うら若きクリステルの悩み~LostTechnologyクーニッツ騎士団編前日譚   作:アツ氏

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3.ばらの騎士

 クリステルは大学にいるときも、図書館で働いている時も、それとなく周囲に注意を払いながら過ごすようになった。劇的にではないが、少しずつ自分の見た目に気を遣うようにもなった。去年の誕生日にフランツからプレゼントされたものの、あまりにも少女趣味だからとクローゼットにしまいっぱなしにしていた、フリルのついたピンクのドレスを着て鏡の前に立ち、どの角度が一番綺麗に、かわいらしく見えるか、いろいろとポーズをとってみたりもした。もちろん、父親には知られないように、である。そうして、一番いいと思った角度を、あの若者が見てくれたらどう思うだろう、と想像した。すると、どれほどこだわっても何かが足りないように感じられて、もっと美しく生まれたかった、などと身勝手に落胆するのだった。本当は誰の目にも、充分な美しさと、若さとを兼ね備えていたのだが、やはりクリステル自身にはそれが良くわかっていないのだった。

 周囲も彼女の変化に気付きはしたが、せいぜい、良く笑うようになったとか、機嫌がよさそうだとか、ぐらいの印象で、フランツなどは、いつにもまして明るくなった娘の表情を見て、単純に喜んでいた。その原因に、男が絡んでいるなどとは夢にも思わなかった。

 そんなわけで、クリステルは再びあの若者と会える日をひそかに心待ちにしていたのだが、彼女の望みとは裏腹に、彼はいつまで経っても姿を現さなかった。それだけならやがてあきらめもつくが、奇妙なのは、クリステルの周りの人間は、しばしば彼の姿を目撃するということであった。金髪で、背が高く、色白の若者が、また遠くからあなたのことを見ていたと。さらに奇妙なのは、人によってその若者に対する感想が極端に違うことである。

 まずシンシアは、すでに彼のことを、あまり感じがよくない、何を考えているかわからない、と評したが、別の友人はとても礼儀正しそうで、かっこよかったと評した。また、図書館で同じくアルバイトをしている文学部のハンスは、物静かだが見た目にも英気に溢れていてとても強そうだった、と絶賛したが、オールドミスの主任司書に至っては、人を人とも思わないような冷酷な目つきの男でぞっとした、とこき下ろしていた。

 クリステルは、すっかり妄想にまみれて正確さを失った記憶を懸命に掘りおこしながら、若者の姿が実際どんな風だったかを思い出そうとした。しかし、周りの人々の受けたどんな印象も、当てはまるような気がして、かえって混乱するのだった。

 とにかくもう一度姿を見せてくれさえすれば、全ては解決する。再び会ってみて、実は自分が思っていたほど素敵な人ではなかった、ということもあるし、逆にはじめて見たときの印象はやはり間違っていなかった、ということもある。どちらもありうることだ、そう思えるぐらいの冷静さを、クリステルは保ってはいた。ただ、そういったことも含めて、あまりにも彼のことを考えすぎてしまい、少し疲れ始めていた。そして、眠りに就く前には、こう願った。

(はやく私に姿を見せて。でないと苦しくて、忘れてしまいそうだから)

 そんな日々の中で、遂に動きが起こった。それを届けてくれたのは、司書仲間のハンスだった。閉館時間が過ぎ、その日の業務を全て終えるころ、彼が一本のばらの花を、他の誰にもばれないようにそっとクリステルに差し出したのである。

「なあに、これ」

 あまりにも唐突だったので、意味がわからず、クリステルはきょとんとして言った。ハンスは首を振りながらも興がった笑みを浮かべ、

「僕じゃない。例の、金髪の彼からだ」

 と言った。一瞬の間があって、クリステルは急に目を見開き、ひったくるようにそのばらを受け取った。耳まで真っ赤に染めて、小刻みに震えてすらいるクリステルの姿を見て、ハンスは肩をすくめた。

「色男のやることは違うね。同じことを僕がやったら、花はゴミ箱行きのうえ、警備兵を呼ばれちまうよ」

「いや、そんなことないと思うわよ……」

 クリステルは、こんな時でも友人に対するフォローを忘れなかった。

「優しい言葉をどうもありがとう」

 ばらをひったくられた時にずれた眼鏡を直して、ハンスは力なく笑った。クリステルは、みずみずしい赤色を目に焼き付けるかのように、その花を眺めながら、当然の疑問を発した。

「なぜ、自分で渡しに来ないのかな」

 カウンター周りを整理しながら、ハンスが答える。

「僕も訊いたんだ。『自分で渡したらどうです。きっと彼女は喜びますよ』って。ところが意外と気が小さいらしくてね。上手く話す自信がないから、こうして花を持ってきた。渡してくれれば、気持ちは伝わるだろう。近いうちに勇気を出して必ず会いに行くから、そう伝えてくれってさ」

「はああ……」

 悩む時間が結局先延ばしになったかと思うと、喜んで良いやら悪いやら、わからなかった。ハンスは作業の手を休めずに言葉を続ける。

「ばらの花を一輪だけ贈る、それにどういう意味があるか知ってるかい」

 クリステルは知らなかったので、首を振った。

「君に一目惚れしたってことさ」

 それを聞いたクリステルの口からは、結局ため息しか出なかった。ハンスはまた、その反応を面白がるように小さく笑った。

 作業を全て終えて図書館の裏口から出ると、例によって辺りには薄暗がりが立ちこめていたが、季節は夏に向かっていたので、日は長くなりつつあった。今日はフランツの待ち伏せはなかった。クリステルはほっと胸をなでおろす。花なんか大事に持っているところを見られたら、どんなにしつこく追及されるかわからない。クリステルとて、せっかくの贈り物をいちいちとやかく言われてまで、父親を好きでいられる自信はない。なので、フランツが今日、この場にいないことは、親子の関係上非常に良かったのである。

(まあ、家に帰ってからなら……。見つかっても、きれいだから自分で買ったって誤魔化せばいいか)

 そう思いながら、クリステルは花を飾るための一輪挿しを買いに、繁華街のほうへ足を向けた。ハンスは、今日中に書き上げなければならないレポートがあるから、と足早に帰っていった。

 図書館から繁華街へ向かうには、両脇にレンガ造りの背の高いアパルトマンが立ち、迷路のように入り組んだ細い路地を通っていくのが一番の近道だった。このあたりには、狭いが格安の物件も数多くあり、図書館が近いこともあって学生に人気だった。左右の壁に並んだ窓を見上げながら、このうちのどれかが、金髪の彼の部屋かもしれない、などと想像しながら、クリステルは軽い足取りで歩いた。石造りの床と、レンガの壁とに、ブーツのかかとの音が響く。まるで彼女の機嫌のよさを表すかのように、軽やかに、高く。他に人通りがないために、その靴音の表情豊かさが、夕闇の中で際立っていた。

 ところが、しばらく歩いているうちに、クリステルは一つの異変に気付いた。いつの間にか、足音は自分のものだけではなくなり、男物らしい革靴の響きが紛れ始めたのである。たとえ狭かろうと公道なのだから、他に誰かが歩いていておかしくはないのだが、どうもクリステルと一定の距離を保ちながら、あとをつけているように思われるのである。

 また、革靴の音がどことなく低く静かで、落ち着いているというよりは薄気味悪く、聴く者の不安をあおるような調子があった。変質者かもしれない、とクリステルは思い、少し緊張気味に歩調を速めた。すると革靴の音も、同じ速さでついてくるのだった。

 クリステルは、近道だからといって裏通りに足を踏み入れたのを後悔した。ケクロピアは平和な街といわれているが、それは最近になってからの話で、ほんの十年前までは、エレクトリスから来た強盗や密売人が跋扈していたほど、治安が悪かったのだ。現在は地区ごとに騎士団の警邏が敷かれているものの、広い街の故に完全には行き届かず、ごくたまに若い女性が襲われるような事件が、起こることもあった。

(やっぱり、おとうさんがいてくれたら、よかったかな)

 父が待ち伏せしていなくてほっとしていたくせに虫のいい話だが、クリステルはそんな風に思った。とにかく繁華街までたどり着きさえすれば、あとは人ごみにまぎれて逃げおおせられるだろう。それまでに退散してくれれば一番いいが。しかし、甘かった。クリステルに気付かれたと悟ったか、革靴の音が突如、彼女に向かって勢い良く駆け出したのである。

(やだ!)

 そうなればクリステルも走り出さざるを得ない。弓術を習ってはいたが、手元に弓がなければ意味がない。普通の女性と比べて、体力に自信があるという程度では、本気になった男には抵抗しきれないかもしれず、やはり逃げるのが一番賢明だった。しかし、ブーツのヒールがいつもより高かったために、上手く走れず、差はどんどん縮まるばかりだった。最近になって、少し色気づいたのが仇になってしまった。

 革靴の音はあっという間に彼女の背後に迫った。クリステルの走るのが遅かったことを差し引いても、ものすごい速さだった。次の瞬間、手首をつかまれ、クリステルはその身を荒々しく壁に押し付けられた。不安をあらわにする彼女の顔に、追いかけてきた男の影がかかる。

 クリステルを見下ろす一人の男の姿。金髪で、背が高く、色白だった。整った顔つきだが、目つきは鋭く、冷たい。友人たちが口々に言っていた、クリステルを見つめる男の特徴と、まったく同じだった。しかし、クリステルは、その男の顔を知らなかった。何日もの間、想いつづけたあの若者とは、まったくの別人だったのである。

「あなた……誰なの?」

 男は、恐怖によって掠れたクリステルの声に頬をゆがめた。

「私は、ヨハン=ヴェルター・ヴォルフハウゼン。あなたの崇拝者です。クリステル・ラング」

 その名に聞き覚えはなかった。ただ『ヴォルフ』の名の示すとおり、冷酷な目つきは獲物を見つめる狼のようであり、不気味に笑みを浮かべる大きな口からは、今にも牙が覗きそうであった。

「ずっと私を付けまわしていたのは、あなたなの?」

 クリステルの問いに、ヨハンと名乗った男は鼻を鳴らす。

「付けまわすだなんて人聞きの悪い。私はただ見守っていたのです。クリステル・ラング。可憐なるあなたが汚されないようにね。ずっと、ずっと、あなたを初めて見たときからです」

 誰かに助けを求めたかったが、喉が焼け付いたように渇いて、声が上手く出なかった。よしんば大声を出せたとしても、瞳にいかばかりかの狂気を湛える、このヨハンという男が、それをきっかけに何をしでかすかわからなかった。

 クリステルは今にも泣き出しそうであった。それは恐怖のためばかりではなく、あの若者を想いながらひそかに心を躍らせて過ごしたこの何日もの時間が、全て勘違いだったと知ったためであった。羞恥と、悲しさと、悔しさと、あらゆる感情が彼女の心をめちゃくちゃにしていた。ばらの花を受け取って、有頂天になっていた自分を消してしまいたかった。

 口を一文字に結び、はらはらと涙を流すクリステルに、ヨハンは猫なで声で、とても正気とは思えない文句を次々と並べ始める。

「何を悲しんでいるのです、クリステル・ラング。あなたは最近、少しおかしかった。変にうきうきしたり、めかしこんだりして。そんなのは違います。そんなのはあなたじゃない。私の知っているクリステル・ラングは、いつも物憂げで、満たされない何かを求めていた。私は一目見て、あなたが底知れぬ孤独を秘めた人だと分かりました。クリステル・ラング。あなたは私と同類です。私もずっと満たされない何かを求めていた。私は良家に生まれ、才能に溢れ、大いに恵まれた人生を歩んできましたが、実は何をしても物足りなかった。この世で自分が果たすべきことが分からなかったのです。そんな中、あなたを見出した。私は一瞬で理解したのです。この人こそ、私が生を受ける以前から予め失われ、この世で見つけ出すはずだった心の一部なのだと。あなたもそれを探していたはずだ。あなたの心を満たすことができるのも、私だけです。だから、そんな風に世間のくだらないことに惑わされてはいけないんです。喜びなら、私がこれからいくらでも差し上げましょう。だから私を見てください、クリステル。クリステル・ラング」

 執拗に自分の名を呼ぶこのヨハンという男が、何を言っているのかクリステルにはまったく理解できなかった。その全てが、男の中で作り上げられた妄想でしかなく、当のクリステルが住んでいる世界とは、まったく別の次元にあったからだ。ただ、激しい嫌悪感と共に、心の中で確信していたのは、ひとつのことだけだった。

「……じゃない」

 クリステルの唇がかすかに動いた。ヨハンは笑顔を崩さぬままに聞き返す。

「なんです?」

「私が求めてたのは、あなたなんかじゃない! 勝手に決め付けないで! 私はあなたのことなんか知らないもの!」

 クリステルは激しい口調で言い放った。声はかすれていたが、威圧感に溢れていた。それを受けて、ヨハンの顔から、すーっと笑みが消える。まるで仮面を被るかのように。

「……やはりあなたは、私の知らないあいだに変わってしまったようだ。いったいどうしたら良いのか。そうですね、あなたが元に戻ってくれることに望みを託しましょう。私と二人きりで生活すれば、あなたも自分を取り戻すはずです」

 ヨハンはそう言ってクリステルの体を軽がると抱き上げた。性格は異常だが、痩せている割には筋肉が発達しており、クリステルが顔を殴ったり、足をじたばたさせたりして、いくら抵抗しても、まったく意に介さなかった。

「助けて! 誰か!」

 かすれた声を必死に張り上げるクリステルを見て、ヨハンがうるさそうな表情をする。その目に殺意が宿るのが見え、クリステルの背筋に冷たいものが走った。

「あくまで私に逆らうというのですか。少し黙っていただかなくてはなりませんね」

 そう、ヨハンが低い声で言った。

 そのときだった。ヨハンが何かの気配を察知して首を振り、路地の一点を見つめる。

 勇ましい掛け声と、蹄の音が響く。

 暗がりの向こうから、駿馬を駆り、風のように迫りくる一人の若者の姿があった。手には槍、鎧を着て、金髪をなびかせて。

「その女性から手を離せ!」

 接近しつつ、若者は槍を振るい、すれ違いざまにヨハンの顔を打つ。

「ぐわっ!」

 さしものヨハンも顔をかばって、抱きかかえていたクリステルから両手を離した。クリステルは地面に叩きつけられたが、即座に立ち上がって、身を守るように壁を背に立った。何が起こったのか、すぐには分からなかったが、しかし彼女の目には、夢にまで見たあの若者の姿が、しっかりと焼きついていた。

 若者は即座に手綱を引いて取って返し、ひざを突いて呻いているヨハンに向きなおって、静かに言い放った。

「不埒者よ。二度と彼女に近づかなければ、この場は見逃そう。一刻も早く去るがいい。次はその心臓、貫く」

 若者の槍を握る手に力がこもる。ヨハンは、顔を押さえる手指のあいだから、凶悪な目つきで馬上の敵をにらみつけた。しかし、戦わずとも力の差は歴然であり、さすがにそれが分からぬではないらしかった。悔しそうに舌打ちをした後、クリステルと若者の二人に背を向けて、ヨハンは路地の奥へと走り去っていった。

 クリステルは恐怖から開放された安堵から、壁伝いにゆっくりとへたり込んだ。その目の前に、馬から下りた若者が近づく。クリステルに向かってひざまずき、微笑んで手を差し伸べる。

「大丈夫か」

 クリステルは小さく頷いてその手をとる。今度こそ、間違いはなかった。背が高く、色白で、金髪の騎士。図書館で声をかけられて以来、ずっと想い続けていたあの若者だった。

「奴があなたを追って路地に入っていくのを見たのだが、槍と馬を取りにいっていて、駆けつけるのが遅くなってしまった。すまない」

 クリステルの体を引き揚げながら、若者が申し訳なさそうに言う。確かに少し危なかったが、結果として助けられたのだから、問題はなかった。それ以上に、会いたいと思っていた人に会えた喜びによって、クリステルの胸からはさっきまでの恐怖は嘘のように吹き飛んでしまっていた。

「い、いいんです。助けてくれて、ありがとう」

 クリステルは若者に向かって、ぺこりと頭を下げる。そんな彼女を見て、若者が少し頬を緩める。図書館で見たときと同じ笑みだった。それを見てクリステルは、あの時、自分は笑われたのではなかったのだ、ということにいまさら気付いたのだった。クリステルは急き込むように、言った。

「あ、あの、あのときの、本、見つかりましたか?」

 若者は、クリステルが何のことを言っているか理解しようとするかのように、少し逡巡してから言った。

「そうそう。あれから何かと忙しくて、なかなか図書館に足を運ぶことが出来なかった。今日やっと時間が取れたので、近くまで来ていたのです。しかし、本のことはすっかり忘れていました」

 若者は照れくさそうに笑った。それを聞いて、クリステルは少し残念に思った。気にしていたのは自分ばかりで、若者にとってあの本はさほど大事な用事ではなかったのだと分かったからだった。ずっと独り相撲をしていたようで、恥ずかしかった。でも、それならどうして、彼は図書館に来ていたのだろうか。

「よろしければ、家までお送りしましょう。馬に乗ったことは?」

 若者が馬の背に手を置きながら訊く。

「あ、ありません」

「それはいい。馬の背の上で夜風に当たるのは気持ち良いですよ」

 女性を先に乗せるのが礼儀だというように、若者は改めてクリステルに手を差し伸べた。その手をとろうとした瞬間、彼女は図書館でハンスから受け取ったばらの花が、床に落ちているのに気がついた。若者もそれに気付いたようだった。

「それは……」

 若者が何か言いかけるのを封じるように、クリステルは言った。

「いいんです。ある男性からの贈り物だって、図書館で同僚から受け取ったんですけど、さっきみたいなことになってしまったので、もういりません。最初は嬉しかったんですけどね……」

 ヨハンのことは、もう思い出したくなかった。勝手に若者からの贈り物だと思い込んでいた自分が恥ずかしいというのもあった。クリステルの言葉を聞いて、若者が残念そうに言う。

「そうですか……。どうやらご迷惑をおかけしてしまったようですね」

「へ?」

 上手く話の要領がつかめないクリステルが、素っ頓狂な声を上げる。若者は寂しげに笑いながら言葉を続けた。

「……実は今日、私が図書館に来ていたのは、あなたにその花を差し上げるためでした。しかし、どうもいけませんな。士官学校では周りが男ばかりで、こうしたことにはあまり慣れていないのです。顔を合わせるのが恥ずかしかったもので、つい他の方に託したのですが、いずれお会いしようと思っていました。しかし、あなたの事情を考えていなかった」

「いや、その」

「さっきの男性とはすでに将来を誓われた仲だったのですね。私はてっきり暴漢だと思って、したたか槍で打ってしまった。本当に申し訳ない。すぐにでもあの方の後を追って、謝罪しなければ」

「違います! ぜんぜん違います!」

 クリステルは、落ちているばらの花に駆け寄って、拾い上げ、汚れを払った。そして顔を赤らめ、口ごもりながら、

「あ、あなたから頂いたものでしたら、私、大切にします。父以外の男性から花を贈られるなんて、初めてです。とても嬉しかったです。ありがとう」

 と言った。とても若者と目を合わせることなど出来なかったが、初めて会ったときと同じように微笑んでいてくれたら、と思った。そして、不意にハンスの言ったことを思い出した。男性が、女性に一輪のばらを贈ることの意味について。

(まさかね)

 クリステルは片手にばらを持ち、もう片方の空いた手で、若者の手を取った。指が長く、手のひらに力があって、頼もしい手だった。馬上に乗せられ、その後ろに若者がまたがる。髪に吐息がかかり、胸の鼓動が高鳴る。クリステルは思い出したように、若者に尋ねた。

「あ、あの」

「はい」

「お、お名前を、聞かせてください」

「これは失礼」

 若者は居住まいを正して、張りのある声で名乗った。

「私の名はカールハインツ。まだ叙勲は受けておりませんが、騎士の端くれとして、道中貴女をお守りいたします」

 そしてカールハインツは掛け声と共に馬の腹に蹴りを入れた。いななきと蹄の音が響き、二人は春の夜の闇へと、風のように駆け出していった。

 これまで生きてきた、どんな瞬間よりも速く、その白く瑞々しい頬は風を切っていた。太ももに伝わる激しい振動に、彼女ただ一人ならば、体中の骨がばらばらになってしまいそうだ。しかし、馬の背が揺れる度に、背中にはたくましい胸と、肩には手綱を握る頼もしい腕とが触れ、それらが自分を包み、守ってくれていると、クリステルは感じていた。

 いつしか空に月が昇り、疾駆する彼らの行く先を、ほのかに照らしていた。案内したとおりに、馬は市街地を抜け、畑のあいだを横切り、ケクロピアのやや郊外にある、クリステルとフランツが父娘二人で住む一軒家へと向かった。

 元来、女の足でもさほど遠くない距離である。クリステルは、この甘美な時間がもう終わりを告げようとしていることを、残念に思った。カールハインツがそんな想いを察して、このまま家に向かわずに、どこか遠くへ連れ去ってくれたらいいとさえ、ちらりと思った。しかし、それを口にするのはあまりにも慎みがなかろう。クリステルは大人しく、馬の鬣に手を置き、近づいてくる家の明かりを見つめていた。フランツはすでに帰宅しているらしかった。

 クリステルは、

「この辺で、いいです。ここからは、自分で歩きます」

 ためらいがちに、しかしはっきりとそう口にした。カールハインツがそれに反応して手綱を引く。馬がだんだんと速度を緩め、やがてその足を止める。不思議そうな顔をしているカールハインツに、クリステルはやんわりと、ありのままを告げる。

「すみません。本当はすぐにお礼がしたいのですけど、父が驚いてしまいますから……」

 もし蹄の音を聞きつけ、外に飛び出してきて、軍馬に若い男と娘が相乗りしている姿を見れば、フランツは卒倒するかもしれなかった。また、はっきりと口にこそしないが騎兵嫌いのフランツが、カールハインツにどんな無礼な詰め寄り方をするとも限らない。娘のことになると冷静さを失う父の姿を、できれば見られたくなかった。

「貴女を無事に送り届けることが、私の務めです。貴女がご自宅に入るまで、ここで見守りましょう」

 そう言ってカールハインツは先に下馬し、ぎこちなく降りようとするクリステルの体を支えた。地面に足をつけ、スカートのしわを伸ばしながら、クリステルは考えた。このまま歩き出せば、次はいつ会えるかわからない。

「あ、あの」

 意を決してカールハインツを見上げる。そして彼の目が自分に注がれているのを見て、臆しそうになる。月明かりに照らされ、春風に揺れるその髪は、尊い金糸のようであり、素肌はほのかに野性を秘めた象牙のようであり、気高い佇まいは古代の彫刻のようであった。彼は美しかった。この世に生きているとはとても信じられないほどに。それなのに眼差しは、最初感じたように冷たいばかりではなく、奥底に暖かい光を宿しているのが、いまのクリステルには分かる。

 ついそんな彼に見とれ、危うく何を口にすべきか忘れかけたところで、我に返ってクリステルは言った。

「ま、また、会っていただけますか。……その、あらためてお礼がしたいので。父には私からちゃんと話しておきますから、今度は家まで立ち寄ってください。あの、たいしたことはできませんけど、一生懸命、腕によりをかけて、ごちそうしますから」

 懸命に言葉をつむぐクリステルを見て、カールハインツの頬がかすかに緩む。

「ぜひ、うかがいます」

 そして慣れた動きで、ふわりと馬の背にまたがった。カールハインツはその場から動かず、クリステルを見下ろして、小さく会釈した。このまま彼女の帰宅を見届けるつもりなのだろう。クリステルはいそいそと頭を下げ、さっきまで緊張で震えていた足をもつれさせないように、しっかり、ゆっくりと歩き出した。

 自宅の扉を開け、中へ入る直前に、クリステルはカールハインツのいるほうを振り返った。彼はさっきまでとまったく変わらぬ姿勢で、まっすぐにこちらを見つめていた。騎士はかくあるべきと誇示するような毅然としたスタイルで。女性を守護するその姿だけでも、騎士の鑑と言うべきだった。

 玄関を抜け、リビングに入ると、フランツは酒を飲みながら、また母の肖像画を眺めていた。カップに注がれたワインから、湯気が立ち上っていた。これが一番身体があったまると、彼が好む飲み方だった。クリステルが帰ったことに気付いて、赤ら顔をしたフランツが振り返る。

「おっ、帰ったのか。遅いから迎えに行こうと思ってたところだ」

 実行に移してくれなくて良かった、とクリステルは思った。遠くでかすかに馬の嘶きと、蹄の音がしたように感じられた。フランツは気付いていないようであるが。

「ごはんは?」

 クリステルが訊く。

「帰りに仲間と食べてきたよ。土産のミートパイがキッチンに置いてあるぞ」

「ありがと」

 短く答えてキッチンへ向かおうとするクリステルが、ばらの花を手にしているのを見て、フランツが声をかける。

「どうした、その花」

 あらかじめ考えておいた言い訳を口にするクリステル。

「帰り道に花屋の前を通ったら、綺麗だったから買ったの」

「図書館からうちまでに花屋なんかあったか?」

「友達と繁華街に寄ってたのよ」

「悪い遊びを覚えるなよ。特に、男遊びはな」

 クリステルは少しぎくりとしながらも、遊びなんかじゃないもの、と心の中で反論した。窓辺に近づいて、外を眺める。そこには月明かりに照らされた野原が、静かに広がっていた。風にそよぐ草の音が、かすかに聞こえるばかりである。見回してみても、彼女を守護する騎士の姿は、もうどこにもなかった。あの甘美な情景は夢のあとのようにかき消えていたが、かすかな鼓動の高鳴りだけは、クリステルの胸のうちに痛みを伴って、はっきりと残されていた。




注:クリステルの「ラング」という姓と、ヨハンというキャラは非公式です。ハンス、シンシア、ナタリーなど名前のついてる半モブキャラもゲーム本編には登場しません。
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