導星の錬金術師 作:星見錬
それは、なんてことない日常のこと。
ゴトリ。
突然、鈍い音が頭の中で響いた。同時に、ぐるりと回った視界の端に地面が映る。
そこでようやく、自分が倒れたことに気付いた。
「──あ、ぇ?」
呂律が回らない。視界と思考が急激に遠のいていく。
体のどこにも痛みはないものの、指先ひとつ動かせない。
事態が掴めない中で、天啓を受けたように一つの結論に辿り着いた。
私は今から死ぬのか。
……なんて、あっけない。
自分でも意外なくらい、すんなりと人生の終わりを受け止める。
録り溜めたアニメ、買ったまま放置してたゲーム、最後まで集めたかった単行本。
……ついでに家族や友達。未練は山ほど積み上げてきたはずなのに。
最大の未練となるであろう
そう思うと、全部どうでもよくなってしまった。
ああ──まるで、永い余生のような人生だったな。
最期に細く息を吐いて、そのまま目を閉じた。
ふわふわ、ぷかぷか。
何も見えない中、私の意識はどこかに漂っていた。
心地よいリズムに揺られるまま、消えようとした私を──
「まだ早い」と、何かが引き上げようとしている。
「早く来い」と、何かが引きずり込もうとしている。
二つの力は拮抗していたものの、最終的に勝ったのは引きずり込む方だったらしい。
その力に導かれるままに、私は目を覚ました。
「……あれ?」
霞んでいた思考が一気に晴れる。
まず見えたのは白。眼前に、真っ白な空間が延々と続いている。
呆然としながら頭上を見る。白い。足元を見る。白い。左右も見渡してみる。以下同文。
文字通り、無限の白ばかりが広がっていた。
「えぇ……」
出るのは困惑の声ばかり。
もしもここが死後の世界なら、神はとんでもない手抜き野郎だ。
せめて、天国か地獄かくらいは提示していただきたい。
そんなとりとめもないことを考えつつ、最後に残った背後を振り返る。
「──は、」
思わず後退りそうな足を、どうにか押し止めた。
「ははっ……マジかよ」
ありえない。あるはずがない。そんなわけがない。
だが、私が愛するあの漫画にはこんな言葉がある。
『「ありえない」なんて事はありえない』
……まさか、こんな形でそれを体感するとは。
背後にあったのは、宙に浮かぶ巨大な黒い扉。
白い空間と黒い扉の組み合わせなんて、私が知っている限りは一つしかない。
そして私にとって
間違いない。ここは──
『鋼の錬金術師』に登場する、真理の空間だ。
私は鋼の錬金術師が好きだ。大好きだ。
未だにアニメ二期*1のOP前の口上を、そらで全部言えるくらいには好きだ。
ガチで好きすぎて原作及びFA以外は邪道、あるいは存在すら認知していない。
俗に言う厄介オタクである。
だからこそ分かった。私がこの光景を見間違えるはずがない。
人体錬成──作中の錬金術における禁忌を犯した者だけが訪れる場所。
『真理』と引き換えに、身体の一部や機能などを『通行料』として差し出す場所。
錬金術師にとっての到達点であり、処刑場──それが、『真理の空間』である。
と、恰好つけながら説明してみたものの。
分からないことが一つある。
何故私がここにいるのか?
私は人体錬成などやっていない。そもそも錬金術師ですらない。
鋼の錬金術師──略してハガレン世界の錬金術は、現実の錬金術とは大きく異なる。
ハガレン好きが高じてリアル錬金術もかなり調べたから、その点はよく知っているとも。
残念なことに、現実世界ではどう足掻いてもハガレン世界の錬金術を再現できない。
要するに、私がここに来る原因も理由もない……ということだ。
唯一の心当たりと言えば死んだことくらいだが、
「つーか、扉無地じゃん。じゃあ、ここは『お父様』の真理ってこと……?」
いや、ラスボスの真理の空間とか更に来る理由ないだろ。
あまりにも意味不明かつ理不尽な光景を前に、腕を組んで考え込む。
死の間際に見る幻覚?
死ぬ所までひっくるめた壮大な夢オチ?
それとも、本当に──
『ようこそ、現実逃避中のバカ野郎。もう気は済んだか?』
背中越しに嘲るような声が響いた。何重にも重なった、老若男女すら定かではない声だ。
しかし、正体は最初から分かっていた。
「……やっぱり、お前か」
振り向いて声の主を確認した途端に、ついうんざりとした顔になってしまった。
そこにいたのは立て膝の形で座る、黒いモヤに覆われた白いシルエット。
皆お馴染み真理くんである。
『また随分と肝が据わったヤツが来たな。少しは驚いてみせたらどうだ?』
「いると分かってるヤツに驚けるほど、私は小心者じゃないんでね」
にやりと笑う真理くんの軽口を、肩をすくめてやり過ごす。
……正直に言うと、理解力がキャパオーバーしたせいで逆に冷静になっただけなんだけども。
ただ、そうなっても仕方のない話だろう。なんせこちらは死にたてほやほや。
そんな状態で、何の因果か心の底から愛する世界へと紛れ込んでしまったのだ。
パニックにならないだけむしろ褒めてほしい。
まあ、それはそれとして。こうして対面したまま黙り込んでても埒が明かない。
他に誰もいない以上、眼前の真理くん(もう真理でいいや)に諸々を訊ねるしかないだろう。
そう思い、「まず何から聞こうかな」と考え込むために視線を下へずらした瞬間。
「…………え?」
先程から目に入らなかった──否、
咄嗟に真理へ目を凝らし、次にわなわなと震えているはずの自分の手の平を
何も、見えない。
相手によって姿形を変化させる、真理の不確かな輪郭。そして私の姿そのもの。
それらがピントのズレたような、あやふやな形でしか認識できない。
さっきまで確かに人間としてこの地に立ち、ヤツと会話して、人間らしく振舞っていたのに。
分からない。
自分が一体どこの誰で、どんな姿で、どんな人間だったのか──
そんな根本的な情報が、外見からも脳内からもごっそりと抜け落ちていた。
「────ッ!!」
自我が霧散する感覚に襲われて、たたらを踏む。
真理は黙ったまま私をじっと見つめるだけだ。声をかける気配すらない。
どうやら、私がここからどうするのか観察しているらしい。
だから──
ダァンッ!!
ふらつく足をわざと力強く踏みしめて、足裏から伝わる痛みで意識を覚醒させる。
『……ほう?』
興味深そうな声。相変わらず実体のハッキリしない
どうにか立て直せた理由……今の私を繋ぎ止めているものは、ほんの僅かなものばかり。
例えば、人間としてのちっぽけな
だけど、私の中にはそんなものよりも大きく、より強固な
『鋼の錬金術師の記憶』だ。
……まったく、我ながら筋金入りすぎて
自分の存在や記憶よりも、たった一つの漫画の方を大切に覚えてるなんて……ね。
『おお、何とか持ち堪えたか! やっぱり、
自我の喪失に耐える私を見て、真理は無責任に笑う。
顔が見えないのに、
『あと少しだけ自我を保っといてくれよ? そろそろ
「ッ……無茶を、言ってくれる……」
真理に負けず、私も感触だけある汗を拭ってふてぶてしい笑みを浮かべた。
コイツにだけは弱みを見せてたまるか──そんな強がりだけで平気なフリをする。
やせ我慢を続ける私に対し、真理は軽い口調で言った。
『心配するなよ。今はまだ、お前の『魂のカタチ』が定まってないだけだ。扉が無地なのもそう』
真理が私を指差し、次に背後の扉を指し示す。そして、最後に真理自身に指を向けた。
『オレの今の口調も、お前がよく知る方の真理の模倣に過ぎない。いつか
「得たの、なら?」
『その通りに変化するだろうさ』
先程から真理の話が理解できない。
『魂のカタチ』だの、『向こう側』だの──原作では何一つ存在しない話に、頭が混乱する。
困惑する私を見て、再び真理が
……ああ、腹が立つ。でもそのニヤケ面自体は、原作で散々見たから理解できてしまった。
こいつは間違いなくハガレンの真理だ。
そして私に対応する真理でもある。
だが、あえて
私の確信を証明し──それと同時に、オタクとしての欲望を叶えるために。
「……
『はあ? もう知って……ああ、そういうことか』
私の問いかけに合点が行ったらしい真理は、
『──良いぜ、特別に聞かせてやろう!』
大仰に手を広げ、
『オレは──』
『お前達が“世界”と呼ぶ存在』
『あるいは“宇宙”』
『あるいは“神”』
『あるいは“真理”』
『あるいは“全”』
『あるいは“一”』
『そして──オレは、“お前”だ』
……ああっ、原作で見たシーンそのままだ! こちらを指差す所まで、全部原作で見た通り!!
嫌な予感すら吹き飛ばすほどの興奮に思わず身震いする。
知らず知らずのうちに手が顔を覆い、上がる口角を隠そうとしていた。
『……お前、本物だよ』
何故かドン引きしたような真理の声をかき消すほどの轟音が、背後から響く。
真理の扉が開く音だ。振り向けば、扉の中には底なしの闇と巨大な目が浮かんでいる。
その闇から細長い黒い腕が、無数に伸びてきた。これもお約束のウネウネだ。
ウネウネした腕達は輪郭すらあやふやな私を掴み、扉の中へと引きずっていく。
『心配しなくても、代価は既に支払われてるぜ。あとはお前が
……代価が支払われている? 誰によって?
その代価が等価交換によるものだとして──一体何を代償に?
問いただそうにも、口は既に腕の一つによって塞がれてしまっていた。
伸ばした腕もすぐに絡めとられ、ロクな抵抗もできずにズルズルと扉の中へと呑まれていく。
『さて……お前はあの世界に、どんな変化をもたらすんだろうな?』
楽しげな真理の声を最後に、ゆっくりと扉が閉まる。
白い世界から一転、何も見えない黒の中──再び私の意識は途絶えた。