夜の観布子市の目抜き通りを、わたしはヒールの音も高く鳴らして早足で急いでいた。
服の内側の身体はまだ芯が熱い。
それもこれも、あのワンルームでの時間が濃厚すぎたせいだ。
時間を忘れるほど、我を忘れるほど、織姫という極上のお姫様を愛でることに没頭しすぎてしまった。
時計を見れば、寮の門限に間に合う最終バスの時間は刻一刻と迫っている。
ああ、もう。本当にあの子は、どうしてあんなに可愛く鳴くのかしら。
名残惜しさと、自身の理性のタガの外れ具合に半ば呆れながら、バス停への最短ルートを駆け抜けようとした、その時だった。
視界の端、街灯の頼りない明かりの下に、不穏な人だかりを見つけたのは。
路地裏に近い薄暗がりに、場違いなほど清楚で、どこか浮世離れした空気が澱んでいる。
そこに居たのは、見慣れた黒の制服――礼園女学院の生徒だった。
艶やかな藤色の様な黒髪、日本人形のように整った顔立ち、そして周囲の喧騒から切り離されたような静謐な佇まい。
――浅上藤乃。
わたしが通う礼園において、数少ない「友人」と呼べる相手だ。
だが、今の彼女を取り巻いている状況は、学院のお茶会とは程遠い。
彼女を囲んでいるのは、見るからに粗暴で、品性のかけらも感じられない男たちの集団だった。
安っぽいジャージや革ジャン。ニタニタと歪んだ笑み。そして、獲物を値踏みするような下卑た視線が、彼女の華奢な身体を頭のてっぺんから爪先まで舐め回している。
「……ッ」
わたしは思わず足を止めた。
藤乃は、動かない。いや、動けないのだろうか。
内向的で、どこか痛覚が欠落しているかのように感情の希薄な彼女だ。
恐怖で竦んでいるのか、それとも事態を理解できていないのか、彼女はただ無防備にその場に立ち尽くし、男たちの欲望の視線に晒されている。
彼女があの男たちを言葉で追い払ったり、力尽くで抵抗したりするなんて選択肢は、天地がひっくり返ってもあり得ない。
このまま放置すれば、彼女がどうなるかは想像に難くない。
路地裏に引きずり込まれ、その白百合のような心身を泥靴で踏みにじられる未来が、ありありと透けて見える。
見て見ぬフリをして、通り過ぎる?
バスの時間もギリギリだ。関わっている暇なんてない。
それに、ここは私が守るべき領域でもない。
――でもね。
わたしは、友人の危機を素通りできるほど、お淑やかで冷徹なお嬢様にはなりきれないのよ。
それに、さっきまで愛しい人を守るだのなんだのと偉そうなことを考えておいて、目の前の女の子一人助けられないなんて、黒桐鮮花の名が廃る。
覚悟を決めると、わたしは男たちの包囲網へと向かって足を踏み出した。
真正面から「やめなさい」なんて正義感を振りかざしても、火に油を注ぐだけだ。
必要なのは説得じゃない。強引なまでの現状打破だ。
男たちの意識は、完全に無抵抗な藤乃に集中している。
その油断。その間隙。
欲望で濁った彼らの認識の穴を縫うように、わたしは風となってその輪の中へと滑り込んだ。
「――っ、失礼!」
男たちの間をすり抜け、彼らが「あ?」と反応するよりも速く。
わたしは藤乃の細い手首をガシッと掴んだ。
ひやりと冷たい彼女の皮膚に、わたしの熱い体温を押し付ける。
「え、黒桐さ……」
驚いて目を丸くする藤乃に、説明している時間はない。
わたしは彼女の返事を待たず、渾身の力でその腕を引っ張った。
「走るわよ、藤乃ッ!」
男たちが状況を理解し、怒声を上げるよりも一瞬早く、わたし達は夜の街へと駆け出していた。
◇◇◇
街の地図なら、頭の中に完璧に入っている。
路地裏の繋がり、人通りの多い通りへのショートカット、隠れるのに適した死角。
この観布子市で過ごした時間は、決して無駄にはなっていない。
けれど、背後から迫る足音と罵声は、それが単なる「鬼ごっこ」ではないことを冷徹に告げている。
相手は五人。
それも、喧嘩慣れしていそうな不良たちの集団だ。
いくら地の利があろうと、多勢に無勢という現実は覆らない。
それに加えて、こちらはヒールの高い靴を履いた女子学生二人。
私一人ならば、身軽さを活かして撒くことも可能だったかもしれない。
けれど、運動神経が良いとは言えない藤乃の手を引いての逃走劇だ。
このまま持久戦に持ち込まれ、単純な体力勝負になれば、ジリ貧になるのは目に見えている。
いずれ追いつかれ、囲まれ、その先に待っているのは地獄だ。
だから、ただ闇雲に逃げるわけにはいかない。
確実な避難所。
追手を振り切り、身を隠し、かつ反撃の糸口を見出せる場所へ逃げ込む必要がある。
脳内の地図で、現在位置と避難候補地を瞬時に結ぶ。
真っ先に浮かんだのは、兄さんのアパートだ。
ここから比較的近く、助けを求めるには適している。
――いや、ダメだ。即座にその案を脳内で却下する。
あの人畜無害を絵に描いたような兄さんに、血気盛んな不良の相手なんてさせられるわけがない。
もし万が一、兄さんが怪我でもしたら?
それに、私にとって何より神聖で大切な兄さんの城を、あんな下品な男たちの土足で踏み荒らされるなんて、考えるだけで虫唾が走る。
では、橙子さんの事務所は?
……遠すぎる。
あそこまで逃げ切る前に捕まる可能性が高いし、あの魔窟に藤乃のような一般人を連れ込むのも別の意味で危険だ。
礼園女学院に戻る?
寮までは距離がある上に、山道だ。
それに、もし運良く逃げ切れたとしても、それは根本的な解決にはならない。
彼らが藤乃の制服を見て学校を割り出し、執拗に待ち伏せするようになったら?
今日の不幸を乗り越えても、また明日、彼女が餌食になるだけだ。
すべての選択肢を高速で精査し、消去し、残った唯一の解。
――織姫のアパート。
距離的に、ここから一番近い。
あそこなら鍵も掛かるし、とりあえずの安全は確保できる。
何より、あそこには織姫がいる。
彼が今、私の愛で再起不能中だとしても、男手が一人あるという事実は心理的な支えになる。
それに、織姫も私も、ただの一般人じゃない。
三人寄れば文殊の知恵。
私と藤乃、そして織姫。三人が揃えば、ただ逃げるだけでなく、この最悪な状況をひっくり返す策だって浮かぶかもしれない。
「こっちよ、藤乃! もう少しだから!」
「は、はい……ッ!」
息を切らす藤乃を励まし、強く手を引く。
私の足は、迷いなく夜の闇を切り裂き、織姫の待つあのアパートへと向かっていた。
◇◇◇
「鮮花……?」
鮮花に散々弄り回された身体の芯に残る熱を冷ますため、オレはアパートの外に出て夜風に当たっていた。
七月という盛夏。昼間の熱気がアスファルトに残っているものの、夜の空気は火照った肌には心地よい冷たさだ。
静寂を破る、慌ただしい足音。
視線を向ければ、肩で息をしながら走ってくる鮮花と、その手に引かれているもう一人の女の姿があった。
外行きの私服姿の鮮花とは違う、闇に沈むような黒の制服。
……見覚えがある。礼園女学院の生徒か。
そして、その背後からドタドタと品のない足音を立てて迫ってくる男たちの影。
数は、五人。
状況を見るに、鮮花が厄介事を引き連れてきたのは明白だ。やれやれ、とんだお土産を持って帰ってきてくれたもんだ。
さて、どうするか。
オレとしては、オレの姫を狙う恋敵に塩を送るような真似は趣味じゃないんだが。
ここであの生意気な女を見捨てて、万が一にも何かあったら――それこそ、あの飢えた獣のような男たちに捕まって無惨な目に遭ったりすれば、コクトーが悲しむ。
あいつの曇った顔を見るのは、オレの本意じゃない。
そのためだけに助けるのも癪だが、まあ、見捨てる理由よりはマシか。
腹は決まった。
とりあえず、全員のして、秋隆にでも連絡してゴミ掃除を頼むとするか。
オレは軽く首を鳴らし、前に出る。
二年間眠りっぱなしだった身体だが、元々のスペックは悪くない。境織姫の運動神経は優秀だ。
それに、この身体にも両儀の血が流れている。
オレが使う「両儀」の体術を再現するには、他人の身体を使うより余程相性がいいはずだ。
「……丁度いい。身体が鈍ってしょうがなかったところだ」
不良数人を料理する程度、リハビリ運動にもなりゃしない。
オレは獰猛な笑みを浮かべると、震える二人の少女を背に庇うようにして、男たちの前に立ちはだかった。
◇◇◇
息を切らし、心臓が早鐘を打つ中、わたしは藤乃の手を引いてアパートの前に滑り込んだ。
背後からは、下卑た笑い声と足音が迫っている。
わたしのシナリオはこうだ。まずは藤乃を織姫の部屋へ押し込み、鍵を掛けさせる。安全を確保した上で、わたしが振り返って迎撃する。
こう見えても、わたしは冠位の魔術師・蒼崎橙子の弟子だ。
神秘の腕前はまだ見習いとはいえ、一般人よりは遥かに荒事への耐性があるし、師匠直伝の護身術だって叩き込まれている。路地裏のチンピラ数人相手なら、遅れを取るつもりはない。
けれど。
わたしが部屋のドアに手を掛けるよりも早く、その影は動いた。
「――下がってろ」
短く、しかし有無を言わせぬ低い声。
織姫だ。
彼はわたしと藤乃を背に庇うようにして、追っ手の男たちの前に立ちはだかった。
月明かりの下、その背中はあまりに細く、儚く見えた。病み上がりの、線が細い文学少年。暴力とは無縁の場所にいるはずの彼が、飢えた獣の群れに対峙している。
「おいおい、なんだこのヒョロガリは」
「怪我したくなかったら退きな、嬢ちゃん。それとも、お友達より先に相手してくれるってか?」
男たちが嘲笑い、不用意に距離を詰めた――その瞬間だった。
世界が、反転した。
織姫が動いた、と思った時には、先頭の男が地面にキスをしていた。
速い。
視認できないほどの速度ではない。けれど、タイミングが絶妙すぎるのだ。相手の重心が乗った瞬間、意識の死角を突いて、流れるように手首を極め、投げ飛ばした。
わたしは藤乃を庇う姿勢のまま、呆然とその光景を見つめるしかなかった。
加勢する? そんな隙間など、そこには存在しなかった。
二人目が殴りかかる。織姫はそれを最小限の動きで躱し、カウンター気味に懐へ潜り込むと、掌底を顎に叩き込む。
三人目、四人目。
怒号が悲鳴に変わり、肉が打たれる鈍い音が夜気に響く。
それは、舞踏のようだった。
柔道のように掴み合うわけでも、空手のように剛直な突きを放つわけでも、合気道のように円を描くだけでもない。
けれど、それは決して素人の喧嘩殺法などではなかった。
明確な「型」がある。
人体構造を熟知し、相手の殺意を利用し、最短距離で無力化する洗練された技術体系。
無駄を一切削ぎ落とし、殺傷すら厭わないような鋭利な体術。
あの細い腕のどこに、男たちを宙に舞わせる力があるというの?
二年間のブランクがある身体で、どうしてあんな精密機械のような動きができるの?
最後の男が、くぐもった呻き声を上げてアスファルトに沈む。
圧倒的な蹂躙劇は、一分とかからずに幕を下ろした。
静寂が戻った路上で、織姫がふう、と小さく息を吐く。
彼はゆっくりと振り返り、わたしたちを見た。
逆光になったその顔が、雲間から射した月光に照らし出される。
そこに浮かんでいたのは、わたしの知る織姫の、白雪の様な微笑みではなかった。
獰猛で、傲岸で、そしてどうしようもなく危険な色気を放つ、捕食者の笑み。
わたしの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。
ざわつく心が、一つの確信へと収束していく。
――ああ、やっぱり。
そうだと思った。そうでなきゃ、説明がつかない。
あの独特な構え。あの躊躇いのない踏み込み。そして何より、その瞳に宿る昏い輝き。
織姫の中に居たのは、あんただったってワケね。
両儀織。
かつて一度だけ垣間見た、死んだはずの幻影。
それが今、わたしの愛する人の皮を被って、月の下で不敵に笑っていた。