うら若きクリステルの悩み~LostTechnologyクーニッツ騎士団編前日譚 作:アツ氏
古代には「春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか」と歌って自ら命を断った男がいたと、女学校の授業で習ったことがある。
何によって、男がそれほど追い込まれていたのか、そんな細かいところまで授業で言及したか、思い出すことは出来ない。国語教師(あるいは音楽教師だったか)のただの脱線話だったのかもしれない。前後のことはまるっきり思い出せないのに、この大げさな台詞と、芝居がかった死の情景だけが、切り取られたように、強烈なイメージとして記憶に焼きついている。春の、風の強い日には、ふとそのことを思い出し、自分も死にたくなるのではないかと、恐ろしくなる時があった。が、そう恐れるような感情が実際に芽生えたことは、幸いにしてこれまでに一度も無かった。
春の風の心地よさ、あるいはえもいわれぬ期待が、人をおかしくしてしまうのだ、という意味では、良く理解できる。死にたいと思うほどではないけれど、彼女はいま死ぬほど眠かった。普段からたれ目がちの、ただでさえ眠たげなまぶたが、今にも落ちそうだった。
(あぁ、一刻も早く、家に帰って、ベッドに飛び込みたいわ)
そんなことを思った瞬間、ふわりと意識がとんだ。そして、後頭部に感じた軽い痛みと共に、意識が戻った。振り返ると、おつぼねの主任司書が分厚い本をかざして立っていた。
「クリステルさん、閉館まで、まだ一時間もあるんですよ」
「はい……すみません」
「返却された資料、溜まってるから、書架に戻しに行ってちょうだい」
「わかりました」
クリステルはカウンターから立ち上がり、書物の積み重ねられた台車を押して、高い本棚の立ち並ぶフロアへ入っていった。
クリステルは、クーニッツ騎士団領の首都ケクロピアの大学に通う学生で、学業の傍ら、世界一の蔵書量を誇るといわれる国立図書館で、司書のアルバイトをしていた。
元来は、大陸最古にして最大の国家、ライナルト帝国の近衛騎士団から分離して成立したクーニッツ騎士団は、まだ国家組織としての歴史は浅かったが、初代団長ルードルフが政治の一線から退き、その息子で、若き正騎士ジギスヴァルトが二代目に就任してからは、世界で最も進んだ民主的な統治を行なっていると評判が高かった。その一環として力を入れたのは教育であり、最新の書物から、ロストテクノロジーに分類される古代の書物まで、古今東西のあらゆる資料を集めた図書館が建立されたのも、クーニッツ領民達の知的水準を上げるために他ならなかった。民衆に知性がなければ民主主義は成り立たない、というジギスヴァルトの思想が反映された事象の一つである。
ただ、クリステルが司書のアルバイトを選んだのは、そんなジギスヴァルトの高邁な思想を理解しているからではなく、ただ単に、女学校時代に本を読んで過ごしてばかりいて、なんとなく、自分に身近な印象を受けたから、という、安易な理由からだった。だからといって、仕事内容は本を読むこととはほとんど関係なく、資料を求めてやってくる市民を案内することや、たったいま主任司書に押し付けられたように、重たい書物の山を運んで整理するという力仕事もあった。とはいえ、クリステルはただの大人しくひ弱な文学少女ではなく、体力には自信があったから、さほど困ることは無かったのだが。
分厚い資料を片手に握る手首には力があるが、これは幼いころから学んできた弓術によるものだった。父親のフランツは軍人で、娘にも何か武芸を嗜ませたかった。しかし万が一にも、顔や体に深い傷がつくようなことはさせたくない、という思いもあったため、人と相対する剣術や、格闘術ではなく、遠くから的を狙う弓術を選ばせたのである。本来、武芸は戦うための技術であり、相手が傷つくなら、自分も傷つくのが必然である。しかし、そんな矛盾に気付かぬほど、フランツは、クリステルのことを溺愛していた。
フランツのことを思い出すと、クリステルは憂鬱になる。父のことを愛していないわけではなかったが、いつまでも小さいころのように接せられるのが、このごろ特にわずらわしい。誕生日だからといって買ってくるドレスには、いまだにフリルや花模様があしらわれていたり、休みの日がくれば、娘にどんな用事があろうと二人きりで出かけたがったり。父の気持ちは分からないではない。結婚して五年もしないうちに妻を亡くし、残されたのは一人娘のクリステルだけだった。父はことあるごとに言う。
「お前は出会ったばかりの頃の母さんに良く似てる。最近ますます似てきたよ。いつも眠たそうな目をしているところなんか、そっくりだ」
そして、新妻を眺めるような、心なしかときめいた眼差しで、クリステルを見つめるのだった。つまり、フランツは寂しいのであり、クリステルに娘としての愛情を注ぐと共に、いまは亡き妻の面影を投影しているのである。しかし、幼いころに母親と死に別れたクリステルには、ほとんどその記憶は無かったし、時に自分に対して娘以上の感情を抱いているふしのある父の言動には、ついていけないことがある。そういう時は、ついつい強く拒絶してしまい、父は心底傷ついたような顔をして引き下がり、母の肖像画を眺めながら、背中を丸めて寂しく酒を飲むのである。
クリステルは、そんな父の姿をかわいそうだと思うと同時に、情けないとも思うのだった。フランツが子離れしないせいか、クリステルは来月には二十歳を迎えるという今日まで、恋愛の一つもしたことがない。女学校に進学させたがったのもフランツだ。年頃の娘が集中して勉学に励むには、同性の中だけであったほうが良い、などとのたまっていたが、要はクリステルに変な虫がつくのを恐れたのである。クリステルは、本当は共学の高等学校に進みたかったのだが、いつでも娘に甘いフランツが、このときばかりは決して首を縦に振らなかった。
このことについては、クリステルは今でも根に持っている。共学の高校に進んだかつての同級生たちは、恋人を作って青春を謳歌している者も、たくさんいた。クリステルに意中の男性がいたことはないが、年頃の少女並みには恋愛に対する憧れぐらいはあった。ロマンスを読むたびに、自分に恋人が現れるとしたら、どんな人だろう、と妄想を膨らませた。が、身近にいる男性の見本がほとんど父だけであったため、現実味のある想像は出来たためしがない。そんなこんなで自分の十代が終わろうとしているかと思うと、やるせないのである。どうやって恋愛が始まるのか、それすら知らないまま、年齢だけが大人になっていくなんて。しかし、来月の二十歳の誕生日までに、自分が誰かと恋に落ちるなど、到底考えられなかった。
山積した返却資料を書架に全て戻しきったあたりで、閉館の予鈴が鳴った。むろん閉館後も仕事はあるのだが、ひとまず来館者が居なくなるだけでも、気が楽というものだ。さっきの居眠りは主任司書に邪魔されてしまったが、さっさと残りの作業を終わらせて、家に帰り、お湯で体を温めて、ベッドに横になりたかった。そんなささやかな楽しみを思って、クリステルは鼻歌まじりに台車を押した。
「きみ」
突然、呼び止められる。若い男の声で、静かだが覇気がある。
クリステルの肩は緊張した。男性に声をかけられるのは苦手だったからだ。気付かない振りをしたかったが、周りに誰もおらず、静かだったので、それはあまりにも不自然だった。クリステルは仕方なく、声のしたほうを振り返った。
そこには背の高い、色白の、金髪の若者が立っていた。細身だが、ひ弱というわけではなく、そのすらりとした佇まいからは、隠し切れぬ若者らしい活力がにじみ出ていた。顔つきも、少し冷たい目をしているが、美男子といってよかった。こういう男性を前にすると、クリステルは反射的に劣等感を抱いてしまう。クリステルの容貌はというと、香りのよい豊かな髪と、大きなグリーンの瞳を持ち、鼻も口も小ぶりに整っていて、飾り気はないが、美人だといってよかった。しかし、異性と関わったことが極端に少ないため、自分の価値がよく分からず、男性を意識すると途端に臆病になってしまうのである。クリステルは若者とろくに目を合わせることも出来ず、
「な、なにか、御用ですか」
と小さく訊くのが精一杯だった。
そんなクリステルの態度を気にした様子もなく、若者は静かな口調を崩さずに用件を言う。彼が探しているのは最近になって遺跡で発見されたソンシとか何とかいう古代の兵法書で、国立図書館に写本が所蔵されたと講義で聞いたから、探しに来たのだと言った。クリステルは正職員ではないため、そうした貴重な資料についての知識はほとんどなかった。
「ちょっと、私にはわからないので、上の者に聞いてまいります」
と言ってクリステルがその場から立ち去ろうとすると、若者はそれを引きとめ、
「いや、わからないならいいんだ。閉館も近いし、またあらためて探しに来るよ。どうもありがとう」
と丁寧に礼を言った。クリステルは何を言うべきかわからず、さほど役に立っても居ないのに、
「ど、どういたしまして」
と見当はずれの返答をしてしまった。すると、いままであまり表情のなかった若者の頬が、心なしか緩んだような気がした。笑われてしまったと思ったクリステルは顔を赤らめてうつむき、足早に台車を押しに戻った。もうすぐ閉館だとわかっているなら、わざわざ声なんか掛けなければいいのに、と恨めしく思った。しかし少し歩いてから、なんとなく気になって、さっきまで自分のいた書架のほうをちらと見るが、もうそこに若者の姿はなかった。
クリステルはこの出来事を振り返りながら、若者の素性について思いをはせた。
(若かったけど、兵隊さんかな。あ、でも本のことは講義で聞いたって言ってた。ってことは、士官学校の学生かもね)
ケクロピアはクーニッツ騎士団の本拠地だけあって、将来的に騎士団への仕官を希望する若者たちのための士官学校もあった。いわゆるエリートであり、卒業すればその多くが誉れ高い騎兵として、騎士団の一員となることを許される。団長のジギスヴァルトが職業にたいする偏見や格差を嫌うため、表向きには騎兵も、歩兵も、弓兵も同じ扱いを受けるが、やはり国家の母体が騎士団であるだけに、騎兵というだけで国を象徴する存在として崇められる風潮がある。
そして、ここにもクリステルのコンプレックスがある。クリステルの父親も確かに軍人だったが、たたき上げの歩兵隊長だったのである。フランツは、軍の盾となって先陣を切る名誉ある仕事だ、と自慢していたが、実際には真っ先に敵の標的になる使い捨ての戦闘員、というイメージが根強く、騎槍を携えて颯爽と敵に突撃を仕掛ける騎兵と比べると、圧倒的に地味で、冴えない職業だった。
小さいころから、父親の職業を訊かれることで、何度となく悔しい思いをしたものである。クリステルはまず、父は兵隊だ、と答える。すると友人たちは、騎兵さんなの? かっこいい! と目を輝かせる。だが、歩兵だというと、なあんだ、という風に落胆するのである。父の職業が立派なもので、なんら恥ずべきところなどないことは重々承知している。ただ、友人たちの反応の落差に耐えられなかったのである。子供は感情の隠し方を知らないだけに人を傷つけやすく、ご多分にもれずクリステルはそうした無邪気な残酷さの犠牲者であった。彼女がどことなく内気な女性に育ってしまったのも、この経験がトラウマになっているからかもしれない。
果たして父親が騎兵だったなら、クリステルは悩まなかっただろうか? それはわからない。フランツのクリステルに対する溺愛ぶりは度を越していたし、母親を失った時点でそれは決まっていただろうから、父との関係については、こうなるべくしてなったと諦めがつく。ただ、それとは別に、騎兵という職業に対するコンプレックスと、ほのかな憧れとが彼女の心に生まれたのは、皮肉にも父親が歩兵だったから、ということになるのだろうか。
その後、仕事が終わるまで、クリステルは若者のことを考え続けた。彼が甲冑を着込み、槍を携えて、馬を操る姿を想像した。金髪が風になびいて綺麗だろうな、などとも思った。しかし、それ以上の感情が芽生えるわけではなかった。なんとなく興味は引かれたが、それは街角の古本屋で、珍しい書物を見つけたような気持ちであって、まだ実際に手にとって中身を読んだわけでもなく、ただ通り過ぎてしまった、というだけであった。次に見かけたときは少しページをめくって、その内容を知りたいと、思うくらいのことである。
全ての業務を終えて、図書館の裏口から出ると、あたりは春の薄暗がりに包まれていた。生暖かい風が、丸みをおびたクリステルの柔らかい頬をなでる。もう大人といってもいい年齢の彼女だったが、衰え始めるまでにはまだ充分猶予のあるその相貌には、あどけなさを感じさせる部分が数多くある。そして、内向的で、どことなくはかなげな表情とあいまって、見るものにえもいわれぬ感情を呼び覚まさせる、そんな魅力があった。彼女自身が知らないだけで、クリステルを素敵な女性と見なす男性は数多いだろう。父親が躍起になって娘を守ろうとするのも、理解できないことではない。
ただ、これといった約束もなく、娘の職場の裏口で待ち伏せしているのはどうかと思うが。
「おとうさん……」
クリステルが呆れたような調子でつぶやくと、フランツはその顔をくしゃくしゃにして笑った。
「今日は終わるのが遅かったんだな。もうすぐ暗くなるから、パパと一緒に帰ろう」
「もう、一人で帰れるのに……」
父親は自分の仕事にどう融通を利かせているのか、こんなことが度々ある。歩兵隊って暇なのかしら……、とクリステルは思う。確かに、クーニッツと他国とのあいだで、いまのところ表立った闘争は起こっていない。毎日毎日、訓練ばかりしているというわけでもないだろう。しかし、ケクロピアは平和だといっても、大陸全体で見れば戦乱に包まれているといわれている。周辺国がいつ攻め込んでくるかわからない。そんなときに、父は戦えるのだろうか? クリステルにはどうしてもその姿を想像することができない。金髪の若者が槍を持って馬で駆ける姿は容易に想像できたのに、この差はなんなのだろうか。まあ、娘を見るたびに破顔一笑する姿ばかり見てきたから、その父が歩兵隊を率い、戦場で剣を振るうなど、似合わないと思うのも無理はない。
「あたしだって来月には二十歳になるのよ。弓術もずっと習ってきたんだし、自分の身ぐらい自分で守れるわ」
結局父親と肩を並べて歩きながら、クリステルはそんな僅かな抵抗を試みる。もちろん、効果がないのは目に見えているのだが。
「パパは国を守るのが仕事だが、娘を守るのは生きがいだからな。二十歳になろうがそれは変わらないよ。それに、お前なんかまだ子供だ。まだまだ目を離せないな」
「子供子供って、あたしが料理しなきゃ、ろくなもん作れないくせに……」
「うん、それとこれとは話が別だ。ははは。今日の晩御飯は何かなあ」
「家にシチューの材料が買ってあるわ……」
「こりゃ楽しみだ。クリステルのシチューはケクロピアいちだよ。うん。まったく」
笑って誤魔化す父を見て、内心呆れてしまう。それとも、母が生きていたころは、もっと男らしいところがあったのだろうか。母が一体何を、どう考えて、父を夫に選んだのか、いますぐ天国へ行って聞いてみたいような気がした。そして、少しぞっとした。これが吹かれると死にたくなってしまうという、春風の魔力なのだろうか、と。天国へ行ってなんて、とんでもない。春は気が緩みがちになるせいか、気がつくと憂鬱になって困るのだ。こんな日は、家に帰ってさっさと寝てしまうに限る。ずっと目を覚ましていて、例えば今日出会った金髪の若者と比較しているうちに、父のことが嫌いになってしまわないともかぎらない。
「ご飯作るから、そのあいだお風呂沸かしてね」
「ああ、そうだな。せっかくだから、久し振りに一緒に入るか。いやあ、参ったなあ」
「何がせっかくだからなのよ。絶対ないから、安心して」
クリステルは少し鋭い口調で言い放って、足早に歩き始めた。その後ろを、慌てたようについていく父の影。二人の姿は、娘がどう思っていようと、傍目には仲のよさそうな親子以外のなにものでもなかった。