ほんの少し触れただけ。
ほんの少し近づいただけ。
それなのに、どうしてか意識してしまう。
まだ名前もついていない感情が、
気づかないうちに胸の奥で灯り始める──
そんな瞬間を、少しでも感じてもらえたら嬉しいです。
次の日の土曜日昼過ぎ。
いつものように勉強会前のトレーニングに向かおうとマンション前へ出ると、そこには思いもしない光景が広がっていた。
「遅いわよ」
「……」
「お疲れ様です、和樹君」
「えっと……何故?」
政樹の他にいたのは、四葉ではなく、二乃と三玖と五月。
しかも三人とも、しっかりジャージ姿である。
片隅に立っている政樹も、状況が飲み込めていないのか、困惑したようにこちらを見ていた。
ジャージ姿で並ぶ三人を見た瞬間、今日のトレーニングはいつも通りでは終わらないと、なぜか直感していた。
「えっと……まずは四葉は?」
「四葉なら女バスの助っ人よ」
「ちなみに一花はバイトで勉強会も参加しない……」
なるほど。
一花と四葉が勉強会に参加しないことだけは理解した。
で?
「何で三人がジャージ姿でいるの?」
「昨日の四葉が楽しそうに話してたから、ちょっと気になっただけよ」
二乃はぷいっと顔を逸らしながら言う。
「……それに、あんた達ばっかり楽しそうなのも癪だし」
ああ、昨日の写真が原因か。
納得した。
「で? 三玖と五月は?」
「……ちょっとだけ興味出た。運動だめだめだけど……」
「私もです。最近お腹周りが……」
「ん?」
「いえ! 何でもありませんよ」
五月は妙に早口で誤魔化した。
……聞かなかったことにしよう。
何はともあれ、ここまで来たならやるしかない。
「よし。じゃあ、いつものように政樹を先頭にして一列でいこう。政樹はとりあえず五割くらいで」
「ウッス!」
政樹が走り始めると、その後をすぐに二乃が続く。
続いて五月、三玖。
そして最後尾に僕。
ただ──
「は、早すぎるわよっ……はぁっ……はぁっ……」
「はぁぁっ……はぁぁっ……ふ、ふくしまくんっ……もう少しっ……はぁぁっ……」
「もう……むりぃ~……」
数分と経たないうちにこの有様だった。
政樹はどうすればいいか分からないらしく、その場で足踏みしながらこちらに助けを求める視線を送っている。
とはいえ、まずは街灯に掴まり、俯いて息を整えている三玖をどうにかしなければならない。
「政樹! そっちの二人は任せた!」
「えぇぇぇーーー!?」
政樹の驚きの声を無視して、僕は三玖のそばへ向かった。
しゃがみ込み、下から視線を合わせるようにして声をかける。
そのおかげで、僕と三玖は完全に置いていかれた形となった。
「……武田軍の行軍って過酷だったんだね……」
「そこに繋げる?」
まあ、三玖らしいと言えば三玖らしい。
「三玖、無理しないで。ゆっくり深呼吸して。はい、スゥー……ハァー……」
「はぁぁっ……はぁぁっ……スゥー……ハァー……スゥー……ハァー……ご、ごめん……はぁ……迷惑かけて……はぁ……」
少しずつ呼吸が整ってきた三玖が、申し訳なさそうに謝ってくる。
「謝ることないさ。元々運動が苦手なんだろ?ここまで走れただけでも花丸だよ」
そう言いながら、トントンと三玖の背中を優しく擦る。
「歩けるかい?」
「うん……歩くなら大丈夫……」
三玖が小さく頷いたので、僕たちは並んで目的地の公園へ向かって歩き始めた。
「こうやって歩くだけでも、随分違うよ」
「そっか……」
「ふふふ……戦国時代で行軍してる足軽と思えば楽しいだろ?」
「なるほど……そう考えると面白いかも……」
良かった。
三玖の表情にも、少しだけ笑みが戻ってきた。
その後はいつもの歴史談義を交えながら、少し早歩きで目的地の公園へ向かうのだった。
~二乃side~
一方その頃。
政樹は二人を和樹に任されたものの、どうすべきか考えながら走るペースを緩めていた。
「ふぅぅ……少しは楽になったわね」
「一時はどうなるかと思いました……はぁっ……はぁっ……」
「すまねぇ~、俺の不甲斐なさでこうなってしまって」
信号機での休憩や、政樹がペースを落としたことで、二乃と五月にも少しずつ余裕が出てきた。
しかし政樹本人は、それを良しとは思っていないようだった。
「何言ってんのよ。ちゃんとペースを落としてくれたでしょ」
「そうですね……福島君はちゃんと私たちを見てくれていますよ」
そんな政樹に、二乃と五月はそれぞれ励ましの言葉を投げかける。
「ありがとな、二人とも……」
「それに……はぁっ……和樹君は福島君のことを信頼して、私たちを任せたんだと思いますよ……はぁっ……」
「──っ!そうか……そうだよな!」
五月の言葉に、政樹の表情がぱっと明るくなる。
その単純さに、二乃と五月は思わず顔を見合わせて微笑んだ。
「これからだけど……はぁっ……私と五月で交互に先頭を走るわ……はぁっ……それで、政樹君は後ろから私たちを励ましてちょうだい……はぁっ……」
「それは良い考えです……はぁっ……福島君、お願いできますか?」
「オウッ!任せてくれ!サンキューな、二乃」
「……名前で呼ばないでよ」
「え?」
「な、何でもない!」
政樹が笑顔で答える。
その顔を見た瞬間、二乃は顔が熱くなるのを自覚し、慌てて視線を逸らした。
「こ、これくらい、どうってことないわ!」
言い方は強い。
けれど、その声には確かな嬉しさが混ざっていた。
(ヤバッ……今の政樹君、格好良すぎなんですけど!)
「良かったですね、二乃」
「うるさい……」
そんな二乃を、五月は温かい目で見ている。
その視線がまた恥ずかしくて、二乃の顔はさらに熱くなった。
それでも三人は、互いに声を掛け合いながら、目的地へ向かって走り続けるのだった。
「お待たせ」
三玖と二人、早歩きで公園に着くと、既に到着していた三人はベンチに座り、ドリンクで喉を潤していた。
政樹に至っては、完全に消化不良という顔をしている。
「よし!じゃ、早速政樹と取り組みをしようか!」
「シヤッ!」
僕の声に政樹は気合いを入れて立ち上がり、いつも取り組みをしている場所へ向かった。
「ここでは、合気道を三人に教えようと思ってる」
「「「合気道?」」」
そんな政樹に構わず、僕は今から教えることを三人に伝える。
「名前は聞いたことあるでしょ?」
「ええ……名前だけでしたら……」
五月が少し緊張気味に答える。
「合気道は護身術にも繋がるから、覚えておいて損はないよ。君達五つ子は可愛いからね。いつ襲われるか分からないし」
「真顔でよくもまぁ、そんな恥ずかしい言葉を言えるわね」
事実を言ったまでなのだが、二乃だけでなく、三玖も五月も少し恥ずかしそうにしている。
まあいいか。
「で、合気道っていうのはね。相手の力を真正面から受け止めるんじゃなくて、円の動きや呼吸を利用して攻撃をいなし、その勢いを利用して制するところに特徴がある。つまり、非力な女性でも扱いやすい技ってわけだよ。聖奈も習得してるくらいだからね」
「なるほど」
五月が真剣な眼差しで、僕の説明に耳を傾ける。
「ま、説明より見た方が早いだろうし、これから僕が使うところを見てなよ」
そう言い残し、ドリンクを一口飲んでから政樹の前に立つ。
三人からは、緊張した空気が伝わってきた。
「待たせたね。じゃ、いつでもどうぞ」
政樹は空手の基本体勢を取ると、僕の隙を探るように前後へ動きながら、徐々に距離を詰めてくる。
対する僕は、圧だけを出して攻撃を待った。
「どうした?今日は僕からは攻撃しないよ。怖じけずいたかな?」
「──っ!シャーーッ!」
僕の挑発に簡単に乗った政樹は、正面から攻撃を仕掛けてきた。
遅い──
「早っ……」
「……カズキ……!」
「危ないっ!」
素人目には速く見えるかもしれない。
だが、僕には遅い。
踏み込みを半身で外し、手首を取る。
円を描くように流す。
次の瞬間、政樹の身体が沈んでいた。
もちろん、関節技も忘れない。
「痛っ……!ギブッ……!ギブッす!」
早くも降参のサインが出たので、関節技を緩める。
「中々良い動きだったけど、正直過ぎる。もうちょっと考えようか。とはいえ、政樹の性格からすると今のスタイルが一番だけどね」
「ウッスゥゥ~~……」
僕の下敷きにされている政樹から、辛うじて返事が返ってきたので良しとしよう。
「これが合気道だけど、分かった?」
「分かるわけないでしょ!」
「早すぎて見えない……」
「ただ、和樹さんはほとんど力を使われていないように感じました」
二乃や三玖からは不満の声が上がるが、五月の言葉は的を射ていた。
「そう。五月の言う通りだね。力ずくでねじ伏せる必要がないから、体力に自信のない女性や子供、年配の方でも始めやすい。生涯学習や心身の練磨として親しまれてるのが、この合気道だよ」
真面目な五月は、なるほどといった表情でコクコクと頷いている。
「護身術としての側面はもちろんだけど、精神修行や運動不足解消、姿勢の矯正など、いろんな目的で取り組める奥の深い武道でもあるんだよ」
「ヨガみたいな感じかしら」
二乃が面白い視点を持つ。
「だね。ヨガも運動不足の解消や姿勢の矯正に役立つものだから、似ている部分はあるかな。じゃ、早速試してみようか」
僕が同意すると、二乃は少し嬉しそうな表情を作る。
政樹の極め技を解いて立ち上がると、政樹も続けて立ち上がった。
「政樹は休憩後、いつもの反復練習と基礎トレーニングを」
「ウッス!」
「三人はこっちに」
政樹と入れ替わるように、三人がこちらへやって来る。
「いいかい。合気道は相手の力を否定しない。むしろ、その力を“受け入れて”コントロールする。三人それぞれに、その基本となる動きを教えてあげるよ」
僕がそう言うと、三人は芝生の上で背筋を伸ばした。
「まずは二乃。君は真っ向からぶつかってくるタイプだから、『
「受けて立つわよ。どうすればいいの?」
僕は二乃に真っ直ぐ突っ込ませ、その瞬間に彼女の死角へ一歩踏み込んだ。
「えっ……!?」
ぶつかる寸前、僕の体が二乃の懐へと吸い込まれる。
盾で受けるのではなく、矛をすり抜ける。
これが『入身』。
だが、技の完成と同時に、二乃の動きがピタリと止まった。
「……ちょ、ちょっと待って」
僕の胸と二乃の体が、薄いTシャツ一枚を挟んで完全に密着している。
僕の肩は彼女の顎の下にあり、二乃の鼻先には僕の匂いが近い。
そして僕の耳元には、急激に速くなった彼女の鼓動が届いていた。
「……近いわよ」
一拍遅れて。
「……近すぎるでしょ、バカ!」
二乃は顔を真っ赤にして、僕の胸を思いっきり突き放した。
「二乃が突っ込んできたからだよ。これが『入身』ね」
「うるさい!次からは、もうちょっと距離感考えなさいよね!」
理不尽な。
文句を言いながらも、二乃は熱くなった顔を隠すように、そっぽを向いて髪をいじり始めた。
「次は三玖。『転換』ね。三玖、僕の腕を掴んで引っ張ってみて」
「ん……やってみる」
三玖がおずおずと僕の腕を引く。
僕はその引きの強さに逆らわず、彼女の隣に並ぶようにして体の軸をくるりと回転させた。
「……あ。景色が回った」
相手の引く力を、自分の回転へ変える。
技としては成功だ。
だが、回転が終わった後も、三玖は僕の腕を掴んだまま、自分の体を少し預けるようにして動きを止めていた。
「……三玖?」
「……温かい」
その一言の後、三玖ははっとしたように手を離した。
「……ち、違う。今のは……その」
それでも、完全には距離を取れずにいる。
三玖は照れ隠しのように視線を逸らしながら、小さく呟いた。
「……自分の居場所を、少し変えるだけ……そうしたら、カズキの隣にいられる」
その言葉は、風に溶けて僕の耳にだけ届く。
「……なるほど。三玖らしい解釈だね」
「……うん」
三玖は短く答える。
けれど、その表情はどこか柔らかかった。
「最後は五月。『小手返し』ね。五月は力が入りすぎるから、逆にこれが必要だと思うよ」
「わ、私ですか……」
僕は五月に手を掴ませ、彼女のその“力み”を支点にして、手首を軽く外側へ返した。
「い、痛たたたっ!なぜですか、私はただ握っているだけなのに!」
それが『小手返し』だ。
相手の握る力が強ければ強いほど、技は鋭く決まる。
五月は痛みに耐えながら、必死に僕の手首の動きを見つめていた。
だが、ふと。
僕の手が、自分の手首を優しく、しかし確実に包み込んでいることに気づいたらしい。
「あ……」
五月の顔が、痛さとは違う理由でみるみる赤くなっていく。
彼女は、真面目な顔で理論を語る僕の横顔と、自分の手を包む僕の手を交互に見つめた。
「……お、驚きました。痛いのに、不思議と安心するのです。あなたの手、とても……頼りになりますね」
言ってから、自分で気づいたのか。
「……い、いえ!技の話です!」
そう言いながらも、彼女の手はすぐには離れなかった。
「入身、転換、小手返し。どれも共通しているのは、相手と一つになること」
僕が締めくくると、三人はそれぞれの“高鳴り”を胸に、真っ赤な顔で僕を見つめていた。
芝生の上。
ただの護身術だったはずのそれは、いつの間にか別の意味を帯び始めていた。
誰も言葉にはしない。
けれど確かに──
距離が、少しだけ変わっていた。
誰の胸にも同じ火が灯っているわけじゃない。
けれど確かに──何かが、始まっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回のテーマは
「触れた距離」と「揺れる心」。
同じ出来事でも、感じ方は人それぞれ。
三玖、五月、二乃──それぞれ違う“揺れ方”をしています。
でも共通しているのは、
まだそれを“恋”とは呼べないこと。
だからこそ、この段階の感情って一番尊いんですよね。
これから少しずつ、
その気持ちに名前がついていくのか。
それとも、すれ違っていくのか。
そんな変化も楽しんでもらえたら嬉しいです。
もし「このシーン好きだな」と思っていただけたら、
いいねや感想をもらえるととても励みになります。
次回も、少しずつ距離が変わっていくお話をお届け出来ればと思っております。
引き続き、よろしくお願いします。