目を覚まし、死の線を視るという異能を得てしまった僕。
拒絶と絶縁すら覚悟して臨んだ、愛する鮮花との再会。
そして、その鮮花に愛され、他の誰かの色に染められることを許した僕への、内なる「織」からの苛烈なお仕置き。
そんな、精神的にも肉体的にも消耗する日々を、僕は頑なに口を閉ざすことでやり過ごしていた。
沈黙は金ならぬ、沈黙は盾。
しかし、その盾もそう長くは持たなかった。
病院側が僕にあてがった言語療法士。
ドアを開けて入ってきたその人物の顔を見た瞬間、僕は心の中で「賭けに勝った」と小さくガッツポーズをした。
蒼崎橙子。
やはり、彼女が現れた。
眼鏡を掛け、人当たりの良い知的な笑顔を浮かべた「外行き」の顔で、彼女は僕の前に座った。
「やあ、初めまして。君の担当になった蒼崎橙子です。……と、普通の挨拶は抜きにしようか」
彼女はカルテを放り投げると、試すような視線で僕を見据えた。
「境織姫。そして──そこに居るのは誰だ?」
……さすがは冠位の魔術師だ。
ただの二重人格や精神疾患として処理されがちな僕の状態を、一目で見抜いてみせた。
僕は観念して、意識の主導権を「彼」へと明け渡す。
深く息を吸い込み、吐き出す。それだけで、纏う空気がガラリと変わる。
「……へぇ。オレのことまで引っ張り出すなんて思わなかったぜ」
口調が、目つきが、雰囲気が変わる。
その変化を見た瞬間、トウコは掛けていた眼鏡を外し、パチリと折りたたんで胸ポケットにしまった。
優しいお姉さんの仮面が剥がれ落ち、そこには冷徹で鋭利な、一人の「魔術師」としての蒼崎橙子が現れる。
「両儀織、だな?」
「ご名答。ま、式はオレが死んだと思ってるだろうけどな」
オレは自嘲気味に笑う。
無理もない話だ。
あの雨の夜、オレは式の身代わりとなって死んだ。
式の中から綺麗さっぱり消え失せて、無へと還るはずだった。それが本来の筋書きだ。
「だが、世の中にはとんでもないお人好しがいるもんでな。オレという廃棄処分寸前のガラクタを、わざわざ地獄の底まで迎えに来たバカなお姫サマがいたのさ」
オレは自身の胸をトントンと指差す。
「笑えるだろ? こんなイイ女に求められちまったんだ。それに応えてやらなきゃ、男が廃るってもんだろ?」
トウコは呆れたように、しかしどこか感心したように口角を上げた。
「……なるほど。魂ごと『根源』に接続し、融合して帰還したか。どうりで気配が混ざり合っているわけだ」
再び、意識の主導権が僕へと戻る。
僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめ、一番の懸念事項を切り出した。
「橙子さん。……この眼のことなんですけど」
僕は視界に常にちらつく、万物の死の線について相談した。
彼女は興味深そうに身を乗り出し、僕の瞳を覗き込む。
「直死の魔眼か。……いい値で買い取るぞ、と言ったらどうする?」
「無駄ですよ。たとえ眼球を抉り出したとしても、僕には『視えて』しまう」
僕は静かに首を振った。
これは視覚機能の問題ではない。
一度死を経験し、根源に触れてしまった僕の魂が、世界をそう認識するように作り変えられてしまったのだ。
だから、たとえ物理的に光を失っても、概念としての死の線は、僕の意識に焼き付き続けるだろう。
「……ほう。意外と物知りじゃないか」
橙子さんは感心したように目を細めた。
魔術的な知識を持たないはずの一般人が、そこまでの理解に達していることが意外だったらしい。
「いいだろう。眼を潰しても解決しないのなら、飼いならすしかない」
橙子さんはそう言って僕の眼を覗き込む様にかがませていた身体を元に戻した。
「その眼との付き合い方を教えてやろう。……代わりに、私の仕事を手伝ってもらうことになるが、構わないな?」
それは提案ではなく、決定事項としての響きを持っていた。
拒否権などない。
けれど、僕にとってもそれは渡りに船だった。
この厄介な眼と、複雑怪奇な自分自身の状況をコントロールするためには、彼女のような先達の導きが必要不可欠だ。
「よろしくお願いします、橙子さん」
僕は深く頭を下げた。
こうして僕は、蒼崎橙子という魔術師の厄介になることを選び、彼女の事務所――『伽藍の堂』への出入りを許可されることになったのだった。
◇◇◇
退院の手続きを済ませ、僕は逃げるようにして実家を出た。
両親の安堵した顔、そして腫れ物に触れるような優しさ。それが僕には、鋭利な刃物よりも痛かった。
彼らは何も悪くない。ただ、死の淵から戻ってきた息子が、以前とは決定的に違う「ナニカ」に変質してしまっていることを、本能的に悟ってしまっているだけだ。
そんな善良な彼らの日常に、僕という異物をこれ以上混ぜ込むわけにはいかない。
良心の呵責という名の重圧に耐えきれず、僕は一人暮らしを選んだ。
かと言って、田舎の祖父母の家に帰るという選択肢は最初からなかった。
そこには、黒桐鮮花が居ないからだ。
僕という存在をこの世界に繋ぎ止める唯一の存在。彼女が生活基盤を置いているこの観布子市以外に、僕が根を下ろすべき場所など存在しない。
アパートの一室。
家具もまばらなワンルームは、静寂だけが満ちていた。
誰の目もない、閉ざされた空間。
そこは僕にとっての安息の地であり、同時に、彼女と僕のためだけに用意された密室でもあった。
鍵が開く音がして、彼女が入ってくる。
互いに歪でありながら、魂の深淵で惹かれ合う男女が密室に揃えば、行われる儀式は決まっていた。
真新しいシーツの上に、僕の身体が沈み込む。
その周りに散らばるのは、濡羽色に輝く長い髪だ。
二年。
僕が昏睡していた間に伸び続けた髪を、僕は切らなかった。
いや、切らせてもらえなかったと言うべきか。
「もったいないから切らないで。……貴方によく似合ってるわ」
鮮花はそう言って、僕の髪を梳くのを好んだ。それは彼女による所有の証であり、僕を「男」という枠組みから外すための呪いのような言葉だった。
普段はヘアゴムで一房に無造作に束ねている後ろ髪。
鮮花の細い指がその結び目に掛かり、するりとゴムを解く。
バサリ、と黒髪が解き放たれ、枕元に広がる。その光景は、僕自身が見ても恐ろしいほどに女性的だった。
「……綺麗よ、織姫」
僕の唇を奪いながら、鮮花が僕をベッドへと押し倒す。
抗う術などない。いや、抗う気さえない。
彼女の瞳には、昏い情熱と、支配欲という名の愛が渦巻いている。
華奢に見えて、芯の強い指先が、僕のシャツのボタンを外していく。
肌が露出するたびに、彼女の視線が熱を帯びて舐め回す。
その細い指が、僕の敏感な箇所を的確に捉え、愛撫を重ねていく。
「ん、あ、ぁ……ッ!」
意識とは裏腹に、喉から甘い声が漏れる。
かつて男だった身体は、今や彼女の指先一つで喜ぶ雌の楽器へと調律されている。
脊髄を駆け上がる痺れ。脳髄を焼くような快楽の奔流。
僕はシーツを握りしめ、必死に声を殺そうとするが、鮮花はそれを許さない。
「我慢しないで。……もっと啼いて。私の名前を呼んで」
それは命令であり、懇願だった。
耳元で囁かれる女王の勅命に、僕の理性は脆くも崩れ去る。
「鮮花……っ、鮮花、ぁ……ッ!」
愛する人の名前に混じり、恥も外聞もない喘ぎ声が部屋に響く。
フワフワと浮遊する感覚。魂が肉体から乖離しそうになるほどの陶酔。
僕は現世に繋ぎ止められるために、縋るように鮮花の背中に腕を回し、しがみつく。
彼女の手つきは容赦がない。
僕を愛しているからこそ、僕を壊す勢いで責め立てる。
「男」としての尊厳などとうの昔に捨てた。「女」としての悦びだけが、そこにあった。
「イッて、織姫……ッ!」
「あ、あ゛あぁぁぁ――ッ!!」
弓なりに反り返った身体が、激しく痙攣する。
視界が白く弾け、絶頂が僕を貫いた。
――けれど。
果てた僕の身体から、透明な愛液だけが、シーツを、そして鮮花の指を濡らしている。
それは当然の帰結だ。
僕はもう、魂の根源において「陽」を失い、「陰」へと変質した存在。
「姫」として作り変えられたこの身体には、次代を紡ぐための概念など残されてはいない。
僕は生物学的な雄としての機能を、あの虚無の海に置いてきたのだ。
鮮花は、濡れた自らの指を、僕の口元へと差し出す。
僕はそれに従い、自分の快楽の残滓を舐め取らされる。
鉄の味も、命の匂いもしない。ただ甘く、切ない、不毛な愛の味がした。
それでも、鮮花は満足げに微笑み、また僕への愛撫を再開する。
何度でも、何度でも。
枯れることのない泉のように、僕たちは互いを求め合う。
……でも、良いよね? 鮮花。
僕と鮮花じゃ、どうあがいても子供なんて作れないんだから。
未来に命を繋ぐことなんてできない、閉じた円環の中だけの関係なんだから。
僕は、君を迎えに来る白馬の王子様にはなれない。
君を守り、導き、幸せな家庭を築く「普通の男」には、もう戻れない。
だからせめて。
この身も、心も、魂さえも君に捧げる、従順で哀れな「鮮花のお姫様」であっても――許してくれるよね?
◇◇◇
何処の誰だか知らないけれども。
この子の魂の形を弄くり回して、身体の芯まで蕩かして、織姫をこんなにも唆る存在に変えてしまった「仕事」だけは、褒めてあげるわ。
かつての硝子細工のような繊細さはそのままに、そこに淫らな蜜を注ぎ込んだ手腕。
それはまるで、名もなき芸術家が遺した背徳的な彫刻のようだもの。
私の指先が肌を滑るだけで、彼はビクリと身を震わせる。
どれだけ愛撫しても、そこから零れ落ちるのは男の荒い息遣いじゃない。
まるで、初めて恋を知った女の子そのものみたいに、甘く、高く、切なく喘いで。
涙で睫毛を濡らして、恥じらいと快楽がない交ぜになった嬌声を上げて、私の腕の中で果てる織姫。
正直、同性の女の子を恋愛対象にするような、そっちの趣味は私にはない。
私が通う礼園女学院――あの外界から隔絶された秘密の花園にいれば、擬似的な姉妹関係や、行き過ぎた友愛の噂なんて聞くに困らないほどそこらに転がっているけれど。
休み時間のたびに交わされる甘い囁きや、影で結ばれる手と手。
そんな、思春期特有の熱病めいた女の子同士の情事と、私たちが夜ごと繰り広げるこれは、決定的に違う。
だって、織姫は「姫」だけど、歴とした男の子だもの。
男の子という生き物は本来、もっと単純で野蛮なはずだ。
力任せに女の子を組み伏せて、その柔肌を粗暴に扱って、自分の欲望を一方的に満たして満足する。それが大半の男の生態でしょう?
中には、女の子に虐められたい、踏まれたいと願う特殊な性癖持ち――マゾヒストなんていう連中もいるけれど、織姫はそんな歪んだ安っぽい存在じゃない。
痛みを欲しているわけでも、屈服を演じているわけでもないのだから。
織姫は、ただ。
黒桐鮮花という「女」に抱かれている、「男の子のお姫さま」というだけ。
男としての機能も、プライドも、欲望も、その全てを私の指先に委ねて。
決して男として私を貫くことはなく、私を女として組み敷くこともなく。
ただひたすらに、私に抱かれ、愛され、開発され続けるだけの、哀れで可愛いお姫さま。
これほど都合がよく、そして愛おしい関係はない。
彼が男であることを捨ててくれるから、私は心置きなく彼を貪れる。
それが、織姫とわたしの、夜の姿。
汗に濡れた黒髪がシーツに散らばる様は、どんな名画よりも扇情的だわ。
愛らしくて、愛しくて、骨の髄までしゃぶり尽くして食べてしまいたくなる、私だけの極上のお姫さま。
ねえ、織姫。
貴方が意識のない場所で、何処の馬の骨に抱かれていたって構わない。
その見えない相手が貴方の魂を牝に作り替え、その度に手遅れなほどの雌に堕とされたとしても、許してあげる。
むしろ、好都合よ。
だって、貴方が他の色に染まって帰ってくるたびに。
この私が、上書きしてあげるのだから。
貴方の身体に刻まれた快楽の回路を、私の指でなぞり直し、私の熱で焼き尽くして、何度だって「黒桐鮮花の特別なお姫さま」に仕立て直してあげる。
他者の痕跡すらも、私の愛を燃え上がらせる薪にしかならないのよ。
だから、安心して。
抵抗なんてしなくていい。男に戻ろうなんて思わなくていい。
貴方のすべてを受け止めて、泥の底まで愛してあげる。
――さあ、覚悟を決めて、私の腕の中に堕ちなさい。織姫。
◇◇◇
門限があるから、と。
鮮花は嵐のように去っていった。
身支度を整え、乱れた髪を直し、「また明日ね」と悪戯っぽく微笑んでドアを閉めた彼女の背中は、先刻まで僕を獣のように貪っていた女とはまるで別人の、清楚な女子学生そのものだった。
後に残されたのは、静寂と、濃厚な事後の匂い。
そして、廃品のようにベッドに打ち捨てられた、この哀れな肉体だけだ。
……動けない。
指一本動かすどころか、呼吸をするたびに肺が痙攣しそうだ。
鮮花に骨の髄まで、それこそ魂の最後の絞りかす一滴に至るまで搾り取られ、貪り尽くされた身体は、もはや脳からの命令を一切受け付けない。
神経の回路がすべて快楽という過剰電流で焼き切れてしまったかのように、断絶されている。
シーツが肌に触れる。
ただそれだけの、普段なら気にも留めない些細な布ズレの感覚。
それなのに、今の僕にはそれが熱を持った愛撫のように感じられ、背筋に電流が走り、思わず喉から「ひっ」と短い悲鳴が漏れる。
恐ろしいことに、この期に及んでまだ、身体の芯に残った熱が燻り、甘い絶頂を迎えそうになるのだ。
腰の感覚なんて、とうの昔に蕩け切って消失している。
自分の下半身がそこにあるのかすら定かではない。
ただ、痺れと鈍い熱だけが、そこが性感の震源地であったことをあやふやに主張しているだけだ。
――やれやれ。
意識の奥底で、オレは呆れと共に独りごちる。
本当なら、今夜もたっぷりと可愛がってやるつもりだった。
オレの姫である織姫。オレのために魂を捧げ、オレ色に染まったはずのこの身体。
そのくせ、オレが眠っている隙にのこのこと鮮花に尻尾を振って、あまつさえ「鮮花のお姫さま」にもなろうだなんて。
なんて贅沢で、強欲で、ふしだらな浮気者だ。
そんな尻の軽いお姫様には、オレという本当の所有者を思い出させるための、キツい躾が必要だと思っていたのだが。
「……これじゃあ、手出しできねえな」
物理的に、身体が動かない。
オレが主導権を握ろうとしても、ハードウェアである肉体が完全にダウンしている。
それに、鮮花の愛撫はあまりにも苛烈すぎた。
限界を超えて敏感に開発され、何度も絶頂を強制された今の織姫に、これ以上オレの「影」としての濃厚な快楽を送り込めばどうなるか。
間違いなく、脳が焼き切れる。
精神が崩壊し、オレたちの器そのものが壊れてしまうだろう。
オレが織姫を「物理的に」抱けないように、再起不能になるまでいたぶっていくとは。
鮮花の執念、恐るべしだ。
あの執拗さ、あの徹底した独占欲。
あれでいて、兄であるコクトーの前では「ちょっとブラコン気味の可愛い妹」を完璧に演じているのだから、女という生き物の二面性には心底恐れ入る。
魔術師の適性云々より、その演技力と胆力の方がよっぽど化け物じみてるぜ。
「……ぅ、ぁ……」
乾いた唇から、織姫の掠れた呻き声が漏れる。
可哀想に。水分も、塩分も、すべて汗と体液として放出させられて、干からびているんだろう。
クソ、喉がカラカラだ。
水の一杯でも飲ませてやりたいが、指先一つ動かせないんじゃどうしようもない。
身体が、快楽漬けの底なし沼から一向に戻ってこない。
脳がまだ、あの甘美な地獄のエンドレス再生を止めようとしないのだ。
いくらなんでも、ヤリ過ぎだろ。
加減というものを知らないのか、あのお嬢様は。
恨むぞ、鮮花。
おかげで今夜のオレの楽しみはお預けだ。
……ま、この無様な姿で伸びている織姫を、内側からじっくり鑑賞するのも、悪くない余興ではあるけどな。