普通ではない鮮花の普通ではない友達   作:星乃 望夢

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第十三話

 

 検査の結果は、残酷なまでに僕の脳内にある『知識』と、そしてこの直死の魔眼が捉えた死の予兆と合致していた。

 

 診断名は、虫垂炎とそれに併発した腹膜炎。

 

 無痛症という感覚の檻の中で、音もなく進行していた病魔は、浅上藤乃の内臓を限界まで蝕んでいたのだ。

 

 即座に入院、そして緊急手術。

 

 医師の顔色は蒼白で、あと数日遅ければ命に関わっていたと告げられたが、僕にとっては予定調和の確定事項を確認したに過ぎない。

 

 むしろ、運命が手遅れになる前にその「死」を観測し、魔術や奇跡に頼らずとも、現代医療という物理的なアプローチで切除できる段階で食い止められたことに安堵すべきだろう。

 

 治療の方針が決まり、藤乃が病棟へと移されれば、部外者である僕たちがこれ以上できることはない。

 

 慌ただしくなるナースステーションを背に、僕と鮮花は消毒液の匂いが染み付いた病院を後にした。

 

 自動ドアを抜けると、七月の湿った熱気が、冷房で冷え切った肌にべっとりと纏わりつく。

 

 眩しい日差しに目を細めながら、僕は隣を歩く鮮花に声をかけた。

 

「……一先ず、礼園まで送り届けようか? 寮監には話を通してあるけど、きちんと顔を見せた方がいいだろうし」

 

 僕の提案に、鮮花は不満げに眉を寄せると、無言で僕の右腕をグイッと強く引っ張った。

 

 強引で、有無を言わせない、けれど確かな愛着を感じさせる力。

 

 よろめく僕の腕を自分の胸元に抱き込み、彼女は悪戯っぽく、けれど女王のような尊大さで微笑む。

 

「何言ってるのよ、織姫。せっかく手に入れた二人きりの『公休』なのよ? デートに決まってるでしょ」

 

「デート、って……このまま?」

 

「ええ、このまま。文句ある?」

 

 あるわけがない。

 

 彼女はいつだってそうだ。

 

 僕が迷っている時も、自分の在り方に怯えている時も。

 

 何物にも先駆けて僕の手を取り、その圧倒的な意志の力で僕をリードしてくれるのは、いつだって黒桐鮮花だ。

 

 彼女の歩幅は迷いがない。彼女の選択には後悔がない。

 

 その眩しさに、僕はいつだって救われている。

 

 彼女に引かれるまま、僕はアスファルトの上を歩き出す。

 

 腕から伝わる彼女の体温と、その強引さが、たまらなく心地よい。

 

 僕という存在の輪郭は、根源に触れ、死線を視るようになって以来、どこかあやふやで頼りない。

 

 ふとした瞬間に、世界という枠組みから滑り落ちてしまいそうな浮遊感がある。

 

 けれど、こうして君が僕の手を繋ぎ、行先を決めてくれている限り、僕は「ここに居てもいいのだ」という許可証をもらえたような気分になれる。

 

 君の隣こそが僕の居場所であり、君という重石があって初めて、僕は地上に留まっていられる。

 

 だから、鮮花。

 

 もっと強く、僕を縛り付けて。

 

 願わくばこのまま、僕を組み敷いて、一生逃れられないように、僕の細胞の一つ一つにまで「黒桐鮮花のもの」だという所有印を刻み込んで欲しい。

 

 今の僕は、織によって作り替えられた巨大な『陰』の気そのものだ。

 

 虚無と死に親和性を持ってしまった、女よりも女らしい、受動的な魂の器。

 

 けれど、その底なしの陰の中にある、たった一点の『陽』の極点。

 

 太極図における白き瞳のように、僕が生者として、人間としてこの現世に繋ぎ止められている唯一の熱源。

 

 その輝きの所有者が誰なのか。

 

 言葉だけでなく、痛みと快楽と、そして絶対的な支配をもって、僕の魂に焼き付けてくれ。

 

 僕の全ては、黒桐鮮花のためにあるのだと。

 

 それだけが、この死の線に満ちた不安定な世界で僕が正気を保つための、唯一にして絶対のよすがなのだから。

 

 

◇◇◇

 

 

 『伽藍の堂』の扉を押し開け、染みついた珈琲と紫煙の匂いが混じる空間へと足を踏み入れる。

 

 報告、というわけではないけれど、先日の一件――僕、正確には僕の中に居る『織』が、街の不良相手に派手な立ち回りを演じた事実は、既にこの魔窟の主の耳には届いていたらしい。

 

「無手でやり合ったそうじゃないか。……まったく、織のやつは加減というものを知らないからな」

 

 デスクで書類に目を通していた蒼崎橙子は、顔も上げずに呆れたように呟いた。

 

 咎める口調ではない。ただ、事実を確認する事務的な響きだ。

 

 彼女はデスクの引き出しを無造作に開けると、何かを放り投げてきた。

 

 空を切って飛んできたそれを、僕は反射的に手で掴み取る。

 

 掌に残った感触は、どこか温かみのある紙の束のようだった。

 見てみれば、それは古びた聖書のページを幾重にも重ね、硬く巻き固めて柄の形に成形した、奇妙な『束』だった。

 

 一見すればただの紙細工か、あるいは悪趣味なお守りのようにも見える。

 

 だが、微かに指先へ伝わる魔力の残滓と、その特殊な形状が、僕の脳内にある『知識』の引き出しを強引に開けさせた。

 

「これ……まさか」

 

 ――黒鍵(こっけん)。

 

 聖堂教会、代行者たちが好んで使用する、魔を払うための概念武装。

 

 魔術師である橙子さんが、なぜ天敵とも言える教会の武装を持っているのか。僕が怪訝な視線を向けると、彼女は煙草に火を点けながら、紫煙の向こうでニヤリと笑った。

 

「なに。昔取った杵柄というものさ。本物の聖堂のシスターと、処女(おとめ)の讃美歌の洗礼を受けた聖書の頁から造ったものだ。聖堂教会の本物には幾分か劣るが、護身用としては申し分ないだろう?」

 

 昔取った杵柄。処女の讃美歌。

 

 その言葉で、点と点が繋がる。そういえば、蒼崎橙子はあの礼園女学院の卒業生だったはずだ。

 

 全寮制のカトリック系女学院。そこには当然、礼拝堂があり、シスターがいて、清らかな讃美歌が響いている。

 

 魔術師の家系に生まれながら、神の教えを説く学び舎で過ごした青春時代の、これはある種の遺産というわけか。

 

 僕は手の中の「柄」を握りしめる。

 

 魔力を通せば、編み込まれた術式が起動し、刀身が形成される仕組みだ。

 

 携帯性という点において、これ以上の武装はない。普段はただの紙束としてポケットに収まり、金属探知機にも引っかからない。現代日本で刀を持ち歩くわけにはいかない僕にとって、これほど都合の良い武器はないだろう。

 

 だが、同時に扱いの難しさも理解している。

 

 黒鍵は、剣ではない。

 

 物理的な質量を持つ刃ではなく、魔力によって形作られた概念上の刃だ。ゆえに、その構造は極めて歪だ。

 

 まず、刀身が長すぎる。そして、物理的な破壊力、特に「切断」する能力に欠けている。

 

 これは「切る」ための剣ではなく、「刺す」ための杭に近い。

 

 重心は剣先に偏っており、手元は軽い。剣として振るおうとすればそのバランスの悪さに翻弄されるだろう。

 

 むしろ、その本質は投擲武器――矢に近い。

 

 投げて良し、突いて良し、と言えば聞こえはいいが、その実態は「投げるには技術が要り、斬り合いには不向きで、防御に使えば脆い」という、使い手を選ぶ代物だ。

 

 聖堂教会においてさえ、これを主兵装として愛用するのはよほどの物好きか、あるいは卓越した技量を持つ手練れだけだと聞く。

 

 僕の知る限り、これを平然と使いこなすのは、あのカレー好きのシエル先輩や、激辛麻婆豆腐を愛する愉悦神父くらいのものだ。

 

 彼らが涼しい顔で使っているから標準武装のように錯覚しがちだが、実際は極めて癖の強い、玄人好みの概念礼装なのだ。

 

「……随分とまた、マニアックなものをくれましたね」

 

「文句を言うな。織の体術があれば、棒切れよりはマシに使えるはずだ」

 

 橙子さんは意地悪く笑う。

 

 確かに、織の体術とそこに「刺突」という致死の選択肢が増えるのは悪くない。

 

 斬撃が欲しければ、魔眼で『線』をなぞればいいだけの話だ。黒鍵の刃は、そのための指し棒としては十分に機能する。

 

 護身用と言うには過剰で、戦闘用と言うには頼りない。

 

 けれど、今の僕――魔術の世界と日常の狭間を生きる、半端な存在にはお似合いの武器かもしれない。

 

「ありがとうございます。大切に使わせてもらいますよ」

 

 僕は黒鍵をジャケットの内ポケットに滑り込ませた。

 

 紙の摩擦音が、心強く、そして少しだけ危険な響きを立てて、僕の胸元に収まった。

 

 

◇◇◇

 

 

 紫煙を燻らせながら、私は閉ざされた扉の先、境織姫が去っていった空間をぼんやりと見つめていた。

 

「黒鍵を知っていたか。……境織姫」

 

 独りごちた言葉は、珈琲の香りが染み付いた室内に溶けていく。

 

 彼が黒鍵を受け取った瞬間の反応。あれは、単なる好奇心や魔術的な直感からくるものではない。「ああ、これか」という、明確な知識と認識に基づいた反応だった。

 

 聖堂教会の代行者が用いる概念礼装、黒鍵。

 

 魔術世界の住人でさえ、よほどその筋に関わりがなければ実物を目にする機会などない、異端狩りのための投擲剣。

 

それを、一介の民間人が一目見て解ったというのか。

 

 不思議な奴だ。

 

 私の優秀な調査員である黒桐幹也が調べ上げた報告書を脳内で反芻する。

 

 確かに、境織姫の生家である境家は、両儀の家系と遠縁にあり、かつては退魔の血が流れていた一族だ。しかし、それはもはや歴史の彼方に埋没した、失われて久しい過去の話に過ぎない。

 

 魔術的な素養も、秘伝の継承もとうに途絶え、現在の境家は野に下ったただの一般家庭だ。

 

 魔術協会とも、ましてや聖堂教会とも接点など持ち得ない、平穏そのものの家系図しかそこにはない。

 

 とはいえ、彼は「根源」に接続し、生きて帰還した特異点だ。

 

 アカシックレコード、万物の記録が渦巻く場所に触れた彼が、この世のあらゆる事象を知り得ていたとしても、理屈の上では不思議ではない。

 

 だが、私の観察眼が正しければ、あれは全知の書庫から情報を引き出した者の反応ではなかった。

 

 もっと手触りのある、まるで愛読書のページをめくるような、あるいは趣味のコレクションを前にしたような、奇妙な「既知」の感触。

 

 あらかじめそれを知っていた人間の、知識の引き出しの開け方だった。

 

 宗教施設に預けられた過去もなければ、裏社会との繋がりもない。

 

 入院前の彼は、周囲から浮きがちではあったものの、図書館を友とする内向的な文学少年だったという。

 

 そんな青春のどこに、聖書のページを魔術で固めた杭に触れる機会があるというのか。

 

 カトリックの教義に詳しいならまだしも、教会の、それも埋葬機関や代行者といった血なまぐさい連中の武装に精通する理由にはならない。

 

「……フン、まあいい」

 

 私は短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい一本に火を点けた。

 

 謎が多いというのは、魔術師にとっては好物のようなものだ。

 

 彼が何を隠していようと、その眼が見ている世界が真実である限り、退屈はしないだろう。

 

 それにしても、だ。

 

 両儀式と境織姫。

 

 「死」そのものを視認し、干渉できる『直死の魔眼』を持つ人間が、この狭い観布子の街に二人も揃った。

 

 一人は殺人衝動を抱えた空っぽの器。

 

 もう一人は、根源に愛され、魂を姫とした奇妙な変質を遂げた文学少年。

 

 万物の根源が渦巻くこの街で、二組の魔眼が交錯する。

 

 それは単なる偶然か、それとも何者かが描いた喜劇か。

 

 どちらにせよ、ここから始まるのは常識外れの宴だ。

 

「……見させてもらおうじゃないか。死を視る二人が、どんな結末を切り拓くのかを」

 

 私は椅子の背もたれに深く身を預け、天井へと昇っていく紫煙を目で追った。

 

 予感がある。

 

 この平穏な日常の皮を被った街で、何かが致命的に壊れ、そして新しく生まれ変わろうとしている。その特等席に、私は今、座っているのだと。

 

 

 

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