導星の錬金術師 作:星見錬
そして大変お待たせしました。
本来なら一話だけの予定だったのですが、また予想以上に筆が乗ってしまったので、今回は前後編の二話投稿になります。
お楽しみいただければ幸いです。
あれから、私はエルリック家への足が遠のいていた。
分かっている。私が被害者面していいはずがない。これはただの逃げだ。
だけど、自分でも思った以上にエドに責め立てられたのが堪えていた。
だからと言って、何もしていないわけじゃない。
今はロックベル夫妻の助手のような立場で、二人を手伝っている。
何か心境の変化があったのか、夫妻が「私達も最後まで諦めない」と言ってくれたから。
あくまでも法に触れない範囲で、やり方を学びながら診察の補助をするようになった。
他の患者の処置が早く終われば、その分トリシャさんにかけられる時間が増える。
その時間を積み重ねれば、次の薬が届くまでの猶予を作れるかもしれない。
今の原動力はそれだけだった。
……それでも、本題から目を逸らし続けていることに変わりはない。
今日こそ、ちゃんとエルリック兄弟に謝ろう。トリシャさんにも謝って、介護を──
私がそう考えていると、
「……少し、話しましょう」
突然、部屋からクリスが出てきた。
瘦せ細った体とは裏腹に、クリスの言葉は有無を言わせない強さがある。
肌はすっかり青白くなって、頬もこけてしまっていた。
なのに、ぼさぼさの金髪の隙間から覗く瞳だけが光っていて、独特の存在感を放っていた。
冷たい視線に射抜かれ、思わず身が竦んでしまう。
「分かった。……お茶、淹れてくるね。リビングまで降りられそう?」
「ええ。お願い」
少し駆け足で階段を降りる。背後から少し遅れて、彼女が降りてくる音も聞こえた。
ただ、その音はあまりにも軽い。姿も相まって、まるで幽霊みたいだ。
キッチンに立ってお湯を沸かす。
茶葉をすくった手は少し震えていた。不安を拭うために、何度か深呼吸を繰り返す。
──どうして、今になって「話しましょう」なんて言い出したの?
今までずっと、何を考えていたの? ……私のこと、どう思っているの?
数々の疑問が、頭の中で渦巻いていた。
けれど、今のクリスからは近付くのも躊躇うほどの緊張感が漂っていて、どれも尋ねられそうにない。
窓を見ると、いつの間にか雨が降り始めていた。
雨は瞬く間に勢いを増し、ざあざあと雨粒が窓を叩いている。
「酷い嵐になりそうだ」と、どこか他人事のように思った。
「…………」
ちらりと向かいに座るクリスを見る。彼女はじっと、カップの中の紅茶を見つめていた。
もう数分は経つのに、一向に話を切り出そうとしない。
痺れを切らし、こちらから何か切り出そうとして──まともな話題がないことに気付いた。
何を話しても彼女を怒らせるか、あるいは私の一方的な弱音になってしまいそうで。
……こんなの、家族と呼べるはずもない。
思えば、私はクリスのことをほとんど知らない。いや、積極的に知ろうともしていなかった。
私はいつも、エルリック家やロックベル家にばかり通っていたから。
好きな作品に転生したことに有頂天になって、原作キャラや
同居人である彼女のことなんて、ほとんど気にしていなかった。
むしろ、錬金術を学ぶことや、リゼンブールの外へ出ることを邪魔する厄介者とすら思っていたくらいだ。
そんな私が、彼女をどうこう言えるわけがない。……悪いのは私だ。
ずきりと胸に痛みが走る。自分のどうしようもなさに、どんどん打ちのめされていく。
「……あなたは、知らないでしょうけど」
俯いたまま、クリスがようやく口を開いた。
「
自分だって病気で苦しいはずなのに、わたしのことばかり気遣ってくれた。
奴らの実験で命の危険に晒されていた時も、そのことを悟らせまいと頑張ってくれた。
……だから、わたしは最期まで気付けなかったの。あの子が、どんな目に遭っていたか」
カップを握る手に力が入り、指先が白くなっているのが見える。
彼女の話は、まるで懺悔のようだ。
「……クリス?」
問いかけを挟んだものの、こちらを少し睨んだだけで、彼女が答えることはなかった。
窓の外は最早嵐になっていて、雷の光が何度もリビングを照らす。
「──あの時の、わたしの絶望が分かる? 分かるわけないでしょうね。
一度も、わたしを省みないあなたなんかに……!」
突然、クリスが勢いよく顔を上げた。雷光に照らされ、般若のような顔が浮かぶ。
勢いのまま、クリスは叫んだ。
「十四歳の誕生日に
彼女の手が私に迫る。
「ぶたれる!」──そう思って咄嗟に身構えると、その手は顔ではなく、胸を強く突いた。
ドンッ!
予想以上に強い力で押されて、椅子ごと後ろに倒れ込む。
「ぐうっ!?」
後頭部と背中を強かに打って呻き声が出た。
まともに息ができない。体のあちこちが痛み出す。
混乱の最中、それでも「逃げなきゃ」という脳内の警告に従ってずりずりと後退る。
「まっ……て、クリ、ス、落ち着い」
「何逃げようとしてるの?」
いつの間にかこちら側に回り込んでいたクリスが、私の上に馬乗りになった。
ぎらぎらと光る瞳に背筋が凍る。
後から気付いたけど、あれは間違いなく殺意だった。
人は殺意を向けられただけで動けなくなる──そんな当たり前のことを、私はこの時知った。
「わたしにだって、あなたと家族になろうと頑張った時があったわ。だけど、あなたはどう?
一度でも私を家族だと思ってくれた? わたしの妹であろうとしてくれた?」
「そ、れは……」
「……しなかったわよね。そんな努力なんて。わたし達ずっと、上辺だけの関係だったもの。
あなたを、あの子だと信じようとしたわたしが馬鹿みたい」
一方的にまくし立てると、クリスは私の襟元を掴んで持ち上げた。
首にだけ力がかかって気道が絞まる。苦し紛れに彼女の腕に手を伸ばす前に、
「──どうでもよかったんでしょう、わたしのことなんか!!」
頭を床に叩きつけられた。
割れるような衝撃と共に視界が明滅する。
「──ッ!?」
「おまえなんか!」
再び持ち上げられて、もう一度。
「おまえみたいな化物なんか!」
更にもう一度。
衝撃は耳鳴りに変わっていた。口の中に鉄の味が広がる。
「おまえさえ、造られなければ……!!」
「や、め」
静止の言葉を言い切る暇すらない。視界が揺れて吐き気がする。
どうにか抵抗として彼女の腕を掴んだものの、何の効果もなかった。
あの瘦せ細った体のどこに、そこまでの力が残っていたのか。
何度も力任せに私を揺さぶるクリスの頬を、涙とも汗ともつかない雫が伝う。
「はあっ、はあっ……!!」
もう何度目かも分からなくなった時。
とうとう体力が尽きたのか、クリスが私の襟元を手放した。
「今逃げないと本当に殺される」──そう思って、脱出するために腕に力を籠める。
しかし、一足遅かった。
「あいつらに奪われる前に……わたしの手で……!!」
今度は直接、首を絞められた。
喉が潰れて声すら出せない。彼女の爪が食い込んで、肌を裂く感触がする。
首の後ろは未だに無事なものの、血印が破損するのも時間の問題だろう。
「……っ、ぅ、…………?」
どうにか息をしようと藻掻く中で、不意に──
「────ッッ!!」
今の状況よりも、私を殺そうとするクリスの狂気よりも、外の嵐の轟音よりも。
他の何よりも恐ろしい事実に気が付いてしまった。
──
今の私は間違いなく呼吸ができない状況にあるのに、思考は変わらずクリアなままだ。
身体は痛みを訴えているものの、それもどこか遠く感じてしまう。
多分麻痺じゃない。鈍化でもない。……まるで、夢のような非現実感だった。
「私のっ……私の妹を返してよ!」
クリスの言葉さえ、今はただの雑音にしか感じない。
本格的な命の危機を前にして、心が急速に凍り付いていく。
痛覚を閉じて、目の前の人物を冷静に観察する私がいる。
……これはきっと、
魂と身体が真に繋がっていない、造り物だからこそできること。
ああ、「人間じゃない」ってこういうことか。
所詮私は、自分を人間だと思い込んでいただけの──
「この、化物ぉッ!!」
──
「ひでー目にあった……」
オルティーズ家の軒下で、濡れ鼠のエドワードはそうぼやいた。
「まさか、いきなり土砂降りになるとはな。……リゼンブールではよくあることなのか?」
「うーん、めずらしい……というか、ボクたちも初めてです」
同じく全身ずぶ濡れのアルバートの問いに、アルフォンスが服の裾を絞りながら答える。
三人は道中雨に降られ、慌てて目的地に駆け込んだのだ。
各々で服の水気を切り、「ステラにタオルでも借りよう」と話す最中。
「……ん?」
ノックしても反応がない玄関のドアに耳を押し当て、中を窺っていたエドワードが怪訝そうな声を上げた。
「なんか……ケンカか? 大きな声が聞こえる」
雨音にほとんどかき消され、発言者も分からなければ、内容もまともに聞き取れない。
ただ、声の大きさからして尋常ではない物事の気配があった。
「何だと?」
アルバートは眉をひそめ、エドワードと共にドアに耳を寄せる。
無言で目を閉じ、声に集中すること数秒。
「────っ!」
突然血相を変えたアルバートが、乱暴に玄関を開け放った。
「ちょっ……」
「アルバートさん!?」
「待て、やめろ!!」
兄弟が静止する間もなく、彼は迷いなく家の中へ駆け込む。
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、何を言う間もなく彼の後を追った。
彼の様子からして、何か異常事態が起こっていると理解したからだ。
家の中に入った兄弟が対面したのは──
電気が付いているはずなのに、どこか薄暗いリビング。
男女の言い争う声。雷光。ざあざあという雨音に混ざる、何かが落ちる鈍い音。
エルリック兄弟は、その光景を一生涯忘れることはないだろう。
幼い少年達が目撃したのは、
「離して、離しなさいよ! 私は今すぐそこの化物を殺さないといけないの!!」
「クリスチナ頼む、やめてくれ……!」
人間が、狂乱する姿だった。
「え? ……え?」
「に、兄ちゃ……なに、あれ……」
混乱するエドワードの腕に、怯えたアルフォンスが縋りつく。
どうにか弟を背後に庇いつつ、エドワードも恐怖で立ち尽くしていた。
兄弟の視線の先では、アルバートが必死に
その何かは細い体躯で暴れ、髪を振り乱していた。
泣き喚く声はキンキンと耳をつんざき、何を言っているのかさえ分からない。
あれは悪魔だ。二人の目には、どうしてもそうとしか映らなかった。
「殺しっ……殺させてよ、そいつを! この悪魔! 化物ぉ!!」
叫びすぎて掠れた声が、リビングにこだまする。
そこでようやく、何かの正体が悪魔などではなく、ただの人間だと兄弟が理解した辺りで。
とびきり大きな雷光に照らされた顔を見て、二人は再び驚愕した。
「……クリス、お姉さん……?」
呆然とアルフォンスが呟く。
悪魔の正体は、ステラの姉であるクリスチナだった。
瘦せ衰えてこそいるが、癖のある金髪と青い目が確かに彼女だと証明している。
足元から日常が崩れ落ちるような恐怖が、幼心を支配する。
アルフォンスの震えを背に感じながら、エドワードは自分の呼吸が短くなるのを感じた。
今すぐ逃げ出したい。誰かに助けを求めないと。一体何があった? ──ステラは、どこに?
ぐるぐると思考が巡る。激しさを増す嵐が兄弟の答えを急かす。
エドワードはクリスチナを直視したくない一心から、床に視線を移した。
「ぇ、あ……」
そこにあったのは、更なる絶望だった。
「…………」
無言で床に倒れる誰か。全身がぐったりと弛緩していて、動く気配は微塵もない。
──呼吸による、微かな胸の上下すらも。
一瞬だけ幻と見間違う。
だが、床に広がる長い金髪と細い体躯には、あまりにも見覚えがあった。
「ステラ……?」
名前を呼んでも反応がない。エドワードの頭に、最悪の想像が過る。
遅れてステラの存在に気付いたアルフォンスの、すすり泣く声が雨音に紛れて聞こえる。
それにつられて、エドワードの視界もじわじわと滲んできた。
溢れた涙が、目から零れ落ちる刹那。
ゆらりと、特に予備動作もなく。
電源を入れられた機械の如く、ステラが起き上がった。
「…………」
何も言わず俯く彼女の額から、一筋の血が流れる。
ぽたりと垂れた血は、床にひとつの赤黒い染みを作った。しかし、流れたのはその一筋だけ。
一連の光景に人間らしさはなく、全てが造り物のようだった。
ギシ、と震えるエドワードの足が床を鳴らす。
その小さな音に弾かれるように、ステラが顔を上げた。
「ひっ……」
アルフォンスがステラの瞳を見て、兄の背中にしがみつく。
自分達と同じ黄金の瞳が、見たことがないほどにどろりと濁っていたからだ。
「……エド? アル……?」
微かに兄弟の名を呼ぶ彼女の瞳に、ようやく人間らしい光が戻る。
だが、同時にその顔が苦悶に歪んだ。
「……っごめん……ごめんね……ごめんなさい……」
それは、本来ならエドワードが言わなければならない言葉だったはずなのに。
どれだけ絞り出そうとしても、声は微塵も出てくれなかった。
大人達の喧騒も、嵐の轟音も遠く、まるで別の世界のようで。
壊れたオルゴールのように繰り返されるステラの謝罪だけが、リビングに虚しく響いていた。