普通ではない鮮花の普通ではない友達   作:星乃 望夢

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第九話

 

 重い瞼を持ち上げ、視界のピントが合った瞬間に飛び込んできたのは、涙に濡れた両親の顔だった。

 

 久しぶりに見るその顔は、記憶の中にあるものよりも随分と老け込んでしまっていた。目尻の皺、白髪の混じった髪、そして疲労の色が濃く滲んだ肌。

 

 その変化が、僕がこの現世を留守にしていた時間の長さと、その間に彼らに与えてしまった心労の深さを物語っていた。

 

 胸の奥が、鋭い棘で刺されたように痛む。

 

 良心の呵責。

 

 僕という、親不孝な息子のために。僕という存在のエゴのために、彼らの人生を振り回し、平穏な日常を奪ってしまったことへの申し訳なさが、波のように押し寄せてくる。

 

 ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。

 

 心の中で何度も謝罪を繰り返しながら、けれど僕は、その言葉を喉の奥で押し殺した。

 

 その罪悪感を言い訳にして、僕は硬く口を閉ざすことを選んだのだ。

 

 医師の言葉と、病室のカレンダーから得られた情報はシンプルかつ残酷だった。

 

 場所は、観布子市の総合病院。

 

 そして、僕が眠りについてから、既に二年という歳月が流れていること。

 

 二年。

 

 その空白の重みに眩暈を覚えながらも、僕は冷静に計算していた。

 

 今の僕の視界には、気を抜けば万物の「死」が黒い線となって浮かび上がってくる。

 

 この『直死の魔眼』という異能を抱えたまま、普通の社会生活を送ることなど不可能だ。

 

 下手に口を開いて現状を訴えれば、精神に異常をきたしたと判断されかねない。

 

 だから、沈黙を守る。

 

 「言葉を発せない」あるいは「発したくない」というポーズを取り続けていれば、いずれ専門のカウンセラーか、言語療法士が派遣されてくるはずだ。

 

 そこに、あの人の影を期待した。

 

 蒼崎橙子。

 

 彼女ならば、この異能との付き合い方を、あるいは殺し方を教えてくれるかもしれない。

 

 これは、僕がこの世界で「人間」として生きていくための、淡く、そして切実な賭けだった。

 

 だが。

 

 どれだけ強固に口を閉ざし、心の扉に鍵を掛けようとも。

 

 この僕が愛してやまない、たった一人の少女への想いに、戸を立てることなど出来はしなかった。

 

 コツコツと、音が病室に響く。

 

 現れたのは、黒桐鮮花だった。

 

 二年という月日は、彼女を少女から女性へと鮮やかに変貌させていた。

 

 伸びた黒髪、洗練された身のこなし、そして匂い立つような美貌。

 

 以前よりもずっと大人びて、研ぎ澄まされた刃のような美しさを纏った彼女の顔は――。

 

 とても、怒っていた。

 

 氷のように冷たく、けれど奥底にマグマのような激情を秘めた瞳が、僕を射抜く。

 

 無理もない話だ。

 

 僕は彼女を置いていった。

 

 唯一の「男友達」である両儀織を救うために。彼女との約束よりも、彼女との未来よりも、過去の亡霊を選んで、死の世界へと飛び込んだのだ。

 

 それだけじゃない。

 

 僕はあそこで、彼の「姫」になった。

 

 魂の形を変え、彼に抱かれ、彼の色に染まることで生き延びた。

 

 君が愛してくれた、あの頃の無垢な「境織姫」は、もう死んだも同然なのだ。

 

 罵ってくれて構わない。

 

 「裏切り者」と叫んで、拒絶してくれて構わない。

 

 二度と顔も見たくないと、絶縁を叩きつけられる覚悟さえできている。

 

 僕はシーツを握りしめ、何も言わずにただ彼女を見つめ返した。

 

 それは無言の自白であり、断罪を待つ罪人の態度だった。

 

 鮮花が、ベッドの傍らに立つ。

 

 彼女の判決と、裁判を待つ僕への罰は――。

 

 パァンッ!!

 

 乾いた破裂音が、病室の空気を切り裂いた。

 

 頬に走る、熱い激痛。

 

 首が持っていかれるほどの、渾身の平手打ちだった。

 

「……っ、バカ! バカ、バカ、大バカッ!!」

 

 その一撃を合図に、堰を切ったように彼女の感情が爆発する。

 

 僕の胸倉を掴み上げ、涙ながらに浴びせかけられる怨嗟と呪詛の嵐。

 

「なんでよ! なんで勝手に行っちゃうのよ! 私のことなんてどうでも良かったの!? 死ぬなら私に殺されてから死になさいよ!!」

 

 痛い。頬も、胸も、心も。

 

 けれど、その痛みがどうしようもなく心地よいと感じてしまう僕は、やはりもう壊れているのかもしれない。

 

 ひとしきり叫び、僕を揺さぶり、感情のすべてを吐き出した後。

 

 彼女は乱れた息のまま、僕の顔を両手で挟み込んだ。

 

 逃がさない。絶対に離さないという、執着に満ちた瞳。

 

 そして。

 

「……んっ、ぅ……!!」

 

 唇が、塞がれた。

 

 それは再会の挨拶のような優しい口づけではない。

 

 噛みつくような、貪るような、捕食行為に近いキスだった。

 

 僕の息を奪い、舌を絡め、僕という存在のすべてを自身の体内へと吸い尽くそうとするかのような、圧倒的な「所有」の儀式。

 

 鉄の味がした。

 

 切れた唇から流れた血の味か、それとも彼女の涙の味か。

 

 ああ、鮮花。僕の愛しい女王様。

 

 僕がどれだけ他の誰かの色に染まろうとも、この身の所有権は、結局のところ君にしか握らせてあげられないみたいだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 二年。

 

 この空虚で、それでいてひどく長く感じられた七百三十日という時間は、わたしをただ待つだけの少女から、魔術という神秘を学ぶ徒弟へと変えた。

 

 橙子師の元で修業を積み、少しは世界の裏側を見る目も養われたつもりだ。

 

 それでも、今目の前にいる織姫の身に何が起きたのか、魔術師としての見識眼で正確に読み解くことはできない。

 

 彼が根源の渦という、魔術師にとっての悲願の場所に触れ、どのような変質を経て帰還したのか。

 

 その器に満ちている魔力の質や、魂の色彩の変化。それらはあまりに深淵すぎて、今のわたしの未熟な眼では到底理解の及ばない領域にある。

 

 けれども。

 

 そんな小難しい理屈や、魔術的な解析なんて必要ない。

 

 世界の裏側を覗く眼ではなく、一人の女としての審美眼が、残酷なほど正確に事実を告げていた。

 

 ――織姫が、誰かの色に染められている。

 

 匂いが違う。雰囲気が違う。纏う空気が、決定的に変質している。

 

 かつての彼にあった、硝子細工のような透明な危うさは影を潜め、代わりにどこか艶めかしく、背徳的な湿度を帯びた「何か」が、彼の内側から滲み出している。

 

 それはまるで、誰かに愛され、誰かに所有され、誰かに組み敷かれた経験のある者だけが放つ、独特のフェロモンだ。

 

 そして、織姫自身もそれを自覚している。

 

 わたしを見つめる彼の瞳には、再会の喜びよりも、深い罪悪感と諦めが色濃く浮かんでいた。

 

 彼は沈黙したまま、わたしに断罪されるのを待っている。

 

 自分の魂と肉体が、わたし以外の誰かのものになってしまったこと。それを不義と捉え、不貞と断じ、わたしという絶対審判者によって「汚らわしい」と切り捨てられる瞬間を、処刑台の囚人のように静かに待っているのだ。

 

 カッ、と頭の中で何かが沸騰する音がした。

 

 ――バカじゃないの。

 

 ホントに、救いようがないくらいの大バカじゃないの!?

 

 このわたしが、黒桐鮮花が。

 

 どこの馬の骨とも知らないヤツに――それが男だろうが女だろうが、あるいは人外だろうが関係ない――身体を許し、心を許し、抱かれた程度で。

 

 「穢れたからもういらない」なんて言って、織姫のことを嫌いになって、絶交するなんて。

 

 本気で、そんな三流ドラマみたいな展開をわたしが選ぶとでも思っているの?

 

 ナメられたものだわ。

 

 わたしの執着を、わたしの愛を、そんな安っぽい潔癖さで測らないでよ。

 

 たとえ貴方が、世界の果てで誰の愛玩具にされていようと。

 

 誰の色に染まり、誰の名前を呼んで喘いでいようと。

 

 貴方が帰る場所はここしかないの。貴方の魂の所有権を持っているのは、神様でも根源でもなく、このわたしなのよ!

 

 だから。

 

 わたしは迷わず、その青白い頬目掛けて、全身全霊の平手打ちをくれてやった。

 

 パァンッ!!

 

 手のひらが痺れるほどの衝撃。彼の顔が弾かれるように横を向く。

 

 痛みで歪むその表情を見て、胸の奥のつかえが少しだけ取れた気がした。

 

「バカ! バカ、バカ、大バカッ!!」

 

 わたしを二年も待たせたこと。

 

 勝手に一人で逝ってしまったこと。

 

 そして何より、わたしに捨てられるかもしれないなんていう、ふざけた誤解をしていたこと。

 

 その全てに対して、ありったけの呪詛と罵声を浴びせてやる。

 

「なんで黙ってるのよ! 言い訳くらいしなさいよ! 私が怒ってるのはね、貴方が汚れたからじゃない! 貴方が私を信じてないからよ!」

 

 胸倉を掴み、揺さぶり、叫ぶ。

 

 涙が止まらない。怒りなのか、安堵なのか、愛しさなのか、自分でも分からない感情が涙となって溢れ出し、視界を滲ませる。

 

 もう、二度と離さない。

 

 誰にも渡さない。

 

 貴方が染められた色が気に入らないなら、わたしが上書きしてやる。

 

 何度でも、何度でも、貴方の細胞一つ一つに「黒桐鮮花」という刻印を刻み込んで、元の真っ白な織姫に戻すどころか、わたし色に染め上げてやるんだから。

 

 わたしは彼の顔を引き寄せると、その無防備な唇を奪った。

 

 血の味がするほどの、痛々しい口づけ。

 

 それは誓いであり、呪いであり、そして再契約の儀式だった。

 

 覚悟しなさい、織姫。

 

 貴方が地獄の淵から戻ってきたというのなら、ここからはわたしが、貴方を天国という名の監獄に閉じ込めてあげるわ。

 

 

◇◇◇

 

 

 鮮花は、相変わらず鮮花だった。

 

 二年の歳月は少女を大人びた女性へと変えたけれど、その本質にある苛烈さと、一度火が付けばすべてを焼き尽くすほどの愛の深さは、何ひとつ変わっていなかった。

 

 彼女の愛を疑っていたわけではない。

 

 けれど、こうして久しぶりに彼女の熱を肌で感じ、容赦のない愛撫を身をもって味わうことで、僕は強制的に思い出させられる。

 

 黒桐鮮花という花が、どれほど鮮やかで、芳しく、そして棘だらけであるかを。

 

 彼女に愛される「境織姫」という存在が、どのような快楽で縛られていたかを。

 

「……っ、ん、あ、あァ……ッ!」

 

 病室のベッドの上、彼女の腕の中で、僕は情けない声を上げて身をよじる。

 

 彼女の指は、執拗に僕の弱点を抉り、空白の二年間を埋めるように、あるいは僕にこびり付いた「他者の色」を削ぎ落とすように、激しく僕を蹂躙していく。

 

 絶頂が近い。

 

 視界が白く明滅し、思考が快楽に溶かされそうになるその瞬間、彼女は艶めかしい魔女のように僕の耳元へ唇を寄せた。

 

「……すごい声。またイッちゃうの? そんなに気持ちいいんだ、織姫」

 

 事実を淡々と、しかし愉悦を込めて実況するその言葉が、僕の羞恥心を極限まで煽り立てる。

 

 恥ずかしい。悔しい。けれど、その屈辱がさらなる燃料となって、僕の興奮を爆発させる。

 

 彼女は、僕を「男」として抱くことはしない。

 

 決して、最後の一線――決定的な生殖行為には至らない。

 

 なぜなら、彼女の貞操は、彼女の純潔は、すべて兄である黒桐幹也のために捧げると誓っているからだ。

 

 その聖域には、たとえ愛する僕であっても立ち入ることは許されない。

 

 だから鮮花は、女でありながら僕を犯す。

 

 肉体的な結合を用いず、女の中に潜む「情欲」という名の獣を解き放ち、その指先で、舌先で、視線で、僕を貫く。

 

 男としての機能ではなく、感度という鎖で僕を縛り上げ、僕を「雌」にする。

 

 あの虚無の海で、僕の魂を変質させ、概念としての「姫」へと仕立て上げたのは、間違いなく両儀織だった。

 

 けれど。

 

 そこへ至るための肉体的な土壌を、雌として喘ぐことの甘美な罪深さを、僕の身体に最初に刻み付け、開拓したのは――紛れもなく、黒桐鮮花、君だったんだ。

 

 彼女の手によって再び引き上げられる絶頂の波に飲み込まれながら、僕は、僕という身体の本当の所有者が誰であるかを、骨の髄まで理解させられていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 オレは普段、この肉体の奥底にある深い微睡みの中で眠っている。

 

 だが、こうして意識の表層へと浮上すれば、境織姫の脳内に蓄積された記憶を読み解き、その思考や行動パターンを完璧に模倣することも造作はない。

 

 あいつが今日、誰と会い、何をされ、どんな風に感じていたのか。そのすべてが、手に取るように分かる。

 

 深夜の病室。

 

 月明かりさえカーテンに遮られた闇の中で、オレは――鮮花に愛されたばかりのこの身体を、上書きするように抱く。

 

 自分の手が、自分の肌を這う。

 

 これは「オレ」による「織姫」への、一方的な蹂躙であり、所有権を主張するための儀式だ。

 

 オレは自分の指を使い、織姫の身体を犯していく。

 

「……っ、ぁ、ぁあ……ッ!」

 

 指が沈むたび、愛撫が急所を掠めるたび、この正直すぎる身体は勝手に反応し、甘い喘ぎ声を闇に撒き散らす。

 

 意思とは無関係に腰が浮き、快楽に耐えかねて背中が弓なりに反り返る。

 

 鮮花に開発されたばかりの神経は過敏になっていて、少しの刺激で脳が焼き切れそうなほどの稲妻を散らす。

 

 一度目の絶頂が来て、身体がビクビクと痙攣しても、オレの手は止まらない。

 

 いや、止めてやらない。

 

「なぁ、織姫」

 

 オレは荒い息を吐きながら、内なる相棒へと冷たく囁きかける。

 

「お前はオレの姫だろう?」

 

 オレのためにその魂を捧げ、オレの色に染まったはずのお前。

 

 それなのに、オレが眠っている隙に、他のオンナに抱かれて、あんなだらしない声を出して。

 

「雌犬みたいに尻尾を振って喜んだ、悪いお姫様には……キツいお仕置きが必要だよな?」

 

 脳裏に直接響く、「やめて」という悲痛な懇願。

 

 もう無理だ、壊れてしまうと泣き叫ぶような拒絶。

 

 だが、オレはそれを愉悦として飲み込み、無視する。

 

 許さない。逃がさない。お前の快楽の許容量が限界を迎えようと知ったことか。

 

 オレは手つきをさらに荒く、激しく変化させる。

 

 それは愛撫というよりは攻撃に近かった。

 

 限界を超えて敏感になった神経をやすりで削るように、慈悲のない指使いで、ひたすら暴力的で破壊的な快楽を、愛する半身へと刻み込み続けた。

 

 

 

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