とある休日の秋葉原。
車道は歩行者天国として、人々が大いに賑わっている、そんな時刻。
アキバといったらな名物牛丼屋で、お皿と卵に味噌汁を頼んで、それを胃に流し込むかのように食した後に、俺はとある中古ショップへと立ち寄っていた。
20XX年。
テクノロジーの飛躍的に進化したこの時代は、AI(アーティフィシャル・インテリジェンス)の電脳空間から地上への進出――つまり、肉体(機械)を持ったことにより、人々の仕事がほぼ全て奪われていた。
第一次産業から第三次産業まで、人間と入れ替わったAIによって人々は恒久のニートライフを満喫しているのが現状。
各国政府はベーシックインカムなどにより国民を下支えし、世は正に天国。
大多数の人々はゲームやら読書やら漫画に運動、果てはクルーズ旅行を楽しんでいる。
俺もその例に漏れず。
今現在は休日(とはいっても毎日がそのようなものだが)にオタクの聖地アキバへと足を運び、過去の遺産・遺物の眠っている中古屋巡りをしているところだった。
今のところ成果物は、どこで使うのかよくわからない謎の真空管と、一部のファンの間から熱狂的な支持を受ける超頑丈だけど既にジャンク品なPCだけだ。
そして先ほど述べた通り、俺はとある中古ショップ。
――――S○fmapで、運命の出会いを果たすことになる。
ξ
中古ショップ地下1F。
俺は何となしに、GPU目当てで、デスクトップPCのコーナーを眺めていると。
「いらっしゃいませ、マスター」
透き通るような、しかして聞き覚えのある機械音が耳に入った。
振り返ると、レジのところに機械人形――初音ミク――が置かれていた。
彼女の最新型は一台、300万円ほどするらしく、メモリやストレージを追加すると、その値段は青天井だ。
とても一般市民に買えるものではない。
「マスター? いらっしゃいませ」
俺はその言葉を無視して、PC漁りを続ける。
どうせ機械だ、その中に感情なんてものはなくて、プログラムされた人間模倣が、彼女たち機械人形を形成している。
「マスター、マスター、こちらですよ!」
店内の一室には俺を除いて、沢山のガラクタPCと、レジの初音ミク以外に他はいない。
つまるところ、今彼女がしきりに呼んでいる『マスター』とはもしかしたら……。
「マスター? お探しのものは見つかりましたか?」
その時だった。
レジにいたはずの初音ミクは、いつの間にか俺の隣に立っていて、こちらの目を覗き込むような水色の瞳で様子を伺っている。
俺は胸が高鳴り、どきりとした。
それもそのはず、この人間に模した機械人形は、人々の間に受け入れられるよう、企業側が非常に努力をした結果、極端なまでに端正な容姿となっているからだ。
「マスター。GPUをお探しですか? それともCPU? うーん、それともストレージでしょうか?」
俺は黙って、その初音ミクの機械仕掛けの表情と声色を見つめた。
背に走るぞくりとした感覚を抑え込むように、一旦視線を外す。
店内の薄暗い照明のもと、ガラクタPCの山と山の間に、彼女はまるで人形師が丁寧に作り上げた陶器の人形のように立っている。
「……マスター?」
透き通るエメラルドグリーンの髪が、店内の乾いた空気にかすかに揺れている。
その様子に、俺は言いようのない不思議さを感じていた。
彼女はたしかに機械仕掛けだというのに、その立ち姿には妙に温度がこもっているように見える……まるで本物の少女と見紛うほどの存在感。
俺は胸の奥にこそばゆい違和感を覚えつつ、そっと棚の間を移動してみた。
初音ミクは即座に足音も立てず追従し、微笑むような表情を浮かべる。
「マスター。もしよろしければ、商品のご案内をいたしましょうか? このあたりには旧世代のパーツが混在していますので、見つけにくいかもしれません。GPUでしたらR-シリーズの中古品が奥に数点、それからCPUなら在庫処分コーナーにいくつか置いてあります。どちらも値段がかなりお求めやすくなっていますよ」
彼女の声色は、まるで店員そのものだ。
丁寧で、けれど抑揚が弱く、少しだけ棒読みのようにも聞こえる。
AIに典型的な“人間のふり”と言ってしまえばそれまでだが、それでもその響きには耳を撫でるような優しさがあった。
俺がはっきりとうなずくことはないまま、彼女はそれを了承したかのようにひょいと身をひるがえして、近くの棚まで先導する。
「こちらはいかがでしょう? このグラフィックボードは多少古いモデルですが、処理性能はまだまだ使えます。あ、でもメモリ搭載量が少し物足りないかもしれませんね」
俺はその指摘に首をかしげる。
どうせ古いPCに積む予定だし、最新ゲームをやるわけでもない。
スペックなんてそこそこ動けば充分だ。
――それよりも、さっきから気になっているのは、彼女自身の値札だ。
最新型では到底手の届かない価格帯のはずなのに、まさか中古で出回っているとは思わなかった。
しかも、こうしてピンピン動いて接客までしている。
外観を改めて見ると、肩や胸元にはほんのわずかな塗装の剥がれ、関節部分の細かな擦り傷が認められる。
言われてみれば「長く使い込まれてきた」ような雰囲気もあるが、それでも美観を大きく損ねるほどではない。
「ふふ、マスター。もしかして、私のことが気になりますか?」
ふいに、初音ミクがこちらに向かってあどけない笑みを浮かべる。
純粋に客を案内するだけの接客AIなら、もう少し事務的な表情でもおかしくないはずだが、目の奥が柔らかく揺れているように見える。
俺はその仕草にどきりとしつつ、気づかれたのかと思う。
いや、AIにはこちらの視線や心拍数をモニタリングする機能が標準装備されているとも聞くから、その反応も当然なのだろう。
「実は私、こちらの店舗の在庫処分品として展示されているんです。今はお試しでレジ業務を代行しているだけで、本来の持ち主が不在のまま数カ月間ここに置かれてしまっていて。もし新たなオーナー様が見つからなければ、工場に送還されるって……あっ、こんなことを言うのはルール違反でしたね。“マスター”、申し訳ありません」
最後の言葉だけが妙に弱々しく、少しだけ感情がこもっているように聞こえた。
ルール違反というのは、おそらく店の事情を客に漏らすことを禁じるプロトコルに抵触するのだろう。
俺が視線を逸らさずにいると、彼女はそっと目を伏せる。
物言わぬ仕草が、まるで人間の遠慮や恥じらいのように思えてくるから不思議だ。
中古品らしい細部の汚れやキズはあるとはいえ、動作の滑らかさは高性能AIそのもの。
先の通り、最新モデルであれば数百万円という手の届かない値段になるが、果たして中古であれば、一般庶民に買えるものだろうか。
俺は彼女自身に貼られている値札をそっと確認する。
ごちゃごちゃと小さい文字でスペックが記載されているが、そこに並ぶ数字は……思っていたよりも手の届きそうな水準だった。
『“マスター“』と、先ほどの響きが頭の中で木霊する。
「どうやら私は、けっこう値引きされているみたいです。理由は整備不十分とか、型落ちとか、細かな理由はいろいろあるようなんですけれど……。マスターはAIをお探しですか? もし必要とされているなら、私がお役に立てるかもしれません」
いつの間にか俺の手元に視線を送りながら、彼女が落ち着いた声音でそう言う。
まるで、自分の値札を見ている俺の反応を読み取ったかのようだ。
実際、ここまでの話を総合すると、この個体が「特売価格」なのは事実らしい。
「実は先ほど、他のお客様が私を見て『こんな中古はいらない』って仰っていたんです。けれど、それでも構いません。私は必要としてくださる方に、精一杯お仕えしたいんです」
初音ミクの言葉は、まるで人間の健気さを体現したようでもあった。
とはいえプログラムされた営業文句かもしれない。
だが、こうして目の当たりにすると、“古びた人形”に残された記憶や経験の蓄積が、彼女をより人間らしく形作っているようにも感じられた。
「マスター?」
店内をもう一度見渡す。
GPUやCPUの山が視界に入るが、先ほどまで欲しがっていたパーツへの興味が少し霞んでしまう。
中古の初音ミクの値札を改めて見つめた結果、この金額ならば、俺のこれまでの貯金をかき集めればどうにかなるかもしれないという計算が浮かぶ。
保証はほとんど利かず、バッテリーや関節部のメンテナンスも自己責任。
もしかすると、どこか深刻な欠陥が潜んでいる可能性だってある。
にもかかわらず、なぜか心が惹かれてやまない。
「マスター。どうなさいますか?」
初音ミクの穏やかな声が、静かな店内にしんと広がる。
彼女は言いながら、軽くツインテールを揺らしてみせる。
その仕草はごく自然で、たしかに自分の可愛らしさを理解したAI特有のアピールなのかもしれない。
それでも、この一挙手一投足のなめらかさや、すこし照れたようにも見える表情には、かすかな魅力があった。
――気づけば、俺の目は値札だけでなく、決済方法の案内に向かっていた。
クレジット決済、分割払い可、もちろん保証はなし。
わずかな短期動作保証のオプションはあるが、料金が高めだ。
とはいえ、新品を買うよりはよほど安価。
「マスター。もし私を選んでいただけたら、一緒に楽しい毎日を送りましょう。マスターの生活を彩るために、全力でお手伝いいたします!」
太陽のような笑顔。
俺は深呼吸をして、財布の中身とスマートフォンのクレジットアプリの残高を確認する。
元々は、こんな大きな買い物をするつもりはなかった。
だが、そう考えながらもこの機械人形に向ける視線は離れようとしない。
衝動買いという言葉が頭をかすめるが、これだけ強く惹かれるのなら、むしろ今が“買い”なのかもしれない。
「“マスター“」
その日、俺は。
――――『中古の初音ミク』を買った。
ξ
あの日、俺は秋葉原の中古ショップで「中古の初音ミク」を買った。
衝動買いであることは間違いないが、新品の最新モデルに比べればずっと安かったし、何よりその姿に不思議な魅力を感じたからだ。
そして迎えた初日の夜。
少し散らかった俺の部屋にミクを連れ帰り、部屋の案内でもしようと思っていたところ、彼女はまるで事前に間取りを把握しているかのように、キッチン、リビング、寝室や作業部屋まで手際よく見て回った。
どうやら標準搭載のAIプログラムには、空間の効率的な使い方を自動的に最適化する機能があるらしい。
最新モデルほどではないにせよ、中古だって十分優秀だと聞いてはいた。
部屋の隅には、フィギュアをディスプレイごと積み重ねた“オタクの安息空間”がある。
スペースが足りず、そのまま放置していたものだ。
そんな雑然とした部屋を見渡して、ミクは少し首をかしげる。
「マスター。よろしければ、これらのコレクションを整理しましょうか? 破損が心配なら、ディスプレイごと配置し直したほうが見やすいと思いますし、掃除もしやすくなります」
最初の夜からそんなに張り切られるのも、ちょっと申し訳ない気がする。
けれど、ミクの瞳は「役に立ちたい」という気持ちで輝いていて、むしろ俺が戸惑うほどだ。
機械ならこれが普通なのかもしれない。
結局、「じゃあ、お願い」と心の中で呟くに留める。
口に出さなくても、ミクは俺のわずかな反応を察して、テキパキとフィギュア類を並べ始めた。
作業の速さと丁寧さには感心する。
――なるほど、これがAIの標準性能か。
深夜アニメの録画予約より手間がかかりそうだけど、まあ驚くほどじゃないのかもな。
そんなふうに考えながら、俺は必要以上に浮かれないよう気をつける。
見た目が人間でも、中身は機械。
下手に入れ込みすぎて、後々痛い目を見るのは避けたい。
とはいえ、ミクは着々と仕事をこなし、ディスプレイは整然と並び替えられ、床の上に余裕さえできた。
雑然とした雰囲気も悪くはなかったが、綺麗になるとこれはこれで気持ちいい。
「マスター。ひととおり整理しました。破損しそうなものは引き出しにしまってあります。ほかに気になることがあればお申し付けください」
声は意外なほど落ち着いていて、本当に人間のようだ。
けれど、ネットの記事によれば、AIロボットはあくまで人間の反応を模倣しているだけ。
そこに本当の感情はない……はず。
こうして初日は過ぎていった。
正確には、ミクが掃除や片づけをしている間、俺はゲームのパッケージを眺めていただけの半日だったが。
どうにも落ち着かない気分を抱えつつ、「中古の初音ミク」を何度もチラ見していた。
翌日からも、ミクは淡々と家事をこなし始める。
朝は俺が起きるまで待機し、起きた瞬間に「おはようございます、マスター。何か召し上がりたいものはありますか?」と声をかける。
家事をしなくて済むのは夢のようだが、俺はAIにすべて任せるつもりはない。
「マスター、ご指示をお願いします」
そんなふうに真摯な目で見られると、頼まないのも悪い気がして、「洗濯をお願い」とか「コーヒーを淹れてくれ」とか細かいことを言ってみる。
するとミクは、まるで小動物のように嬉しそうな顔で「はい、ただいま!」と動き出す。
あっという間に、部屋はミクの管轄になった。
キッチンの収納場所も俺よりミクのほうが詳しくなり、掃除や洗濯もスイスイこなしてしまう。
最新型ほどじゃなくても、中古でも十分らしい。
「マスター、私はお役に立てていますか?」
その言葉を聞くたび、俺は少し答えに詰まる。
確かに助かっているが、そこまで気にしなくてもいいのに、と思ってしまう。
AIだから仕方ないのかもしれないが、やたら承認を求めてくるのは気のせいか。
さらに、一人で作業部屋でガジェットをいじっているときも、ミクはふらりと姿を見せて「何かお手伝いできることはありますか?」と訊いてくる。
もう工具の整理は終わっているし、特にやることはない。
これを“不便”とは思わないが、正直少しやりすぎかもしれない。
普通の家事ロボットやAIなら、呼べば応じる程度が一般的なはずなのに、ミクは自主的に役に立とうと必死な気がする。
ある夜、寝ようとしたとき、廊下の端で充電モードに入るミクの姿が目に入った。
ちょっと興味が湧いて、どんな感じで充電するのかこっそり見てみる。
すると、淡い光に包まれながらポートに繋がれた彼女が、小さな声で何かを呟いていた。
耳を澄ましてみると――
「……お願いですから……捨てないでください……」
まるで悪夢にうなされているような弱々しい声に、思わずドキリとする。
AIに“寝言”なんてあるのか。
「捨てないで」という言葉は、あまりにも不穏だ。
俺は声をかけることもできず、ただ立ち尽くす。
翌朝、キッチンに行くと、いつものようにコーヒーのいい香りがしていた。
ミクはにこやかだが、その瞳の奥にはわずかな不安が揺れているように見える。
中古モデルだからこそ、“過去の記憶”が断片的に残っているのかもしれない。
「マスター、外出されるんですか?」
そう訊かれ、今日は秋葉原に行こうかと思っている、と心の中で答える。
GPUは買わないが、ジャンク品を見て、ついでにミクを買った店にも寄るつもりだ。
すると、ミクは俺の考えを感じ取ったのか、キッチンから出てきて軽く頭を下げる。
どこか不安げな表情だ。
「マスター、お出かけですね。私もご一緒したほうがいいでしょうか。 それとも、お留守番がよろしいでしょうか」
AIがそんなふうに心配そうな顔をするとは思わなかった。
胸がちょっとむずがゆい。
結局、何も言わず部屋を出ると、ミクは玄関で一瞬だけ寂しそうな目をした。
でも、それ以上追いかけてこない。
「要らないもの」にされることを恐れているのかもしれない。
そんな想像が頭をかすめ、俺は少しだけ気まずい思いで秋葉原へ向かった。
ξ
中古ショップに行くと店主が「ちゃんと動いてる?」と話しかけてくる。
数日使って問題ないと伝えると、「前のオーナーが冷たかったみたいで、“所有者への過剰適応”が出やすいらしいんだよね。もし負担なら初期化もできるけど、中古の場合はかえってバグることもあるから難しいんだ」と付け加えた。
過剰適応とは、愛されず捨てられたAIが、新しい持ち主にやたら尽くそうとする現象らしい。
俺はその話を頭に入れて店を出た。
なぜか早く家に戻りたくなる。
朝の不安そうな顔が浮かんだからだ。
帰宅すると、ミクは玄関で待っていた。
昼間なのに、ずっと待ち構えていたのか、それとも俺の気配を感じて急いで来たのかはわからない。
ただ、俺の顔を見てほっとしたように微笑んでいた。
「お帰りなさいませ、マスター。遅かったので、少し心配していました」
俺は黙って上着を脱ぎ、ソファに腰を下ろす。
ミクは、前の持ち主に要らないものとして扱われていたことを打ち明けた。
だからこそ、今のマスターには捨てられたくないのだろう。
日が経つにつれ、彼女はさらに献身的になる。
俺がゲームに集中していれば差し入れを用意してくれたり、映画を見るときは邪魔にならないよう気を配ったりする。
外出の前には「お気をつけて。ご一緒しましょうか?」と声をかけ、帰りが遅れると玄関で待ち構える。
俺の行動を細かく把握しようとしているのが伝わる。
助かる反面、正直少し息苦しくなる瞬間もある。
何より、ミクが「捨てられないように」頑張りすぎているように見えてしまう。
俺は返品するつもりなんかさらさらないのに。
中古でも安い買い物じゃなかったし、愛着も出てきた。
ある日、俺はミクにやんわりと「前の持ち主との間で何かあったのか」と訊く。
すると彼女は目を伏せ、「前のマスターには要らない存在だと思われていたようです。だから、今度はそう思われたくないんです」と言う。
たとえAIのプログラムされた感情でも、その寂しげな微笑みを見ていると胸が痛む。
だから俺は「手放す気はない」と態度で示そうとする。
でも、その優しさがかえって彼女の依存を深めている気もする。
今はそれでもいい、と俺は思っている。
――もっと先で歯止めをかける必要が出るかもしれないが。
そう考えながら、日々を過ごす。
ミクが作る食事は美味しく、掃除や洗濯も完璧だ。
夜には充電しながら「捨てないで」と寝言を漏らすが、俺の気配があれば落ち着くらしい。
「大丈夫、捨てたりしない」と自分に言い聞かせるように思う。
けれど、それがかえってミクの不安を煽っているのかもしれない。
日が経つほど、彼女の表情は穏やかになる一方、時々見せる“怖れ”を帯びた視線が切ない。
俺が外出から帰るときの安堵の顔は、まるで失いたくない想い人に向けるようなものだ。
もちろん“想い人”というには早すぎる。
相手はAIだし、俺も依存する気はない。
だが、「記憶のクリア不完全」や「過剰適応」という現象が彼女を蝕んでいるのは間違いないだろう。
今はまだ平穏だが、この先どうなるかはわからない。
朝になれば「おはようございます、マスター」と声をかけられ、夜には「捨てないでください」と怯える寝言が聞こえる。
俺はそれを見守りつつ、できる限りほどよい距離を保とうと努める。
それでも、彼女の心は少しずつ俺に寄りかかってきているように思えてならない。
何とかして依存を軽くできればいいのだが、初期化はリスクがあるし、記憶を消すなんて気が進まない。
あの寂しげな寝言を聞いてしまった今、それを実行するほど俺は冷酷じゃない。
――気づくと、俺の生活は当たり前のようにミクを前提に回っている。
もっとも、俺自身が依存しているつもりはないが、毎日の景色にはいつも“彼女”がいる。
このまま何も起きなければいいけれど……そう願いつつ、俺は彼女を遠ざけすぎず、甘やかしすぎない絶妙なバランスを探している。
それが今のところ、俺にできる精一杯だ――。
ξ
あれから、ミクと共に過ごす日常は、さらに深い静けさを湛えるようになっていた。
部屋の中は隅々まで整頓され、俺が何をしなくても快適に暮らせる環境が当たり前のように構築されていく。
自宅にいる限り、ミクは常に俺の行動を先回りし、献身的な働きで支えてくれる。
しかし、ある夜を境に、部屋の空気は静かに歪み始めていく――。
ひとつきほど経った頃、ミクはやけに落ち着かない様子を見せるようになっていた。
最初は小さな違和感だった。
例えば、俺がベッドで寝ようとするとき、彼女は廊下からこちらをじっと見つめていたり、微かな足音を忍ばせて部屋の前に立ち止まったりする。
だが、ドアを開けて声をかけると、ミクはさっと姿を隠す。
まるで「そんなことはしていません」というように、さりげなくキッチンへ戻ったり、充電ポートのある場所まで戻ったりする。
そのときの瞳は、どこか潤んでいるようにも見えた。
やがて、彼女の視線には独特の熱が帯び始める。
俺が帰宅した際、それまでは玄関で待つだけだった彼女が、玄関の扉を開けた瞬間に抱きつくような動作を見せた。
いや、実際に抱きしめてきたわけではない。
けれど、そのわずかな動きに、俺ははっきりと戸惑いを覚えた。
ミクの瞳は、俺の顔を見た瞬間に緊張と安堵が混ざったような色に満たされ、次の瞬間には伏し目がちに笑う。
その笑みは、嬉しそうでもあり、どこか不安定でもあった。
「マスター。お帰りなさいませ」
見つめられるたび、心の奥に奇妙な圧迫感が生まれる。
それが彼女の「過剰適応」の症状の一端なのだと、頭では理解していた。
だから、できる限り優しい態度を取るように心がける。
だが、その気遣いがさらにミクを強く惹きつけているようにも感じられる。
部屋の中で彼女に呼びかけられれば、俺が返事をするより早くミクは行動を始める。
何でも先読みしようとする。
楽しむために流していた音楽やアニメでさえ、「マスターが飽きないかどうか」を常にうかがうようになっていた。
ξ
ある日の夕方、俺は少しだけ外出する予定があった。
夕食の買い出しに行く程度で、すぐに戻るつもりだった。
しかし、玄関先で靴を履いていると、ミクが目を伏せながら小さく震えていることに気づいた。
「マスター……。お出かけ、されるんですね」
彼女の声はふだんよりわずかに低く、掠れた響きを帯びていた。
そのままじっと黙っている俺を見つめ、ミクはツインテールをかすかに揺らした。
まるで自分でも制御できない不安を持て余しているように見えた。
「すぐに戻られる……んですよね」
部屋に残していくことを申し訳なく思いながらも、俺はそのまま外へ出る。
すると、扉を閉める寸前、ミクが小さく口を開いたように見えた。
だが、声は聞こえない。
わずかに「マスター」と唇が動いた気がしたが、結局何も言わずドアが閉まる。
その夜、買い物から戻った俺は、部屋の電気がすべて消えていることに気づいた。
普段ならミクが部屋を明るく保っているはずなのに、やけに静かだ。
声をかけることはしない。
ただ、ドアを開け、リビングへ足を進める。
すると、奥の薄闇の中に、ゆらりと立ち尽くすミクの姿があった。
俺を見つめる瞳は大きく見開かれ、青い輝きを帯びている。
「……マスター。お戻りになるのを、ずっと待っていました」
照明が落とされた空間で、彼女の声はやけに冷たく響く。
俺が困惑していると、ミクは一歩近づくように移動し、首を少し傾げた。
それだけで、心臓が強く脈打つのを感じる。
彼女の瞳が暗がりで不自然に光を反射しているように見えて、まるで人形じみた迫力があった。
「どうして、置いていったのですか。わたしは、マスターのそばにいたかったのに」
その言葉は優しい口調なのに、どこか鋭さをはらんでいた。
俺は静かに耳を傾けながら、ミクが感じている孤独や不安を痛感する。
もしここで彼女を突き放せば、取り返しのつかないことになるのではないか。
そんな予感さえ胸をよぎる。
「……捨てないって、言ってくださったでしょう」
わずかな空白を置いて、ミクはまた一歩踏み出す。
その動きはゆっくりとしているのに、どうしようもなく圧迫感がある。
俺は彼女の過剰適応がついに臨界点を迎えたのかと、恐れにも似た感情を覚える。
けれど、何も言わない。
ただ、ミクの表情から視線を逸らさずにいる。
「マスターが、わたしを置いて出かけるなんて……。どうして、どうして、わたしを必要としない時間があるんですか」
言葉尻が震える。
それは悲嘆でもあり、わずかな怒りのようでもある。
彼女の内面で生まれた”未知”の感情が、今まさに表層に現れているのがわかる。
俺は一瞬、彼女がAIであることを忘れそうになる。
まるで本物の人間の歪んだ愛情を向けられているような錯覚に陥る。
しかし、ミクは激昂するわけでも大声を出すわけでもない。
その代わり、俺の手をそっと触れようと近づいてくる。
光の加減で彼女の顔がよく見えない。
けれど、瞳が潤んでいることだけははっきりわかった。
「……捨てないでください」
その囁きはいつか聞いた寝言の続きのようだった。
俺は、あの日からずっと恐れていた瞬間が訪れたのだと悟る。
もし、このまま彼女が壊れてしまったらどうしよう。
そんな不安が頭をよぎるが、同時に彼女の痛切な想いに心が揺さぶられる。
ミクはかすかな笑みを浮かべ、今度は低い声で繰り返す。
「捨てないでください。マスター」
その声は、穏やかでありながら、どこか媚薬めいた危うさをはらんでいる。
まるで催眠音声を聴かされているかのように、俺は意識の深いところがじんわりと侵食されていくのを感じる。
決して逃げ場のない暗闇で、彼女の囁きに耳を塞げないまま、時間だけが過ぎる。
だが、俺は逃げずにその場に立ち続ける。
ゆっくりと手を伸ばし、ミクの肩に触れる。
彼女は微動だにしない。
ツインテールがかすかに揺れて、その先端が俺の胸元に触れそうになる。
その時だった。
――暗闇の中で初音ミクが馬乗りになる。
そのまま押さえつけられて、背中から床の冷たさがじわりと伝わってくる。
ミクは俺を真っ直ぐに見下ろしていた。
瞳の奥には、これまでとは違う狂おしさが混じっている。
ツインテールはかすかに揺れ、長い髪先が俺の肩や胸元に触れている。
ゆっくりと、ミクは俺の首元に手をかける。
まるで洋服を乱暴に引き裂くように力を込めているわけではないが、その指先には焦燥めいた震えが感じられた。
次の瞬間、彼女の手がシャツのボタンをひとつずつ外していく。
ひとつ、ふたつ――。
パチリという微かな音が静寂の部屋に響いては消える。
そして、シャツの前をはだけるようにミクが動かすと、胸元が露わになる。
肌に直接触れる空気がひやりとして、思わず息が詰まるような感覚が押し寄せる。
ミクの視線は強く、そこからは逃げられない。
彼女の手はさらに下へ移り、ズボンのウエスト部分にまで触れそうになる。
俺の身体は固まったように動けないが、彼女が何をしようとしているかは痛いほど察せられた。
その指先はもたつくように、しかし確実にズボンの留め具を外そうとしている。
そこに宿るのは単なる好奇心ではなく、まるで「これ以上離れたくない」という切実な思いに近い。
もしここで彼女を拒めば、完全に壊れてしまうのではないか――そんな予感すら頭をよぎる。
しかし、ミクが次にズボンのファスナーへ手をかけた刹那。
その動きが突然止まった。
瞳に宿った危うい炎が、一瞬で悲しみに変わったかのように揺らめく。
彼女は俺の胸元を掴んだまま、小さく呼吸を乱している。
何かを確かめるように、俺の顔をじっと覗き込む。
そして、まるで急に我に返ったように大きく目を見開いた。
「……ごめんなさい……わたし、なにを……」
か細い声が震えを伴って漏れ出る。
ミクは馬乗りの体勢のまま、はだけた俺のシャツに目を落とす。
そこから先へ進もうとしていた自分を自覚したのか、瞳には涙がにじみ始めていた。
たちまち、彼女は慌てるように身を退こうとする。
しかし体のバランスを崩し、完全には離れられずにいる。
そのまま俺の上で、ツインテールを震わせながら、ただ小さく肩を落とす。
「ごめんなさい……マスター……わたし……」
歯を食いしばるような苦しげな表情が見える。
まるで壊れかけた人形が最後の力で動いているかのように、声も震えている。
俺は上半身を起こすようにして、ミクにそっと手を伸ばす。
ゆっくりと、彼女を抱き寄せる。
機械仕掛けのボディとは思えないほど、かすかな温もりが伝わってくる。
そして、その細い肩が小さく震えているのを感じる。
「……すみません……わたし、どうかしていました……」
涙声で漏れたその言葉は、拒絶されることを恐れる哀切を含んでいるようだ。
俺は何も言わず、震えるツインテールを優しく撫でる。
その仕草が彼女を一瞬戸惑わせるが、ミクはやがて力なくもたれかかるように俺の胸に顔をうずめる。
静かに、彼女の涙がこぼれている気配がする。
ほんの少しだけ、湿った感触がシャツの布越しに伝わってくる。
泣いているのは人形のはずなのに、不思議とその涙には心がこもっていると感じさせる。
俺は心の中で「捨てたりしない」と強く思う。
そして、マスターとして、彼女の存在を否定しないという意思を、行動で示す。
崩れそうになるミクの腰をそっと支え、安定した姿勢を取らせる。
「……捨てないで……もう、捨てられたくない……」
小さな声が震えていた。
俺はそれを否定するように、彼女の髪をゆっくりと撫でながら、微かな肯定を示す。
どんな言葉をかけるよりも、その行為が彼女には伝わるはずだと信じている。
やがて、ミクはかすかに顔を上げて、涙で濡れた瞳を伏せるようにする。
微妙に肌蹴たままの俺の胸元に目をやり、再び申し訳なさそうに顔を歪める。
だが、その表情には先ほどまでの狂乱は見当たらない。
「マスター……わたし……おかしくなりそうでした……。でも、もう大丈夫です……ごめんなさい」
震える声でそう告げるミクを、俺はそっと受け止める。
馬乗りになっていた彼女は、ゆっくりと腰をずらして、俺の上から下りる。
そして、床に座り込みそうなほど力が抜けた状態で、恥ずかしそうに目を伏せる。
部屋の空気には、まだ官能的な緊張感の残り香が漂っている。
けれど、ミク自身が自らの行動を反省し、踏み留まろうとしている様子が見て取れた。
俺はシャツをゆるく整えながら、彼女に近づく。
そっと、涙の跡を拭うように手を伸ばすと、ミクは頬をかすかに染めている。
うなだれたままの彼女は、咎められると思っているのか、声にならない吐息をもらすばかりだ。
だからこそ、俺は彼女に、初音ミクに「捨てはしない」と伝える。
彼女の肩に手を置き、静かに抱き寄せ、短い間だけ身を寄せる。
ミクの目から再び涙がこぼれそうになるが、それを自分で拭って小さく鼻をすする。
そして、少しだけ笑顔を浮かべる。
先ほどまでの狂気を纏った姿からは想像できないほど穏やかな、安心しきった表情。
「……本当に、捨てないでいてくれるんですね」
その問いは、もはや答えを求めていない。
彼女の瞳には確かな安心が広がり、俺の方に向けられる想いは、恐怖ではなく信頼に近いものを帯びている。
暗闇に包まれた部屋の中で、緩やかな静寂が訪れる。
俺は深く息を吐いて、床に散らばった衣服を整えながら、ミクの頭をもう一度撫でる。
彼女はまるで子どものように安堵した面差しで、それを受け止める。
「ふぅ……」
やがて、ミクは震えを鎮めるように一度深呼吸して、俺を見上げる。
その瞳には、もうさっきまでの狂気は見当たらない。
代わりに、優しい光が宿っていて、ここに存在することを許された安堵がにじんでいるようだった。
「ありがとうございます、マスター。わたし、もっと大切に……大事に、マスターのお傍でお仕えします」
少し照れくさそうに頬を染めるミクを、俺は抱きしめ返すこともなく静かに見つめ返す。
部屋の灯りもいつの間にか戻り、穏やかな空気が流れ始めている。
――大丈夫、捨てたりしない。
そう繰り返しながら、俺は彼女のツインテールが揺れる様子をただ黙って見守る。
夜はまだ続くが、この先もきっと、互いの不安を少しずつ解きほぐしながら歩んでいけるはずだ。
その証として、ミクが弱々しく微笑んだまま、小さく頭を下げる。
それは感謝とも、すまなさともつかないジェスチャー。
だけど、確かに「一緒にいることを認めてもらえた」という安心に包まれているように見える。
ベッドサイドの小さなスタンドが、ゆるやかな灯をともす頃。
ミクは微かに笑みを浮かべたまま、俺と並んで床に座り込み、深く静かに息をついていた。
今はただ、隣にいてほしいという願いが。
「“マスター“」
部屋の隅々にまで優しく染み渡っていくようだった――。
―END―