トリニティの悪夢のような一日が過ぎ去った。
一般生徒の手を借りて、まる一日が掃除に費やされた。
自治区はいつもの美しい街並みを取り戻したのだが。
それから数日。ティーパーティーは、当然ながら敗北の責任を追及された。
「え、ただの演習ではありませんか。責任も何も無いでしょう?(すっとぼけ)」
で、ごり押しで通したナギサだった。
「では私が責任を取るとして、代わりは誰がやりますか?(迫真)」
その言葉に、誰も何も言えなかったという。
ミコトはこの演習を一度で終わらせる気はないのだ。ここで責任を誰かが取るなら、今後も同じように誰かが責任を取らなければならなくなる。
こうして、見えないミコトの威を借りたナギサは、ティーパーティー首長を続投することになった。
「相変わらず、馬鹿馬鹿しいね」
ナギサの奮闘を見て、頬杖をついてミカはそう言った。
「今回の演習、世間的に政治力が優れてるってことになってるうちが、あんな粗暴を絵に描いたような自分勝手な奴に負けたってことなんだよ。
責任を取るよりも先に、どうやったら同じことを繰り返さないか、そっちを話すべきじゃないの?」
普段おちゃらけているミカのマジレスだった。
「言いたいことはわかりますが、今回に限っては鬱憤を晴らしたいだけですよ。私をやり玉に挙げて収まるのならそれに付き合うのも首長の役目です」
ナギサは何でもないように紅茶を口にして超然と答えた。
「そう言う問題じゃないじゃん!! ナギちゃんの所為じゃないのに、言いたい放題言われているのが我慢できないの!!」
「では暴力に訴えますか? あのミコトさんのように」
「それは、そうだけど……」
感情に訴えるミカと、平静を装うナギサ。
ナギサはミカに問うた。
「ところで、セイアさんはどうしていますか?」
「なんか、書道に目覚めたらしくてさ……」
ミカは様子見に行った時のことを口にした。
「ミカ、あんな狼藉を受けたからと言って、心を乱してはいけないよ」
彼女はある教室で筆を取って、書道に興じていた。
『誅滅』、とそこには書かれていた。
「彼女達は幼いだけだ。私達は愛を以て、接さなければならない」
『寸鉄殺人』、と次の用紙にすらすらと書いた。
「だから君も、軽挙妄動は慎むことだよ」
『屠殺皮剥ぎ酷薄無残』、とその次の用紙に筆を押し付けながらそう書いた。完全に文字が潰れていた。
「セイアちゃん、めっちゃキレてたよ」
「……そうですか」
遠い目になるナギサだった。
「昨日、内々にですが、連邦生徒会からゲヘナとの平和条約の打診がありました」
「なにそれ、まさか受ける気!?」
「勿論議題に上げてからですが、恐らく先方と協議することになるでしょう」
これは政治である。
トリニティとゲヘナ、両学園の全面戦争は、キヴォトスの社会に大変な影響を及ぼすからだ。
先日の演習結果を、連邦生徒会は重く見たと言うことだろう。
「ミコトさんの行動力は、常軌を逸しています。
我々のような大きなしがらみの中に生きる者では、対応がし切れません」
「それはそうだけどさ……」
何か決めるにも会議。
何かをするにも会議、会議。
会議をする為にも会議をする。それがトリニティという、手続きを重視する学校の政治だった。
宣戦布告してその次の日に攻めて来れるゲヘナ、いやミコトとはフットワークが違い過ぎた。
「それに、此度の演習でゲヘナに野心が産まれないとも限りません。
あれがミコトさんだけに可能とは言い切れませんから」
戦えば勝てる、その教訓をゲヘナに与えたことが問題だと、ナギサは語る。
ミコトは何にも考えていないが、ティーパーティーはそうもいかない。
「じゃあこっちも一般生徒達を動員すればいいじゃない」
「そんなこと、出来るわけないじゃないですか……」
ミカの言葉に、ナギサは即答した。
「それをすれば、正義実現委員会の存在意義が問われます。
我々の無能を、認めることになります」
「ナギちゃんが言ったことでしょう? あれはただの演習だって。
それはゲヘナの言い分でもあるし、こっちもイベントみたいにしてそれで押し通せばいいじゃん」
「……それはつまり、本格的な戦争になった場合、ゲヘナはあんな風に生徒を総動員は出来ない、と?」
「ナギちゃんこそ、あいつらが戦いに来たと思ってるの?」
ミカは呆れたようにそう言った。
「あの逢坂ミコトに命令されたって、設定に乗っかってきただけじゃんね。
あいつらが万魔殿の命令を聞くなら、とっくに私達は終わってる。
あれは大騒ぎしたくて、お祭りに遊びに来ただけだよ。
実際に戦争になったって、同じ風にはならないよ」
ミカがこうして楽観的でいられる理由がそれだった。
ゲヘナの連中は所詮クソガキで、戦争なんて大人の所業は出来ない、と。
「私は万魔殿との協定より、逢坂ミコトと話を付けに行った方が手っ取り早いと思うな」
「はあ、ミカさん。だからそれは、そのミコトさんと同じ思考だと言うのですよ」
「……」
「もっと大局的な視座が必要なのです。
向こうが超短期的なら、こちらは中長期的に物事を見据えて、有利にコマを運ぶべきです。
彼女が卒業した後に向けて布石を打つように」
チェスが趣味のナギサらしい物言い、視点だった。
「まあ、そう言うのはナギちゃんに任せるよ」
「ミカさんも、こっちを手伝ってくれていいんですよ? どうせミコトさんの在学中は派閥云々なんて言っている場合ではありませんから」
それが、ナギサにとって唯一良いことであった。
何の因果か、幼い頃からの友人が、常に意見を異とする派閥の首長同士である。
こうして会ってする事も、政治の話ばかり。
昔みたいに普通の話もしたかったのだ。
「そうだね。うちの子たちにも言っておくよ」
ミカは立ち上がり、入り口で荷物を取って生徒会室から立ち去った。
その日、ゲヘナ自治区との境界の検問所。
「生徒手帳とトリニティに行く目的をお願いします」
「スイーツを食べに行きまーす!!」
「あそこのカフェの新作が出るんだよね!!」
検問をしているトリニティの生徒が、ゲヘナ生の生徒手帳を確認して頷いた。
「わかりました。どうぞ通ってください」
「はーい、楽しみだねぇ!!」
「そうだね、この間の演習も楽しかったしね!!」
わいわいと、ゲヘナ生たちは楽し気にトリニティ自治区へと歩いて行った。
「はあ、あいつら、あんなに楽しそうにして……」
「ちょっと通らせてもらうよ♪」
「あ、はい……って、ええ!?」
検問担当の生徒は二度見した。
トリニティの三首長が一人、聖園ミカがとてとてと検問所を横切ろうとしていたのだから。
「ちょっと、ちょっとお待ちを!!」
「なーに? トリニティからゲヘナに行くのに別に審査は必要無いでしょ?」
「それは、そうですけど……」
トリニティからゲヘナに向かう生徒は、居ないとは言わないがかなり珍しい。
だから手続きは必要無いのだが、それはそれだった。
「あ、一応この事は報告しないでね?」
「そう言われましても……」
トリニティの要人が付き人も付けずにゲヘナに向かうなんて、何をされてもおかしくはなかった。
「ふーん? ねえ、名前教えて」
「え……」
「な、ま、え。教えてよ♪」
天使のように可愛らしい笑顔。
その圧に、彼女は屈した。
「……わたしは、みかさまなどみておりません」
「うん、良い子だね。きっと出世できるよ」
ミカはそれだけ言って、検問所を通って行った。
ミカがゲヘナ自治区に入って、一分後のことである。
「なあ、あいつトリニティの奴じゃね?」
「見たこと無い制服だけど、羽根生えてるしそうだろ」
「ラッキーじゃん、捕まえて身代金貰おうぜ!!」
これ幸いと、ミカを取り囲む不良達。
そんな彼女達を、ミカは、
「やめ、くび、とれ……」
「どうしたの? 身代金が欲しくないの?」
「もうッ、しません、ゆるして……」
「まったく、あんな奴らと仲良くできるわけなんて無いのに。ナギちゃんはなに夢見てるんだか」
ミカの中でゲヘナの生徒への解像度がどんどん高くなる。
ミコトの劣化版みたいな連中の巣窟が、ゲヘナ自治区なのだと理解したのである。
「ねえ」
「ひッ」
ミカは、一部始終を見ていて近くで腰を抜かしている不良に声を掛けた。
「ゲヘナ学園まで案内してくれない?」
「は、はい……」
「あと、逢坂ミコトに会いたいんだけど、場所は知ってる?」
「み、ミコトさんっすか!?」
彼女のような木っ端の不良でも、ミコトは恐怖の対象のようだった。
「校内なら誰か知ってるんじゃないんすかね……」
「まあ、行けば分かるかな」
こうして、ミカはゲヘナ学園へと向かうことになった。
§§§
「おいスポンジ係!! てめぇの身体で洗われたくなかったら気合入れろ!!」
「はい!!」
「少しでもサボったらそこに居るシャバ僧みたいになっからな、忘れんじゃねえぞ」
さて、ゲヘナに新入生が入ったと言うことは、ミコトを舐めている連中も居ると言うことだった。
そんな連中はラクガキの清掃係に(強制的に)任命され、校門のラクガキの清掃に勤しんでいた。
「自分、ミコトさんの舎弟になりたいっす!! 頑張ります!!」
彼女は、いつぞやの入学前にスポンジ扱いされた不良だった。
ミコトの覚えが悪くなる前に自ら舎弟に志願している算段である。
「ねえ、あなた達。逢坂ミコトの居場所を知ってる?」
「ん? なんだ、お前」
「トリニティの奴が何でここに?」
ミコトといつもつるんでる不良仲間たちは首を傾げた。
「私は知ってるか、って聞いたんだけど」
「今、ミコちゃんは学校に居ないぜ。多分どっかで喧嘩でもしてんじゃないの?」
「そう。じゃあ連絡を入れてくれない?」
「んだてめぇ、うちら舐めてんのか?」
「トリニティの羽根付きがよ、それが人にものを頼むお嬢様の態度なんかよ」
ミコトの仲間たちは割と親切に対応していたのだが、流石に横柄なミカの態度に気分を害したようだった。
「あなた達が、それを言うんだ。うちであれだけ好き勝手暴れたくせに」
別にミカは話し合いになど来ていない。
これが一番わかりやすいからそうしているだけだった。
「それとこれとは別だろうが」
「なあ、〆ちまおうよ」
「だな」
「やめた方が良いわよ、あなた達」
校門から、一人の生徒が現れた。
「あ、ユエさん」
「ミコトなら、今レッドウインターに居るわ。
あそこなら、無限に
「それって、どれくらい?」
「一週間ぐらいじゃないかしら」
適当な概算をユエは口にした。
「そうなんだ。流石にレッドウインターまではいけないか」
その事実に、ミカは落胆した。
「トリニティのミカ様におかれましては、うちの生徒会に用でもあったのではないのかしら?」
「その口調は止めてよ。あんな駄菓子屋以下の生徒会なんて、交渉する価値なんて無いし」
ミカのその物言いに、ユエはくすくすと笑い始めた。
「ミコトに伝言を伝えておきましょうか?」
「もういいよ。また来るから」
「それは無理かと。もうあなたの独断専行はあちらに伝わっているのではないかしら?」
「……」
「ねえ、ミコトの代わりと言っては何だけど、私とお話ししませんか?」
魔女の誘惑。
ユエが何を考えているのか、まるでわからなかったが、ミカはこのまま収穫無しで帰るのもなんだと思った。
「まあ、別にいいけど」
「わあ、嬉しいわ」
ユエは手を合わせて喜びを示した。
場所は変わって、ゲヘナ唯一の都市部にあるカフェ。
そのテラス席に二人は座った。
「ここはハルナさんが監修した喫茶店なんですよ。
私のブレンドしたハーブティーも頼んでメニューに入れて貰ってるの」
「ゲヘナにもこういう場所があるんだね」
ここだけ切り取れば、トリニティの自治区にもありそうな優雅な喫茶店だった。
「デザートは、ロールケーキでいいかしら?」
「私は別にナギちゃんみたいにロールケーキ狂いじゃないから……」
ちょっと幼馴染をディスりつつ、ミカはメニュー表を受け取った。
そして二人が注文を終えると、ミカは改めてこう言った。
「それで、何の目的なの?」
「え?」
「え?」
「私はただ、ミカさんとお茶をしたかっただけですが」
きょとん、とユエは小首を傾げてそう言った。
「え、本当に、それだけなの?」
「ええ。だって、ミカさんとお茶をするなんて、ある種の特権でも無ければできないでしょう? いくらお金を積んでも出来ない、そう言う意味では私にとても価値のある出来事です」
ハーブティーが運ばれてくる。
配膳が早すぎる。ユエがここに来た時点で、これを注文すると分かっていた仕草であった。
「出来れば、ミカさんとはお友達になりたいわ」
「……わかっていて言ってるでしょ、確信犯だって」
ミカはわざと確信犯を誤用してそう言った。
要するに、バカな振りをしたのである。
なぜそんなことをしたのか。それはナギサの好みを、ゲヘナの一生徒が知っていたからである。
それだけでミカにとって警戒に値することだった。
「私はゲヘナの生徒なんて嫌いだよ。
それに、私のアクセサリーをあいつは奪っていった」
「それってこれのことかしら?」
なんと、ユエは先日ミコトが掠め取って行ったミカのアクセサリーを懐から取り出してみせた。
「それッ、返して!!」
「そんなに大切なモノなのかしら?」
「当然じゃん、それは中等部の頃にナギちゃんから貰ったオーダーメイドの奴なんだから!!」
その事実をすっかり忘れている幼馴染についても苛立ちはあったが、問題はそれが彼女の手にあることだった。
「え、そうなんですか? それを聞かされると、返したくなくなるわね」
「どうして!!」
「全く同じものを対価に示されても、私は興味ありません。
そこに至る為の感情、バックストーリー。それが込められたアイテムこそ、私の興味がそそられる」
まるで感情を食らう悪魔のような発言だった。
ユエはうっとりと、ミカのアクセサリーを見やった。
「でも、どうしてもというなら返しても良いわ」
「何が欲しいの?」
「別に何も。ただ、私は貴女とお友達になりたいだけですよ。紛失物を返すのは、ただそのきっかけに過ぎません」
「物は言いようだね。それを返して、あの逢坂ミコトの機嫌を損ねたりしないの?」
「ミコトのことですからどうせ私に預けたことなんて忘れてますよ」
「……」
それはそれでイラっとする事実だった。
「それに私は、ミコトの部下や手先ではありませんから」
「じゃあ、なんであんな奴に付き従ってるわけなの?」
「え、だって」
ユエは何を言っているのか、と言わんばかりの不思議そうな表情でこう言った。
「ミコトは私のモノだもの。一番近くで見ているのは当然でしょう?」
ミカは一瞬意味が分からなかった。
いや、しばしその意味を咀嚼しても、意味が分からなかった。
「え、あなた達、どういう関係なの?」
「昔からの知り合い。切っても切れぬ腐れ縁。キヴォトスで再会したのは最近かしら。
「そうなんだ……」
ミカはそれを幼馴染みたいなものだと、解釈した。
「私とお友達になってくれるなら、ミコトをある程度制御してあげてもいいですよ」
「ふーん、相手に利益を提示して、あなたは友達を作るんだ」
「これは失礼しました。私も舞い上がってしまって。
だってあなたとお友達になるチャンスなんて、これ以降ないかもしれませんし」
ミカの嫌味にも、ユエは変わらぬ微笑みを維持していた。
「私はミカさんのような御方が好きですから」
「それは、どういう意味なの?」
「見た目が可愛らしく美しいのは勿論、その内面には欠落を抱えている。
そういった相手がたまらなく愛おしいのですよ」
「要するに、人間観察が趣味ってことでしょ」
悪趣味だと、ミカは内心吐き捨てた。
「ええ。完璧な人間より、ある程度醜さを抱えている人間の方が愛らしい。
聖人のような人生を歩んだ人物が気の迷いで犯す罪や、罪の意識など無いような大犯罪者による死期を悟っての善行。
そういった、人間らしさこそ味わい深いと思いませんか?」
「ただ趣味が悪いだけだよ、それって」
「趣味は人それぞれですよ」
ただミカが分かることは、こんな奴とは仲良くできない、ということだった。
「そうだ!!」
ふと、思いついたようにユエは手を叩いた。
「ミカさん。私がゲヘナを裏切るなんてどうでしょうか?」
「……は?」
「なんともシーンタイトルに映えそうな文言ですね。この会話が回想シーンで語られた時、ゲヘナの裏切り者、って表示されたらいい感じに映えるじゃありませんか!!」
ユエはカメラ目線で、楽しそうにそう語った。
「……そんなことをして、何の意味があるの?」
「おや、御存じの筈では?
ゲヘナの校風は自由と混沌。私が裏切ったところで、誰に責められる謂れがあると言うのですか?」
それに、とユエはこう言った。
「────私が、楽しいからです」
ミカは絶句した。
会話が成立するのに、未知のエイリアンに遭遇したような表情だった。
「それにその方が、ミコトも喜んでくれるでしょう。
どうせ私の裏切りなど、彼女を楽しませる為の演出に過ぎませんよ。
まあ、このままミコトが行きつくところまで行って、キヴォトスが滅茶苦茶になるのは私の本意ではありません」
テコ入れが必要でしょう、と彼女は言った。
「さて、これをどうぞ」
ユエは、ミカのアクセサリーをテーブルの真ん中に置いた。
それは契約手形。ミカがそれを手にした瞬間、この魔女と手を結ぶと言うことだ。
「私は」
「はい」
「貴女を信用できない」
「……まあ、そうですよね。一度裏切った者は、二度目の裏切りに躊躇いを持たない。そう言うものですからね」
ユエは含みを持たせて、ミカを見ながらそう言った。
「それに、あなたがあの女を制御できるなんて思えない」
「ふむ。ではお手を拝借」
ユエはミカの態度を受けて、彼女に手を差し出した。
握手の構えである。
ミカは躊躇いつつも、恐る恐る手を握った。
瞬間、想像を絶する握力に背筋が凍った。
「昔の話です。
ミコトが今よりずっとずっと弱かった頃。
彼女は私に挑んできたのです。私は子犬のようにきゃんきゃんと喚いていた彼女を殴り蹴り、毎日のように遊んであげていました」
懐かしむように、ユエは昔語りを始めた。
ミカの額に汗がにじむ。手が離せない。位置が微動だにしない。
「今のミコトは生き生きとしていて、あの頃みたいで私も嬉しいのです。
あの子は戦いに、強さに狂っていた。ひとつ、私の秘密を教えてあげます」
ユエはようやく、ミカから手を放した。
彼女はカバンからメイク落としを取り出して、左目のすぐ下を拭った。
ミカはまた別の意味でギョッとした。
「見てください。これがあの子がくれた、かけがえのない送り物なんです」
それは、切創だった。
五センチほど、酷く爛れた痛々しい傷跡だ。
「あの子は!! この美しい私に!! 傷を付けたんです!!」
それが何よりも嬉しそうに、楽しそうに、ユエは嗤っていた。
「昔、私は自分が完璧だと思っていました。
あの子なんて取るに足らない存在だと。しかしあの子は、死力を尽くしてこの傷を私にくれた。その輝きこそが、ヒトの可能性なのだと!! 人間の本当の価値であると!!
この傷を見返すたびに、真の美しさとは痂疲があってこそ映えるのだと実感させてくれるのです!!
これだけは、どれだけ姿を変えようとも隠せない!!」
狂っていた。
狂気だった。
ミコトの狂気が可愛らしいほど、彼女はイカレていた。
「今のあの子は私よりずっと強くなりました。
でも、この傷を付けた責任を取って貰おうと思っています。
だから、ミコトは私のモノなんですよ。この傷跡を見せた時、ミコトは
すん、と狂喜に満ちていたユエがいつもの微笑みに戻った。
そしてすぐにメイク道具を取り出し、化粧で傷跡を覆い隠した。
「私だけがミコトをどうにかして良いんです。これで分かったでしょう?」
今はその、どうにかした結果である、と。女神が勇者を玩弄して試練と苦難を与えるように、歪んだ愛情がそこにはあった。
ミカは理解した。
この女こそ、まさしく人心を操る忌むべき魔女なのだと。
「本当に、あの女を止められるんだよね?」
「ええ、最悪ミコトがなにかやらかしても、後ろからガってやればいいだけですし」
「本気でゲヘナを裏切るつもりなんだよね?」
「私に学校愛なんてあると思いますか?」
ミカはこう考えた。
このまま何の成果も無く帰っても、怒られるだけだと。
「いいよ、“お友達”になっても」
「わぁ、嬉しいです。やはり何事も本心から話すことが仲良くなるには大事なのかもしれませんね」
「よく言うよ……」
なんとなくだが、ミカは察していた。
「その傷の事、あの女が忘れてるの赦せないんでしょ」
「おや」
「ナギちゃんも、これを私に贈ったことさえ忘れてたし」
ミカはテーブルに置かれたアクセサリーを手に取って、そう言った。
大切な相手だと言うのは本当だし、送り物が大切なのも本当だ。
だがだからこそ、そのことを相手が忘れているのはムカつくものだ。
「正直、セイアちゃんのことは嫌いじゃないけど、私の目の前で痛い目に遭ったことは、ぷぷぷッざまあみろって感じだったし。
ナギちゃんも、ちょっとくらい驚かせてあげてもいいかもね」
「これは大変なことを聞いてしまいましたね」
「内緒だよ?」
「ええ、こちらもですよ」
実を言うと、少しだけミカは気持ちよかった。
ナギサもセイアも、自分を子ども扱いしているし、内心どこかで話を聞く価値もないと思っているのを薄々ミカは感じ取っていた。
見下すとは違う、ヒトは三人も集まれば人は派閥が出来るし、四人も居れば一人は裏切るものだ。
友人の中でもカーストが存在し、その意味ではミカは他の二人とは対等ではなかった。
有り体に言えば、バカだと思われているのである。
その点が不満と言えば不満だった。
しかしユエは、ミカをちゃんと対等に見ている。バカだと思っていない。
生徒会長だからと言って畏怖や敬意を抱いているわけでもない。
そして何より、悪だくみは楽しいものだ。
「じゃあ友達として相談するけど、もし今度逢坂ミコトが演習で攻め込んできた時、どうする?」
「私は適当なことを言って戦略的に意味のないところを攻撃していてもいいですが、そうですね」
ユエは内心、この提案をするのが私とは、と思いながらこう言った。
「他の学校と協定を結び、戦力を増強してみては?」
「ふーん。例えば?」
「そこまでは。私にはあなたの手札など想像もできませんから」
ミカは少しだけ顎に手を当てて、こう言った。
「アリウス」
ユエはその単語に、目を伏せた。
決定的な瞬間に立ち会ってしまったと、歓喜もしていた。
「しばらくしたら私にホストが回って来るし、その時にいろいろと布石を打とうと思う」
「ミカさんに心当たりがあるのなら、それは幸いですね」
こうして、ミコトの暴れている裏で、静かに歴史は動こうとしていた。
簡易人物紹介。
ミカ:ユエと話すのは楽しいけど友達とは思っていない。同類とは思われたくないと思っている。ノリと勢いでゲヘナに乗り込む。
ユエ:実はその場のノリで動いているし、何も考えていない。誰がどう見てもミカとの相性は◎。
今回は裏でのやり取りが主でしたが、次回からミコト節がどんどん炸裂しますよ!!
それでは、また次回!!