【D.U.郊外・公園】
閑静な公園。柔らかな光の中、ひっそりと建つガゼボの中にサオリは座っていた。彼女とは久しく会えていなかったから、変わらないその姿を見ただけでほんのりと気持ちが温かくなる。
一方サオリもこちらに気づいたらしく、腰かけから立ち上がって
「先生、来てくれたのか。わざわざすまない」
"久しぶりだねサオリ。……サオリが頼ってくれて嬉しいよ"
懐かしくも
だからこそ私は、彼女に頼られることがとても嬉しかった。
「……? なんだその目は。……私の顔に何か付いているか?」
そう言って細くしなやかな指で自分の顔面をぺたぺたと触るサオリ。"そういうわけじゃないんだけどね"と伝えて、私はサオリの隣に座る。彼女は怪訝そうな表情をしながらも、しなやかに腰を下ろした。
「これを見てほしい」
そう言って、サオリは持っていた鞄の中から1枚の紙を取り出す。
"これが、例の契約書?"
私の質問に控えめながら頷くサオリ。その姿を横目に見つつ、先頭から文字を追っていく。
「……自分なりに考えて読んだつもりだったのだが。やはり社会とは厳しいな」
彼女は乾いたように呟く。ふ、と午後の風が私たちの側を吹き抜けて、契約書の端がカサカサとはためいた。
「どうだった? 先生」
おずおずと尋ねてくるサオリに、私は目を通し終えた書類を手渡す。
"……普通の契約書だよ"
「……なに?」
"業務内容も、勤務時間も、あと報酬の支払いについてもしっかり明記されてる。委託者の情報がちょっとだけ不透明なのが気になるけど……それ以外は至って普通の、どこにでもある契約書だよ"
サオリは騙されているわけではない。これは不当な搾取だ。───そう彼女に伝えると、ほっと溜息が漏れる音が聞こえた。
「よかった。……また先生に迷惑をかけてしまうんじゃないかと、不安だった」
"迷惑?"
「ああ。……私だって、いつまでも先生に頼りっぱなしでいるつもりはない。それなのに、いつまでも契約書が読めない、バイトもろくに出来ないでは、ただでさえ忙しい先生の時間を余計に奪ってしまうだろう? ……それが嫌だったんだ」
余程
私は少しだけサオリの近くに腰をずらし───強く握りしめられているその拳を、優しく両の手のひらで包んだ。
"頼っていいんだよ、サオリ"
「……先生ならそう言うだろうが───」
"サオリは私の生徒で、私はサオリの先生だ。……だからサオリは頼っていいし、私は頼られるべきなんだ。迷惑だなんて思わないよ"
「だが……」
"遠慮なく手を取って。───だって私は、サオリのことが好きだからね"
「!?」
突然サオリの手が勢いよく跳ね上がり、衝撃で少しのけぞる。彼女は顔をぷいっと向こうに背け、しばらく沈黙していた。
「……すまない。少々取り乱した」
"えっと……気に障ったならごめんね"
「謝る必要はない。なぜか鼓動が……早まったので、驚いただけだ」
サオリは朱に染まった頬をパタパタと仰ぎ、大きく息を吐く。その深呼吸が終わるのを待ってから、私は"念のため"と呟いた。
"一応聞くけど……仕事を疎かにしてたりとか、契約違反みたいな行動してたりとか、ないよね?"
「それはない。読んでもらって分かったと思うが、そこまで複雑な仕事でもなかったからな」
"だよね、ごめん。……会社に連絡とかしてみた?"
そう尋ねると、サオリは鞄からスマホを取り出し、小首を傾げながら画面の一点を見つめる。……いきなりフリーズしてしまった彼女に何と声を掛けたら良いものかと考えていると、突然サオリは合点がいったように拳で手のひらを打った。
「そうか……まず電話だったな。失念していた」
"え、電話してないの?"
「すまない。なぜだか先生への連絡が先だと思ってしまった」
"まずは支払い元に電話してみようね……"
……まったく、サオリの天然具合にはいつも驚かされる。丁度暖かな日光も小屋の中に差し込み、なんとなく気が抜けてしまった私は、スマホを耳に当てるサオリの端正な横顔をぼーっと眺めていた。
「すまない。バイトの錠前サオリだ。給料が未払いなんだが、早急に振り込みを───は?」
怪訝な声を上げるサオリ。前髪を乱暴にかき上げ、陶器のような眉間に皺が寄る。
「どういうことだ。契約書にはちゃんと……おい、私の話を聞け」
「一身上の都合って、何をふざけて───あっ! ……切られた」
"えーと……"
サオリは厳めしい表情のまま、大きなため息を吐いた。
「一身上の都合だから諦めてくれ、と。その一点張りだった……」
"……どういうこと?"
「さあな。聞こうとしたら切られてしまった」
サオリはスマホをカバンの中に放り投げると、帽子を被りなおして立ち上がった。
「先生、これから時間はあるか? 直接、会社まで行ってみよう」
"もちろん"
私たちは公園を後にし、大通りを歩いて行った。
◇◇◇◇◇
【D.U.郊外・オフィス地区】
「中でお祭りでもやっているのか?」
"多分違うと思うよ……"
ちらちらと摩天楼を見上げるサオリ。彼女の手を引っ張りながら中に入ると、エントランスには段ボール箱やら機材やらが積まれており、社員と思われるロボットたちがいそいそと動き回っていた。
「ふむ。なにぶん忙しそうだが、私も金が払われなければ明日にも飢え死にしてしまう身体だからな」
"待って、ものすごく物騒な単語が聞こえたんだけど!?"
何やらぶつぶつ呟きながらロボットに近づくサオリの腕を慌てて掴む。
「……?」
"……サオリ。最後に食事を摂ったのって、いつ?"
「確か───1週間ほど前だったか?」
"1週間って、えぇ……"
絶句する私を尻目に、サオリはグッと力強く親指を立てた。
「大丈夫だ。アリウススクワッドはどんな状況にも対応できるように特別な訓練を積んでいる。この程度の絶食、造作もないことだ」
"でも飢え死にって……"
「まあ……腹が空かないわけではないからな」
"ダメじゃん! ちゃんと食べようよ!"
「何を言っているんだ先生。そのために私たちはここにいるのだろう?」
"いやそういうことじゃなくてね……"
とりあえずサオリには、どんなに苦しくてもまずは食べることを最優先に考えるよう、口を酸っぱくして伝えた。
「すまない。先生……」
"謝らないで。これはサオリの状況に気づけなかった私の責任でもあるよ"
どうやらしばらく会わないうちに、サオリはとんでもない経済状況に陥っていたようだ。私はひっそりと、ポケットの中の大人のカードを握りしめる。
ぐぎゅる───。眼前の美女が腹で飼っている虫の鳴き声は、小さい音ながらもその存在感を十全に示した。
「と、とにかく! 誰かに聞いてみないことには始まらないな」
彼女は焦ったように、段ボールを抱えているロボットの肩を叩く。
「すまない。バイトの錠前サオリだ。給料の件なんだが───」
「ひっ、ひぃ! い、命だけはお助けをーっ!!」
液晶にバッテンを表示させ、ぴゅーんと音が聞こえてきそうな勢いで逃げていくロボット。サオリは首を傾げながら、うぅむと低い声で唸った。
「すまない、給料が───」
「も、もう来たぁっ! に、逃げろーっ!!」
「給料を───」
「うわあっ!?」
「お金……」
「どひゃーっ!!」
……そんなこんなで話しかけていたら、いつの間にかエントランスには人っ子一人いなくなっていた。
「ちっ、逃げ足の速いやつらめ……」
"でも、このままじゃ埒が明かないね"
打開策を考えていると、サオリはエレベーターを見つめて銃を握った。
「───強行突破だ」
"強行突破って……どこに?"
サオリは私の手首を掴み、エレベーターに乗る。……いてて、この子力強いな。
"ねえサオリ。いま向かってるのって……"
「? 社長室だが」
"しゃ、社長室!?"
素っ頓狂な声を上げた私に、サオリは怪訝な目を向ける。
「こういう時は
"いやそうかもしれないけどさ! なんというかこう、もうちょっと段階というか……!"
「……? 階段で昇れということか?」
"そうじゃなくてね⁉"
サオリに掴まれたままの手首が軽く痺れてきたところで、浮遊感を覚える。どうやら目的の階に到着してしまったらしい。扉が開くと、眼前にはビロード調で真紅のいかにもな廊下が広がっていた。
「降りるぞ先生」
"あいたた……ちゃんと着いてくから、一旦離して……"
す、すまない! という声と同時に、私の右手は束縛から解放される。私がぷらぷらと手首を振っていると、何やら今度は廊下の奥が騒がしくなってきた。
「先生、隠れるぞ!」
"!? か、隠れるって、ここには遮蔽物も何も……"
「そこに大きな花瓶があるだろう! そこでいい、滑り込め!」
サオリの鋭い視線の先には、立派な観葉植物が壺に生けられていた。サオリは綺麗なスライディングをしてぴったりと陰に身をひそめたが、毎日カップ麺生活でならしたこっちはそうもいかない。もたもたしていると、ぐいっとサオリに引っ張られて私はバランスを崩した。
「……ふぅ。何とか間に合ったな」
"サオリ、あの……"
「少しだけ我慢しろ。───あれはオートマタか?」
屈んだり身体を捻じったりして葉の隙間から敵を覗き見るサオリ。……だが、本当に失礼なことに私はいまそれどころではない。
───当たっているのだ。サオリのサオリが。
……そもそも私が滑り込んだ時点で、体勢にだいぶ無理があった。私はバランスを崩したまま無様に足を投げ出し、座ったサオリに頭をがっちり抱えられている。
つまり今、私の頭はサオリの胸と太ももに挟まれているのだ。
「よく見えないな。もう少しこちらへ近づいてくれればいいのだが……」
"(圧が……。重い、熱い……)"
突発的に動いた影響か。若干発汗して熱気を放っているサオリの身体に挟まれ続けて、私の思考はだんだんと靄がかかったようにぼやけてきた。爽やかながらもどことなく甘酸っぱいサオリの匂いに包まれながら、私は肉と肉の圧からどうにかして抜け出そうと身をよじる。
「う、動くな先生。は、鼻が変なところに……!」
"そうは言ったって、このままだと息が……っ"
小声でサオリと言い争っていると、オートマタたちの声が近づいてきた。
「───しかしここの会社もバカだよな。いきなり倒産だなんてよ」
「ああ。事業ミスって、いきなり経営難なんだろ? いったい何やらかしたらそうなるんだろうな」
「! ───おい先生、今の話を聞いたか?」
"呼吸が……でき……"
「そういやここ支社だって言うけど、本社はどこにあるんだろうな。案外トリニティとかの一等地だったりして」
「バカ言え、どうせゲヘナとかだろ。───ま、日雇いの俺たちには関係ないけどな!」
「日雇い……おそらく上役の逃走の護衛だろうな。そうと分かったら、社長がどこかへ行ってしまう前に早くしないと───先生?」
"う……が……むぐ"
まずい。窒息する。サオリが何か話しているが、彼女の肉圧と体温に潰されそうで声がまったく耳に入ってこない。なりふり構わず肩を動かし、酸素を求めて頭をグリグリと振りまくる。
"(───! ここだ!)"
「ふっっっぁん!?」
あっ……これ、聞いちゃダメな声。それを脳で理解した瞬間、私は彼女に突き飛ばされ、真っ赤な廊下にどてんと身体が投げ出される。
「せ、先生! いくら何でも触っていいところと悪いところが……!」
"で、でも仕方ないじゃん! 息が止まるところだったんだもん!"
「だからと言って、その……。ま、股の匂いを嗅がれるのは、流石に……!」
……どうやら私は、教師失格らしい。この一件が終わったらリンちゃんに辞表を出さなきゃ。わっはっは。
「!? 誰だそこにいるのは!」
"バレちゃった!"
「先生が変なことするからだろう!?」
「な、なんだこいつら、バカップルか……?」
駆け寄ってくる2体の
「ぐぁ……っ!?」
「し、侵入者……あがっ!」
もう一人が怯んだ隙に、サオリはヘッドショットを決める。頭部の液晶に浮かんでいた光が消え、彼女はふぅと短く息を吐きだした。
「……社長が逃げるまで時間がないかもしれない。急ぐぞ先生」
"う、うん"
改めてサオリの戦闘能力に舌を巻きつつ、私ものそのそと花瓶の陰から這い出た。