雪女、白野硯女の苦悩 作:マチュピチュ
第一話 月波駅
世界に真なる神秘と幻想は存在しない。
世を騒がす怪異めいた怪事件の背後には厳然たる現実の悪意と技術とが潜んでおり、また特異な体質はあれども明確に政府によって確認された魔術魔法の類いは皆無である。
西暦2000年を超え、都会では地表の多くを人工物が覆い尽くして人類の活動した痕跡を星に刻み続けている。近代に突入してからの技術革新に次ぐ技術革新によって産業は大きく発展し、人類が手にする力も飛躍的に拡大していった。
太陽が沈んでは浮かぶ一日の間に規則的に電車が巡り、航空機が空を舞う世界。
唯、私独りを除いて。
◇◆◇◆◇◆◇◆
瞼を開ける。
薄い白色のカーテンの隙間から差し込んだ暖かな朝陽に、ほんの僅かに身体を捩ってから私はベッドから這い出た。
朝はいつも独りだ。両親は仕事で忙しいから起こすのも忍びなく、まだ中学生の一歳下の弟も学校の違いで私のように早朝に目を覚ます必要もない。
暗闇の中で数えていた羊の総数はいつも通りに28,800匹で、私が目を閉じていた時間を如実に表している。
理由もなく億劫になる気持ちを押し殺して、厚い布団を退かして薄着のまま寝床から起きる。寒さは感じない。冬の空は澄み渡っていて、通行人に尋ねれば百人中百人が寒いと答えるだろうに。
今日も何一つとして変わらないこの世界への些かの嘆きを込めて、私は制服に袖を通した。
「いってきます」
誰も言葉を返さない。父も母も、弟もまだ微睡んでいる時間帯だ。
こんな早朝から家を出なければならないような女学院を選んだのはその為だったのだろう。父も母も、寝起きでつい理性の堰が緩んでしまうのを恐れていたから。
罵ることはない。だって私も同感だからだ。寧ろ、よくぞ私が高校生になるまで育ててくれたと感謝すらしたい。
玄関の扉を開けようとして、ふと玄関の前の鏡を覗き込んだ。
恐ろしいまでの白銀の色に染まった長髪は静かに積もった新雪のように艶やかに輝いており、私自身の怠惰の結果として胸元近くまで無造作に伸びている。
肌も同様に厭になる程透き通っており、死人めいた冷たさを感じさせる色合いをしていた。
総じて言えば、凡そ人間の子とは思えない見目をしているということになるのだろう。
もし生まれ変わるのならそれなりに容姿が良い方がとは思っていたが、ここまでしろだなんて言っていない。
「まったく、」
鏡を振り切るようにして寒空の下へと身を投げる。
やはり何の温度もしなかった。深く息を吸って吐けば、透明な息が空の青色に溶け込むように消えてゆく。
名前に込められた願いは、硯のように黒くなりますように。白い物の怪の子が、普通の子供になりますように。結局何の意味もなかったが、私はその名前を背負い続けている。
死産の筈だった。冷たく、無意味な誕生の筈であった。
泣き声一つ上げずに瞳を開いたのを覚えている。最初から血も息も不要だったのだ。
「もう少し世界観を合わせてくれたら良かったのにね」
私の心臓は、十五年前から一度も鼓動していない。
◇◆◇◆◇◆◇◆
玄関を出て少し歩けば、直ぐに見慣れた駅ビルが目に入る。
家から駅まで十分も要らない距離だ。お陰で忙しく走る必要もないので、こういった点では両親に感謝しかない。多少の育児放棄も、私の特異性を考えれば孤児院等にでも捨ててしまわなかっただけで有難いと言えるだろう。
無論、そうする事ができなかった理由が両親にもあったのだが。
さて、その上で先に述べておくとしよう。今世の私には常に二つばかりの悩みが付き纏っている。転生したからこその悩みという枠組みなので家庭環境は考慮しない。
その内の一つが、
「………駅の近くで実行するなんて、些か命知らずではなくって?交番も近くにありますし、人の往来だって多いですわよ?」
「そうかねェ?今の時間帯ならまだまだ人の多い住宅街よりも余程安全だと思うが」
「一理ありますわね。では私自身の誤算も確認できたことですので、手を離して頂けません?」
一言で言えばこの世界では原子爆弾は日本に七度投下されている。それくらい世界全体の治安が悪い───というよりも、攻撃性が強いのだ。
織田信長が謀反を起こした明智光秀を相討ちに持ち込んだと聞いた時は随分と驚いた記憶がある。お陰で歴史分野については相当に学習しなければいけなかった。
そして、それは当然歴史上の人物に限らない。寧ろ市井でこそ恐ろしいものとなる。
例えば、私が今こうして十分にも満たない駅までの道の途中で路地裏に連れ込まれて、左手を掴まれ、体格の良い青年に押し倒されているように。
容姿のお陰でこうして巻き込まれる経験は豊富になっているが、しかし何時までも慣れないものだ。
「厭だね。折角苦労して手に入れたんだからさァ………もっと愉しませてくれても良いんじゃないの?」
「お生憎ですが、私は親の七光りを使うことに躊躇いはありませんし、警察に頼って事件が世間に公表されるのを恥とも感じないパワータイプの令嬢ですわよ。
此処で退いて頂けるのがお互いにとって最善の選択だと思いますけれども」
「ははっ、気が強い女は好きだよ」
骨が軋むような異音に、正面から押し倒されて掴まれている左手の方を向く。青年の腕の血管が浮かび上がっているのを見るに相当に力を込められているのだろう。手首が折れてはならない方向に折れる。
冷たさを神経で処理できないように、痛覚も同様に通っていない。触覚で感じるのみだ。
純粋な膂力だけで手首をへし折ったのを鑑みるに、相当鍛えたのだろうと推測する。逆にそこまで鍛えておきながら、その用途が犯罪というのは筋肉が付かない身としては物申したい所だが。
乱暴に服の下に手を伸ばされる。可能な限り抵抗をしようかとも思ったが、しかし彼の背後に迫りつつある影を目の当たりにして力なく四肢を投げ出した。
これ幸いと手が私の肌を這い───
「……はァ!?」
そして一瞬で事態は収束した。
先ず最初に、名も知らぬ彼が氷よりも冷たい私の肌に触れて驚愕の声を上げた。当然であろう、手首が冷たいだけならば外気の影響だと納得が行くが腹部となればそんな筈はあるまいと。初めて私と接触する者は皆驚くような事実だ。
次に背後から鋭いマズルフラッシュがして彼が振り返ると、不意に目に届いたスマホのライトによって動きが鈍った。
その隙に私は彼の右腕、つまり私の左手に覆い被さり組み敷いていた腕に噛み付き、
可哀想に。今日に書道の授業がなければ前歯全粉砕という憂き目に遭うこともなかったろうに。永久歯は生え替わらない。彼はこれから先の人生でずっと入れ歯を使う羽目になるだろう。
私は今正に全力で硯という鈍器をフルスイングして彼をノックダウンさせてみせた
「おはようございます、
「や、感謝されるのは嬉しいけどさ。もうちょっと焦った方が良いんじゃないかと冬子ちゃんは思う訳よ。僕がいなければ乙女として最悪の危機だったと思うんだけども」
「……そうでしょうか?」
乙女の危機、と力説されたものの私は厳密には乙女ではないので曖昧に頷いて同意する。
正直今も組み敷かれた私の写真を開きながら眺めている五月雨さんも何処となく怪しい雰囲気はするのだが、流石に恩人にそんな事を言うのは失礼過ぎると口を噤んだ。
なのでその代わりに、アルバイト先での受け売りではあるが、一つ推理とも言えない推理を披露することにした。
つまり、無駄に見える行動にもその人なりの理由があるのだと。
「彼、私を痛め付ける方が好みだったのではないかと思いますわ。本来なら猿轡でも何なりして悲鳴を上げられないようにするべき場面でも身動きを封じるだけでしたもの」
「どちらにせよ普通に危険な犯罪者だよスズちゃん!?」
「……そうですね?」
確かにそうだったので、私は口を閉じた。
五月雨さんが手を差し伸べてくれる。
二つ目の悩みがそれであった。私には男性としての人生が脳裏に刻まれている。立ち振る舞いは演技をするように表面を整えられたが、しかし心的性別は依然変わらず男性という自認だ。
「じゃ、後はお巡りさんに任せて僕たちは登校しよっか。遅刻したら呉先生が恐ろしいもんね」
「えぇ、そうしましょう。お手数をお掛けして申し訳ありませんでしたわ。それから改めて、助けてくれてありがとうございます」
「気にしないで良いよ。友達だもん」
友達と呼んでくれる人にさえも、その事実を隠してしまう罪悪感を抑えながら私は駅へと歩を進めた。
───だって、そうだろう?
こんな髪と躰をしている、というだけでも十歳になるまで京都の山寺に押し込められたのだ。
前世の記憶があるだなんて両親に知られたら、見捨てられてもおかしくはない。
私は、私の安全の為だけに、私にさえ親切にしてくれる善き人々を騙して生きているのだ。