが、過ぎたことは今さらどうしようもない。
それよりも、ここからどう立て直すかを考えねばならない。
章邯は気力を振り絞り、大将たちに命令を飛ばした。
「まず、門を固く閉ざせ!
敗北直後の今、すぐに戦うのは無理だ。数日、兵を休息させてから敵に当たる。
それから、櫟陽と高奴に早馬を飛ばせ!
司馬欣・董翳に援軍を求めるのだ」
だが、その言葉を言い終わらないうちに、見張りの兵が慌てて飛び込んできた。
「漢軍が来ました! 韓信の軍勢が、この城を包囲しました!」
章邯は、眉間に深く皺を寄せる。
「チッ……早くも来たか。
漢軍は、どんな様子だ? もう攻撃は始まったか?」
「いえ、それが、その……」
*
見張りの兵が言いよどんだのも無理はない。
韓信率いる漢の大軍は、潮の如く押し寄せたかと思うと、攻撃を仕掛けるでもなしに、章邯を侮辱しはじめたのである。
何十万もの軍勢がそろいもそろって、とてもここには記せないような汚い罵倒の言葉を口々に投げかけてくる。
幼稚かつ下品な悪口の大合唱は、さながら塵芥が集まってできた川のように、章邯の耳に流れ込んできた。
さらに、言葉での侮辱だけでは飽きたらず、漢軍は城の前に武具一式を持ってきた。
楚兵の誰もが、その武具をよく見知っていた。それもそのはず……昨夜、逃げるために打ち捨ててしまった章邯愛用の武具なのである。
「おい、章邯は弱いなあ! 武具まで捨てて逃げるなんてな!
ここまで取り返しに来てみろよ! できないだろう? 臆病者ーっ!」
城内の章邯は、
「ゥオァーッ!」
激怒して絶叫し、壁に拳を叩きつけた。
「おのれ……おのれェーッ!
わしは秦の将となって連戦連勝、六国の反乱を武威で鎮めた男だぞ!
わしを恐れぬ者など、この世に一人もいないのだッ!
しかも、今や王爵の位にあって三秦を守るこのわしだ!
それが一介の股潜り野郎ごときにこうも辱められながら、城の中に閉じこもることしかできんとは!」
章邯は怒りに任せ、ツバを散らして命じた。
「門を開け! 打って出る! あの股潜りと雌雄を決してくれようぞ!」
季良をはじめ、楚の諸将は、口をそろえて章邯を諌めた。
「いけません!
あれは、どう見ても韓信の策略です。雍王様を怒らせ、打って出るのを待つ計です。
今はただ固く守って人馬を休ませ、救援が来るのを待ってから一斉に攻撃を仕掛けるしか道はありません!」
章邯は、牙を噛んで立ち尽くした。
まだ怒りは収まらない。だが軽々しく動くべきではないという理屈も分かる。
1人の男としての激情と、歴戦の将としての理性が、章邯の中で激しく衝突しているのだ。
その間も、城外の騒ぎは続いている。
挑発のために投げ込まれた鉄砲が絶えず鳴り響き、罵倒の大合唱が途切れることなく飛び込んでくる……
そこへ、見張りの兵が、さらなる報告を持ってきた。
「漢軍は、我々が出陣しないことを嘲り、臆病者と言っています。
完全に我々をバカにして、馬から下りて地面で眠る者や、鎧を脱いで素っ裸になる者までおります」
章邯は、この報告に眉を動かした。
「なに、裸だと」
章邯は、他の将たちとともに、城壁の楼に登って外の様子を見た。
たしかに、城壁の下では、漢軍の兵士たちが、まるで敵などいないかのようにだらけきった姿でたむろし、悪口を言い立てている。
章邯は、大将たちに言った。
「あれはもう2年前になるか……
定陶の戦いのとき、武信君項梁(項羽の叔父)の軍勢は、わしの前で驕り、だらけた姿を晒した。
その隙をつくことで、わしは項梁を討ったのだ。
今の漢軍の様子は、あの時の楚軍にそっくりではないか」
(第七回参照)
季良が、慎重に、うなずく。
「確かに、韓信の兵たちは、警戒を怠り、だらけきって、戦闘に備えていないように見えます。
これは兵法が最も忌むところ。今夜、夜襲を仕掛けて撃滅してはいかがでしょうか?」
孫安が進み出た。
「いやいや、韓信は詐りの計略を用いる男です。これも我々を欺く策なのかもしれません。
敵を侮って、うかつに夜襲を仕掛けたら、逆に敵の計略に陥ると思います」
2将がそれぞれ異なる意見を出したが、章邯は季良の方に同意した。
「昨日は、わしが、あまりにも勝ちすぎてしまったために、うっかり奴の計略にハマってしまったのだ。別に韓信の能力が優れていたせいではない。
あの漢軍の情けない姿を見れば、韓信の統率力はもう明らかだ。奴は軍の規律を正すことなど、できない男なのだ。疑う余地はない!」
そこで章邯は、諸将の配置を決め、手早く指示を飛ばした。
「今夜、漢の陣を脅かしてやるぞ!
季良と季恒は、3千余騎で北門から出撃し、漢軍の左翼に攻めかかれ。
呂馬通、孫安の2人は、同じく3千余騎で南門から出て、漢軍の右翼を叩くのだ。
わしは、1万騎を連れて西門から出撃し、漢の中軍を粉砕する。
章平、お前は耳の傷が、まだ治っていないだろう。
無理はせず、ここに留まって城を守っておれ」
かくして章邯たちは、夜襲の準備を整えながら、日が暮れるのを待った。
(つづく)