うら若きクリステルの悩み~LostTechnologyクーニッツ騎士団編前日譚   作:アツ氏

7 / 9
7.シュトゥルム・ウント・ドラング

 クリステルが家の近くまでたどり着いた時、もう一度、破裂音がした。そして物々しい、何かが争うような音や、足音が、聞こえてくる。クリステルはいつでも矢を撃ち出せるよう、身をかがめ、弓を構えながら扉に近づき、取っ手に手をかけた。完全に閉まりきっていなかった扉は、少し触れるだけで、内側に開いていった。玄関ホールが見える。物音から想像していたほど、変化が見られるわけではない。何かが壊れているわけでもない。いま、この瞬間、家の中はすっかり静まり返っていて、かえって薄気味悪いほどだ。住み慣れた家が突如怪物に変貌し、クリステルを罠にはめようとして、口をあけているかのようだ。

(……狼の口だわ)

 クリステルは、意を決して足を踏み入れる。フランツと、カールハインツは、どこにいるのか。用心深く壁を背にしながら廊下を進むと、床に、今までなかった染みが落ちているのに気がつく。決して大きくないが、赤黒いその染みは、血痕を容易に連想させた。それが、断続的に、点々と、リビングまで続いている。悪い予感が強まっていく。すぐにでも駆け出したい衝動を抑え、あくまで周囲を警戒しながら、クリステルはじりじりと血痕をたどる。それは、リビングを抜け、キッチンの奥まで続いていた。弓矢をつがえる手に、力がこもる。いったい何を見ることになるのか。クリステルは、血痕をたどっていく先にある、調理台の陰をおそるおそる覗き込んだ。そこに現れた光景に、思わず息を呑む。

「……おとうさん」

 フランツが、血を流して、床に倒れていた。クリステルは、音を立てぬように急いで近づき、屈みこんでその頭を抱き起こす。脂汗をかき、意識がはっきりしないようだが、しっかり息はしている。最悪の事態は免れているものの、腹部に傷を受けているようであり、速やかに治療する必要があるのは、見て取れた。剣やナイフとは違う、見たこともないような小さな傷であった。それは歩兵隊の訓練で鍛え抜かれたフランツの腹筋をも深くえぐっており、その傷の大きさに見合わない多量の血が流れている。クリステルは、急いでドレスの裾を引き裂いて包帯代わりにし、止血するために彼の腹に巻いた。そして、気を付かせようとして、頬を軽く叩いた。フランツが低くうなって、かすかに目を開ける。

「クリスか」

 クリステルは反応があったことに安堵しつつ、声を潜めてフランツに尋ねた。

「おとうさん。何が起こったの。その傷はどうしたの」

 フランツは苦しそうに、ことの次第を告げる。

「パーティーの片づけしてたらな、見たこともない若造が、いつの間にか玄関に立ってたんだ」

「どんな人?」

「金髪で、背の高い奴だ。騎兵の若造とは違う。なんだか、おかしな目つきをしてた」

 その言葉にクリステルは戦慄する。やはり、ヨハンがここに現れたのだ。

「『誰だ?』って聞いたら、そいつは何も言わずに笑って片手をあげた。細長い管のついた鉄屑みたいなもんを、俺に突きつけたと思ったら、その先っぽが爆発して、火を噴きやがった。わけも分からんうちに、腹から血は流れるし、気は遠くなるしで、慌ててキッチンに隠れたんだ。……情けねえ。そのまま寝ちまってたとは」

「分かったわ。もうしゃべらないで。ここでじっとしててね」

 クリステルはフランツの頭をなで、額にキスしてから、慎重に床に寝かせた。

「クリス、外に出て、助けを呼びに行け」

 そのとき、二階で靴音がした。そして、また破裂音。

「ええ、でも、その前にやることがある」

 クリステルは急いでキッチンを出た。フランツは制止したようだったが、声がかすれているせいか、クリステルの耳には届かなかった。

 クリステルは二階へ続く階段の下に出て、上を見た。ヨハンとカールハインツが争っているのか、激しい物音が聞こえてくる。カールハインツの騎士としての強さは疑うべくもないが、彼は今日、護身用の細剣を持つ以外は武装していなかった。記憶では、ヨハンはカールハインツと同じくらい体格がよく、相応に力もあったが、今日はそれに加えて、未知の武器を使用している。相手が熟練の歩兵であっても、一発で重傷を負わせるような何かだ。フランツの言葉から推測するに、火薬を使った飛び道具のようだが、だとすれば剣では明らかに分が悪い。しかし弓で援護することができれば、撃退できるかもしれない、クリステルはそう考えた。日ごろ争いを嫌う彼女が、このときに限っては戦うことを選ぼうとしていた。その胸には父親を傷つけられたことに対する怒りがあった。また、今日のような喜ばしい日に合わせて、襲撃を仕掛けてくる間の悪さや、非常識さに対しても、許しがたく思っていた。自らの手で、ヨハンを罰するのでなければ、もはや気が済まなかった。

 弓矢を構えながら、クリステルが階段に足をかけたそのとき、激しい音を立てて、階上の左手の扉が開いた。中から出てきたのは、カールハインツだった。その手には細剣が握られ、表情には焦りがあるが、傷を負ってはいないようだ。彼は背後を振り返り、剣を構える。ヨハンの姿はまだ見えない。動けるスペースを確認するためか、カールハインツが階下に向かってちらりと目をやる。そして階段を上ろうとしていたクリステルと、視線が合う。

「クリス! 来るな!」

 思わず彼が声を上げた瞬間に、破裂音が鳴った。カールハインツの体は弾かれたように揺れ、足をもつれさせながら、仰向けに倒れていく。その手から剣がすべり落ち、床に転がる。

「カールハインツ!」

 クリステルが叫び、階段を上って、倒れたその体に駆け寄ろうとする。すると、身の毛のよだつような、あの低い猫なで声が、開いた扉の奥から聞こえてきた。

「その男に近づくのは、許しませんよ。クリステル・ラング」

 クリステルは声の主に向かって、怒りの表情を向ける。長く伸びざらした金髪と、蝋のように病的に白い肌、そして全てを見下すかのような高慢な目つきをした、長身の男が現れる。あの夜に、細い路地でクリステルを背後から襲った男、ヨハンに間違いはなかった。右手には、フランツの言っていた、細長い管のついた鉄の塊が、握られている。その先からは、焦げ臭い匂いと、細い煙とが立ち上っていた。

「馬もなく、槍もなければ、騎士など他愛もないものですね。これからは銃の時代です。戦場で、武人ばかりがもてはやされることは、もう無くなるでしょう。力あるものではなく、知恵あるものが勝つ時代になる。いやはや、なんともすばらしい」

 銃と呼んだその武器を、いとおしそうに撫でるヨハン。

「エレクトリスの連中と辛抱強く掛け合って、手に入れた甲斐がありました。騎士団はケクロピアから犯罪を淘汰できると思っているようですが、甘いですね。ジギスヴァルトのせいでこの街はすっかり平和ボケしてしまって、それがかえって抜け道になっているところも、あるようですよ。隣に座っている、人のよさそうな友人が、実は犯罪者だった、なんてことがあっても、別におかしくありません。ねえ、クリステル・ラング」

 判で押したように自分の名前を呼ぶヨハンをにらみつけ、クリステルは弓矢を向ける。彼は驚いたような顔をして、言う。

「おやおや、あなたのような心優しい女性が、私に矢を撃つというのですか。ご安心なさい。この銃をあなたに向けることは決してありません。ただ、そういう態度をとるならば、私にも考えがあります」

 そしてヨハンは、仰向けの状態から半身を起こして呻いているカールハインツに、銃口を向けた。

「試してみますか。あなたの矢が私を撃つのと、私の銃が彼の頭を撃ち抜くのと、どちらが速いか」

「……卑怯者」

 歯を食いしばり、怒りに震えながらも、こうなってしまった以上、クリステルは身動きをとることができない。

「機知に富むと言っていただきましょう。私からすれば、あなたを従わせるには最も効率のいい方法です。武器を捨てなさい、クリステル・ラング」

 その言葉に対し、しばらく抗うように構えを取っていたが、やがてクリステルは両腕を下げ、弓と、矢とを足元に落とした。乾いた木の音を立てて、贈られたばかりの美しい弓が、床に横たわる。激しい怒りに包まれていた彼女の姿は、いまやその勢いを失い、ただ力なくうつむいて立ち尽くすのみとなった。

「よろしい。そのまま動かないように」

 短く言い、ヨハンはクリステルに近づき始める。カールハインツは隙をうかがってはいたが、銃弾を受けて動きが鈍くなっていたうえ、この状況で下手にあがいても、クリステルを助けることも出来ないまま無駄死にするかもしれず、動こうにも動くことが出来なかった。ヨハンは銃を構えたまま、警戒を緩めることなく、ゆっくりゆっくりと、クリステルの傍まで歩を進めた。そして、空いたほうの腕で、その肩を抱き、勝ち誇ったように笑った。

「騎士どの、見ましたか。あなたが屈服したことで、彼女は私のものとなりました。否、もともと、私のものとなるはずだったのに、あなたが卑怯にも横取りしようとしたせいで、彼女は変わってしまったのです。男に媚を売る、この姿はどうですか。まるで淫魔のようではありませんか。私は、元のクリステル・ラングに戻ってほしいがために、ここまでしているのですよ。騎士どの、あなたのことは許しがたいですが、大人しく手を引くならば、命だけは助けてあげましょう。彼女のことを忘れ、せいぜい一兵卒として、国を守ることに励みたまえ。私たちには、私たちの生きるべき世界があるのです。こんな生ぬるい、かりそめの平和にかまけているような街ではなくてね。さあ、行きましょう、クリステル・ラング。あなたを、もとの穢れの無い存在に、私が戻してあげましょう」

 ヨハンの身勝手な演説を聞きながら、カールハインツもまた、怒りと屈辱に、身を震わせていた。たとえ命を長らえても、ここで剣を取って飛び掛らねば、愛する女性も、騎士としての名誉も失うことになるだろう。それはおそらく、死よりも彼を苦しめることになる。目の前で、愛する女性をみすみす奪われて、死ぬまでそれを悔いて生きることになるのだ。そのような生涯は、絶望以外の何物でもない。カールハインツは痛みをこらえて身を起こし、剣を拾おうとした。

 そのとき、それまでずっとうなだれていただけのクリステルが、突然口を開いた。

「ヴォルフハウゼンさん。私のことを、そんなにも想ってくれて、本当にありがとう」

 ラストネームとはいえ、初めて名前を呼ばれたことに対する喜びと、自分の想いを受け止めてくれたかのようなクリステルの言葉に、ヨハンが目を輝かせる。

「そうです。そうです、クリステル・ラング。あなたのことをこの世で一番想っているのは、私なのです。そこの情けない騎士殿よりも、あなたを悩ませる父親よりも、私のほうがずっと、あなたのことを愛しています。二人で共に暮らしましょう。私が求めていたものと、あなたが求めていたものをひとつにすれば、きっと幸福な生活を送ることができるはずです」

「ええ、大変結構なお誘いだけど、私はもう、元に戻ることは出来ないの」

「そんなことはありません。もし、自分が穢れてしまったと考えているのなら、それは私が消して差し上げます」

 そうしてまた猫なで声を上げるヨハンに向き直り、クリステルは決然と言い放った。

「不可能だわ。あなた以外の男の人を好きになることを、穢れというなら、私は一生穢れていることを選びます。あなたの愛していた、もとの空しいクリステル・ラングに戻るくらいなら、死んだほうがましです。私は彼を、カールハインツを愛しています」

 ただでさえ生白いヨハンの顔が、ますます血の気を失ってゆく。まるで陽光を恐れる夜魔のように怯えた表情をし、自分の耳にしている事実を否定するかのように首を振る。

「嘘だ。あなたは元に戻ることが出来ます。私がそうさせるのですから」

 そう言って弱弱しく声を震わすヨハンだったが、クリステルの態度は揺らぐことがない。

「できません。それが気に入らないというなら、今すぐ私をその銃で殺せばいいわ」

 ヨハンは額にかかった髪を途方にくれたようにかきむしりながら、涙を流しはじめた。何か小さい声でぶつぶつとつぶやきながら、自ら頭を激しく殴打したりもした。一度は大人しく従ったと思ったクリステルが、反旗を翻したことによって、彼は混乱しているらしかった。今にも実現に手が届こうとしていた理想が、打ち砕かれて、自我が崩壊したのかも知れぬ。しかし、それも束の間、つぶやきはだんだんと鳴りを静め、頭をかきむしる手も、だらりと下がった。

「そうですか……。わかりました、クリステル・ラング」

 か細い声で、ヨハンは彼女の名を呼んだあと、銃を構えた。その目にはもう涙はなく、平常どおりの冷たい狂気だけが、鈍く光っていた。

「では、お望みどおりにして差し上げましょう」

 引き金に指がかかる。そのときであった。

「ヴォルフハウゼン!」

 背後から名前を呼ぶ声に、ヨハンは振り向きざま、引き金を引いた。銃声と共に発射された鉛の玉は、声の主の頬をかすめ、その遥か後ろの壁に食い込んだ。カールハインツだった。彼は拾い上げた細剣を構え、弾丸と入れ替わるように、突きを繰り出していた。

 ヨハンの体が大きくのけぞる。カールハインツの鋭い突きが、右の鎖骨を貫いていた。渾身の一撃だった。突きの衝撃に耐えかね、もんどりうって倒れるヨハン。その動きに合わせ、細剣の刃は折れ、剣先は鎖骨を貫いたまま残された。すでに利き腕の肩口に銃弾を受けていたカールハインツは、痛みと衝撃に耐えかねて、折れた剣を取り落とす。駆け寄ろうとするクリステルを、カールハインツが制止する。

「まだだ! やつの武器を奪わなければ!」

 そして走り出すが、ヨハンは倒れた態勢のまま、銃を持った腕を持ち上げ、引き金に指をかけた。狼のように横に裂けた唇に、残忍な笑みが広がる。カールハインツと、ヨハンとのあいだには、まだ距離があった。間に合わない。

「カールハインツ!」

「……さようならだ」

 クリステルが絶叫し、ヨハンがつぶやくのとほぼ同時に、銃口が火を噴いた。

 悲劇の瞬間を直視できず、クリステルは思わず顔を背けていた。耳をつんざく銃声が徐々に掻き消え、しばしの沈黙が流れたのち、彼女はおそるおそる目を開ける。目の前にはカールハインツが、立ち尽くしていた。彼は無事であり、肩口に受けた銃創以外には、どこからも血を流していなかった。またしても、銃弾は外れたのか。そう思い、クリステルはヨハンのほうを見る。そして、恐るべき光景を目にしたのだった。

 銃口は、もはやカールハインツに向けられてはいなかった。果たして銃弾は、どこへ飛んだのか。それはヨハン自身のこめかみを、撃ち抜いていたのだった。力なく床に横たわった彼の、砕かれた頭蓋からは、おびただしい量の血が流れ出し、金髪は赤黒く染まり、はみ出た脳漿にまみれていた。うつろな目にはもはや狂気どころか、生命の光さえもまったく感じられず、こめかみを貫通した鉛の玉が、彼の命を一瞬にして奪ったことを物語っていた。

 何が起こったのか理解できず、おろおろするクリステルに、カールハインツが静かに言った。

「……彼は自決した」

 その言葉を聞いても、クリステルはやはり理解することが出来なかった。

「……なぜ?」

 その問いに対しては、カールハインツもまた、答えることが出来ず、ただ黙って首を振るのみだった。

 しばし呆然としていたクリステルの目から、はらはらと涙がこぼれた。決して嗚咽することなく、静かに、水が高いところから低いところへ流れる、そのままに、彼女の頬は濡れた。単に緊張の糸が切れたためか、それとも何か別の感情によって流されたのか、その涙の意味がクリステル自身にもよく分からなかった。

 こうして、クリステルの二十歳の誕生日は幕を下ろした。

 その後、騎士団がこの一連の事件の捜査に当たったが、ヨハン=ヴェルター・ヴォルフハウゼンは大学生であるどころか、そんな名前の市民自体が、そもそもケクロピアには存在していなかったことが判明する。彼の暮らしていたと思われるアパルトマンを家宅捜索した結果、小さな紙袋に詰められた白い粉が見つかり、その成分を分析することによって、エレクトリスの一部で流通している麻薬の一種であることが確認された。ただし、ケクロピアの他の地域でこの麻薬が使用された事例はなく、このヨハンと名乗る男が、売買ではなく、あくまで個人的に吸引する目的で、所持していたと推測される。この粉を吸引すると、全能感と共に躁状態に陥り、痛覚が麻痺し、僅かながら身体能力も向上する。しかし同時に誇大妄想や幻覚にさいなまれ、効果が切れると、とてつもない虚脱感と、不安、希死念慮等が生じ、自殺衝動に駆られる危険性もあった。彼が最後に自決した原因も、その時点で麻薬の効果が切れたのだろう、といった形で結論づけられた。

 また、彼が使用していた拳銃は、これもまた、エレクトリスの犯罪組織の幹部が所持しているものと同じ回転式であったが、単なる模倣品であり、反動が強い上、射撃の精度も悪く、性能はきわめて劣悪であった。そのため、フランツとカールハインツの両者は、かなり至近距離で撃たれたにもかかわらず、弾丸は急所を外れたのであろうとされた。

 それ以外に、男の部屋から発見されたものといえば、クリステルへの想いを延々と書き綴った日記と、様々な角度から描かれたおびただしい量のクリステルの肖像、そして彼の偽名と同じヨハンというファーストネームの人物が記した、ロストテクノロジー文学の写本だけであった。事件を起こした当人が自殺してしまったため、彼と犯罪組織とのパイプを浮かび上がらせるにはいたらず、結果としてエレクトリスに対する警戒を強めただけで、捜査は打ち切られることとなった。

 事件後、フランツは、駆けつけた騎士団の救急隊によって診療所へ運ばれ、光術の集中治療を受けたため、事なきを得た。カールハインツもまた、銃弾によって肩を骨折していたが、定期的に診察と治療とを受けることによって、後遺症もなく、一ヵ月後には通常の士官候補生としての生活へ戻ることが可能となった。

 問題はクリステルであった。彼女は今回の事件によって精神的ショックを受け、家から出ることが出来なくなった。一歩外に出るだけで、またヨハンがどこかから自分を見ているのではないか、そんな強迫観念にさいなまれるようになったのである。もちろん、ヨハンは彼女が目の当たりにした通り、完全に命を落としていたし、騎士団による検死でも、こめかみに出来た銃創によって、即死したという結論が出されていた。

 クリステルも、それを頭ではよく理解していた。また、亡霊の存在を信じているわけでもなかった。ただ、彼女の恐怖は、そうした理屈を超えたところに根を下ろしてしまったらしく、父親のフランツが安心させようとして、いかなる言葉や手段を尽くしたとしても、ほとんど効果を見せることはなかった。学友達もまた、彼女の復帰を望んで、代わる代わる見舞いに来たが、すっかりやつれ果て、ただ部屋に飾ったばらの花だけを見つめ、ろくに口も利けずにいるその姿を見て、悲しみと、憐れみと、悔しさとで、誰もが言葉を失ってしまった。

 もちろんカールハインツは、誰よりも足しげくクリステルの元へ通った。彼と会うときだけ、クリステルは会話をしたり、笑ったり、ごく少量だが食事を取ることが出来たので、最初は渋い顔をしていたフランツも、だんだん彼を頼りにするようになった。表向きには、

「見舞いにかこつけて娘に手を出したら、ただじゃおかん」

 などと言っていたが、クリステルを恐ろしい譫妄から救い、生きる意欲を与えることができるのは、彼しかいないと、やがて考えるようになった。そしてある日、フランツは、見舞いを終えて帰ろうとするカールハインツをつかまえて、訊いた。

「……事件の前、娘はお前のことが好きだと、はっきり俺に言った。カールハインツ。お前はどう思っている」

 カールハインツはためらいなく、その問いに答える。

「私はクリステルさんを愛しています」

「娘がどんな風になっても、その気持ちは変わらないか」

「変わりません。彼女が笑ってくれるなら、私はどんなことでもします」

 その言葉を聞いて、胸にこみ上げるものがあったのか、フランツは何かをこらえるように目を固く閉じ、カールハインツの肩に手を置いて、言った。

「娘を……どうかクリステルのことを……頼む」

 それから一年もしないうちに、ジギスヴァルトは虐げられた民を救うという大義名分を掲げ、ライナルト帝国へ宣戦布告を行なった。帝国もまたこれを正式に受け入れた。世界一平和といわれたケクロピアの街も、瞬く間に物々しい雰囲気に包まれ、多くの軍人たちが戦に備えて召集された。騎士団が志願兵を募ると、ジギスヴァルトの掲げる正義に共鳴する者、家族を守りたいと思っている者、戦功を上げて名声を得ようとする者、様々な思惑を持った人々が、そこへ集った。誰もが迫りくる戦乱の影を、避くべからざる運命として、受け入れようとしていた。

 そして程なくして、戦争が始まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。