うら若きクリステルの悩み~LostTechnologyクーニッツ騎士団編前日譚 作:アツ氏
さて、かしましい学友たちあいだでは、また一つのうわさが持ち上がった。彼女たちは相変わらず、他人の色恋沙汰には耳ざといが、幸いにして、クリステルに関する話題ではなく、ナタリーのその後に関することだった。
「ナタリーが、あの士官候補生と別れたらしいわ」
シンシアが、さも面白おかしげに、その顛末を語った。
ナタリーと交際していた士官学校の学生は、まだ入学したての新入生で、ナタリーよりはいくつか年下だった。外見はかなりの童顔だが、代わりに肌荒れ一つなく、騎士らしい無駄のない体つきをして、黒髪を短く切りそろえ、清潔感は抜群であったので、彼を見たナタリーの友人は、正直に言って嫉妬したという。しかし、それ以外の問題があった。
彼の性格はいたって真面目だったが、年相応に落ち着きがなく単純であり、会うたびにジギスヴァルトを熱烈に賞賛するばかりで、女性の喜びそうな話題や、言葉をほとんど知らないようだった。おまけに騎士候補といいながら、馬にはまったく乗れないらしく、そのことにほんの少しでも触れようものなら、猛烈な勢いで弁解するのだという。
「新米でも、乗馬できなくても、騎士は騎士だからな! ……だって。ちょっと苦しいよね」
ねー、とシンシアが友人たちに同意を求める。たとえ別の意見があったとしても、ここは頷いておくのが最良の処世術である。
その後、ナタリーはだんだん、彼に話を合わせていることに疲れ始め、会うのを避けるようになった。女性の側からすれば、ちょっと距離をとりたいという気持ちの現れに過ぎない。しかし相手には何が起こったか分からないらしく、その真面目な性格の故か、ますますナタリーにしつこくまとわりつくようになったのだという。
「どうして急に冷たくなったんだ、とか、僕に何か悪いところがあるなら言ってくれ、とか、ありきたりの台詞並べてさ。そんなの自分で分かれよって感じでしょう」
シンシアの言葉を聞いて、友人連がせせら笑う。クリステルは、その場に沿うように苦笑いしながら、内心には少なからぬ恐怖を抱きはじめていた。そしてカールハインツのことは下手にばれないようにしなければならない、と心ひそかに思うのだった。
ナタリーのことに話を戻せば、もう泥沼である。彼がすがり付けばすがりつくほど、ナタリーの心は離れる一方だった。待ち伏せして声をかけても、目もあわせてもらえず、理由を聞いても、答えてもらえない。候補生はとうとう業を煮やして、ある行動に出た。格好いいところを見せればいいと思ったのだろう。上官の馬を勝手に駆り出して、ナタリーの自宅の前まで押しかけたのである。熟練の軍馬だったが彼は必死にそれを操り、ナタリーのところへたどり着くまでは、何とか乗りこなしたらしい。そして部屋にいるであろう彼女に向かって、大声で呼びかけた。
「ナタリー! 見てくれ! 僕も立派な騎士だ! このクラレンス、生涯をかけて君を守ることを誓う! だから、こっちを振り向いてくれ!」
馬に乗った姿が思いのほか板についていたことと、つたないが誠実な告白だったので、ナタリーの心は動きかけた。そして計算。少し頭は足りないが、士官候補生には違いないし、馬に乗れるならいずれは正騎士になれるだろう。見た目は悪くないし、根はまじめだから、経験をつめばもっと素敵な男性になる可能性は大いにある。士官の妻なら、世間に出ても恥ずかしくないし、たとえ夫が戦死してもクーニッツ騎士団が生活の保障をしてくれるだろう云々。
一瞬で、ここまで考えたナタリーは、窓に駆け寄ってクラレンスの名前を呼ぼうとした。私が悪かったわ、仲直りしましょう、と虫のいい文句を付け加えて。
そのせつな、それまでクラレンスに大人しく従っていた軍馬が、とてつもない勢いで暴れ始めた。馬は非常に繊細な生き物で、良くも悪くも乗り手の心情を察知して、それに反応してしまうらしい。このときは完全に悪いほうに出た。ナタリーに呼びかける、クラレンスの焦りと、必死さが、伝わったのだろう。こんな青臭いヒヨっ子を乗せてられるか、そんな暴れ方だったという。
ちょうどナタリーが窓から身を乗り出したそのとき、軍馬はいななきながら大きく前足を上げたところだった。クラレンスは慌てて手綱を引いたが、これがいけなかった。馬は痛みに飛び上がって、そのまま宙を舞い、背中から地面へ落下した。クラレンスもまた、宙に投げ出され、あろうことか近くを流れていたどぶ川に頭から突っ込んで、泥だらけになってしまった。馬の下敷きにならなかっただけ、運が良かったというべきだろう。ただ、見た目には最悪の結末であった。クラレンスが痛みをこらえながら何とかどぶから這い出し、ナタリーの部屋の窓を見上げた時には、すでに鎧戸が固く閉じられていたという。
現在クラレンスは、上官の馬を勝手に駆り出した罪で懲戒処分を受けて謹慎中であり、始末書に添えるための膨大な謝罪文を、涙ながらに寮の自室にこもって書き続けているという。
話を最後まで聞いて、口ではかわいそう、と言いながら、大笑いする女友達たち。確かに他人ごとなら笑えるが、本人のことを思うと、胸の痛くなる話である。同情を誘わないではない。彼女達の間にも、ほのかにそんな意識が芽生えたのだろうか。シンシアが、
「でもさ、ナタリーはやっぱり子供だと思うな。そういう情けない男を支えて、いい男に育てるのも、女の役目でしょ。彼が士官候補生なのは間違い無いんだし、ちょっともったいないよね。謹慎が解けたら、会いに行ってみようかな、クラレンスくん。なんか、一生懸命でかわいいじゃない。顔もいいみたいだし」
などと恐ろしいことを言う。これに対しては、クリステルの苦笑いも、さすがにひきつった。こうして前途ある純粋な青年が、ぼろぼろにされていくのだろうか。どうかクラレンスが、女に絶望するほど傷つかないでいてくれることを願う。しかし、クリステルのそんな願いをよそに、女友達は口々に、
「じゃああたしも行く」
「じゃ、あたしも」
「誰が一番最初にクラレンスくんを落とせるか勝負しようよ」
と黄色い声を上げながら、どんどん懸念すべき方向に話を膨らませていくのだった。もし、カールハインツがそんな目にあったことがあるとしたら……、そう考えるとぞっとする。次に会った時に訊いてみようか、とちらと考える。でも、真実を知れば、自分が嫉妬に狂ってしまいそうで恐ろしい、などと、クリステルはほとんどのろけに近い葛藤に一人さいなまれていた。
とはいえ、その後の二人、つまりクリステルとカールハインツの関係は、進展というほどの進展を見せてはいなかった。士官学校がよっぽど忙しいのか、それとも他に用事があるのか、あれから図書館にはほとんど顔を出さないし、たまに姿を現しても、
「今日は講義で使う資料を集めに来たのです」
と言って微笑みかけてくれるものの、それを手に入れるとさっさと帰ってしまう。言葉をかけるような暇も無い。そのつどクリステルはがっくりと肩を落として帰宅し、部屋に閉じこもり、たとえ仕事を終えて腹を空かしたフランツが、扉をノックして夕食を要求したとしても、返事もせずにカールハインツから贈られたばらの花を眺めつづけているのだった。
あのあと、クリステルは改めて繁華街へ繰り出し、おあつらえ向きに馬をかたどった陶器の一輪挿しを手に入れたうえ、ちょうどケクロピアへ訪れていたという、前髪の長い旅の女氷術師に依頼して花を冷凍乾燥してもらい、長持ちするよう処置を施した。ハンスの言によれば、
「その花を渡してくれれば、気持ちは伝わるはずだ」
とカールハインツは言ったらしいが、当然いろいろ想像はできるけれども、はっきりと言葉を聞かせてもらえなければ、信じる心が揺らぐというものだ。花を贈られ、危ないところを助けてもらったのだとしても、彼が自分のことを好きなのかどうか、その肝心なところが分からないままである。
クリステルはというと、言うまでもないことだが、あの夜以来、完全にカールハインツに心を奪われていた。まさしく、二十歳を目前にしての、遅まきの初恋であった。彼女はその性格ゆえに非常に慎重だったが、どうしてもこの恋を実らせたいという強い願望も当然あった。女学生のように、占いやおまじないに現を抜かしても仕方が無い。クリステルは、策を練った。現実的に、彼と距離を縮めるためにはどうすれば良いか。
そこで思いついたのは、もう少しで訪れる自分のバースデーパーティーに、カールハインツを招待することだった。父や友人たちに彼の存在を知られることにはなるが、あとあと少しずつ知れ渡って、いちいち弁解する手間が省けて良いし、腕によりをかけてごちそうする、という自分の言葉を果たすことにもなる。クリステルは、この計画を実行することに決めた。
ただ、いくつか障害がある。まずは、他でもない父のことである。
これまでのクリステルのバースデーパーティーに、親戚以外の若い男性が訪れたことは無い。それは男友達がいなかったせいもあるが、仮に誘いたい男性がいたとしても、フランツのことを思えば、きっとためらったに違いなかった。フランツはことあるごとに言う。
「この世でクリスを一番愛してるのはパパだからな。どんな男が来たって、パパのこの愛を超えることは出来ないんだ。パパ以外の男なんて、みんなつまらんぞ、クリス」
冗談で言っているのか、本気で言っているのかわからない。おそらく、冗談に見せかけた、本音だろう。長年一緒に生活していれば、その辺の違いはなんとなく理解できるものだ。だから、下手な男を連れてきたら、どんな言いがかりをつけるか分かったものじゃない。
それに、フランツの場合、親戚だから良いというものでもなかったのである。
クリステルには、ヘラスに住むひとつ年上の従兄弟がいる。ルートヴィヒという名で、彼とは小さいころはとても仲が良く、フランツと共にヘラスへ里帰りするたび、ルイという愛称を呼びながら一緒に野山を駆け巡って遊んだものだった。二人とも、まだ十歳にもならないころの話である。当時のクリステルはまだ活発で、木登りや川遊びなどの、男の子がするような遊びにも加わっては、擦り傷を作ることが多かった。少し怪我をして泣くようなこともたまにはあったが、剣術遊びや、拳闘ごっこなどの、よほどの危険な遊びでなければ、
「元気があって大変よろしい」
といった体で、フランツが言い咎めることはなかった。
問題は、女の子の遊びに男の子が混じった場合である。あるときクリステルはルイとままごとをした。男の子と女の子が二人でままごとをする場合、当然真っ先に思いつくのは夫婦のシチュエーションである。例に漏れず、クリステルは奥さんの役、ルイはその夫の役をした。
「あー、疲れた」
などと台詞を言って、ルイが自宅へ戻るふりをする。それに対してクリステルが、遊びに使う空のスープ皿を差し出しながら、また台詞を言う。
「おかえりなさい、あなた。ご飯できてるわよ。今日はクリスの特製のシチューよ」
「わあー、おいしそう。いただきまーす」
「どう、おいしい?」
「うんっ、とってもおいしいよ。クリスのシチューは世界一だあああ」
「うれしいー」
クリステルはルイの頬に何度もキスをする。本当に新妻になったような気持ちで、すっかり役を演じていた。少し離れた場所でフランツが、二人の様子を横目で見ているとは知らずにである。
「あなた、ご飯が終わったら、お風呂にする? それとも寝る?」
「今日は疲れたから、もう寝ようかなあ」
「わかった。そしたらベッドに行きましょう」
そこまで聞いて、フランツの顔から血の気が引く。それまで彼は久し振りに会った父親や、兄弟たちと談笑しているところだったが、一気にクリステルたちのままごとから目を離せなくなった。クリステルがルイの手を引いていき、シーツを敷いてベッドに模した長椅子に、二人並んで横たわる。二人はにこにこしながら向き合い、お互いの体をくすぐったりしながら、その時間を楽しんでいた。子供たちとしてはただ夢中になって遊んでいるだけなのだが、その光景が一部の大人にどんな感情を引き起こさせるか、知る由もないのである。そのうちルイのほうが感情が昂ぶったのか、突然クリステルに抱きつきながら言った。
「クリス、大きくなったら僕と結婚して!」
クリステルはルイのことが嫌いではなかったし、子供心にもその言葉が嬉しかったので、力いっぱい抱き返しながら、
「うん、いいよ!」
と答えたのであった。そこでフランツが立ち上がった。他の家族が呼び止める声も耳に入らないという調子で、抱き合うクリステルたちのそばに近寄り、引きつった笑顔を浮かべた。
「どれ、おままごとはそれくらいにして、おじさんと遊ばないか?」
ルイは変わり身早く、フランツの言葉に従った。クリステルは自分たちの遊びを邪魔されて憤然としたが、彼女もすぐ気を取り直して、二人の後を追った。フランツとルイは庭に出て、薪に使う木切れの中から、手ごろな太さと長さのものを二本探し出し、互いに構えた。剣術ごっこをするらしかった。
「おじさんは軍人だからな。男の子には強くなれるように剣を教えてあげよう。さあ、どこからでもかかっておいで」
引きつった笑みを浮かべつつも、余裕しゃくしゃくに言うフランツの言葉に、ルイは子供らしい甲高い掛け声を上げて、棒切れを振りかざした。フランツは自分の得物も使わずにその攻撃を避け、ルイの足を引っ掛けた。バランスを崩して転ぶルイ。しかし、半分遊びとはいえクリステルに求婚するぐらいの甲斐性のある子供だったので、歯を食いしばって立ち上がった。それを見てフランツが言う。
「おお、なかなか根性があるな。いいぞ。もう一度打ち込んで来い。今度は受け止めてやろう」
果たしてルイは、棒切れを構えなおして果敢に挑んでいった。宣言どおりにフランツはルイの渾身の一撃を受け止めた。木と木が触れ合う乾いた音が響く。
「うん、悪くないぞ。しかし、腰がはいっとらんから、ほい」
フランツはそう言って、今度はルイの得物を押し返した。長年歩兵をやっているだけあってフランツの体は頑健で、子供から見れば揺るぎない山のようである。少し力を込めるだけで、ルイは吹っ飛んでしまい、地面にしりもちをつく。顔をしかめて痛がるルイに、フランツは棒切れの先を突きつけて、挑発する。目つきが鋭く、あまり手加減しているようには見えない。クリステルもまた傍で二人を眺めながら、何か様子がおかしいことに少しずつ気がつき始めていた。
「さあ、立って、もう一度だ。殺すつもりで来なさい。私を殺すぐらいじゃなければ、クリスをお嫁にはやれないからな」
フランツの言葉を聞いて、クリステルはぴんと来た。ルイがいじめられているのは私のせいだ。軽々しく、結婚していいなどと言ってしまったから、パパが怒っているんだ、と。クリステルははじかれたように立ち上がり、ルイとフランツの間に割って入った。泣きながら両手を広げ、ルイをかばいながら、叫んだ。
「パパ、ごめんなさい。クリス、お嫁になんかいかないから。ずっとパパと一緒にいるから。だから、おねがい、ルイのことをいじめないで」
クリステルの涙ながらの説得に、フランツは我に返ったように棒切れを捨てた。そして、二人のもとに近づいて言った。
「そうだな。パパが悪かった。いじめたわけじゃないんだよ。ルイが思いのほか強かったから、パパも少し本気を出したんだ。なあ」
そうしてフランツはルイの頭をなでようとしたが、ルイはその手を避けるかのように立ち上がり、家のほうへ駆けていった。この件に関してルイが抱いた恐怖はかなり大きかったらしく、それからというもの、二度とフランツにもクリステルにも近づかなかった。クリステルもまた、ひどく傷つき、男の子と仲良くするとパパが怒るのだ、だから男の子と仲良くするのはやめよう、そう思い込むようになってしまった。美しい彼女が今日までほとんど恋愛と縁が無かった一因には、こうした記憶も関わっていたのである。
しかし、クリステルは、このトラウマを打ち破るのは今を置いてほかはない、と考えた。カールハインツには、そう決意させてくれるだけの想いを寄せていた。それに、たとえ彼との恋愛が上手くいかなかったとしても、そのあとにも続くであろう恋愛の機会を、今後とも父に邪魔されるわけにはいかない。もちろん、カールハインツ以外の男のことを、この時点でクリステルが考えたわけではないが、父との関係を大きく変えるチャンスだと捉えたのである。
あくる日の夜、クリステルは許可を取って図書館の仕事を早退し、父の帰宅を待った。そして、どんな切り口から父を説得しようか、頭の中でぐるぐると思いめぐらせ続けた。とにかく、カールハインツとのあいだには何のやましいことも無いのだし、ありのままを述べるのが一番良いと考えた。図書館の帰り道に変質者に襲われて、それを助けてもらったこと、自分がそのお礼にパーティーに呼びたいと考えていること。変にうそをつけば、あとでぼろを出すことになる。クリステルは待った。これほど父の帰りを待ちわびるのは久し振りだった。
玄関の扉の開く音が聞こえた。クリステルの肩が緊張に震えた。この説得に、これからの人生がかかっている。何度も深呼吸しながら、自分の言うべきことを心の中で繰り返した。そして、心を決めて、声をあげた。
「おとうさん」
娘の呼び声を聞きつけて、フランツがリビングに姿を現す。やや心細そうな上目遣いをする娘を見て、フランツが言う。
「どうした。今日は早かったんだな。パパを待っててくれたのか、クリス」
その言葉に頷くクリステルを見て、フランツは嬉しくてたまらないという風に笑う。
「そうか……。そんなクリスを見るのは何年ぶりかなあ。でもな、パパは分かってるぞ。何かおねがいごとがあるんだろう。今度の誕生日に欲しいものでもあるのかな」
図星である。フランツは普段のほほんとしているようでいて、実は勘の鋭いところがある。怖いのは、何か気付いていながら、それをあまり表面に出そうとしないことである。クリステルは、男絡みで自分が悩んでいることを、とっくにフランツに見抜かれていたのではないか、と思った。確かに、夕飯も作らずに部屋に閉じこもっていたことが、ここしばらくのあいだで数回あった。何かおかしいと感じている可能性はある。しかし、ここで口にしてしまえば同じことだ。クリステルは言った。
「そのことなんだけどね、おとうさん。実はパーティーに招待したい人がいるの」
「友達なら、いつも連れてくるだろ。好きに呼んだらいい」
クリステルの斜向かいのカウチに腰掛けながら、フランツが返事をする。
「うん、そうだけど。……男の人なの」
フランツの笑顔が凍りつく。そしておもむろに額に手を当て、うつむいた。その陰でどんな表情をしているか、クリステルからは見えない。しかし、臆してはならなかった。
「こないだの夜、少し遅く帰ってきたことあったでしょ」
「……あったな」
「あのとき私、男の人に襲われたの」
フランツが勢い良く立ち上がって声を荒げる。
「クリス! パパはお前をそんな風に育てた覚えは無い!」
「違うの! 最後まで聞いて! 襲ってきたのは別の変な男の人! それを助けてくれた人がいるの!」
「ええー……」
フランツは状況が飲み込めないといった風に再び額に手を当て、座り込んだ。クリステルは話を続ける。
「最近ね、大学にいるときも、図書館にいるときも、私、誰かに付けまわされてたらしいの。まあ、周りの人から教えられて知ったんだけど。で、あの夜、帰り道にあとをつけられて、一人になったところを襲われたのよ。私のことを誘拐するつもりだったみたい。ものすごい力で捕まえられて、危うく連れ去られるところだった」
「まじかー……」
フランツはため息混じりに、そうつぶやいた。おそらく、自分が迎えに行かなかったことを後悔しているのだろう。しかし、済んだことだし、実際クリステルは無事だった。カールハインツがすばらしい男性であることをアピールするなら今である。
「でもね、別の男の人が駆けつけて、その悪い奴を追い払ってくれたんだ。とっても強くて、かっこよくて。そのあとも、危険だからって、家まで送ってきてくれたの。おとうさんに、変なこと言われたくなかったから、家の近くまで来て、そこで別れたけど」
「おいおい、そいつも危ない奴だったらどうするつもりだったんだ」
「そうだね。あとから考えればそうだけど、結果的にはすごく優しくて、強くて、いい人だった。おとうさんは一緒にいなかったし、その人が来なかったら、私、今頃どうなってたか分からない」
これは大げさではない。クリステルは、ヨハンのあの狂気に満ちた眼差しを思い出すと、いまだに生きた心地がしない。彼の言っていた『もとのクリステルに戻ってもらう』ための行為がどんなものであったか、想像するだけでも寒気がした。
「……うーん。なあ、クリス。しかし、その、お前を助けた男に下心がなかったと、どうして言い切れるんだ」
自分が迎えに行かなかった責任を相当重く捉えているのか、自信なさげな口調で、苦し紛れにフランツがそう言う。ここで押し切るしかない。クリステルははっきりと言った。
「別にいいもの、下心があったって。私は今、その人のことが好きなの。なにもやましいことはないけど、恋人になりたいと思ってる」
「お、お前にはまだ……」
「早いとは言わせない。もうすぐ二十歳になるんだもの。この歳になるまでに、友達はみんな恋人の一人や二人は作ってた。私は我慢してきたの、おとうさん。初めて男の人を好きになったのよ。私の気持ちを分かって」
「うう……」
フランツは口ごもり、そのまま黙り込んでしまう。頭を抱え、相当に葛藤しているのだろう。いつまでも口を開かないので、クリステルは少しトーンを落として、言葉を続けた。
「……それはそれとしても、お礼はちゃんとしなくちゃいけないから、パーティーには呼びたいの。彼が私のことを好きかどうか、まだわからないし。だから、彼が家に来てもなにも言わないで。私のおねがいは、これだけ」
言いたいことは全て言った。あとはフランツがどう切り返してくるかである。ごねたとしても、クリステルは一歩も引くつもりは無かった。たとえ実の父であろうと、自分の恋路を邪魔する者は徹底的に排除する、それぐらいの心構えがあった。辛抱強く、フランツが何か言うのを待つ。その間フランツは、足踏みしたり、うなったり、頭をかきむしったりして落ち着きが無かったが、やがて決心したかのように言った。
「よしわかった。クリス、その人をうちに呼びなさい。パパからも是非お礼が言いたい。娘の命の恩人を放っておいては男がすたる」
クリステルの表情が見る見るうちに輝く。そして嬉しさのあまり立ち上がり、子供のようにフランツに飛びついた。
「おとうさん、ありがとう!」
フランツはクリステルの体を抱きとめながら、しみじみと言った。
「大きくなったもんだ……。もう、そんな歳なんだな」
クリステルは父の体から少し離れて、微笑む。
「遅いくらいだよ。おかあさんが、おとうさんと結婚したの、今の私と同じ歳でしょ」
クリステルの言葉に、フランツは少し遠い目をする。そして急に饒舌になって、妻との思い出を語り始めた。
「そうだった。本当に、今のクリスにそっくりだった。ヘラス一の美人で、ライバルがたくさんいたよ。どうしても、振り向いてほしくて、あきらめずに一生懸命アタックしたんだ。そのたびに、優しく笑いかけてくれた。『フランツさんは、他の人と違って必死だから、おもしろいわ』って。うん。それでも良かった。何でもいいから、笑ってほしくて、頑張ってたんだから。この女性を、一生かけて守りたいと、思っていたんだ。あるときそれを口に出したら、『いいわ。フランツさんなら、本当に一生かけて、私のことを守ってくれそう』って答えてくれた。天にも昇るような気持ちだった。しがない兵隊で、稼ぎも少なかったけど、彼女はいつも笑っていてくれた。『死なないでいてくれたらいいわ。死んだら、私のこと守れないじゃない』って。……まあ、あいつが先に病気で死んじまったけどな」
そこまで言って、フランツは鼻をすすった。初めて聞く話だった。母が死んで以来、思い出すのが辛かったのか、少なくともクリステルに対しては口にしなかったことだ。優しい顔つきだが、美男とはいえない父が、街一番の美人に果敢にアタックする様を思い浮かべると、滑稽だった。クリステルが、
「ふふっ」
と笑うと、フランツも釣り込まれるように笑った。
「そう、あいつもそうやって笑った。俺の必死の形相を見て『おもしろい顔』ってな。あんな美人と結婚できるなら、おもしろい顔に生まれつくのも、悪くないぞ」
そう言ってフランツはクリステルの髪をなでた。本人が言うほど顔立ちそのものが悪いわけではないのだが、必死の形相というのは笑いを誘うものではある。クリステルにも、母の気持ちが分かるような気がした。
「おまえがその男を好きになって、母さんみたいに笑っていられるなら、俺はなにも言わない。ただ、泣かした場合は容赦しないがな」
「わかった」
クリステルは愛しげにフランツの額にキスをした。それに続いて、フランツが思い出したように訊く。
「その男、何をしている奴なんだ?」
「何って?」
クリステルがきょとんとして聞き返す。
「仕事とか、勉強とか、あるだろ」
「ああ……ぐ、軍人さん」
無意識のうちに騎兵、という言葉を避けてしまった自分に気付く。残念ながらここにも障害があったのだ。今はこんな風に物分りが良くても、相手が騎兵だと知るや否や、フランツが前言を撤回する可能性がある。しかし、それを恐れている場合ではなかった。クリステルは、真実を伝えようと口を開いた。
「その、軍人っていうのはね……」
「なあんだあ、パパと同じ仕事か! それを早く言いなさい。ってことは俺の部下だな。畜生、どいつだ、そんな果報者は」
クリステルの言葉にかぶせるように、フランツが大声を上げる。
「いや、その」
「まて、クリス。今は言うんじゃない。サプライズはその日まで取っておこう。パーティーでそのつらを拝んで、訓練でみっちりしごいてやろう。クリス、お前を一生守れる男に、俺が育ててやるからな」
フランツはすっかり上機嫌になって、キッチンへワインを取りに行った。もはや、カールハインツが騎兵だと言い出せるような雰囲気ではなかった。
(うう……どうしよう)
嘘をついたことにはならないが、このことが後々、面倒なことを引き起こすのではないかと、クリステルは気が気ではなかった。しかし、すっかり舞い上がっているフランツの機嫌を、あえて損ねるような勇気は、もはや残っていなかった。