今回は、転校してきた中野三玖との出会いから、
放課後の屋上で少しだけ距離が近づくまでのお話です。
恋愛としてはまだ始まっていません。
けれど、「好きなものを語れる相手」と出会うことが、
どれほど心を軽くするのか──
そんな空気を感じていただければ幸いです。
ゆっくりと、静かに進んでいきます。
どうぞ最後までお付き合いください。
昼食後の授業。
五月が言っていたとおり、他の姉妹も同じタイミングで転校してきたらしく、教室の前には黒のセーラー服を着た女子生徒が一人、静かに立っていた。
「な……中野……三玖……よろしく……」
声は小さく、か細い。
教室という空間そのものに押し潰されそうになりながら、それでも必死に言葉を紡いでいるのが伝わってくる。
視線は定まらず、黒板と床の間を彷徨っていた。
人前で話すのが苦手なのだろう。緊張は隠しようもなく、そのまま声に滲み出ている。
──しかし。
まさか、五月が
昼休みに聞かされた話を思い出す。
自分たちは五つ子で、五月は末っ子。
だから“五月”。
ということは──
今、教室の前に立っているこの少女は、三女ということになる。
中野三玖。
茶色がかったセミロングの髪は肩口まで伸び、前髪は右目を隠すかのように長い。
五月とは違い、黒のストッキングを履き、首には何故かヘッドフォンをかけている。
同じ顔立ちのはずなのに、雰囲気はまるで別人だった。
五月が太陽だとすれば、こちらは影。
静かで、控えめで、それでいてどこか近寄りがたい。
その場に立っているだけなのに、妙に視線を引かれた。
目立つわけでも、声が通るわけでもない。
それでも、教室のざわめきの中で、彼女だけが少し浮いて見えた。
「じゃ、そうねぇ……樋口君」
担任の声が、教室に響いた。
「君の隣にするから、色々と面倒見てあげてね」
「はい」
短く返事をして席を立つ。
声をかけてきた教師の名は、
教師歴三年目の若手女性で、僕のクラスの担任でもある。
黒髪のロングストレートにヘアバンド。
三玖同様に前髪が長く、こちらは両目が隠れてしまうのではないかと思うほどだ。
黒縁眼鏡をかけ、化粧は本当に最低限。
おしゃれな服装をしているところは、ほとんど見たことがない。
だが、物腰は柔らかく、注意すべきところはきちんと注意する。
そのあたりは、やはり大人の女性だった。
……ちなみに、服の上からでも分かる豊満な胸が男子からの人気を集めているが、本人としては相当なコンプレックスらしく、何度か相談されたこともある。
なぜ担任の教師からそんな相談を受ける仲なのかと言えば──
まあ、それはまた別の話だ。
「……よろしく……」
「うん。よろしくね、中野さん」
隣に座った三玖に挨拶を返すと、彼女は一瞬こちらを見て、すぐに視線を逸らした。
けれど、さっきよりも肩の力が抜けたように見える。
どこか、ほっとした表情を浮かべながら、筆記用具を静かに机の上へ並べていった。
「樋口君。中野さん、教科書の用意がまだなの。今日は見せてあげて」
「はい。じゃあ、悪いけど机くっつけるね」
「……うん……」
机を寄せる。
机を寄せた瞬間、三玖の肩がわずかに揺れた。
拒むほどではないが、慣れていない。
その反応が、かえって彼女の不器用さをはっきりと伝えてきた。
距離が縮まったことで、三玖の呼吸がわずかに早くなったのが分かった。
教科書を二人の間に置く。
「僕は樋口和喜。よろしくね、中野さん」
「……うん……」
緊張したような返事。
やはり、人付き合いはあまり得意ではなさそうだ。
「それにしても、本当に五月とそっくりだね。髪型やアクセサリーで区別するしかないかな」
何気なく言った、その一言。
「……!? 五月を……知ってるの……!?」
三玖ははっきりと驚いた表情を見せ、こちらを見上げた。
「今日の昼休みに学食で会ったんだ。五つ子だって聞いてさ。正直、見るまでは半信半疑だったけど」
「……そうなんだ……五月が……」
小さく息を吐くような声。
ほんの少し、安堵が混じっていた。
「……私のこと……三玖って呼んでいい」
「え?」
「五月も……呼び捨て、なんでしょ……?」
迷いながら、探るように。
「あ、ああ……分かったよ。よろしく、三玖。僕も和喜でいいよ」
「……うん……よろしく……カズキ……」
その小さな笑顔に、胸の奥がわずかに鳴った。
名前を呼ぶだけで、距離が変わる。
そんなことを意識したのは、久しぶりだった。
「こーら!私の授業中にイチャイチャしないの!」
「してませんって。ただの挨拶です」
「ふーん……じゃあ、私の問題に答えてくれたら許してあげます」
──出た。
右人差し指を立て、目を閉じながら、鷺浦先生は楽しそうに語り始めた。
「戦国時代の有名な武将、織田信長。その正室が濃姫。帰蝶とも呼ばれているわね」
クラスの反応は薄い。
戦国時代の女性の名前なんて、試験に出ないと思われがちだ。
……ただし、この先生は別だ。
教科書に載っていない話を延々と語り、その中から平然と試験問題を出す、筋金入りの歴女なのである。
隣を見ると、三玖は黒板よりも、先生の言葉そのものを追っているようだった。
ノートを取る手が、ほんの少しだけ早い。
「さて、そこで樋口君。信長が正室よりも愛したとされる女性は誰でしょう?」
「いや、分かるわけないじゃないですか」
「ふふっ、降参?」
だが、少し笑って答える。
「諸説ありますが、生駒吉乃ですね。信長の側室です」
「……むぅぅ……正解です」
悔しそうな先生。
そして、隣から向けられる、期待と尊敬が混じった視線。
──放課後。
ノートを閉じようとしたとき、小さな紙切れが差し込まれた。
《放課後、屋上に来て》
丁寧な文字。
理由は書かれていない。
けれど、不思議と分かった。
たぶん、断られる前提で書いた文字だ。
顔を上げると、三玖はすでに前を向いていた。
先に屋上へ向かい、しばらく空を見上げていると、扉が開く。
「……カズキ……」
少し遅れて現れた三玖は、緊張した様子で拳を胸の前に握っていた。
「……来てくれて…ありがとう…その…歴史の話……もっと、したくて……」
恥ずかしそうに、だが多少のほっとした笑みが伺えた。
そこからは、まさに別人だった。
目を輝かせ、信長や久秀について語り続ける。
信長や久秀の話で盛り上がり、気づけば二人で屋上の床に腰を下ろしていた。
フェンス越しに見える空は、すでに夕方の色を帯び始めている。
風が一度、フェンスを鳴らした。
それでも、話は途切れなかった。
「……カズキって……日本の戦国時代……本当に詳しいんだね……」
屋上の床に腰を下ろしながら、三玖がぽつりと呟いた。
昼間の教室では想像もできなかったほど、声は落ち着いている。
「詳しいってほどじゃないよ。ゲームとか本とか……気になったら調べてただけ」
「……それでも……すごい……」
三玖はそう言ってから、少しだけ言葉を探すように視線を落とした。
「……私ね……友達の話すアイドルとかそういうのよりも、戦国武将が好きなの…その中でも……武田信玄が……一番、好き……」
「信玄か」
その名前を聞いた瞬間、自然と頷いていた。
「……意外……?」
「いや。分かる気がする」
三玖の目が、わずかに見開かれる。
「……本当……?」
「うん。信玄って、派手さはないけど……すごく“人間臭い”」
その言葉に、三玖は小さく息を吸った。
「……そう……それ……!」
「強さも、迷いも、全部隠さない人だよね」
三玖は、胸の前で手を握りしめる。
「……信玄って……冷静な軍略家って言われるけど……私は……違うと思ってて……」
「感情が、戦い方に出るタイプだよね」
間髪入れずに返すと、三玖は嬉しそうに何度も頷いた。
「……うん……!」
「怒ったら徹底的に叩くし、納得できないと絶対に譲らない。でも……」
少し間を置いてから続ける。
「家臣には、すごく甘い」
「……そう……!」
三玖の声に、熱がこもる。
「……山本勘助も……高坂昌信も……」
「馬場信春も、内藤昌豊もね」
そこまで言った瞬間、三玖ははっとした表情になる。
「……全部……言えるんだ……」
「武田家の家臣団、結構好きなんだよね」
そう答えると、三玖は小さく、でも確かに笑った。
「……武田家って……信玄だけじゃなくて……“集団”が強い……」
「分かる。信玄が強かった理由って、個人の才覚だけじゃない」
三玖の視線が、じっとこちらに向く。
「……どういう意味……?」
「信玄は、完璧じゃなかった。でも、自分の欠点を分かってた」
少しだけ言葉を選ぶ。
「だからこそ、軍師に任せて、前線の将に任せて……自分は“決断”に徹した」
「……うん……!」
三玖は、深く頷いた。
「……風林火山……って……強さの象徴みたいに言われるけど……」
「実際は、“どう戦うか”より“どう生きるか”に近いよね」
その言葉に、三玖は一瞬黙り込んだ。
「……カズキって……」
「ん?」
「……信玄のこと……ちゃんと……人として見てる……」
思いがけない言葉だった。
「……そうかな」
「……うん……」
三玖は、少し照れたように視線を逸らす。
「……私……信玄が……好きなの……」
「うん」
「……勝ち続けたからじゃない……」
声が、ほんの少し震える。
「……迷って……間違えて……それでも……立ち続けたから……」
「それ、すごく三玖らしい理由だと思う」
そう言うと、三玖は目を丸くした。
「……私らしい……?」
「うん」
穏やかに、はっきりと。
「強い人より、迷いながら進む人を見るタイプでしょ」
「……っ……」
言葉に詰まり、三玖は俯いた。
「……黒田官兵衛……も……好き……?」
「うん。ああいう“全体を見る人”は、信玄と通じるところがある」
三玖は、納得したように頷く。
「……だから……ノートの切れ端……気づいたんだ……」
「まあ……官兵衛ほどじゃないけどね」
苦笑すると、三玖は小さく笑った。
「……でも……」
「ん?」
「……歴史の話……できる人……初めて……」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
「僕もだよ。と言いたいんだけど……実は他にもいるんだよね。歴史の話に付き合ってる人」
「……もしかして…鷺浦先生…?」
じっと目を逸らさず三玖は聞いてきた。
「よく分かったね」
「なんとなく……授業での先生の態度が、カズキにだけ違うように思えたから……」
「そっか」
女の勘というものだろうか。よく見ているものだ。
「……また……話しても……いい……?」
「もちろん」
このまま、もう少しだけ話していたかった。
そんな考えが浮かんだ瞬間だった。
ズボンのポケットに入れていたスマホのバイブが震えたのは。
「……っと……」
画面を確認した瞬間、思わず声が出る。
「……げ。聖奈」
「?……セナ…?」
「あ、ああ…僕も兄妹がいてね。その妹だよ」
聖奈の名前を僕が口にすると、少し心配そうな顔をした三玖が問いかけてきたので、妹の存在を伝えた。
すると興味があるのかないのか、『ふーん…』と一言口にすると無表情な顔で前を向いた。
「あ、私も電話だ…」
そこに三玖にも着信があったようで、スマホを取り出した。
しかし──
嫌な予感しかしない。
そのまま通話ボタンを押すと、案の定、落ち着いた──だが、どこか温度の低い声が耳に届いた。
『兄さん?どちらにいらっしゃるのでしょうか』
丁寧な言葉遣い。
だが、これは確実に怒っている時の声だ。
「えっと……屋上だよ」
『屋上、ですか』
一拍。
間が、長い。
『うっふふふ……兄さんは本当におモテになりますね』
「……それ、笑ってないよね?」
『気のせいです』
完全にアウトだ。
『それで? どなたと一緒に?』
「中野三玖さん。五月の姉妹で、歴史の話で盛り上がっちゃってさ」
『……そう、ですか』
また一拍。
『ちょうど今、私の隣で二乃さんが電話をしております』
「え? もう他の姉妹と合流してるの?」
『ええ。ですから、五人揃わない原因が兄さんだと今判明した次第です』
冷静な報告。
だが、裏に滲む圧は隠せていない。
「だから違うと言っている。二乃の頭の中おかしいんじゃない…!」
どうやらあちらもあちらで何やら揉めているようだ。
「はぁぁ……三玖の事助けてやってくれ」
『……ふふふ…♡帰宅後が楽しみですね♪』
「はいはい……」
通話が切れる。
深いため息が漏れた。
通話が終わる。
三玖はスマホを胸元に抱え、小さく息を吐いた。
「……お疲れ」
「……うん……」
少し気まずい沈黙。
「……ごめんね……」
「ん?」
「姉妹が……勝手に……カズキのこと……私の彼氏だって……」
申し訳なさそうに、俯きながら言う。
「あはは……さすがにそれはないでしょ。転校初日だし」
「……だよね……」
それでも、どこか安心したような声。
「……それに……私……可愛くないし……」
「……」
その言葉が、胸に引っかかる。
一歩近づき、そっと前髪を持ち上げる。
「……邪魔そうだったから。ごめん」
視線が合う。
「三玖は……可愛いよ。少なくとも、僕はそう思う」
「……本当……?」
疑うような、不安そうな目。
「うん」
短く答え、頭を軽く撫でる。
「……えへ……」
小さく、照れた笑み。
「……恋人は……まだ、早いかも……だけど」
「うん」
「……友達……なれる……?」
その問いに、自然と頷いていた。
「もちろん」
スマホを取り出し、連絡先を交換する。
「……誰にも言わずに……歴史の話……できるね……」
「だね」
屋上を後にするとき、
三玖は何度もスマホの画面を確認していた。
その指先に、確かな温度が宿っていることに、
僕は気づいてしまっていた。
そして、友達という言葉が、今はちょうどいい距離に思えた。
少なくとも、彼女にとっては。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回のお話では、
「恋に落ちる」よりも先に
「安心できる場所を見つける」ことを大切に描いています。
屋上で歴史を語る三玖は、
教室では見せなかった素顔そのものです。
そして、和喜もまた“理解する側”として自然に寄り添っています。
次回からは、
他の姉妹達と少しずつ絡み始める日常が描いていく予定です。
ゆっくりですが、確実に進んでいきますので、
今後もお付き合いいただければ嬉しいです。