暇を持て余す僕に、新しい日課ができた。それは、鮮花の代役としての、ある少女のお見舞いだ。
浅上藤乃。
僕の魔眼がその予兆を捉え、緊急入院することとなった彼女。手術は無事に成功し、彼女は今、静かな病室で回復を待っている。
鮮花は学生としての本分があるし、何より魔術の修行と、そして僕との「プライベートな時間」の確保に忙しい。だから、比較的時間の自由が利く僕が、こうして病院へ足を運ぶことになったのだ。
彼女との時間は、不思議なほど静かだ。
病室の扉をノックし、「こんにちは」と声をかける。彼女はベッドの上で本から目を上げ、花が綻ぶように微かに微笑む。
「……いらっしゃいませ、織姫さん」
交わす言葉は少ない。今日の体調はどうですか、痛みはありませんか。そんな当たり障りのない問いかけに、彼女は短く答える。
会話が弾むことはない。彼女は元来物静かな性格だし、僕もまた、自分から饒舌に語るようなタイプではない。
普通なら気まずくなる沈黙が、この空間では心地よいBGMのように流れる。
窓から差し込む陽光の中で、ページをめくる音と、衣擦れの音だけが響く。
沈黙を友とし、孤独を愛してきた僕たちには、この距離感がちょうど良かった。互いに干渉しすぎず、けれど同じ空間に「在る」ことを許容し合う。そんな、透明な友愛が芽生え始めていた。
だが、そんな穏やかな日常の裏側で、僕には避けては通れない、運命的な出会いも用意されていた。
むしろ、この街に再び生を受けた時から、その引力は働いていたのかもしれない。
両儀式。
僕と同じく、死を視る眼を持つ少女。
そして、僕の中に眠る「織」の、かつての半身。
僕が『伽藍の堂』に出入りするようになった以上、そこで彼女と鉢合わせるのは時間の問題であり、必然の定めだった。
その日は、夏の夕立が激しくアスファルトを叩く午後だった。
橙子さんに頼まれた資料を届けるために事務所の扉を開けると、そこに彼女はいた。
赤い革ジャンに、青い着物。
濡れた髪をタオルで拭きながら、不機嫌そうにこちらを睨みつける鋭い瞳。
その姿を見た瞬間、僕の心臓が早鐘を打ち、同時に僕の奥底で「織」が小さく笑った気配がした。
世界が軋む音が聞こえた気がした。
同じ異能を持ち、同じ魂の欠片を共有する二人が、いま、視線を交錯させる。
それは、この観布子の街でこれから始まる物語の、静かなる号砲だった。
◇◇◇
秋隆から、報告は受けていた。
にわかには信じ難い、いや、信じてしまえば心が壊れてしまいそうな、あまりにも残酷で甘美な噂話。
そんなはずはないと思っていた。
だって、彼はもういない。
あの日、雨の中で、私の代わりに死んだのだから。
いくら探しても、心の深淵を覗き込んでも、私の中にはもう彼の気配はない。
喪失感という名の巨大な穴だけが、そこには空いている。
だから私は、彼が居たことを世界が忘れてしまわないように、私自身が彼を忘れてしまわないように、彼の口調を真似て、彼の仕草を模倣して、男のような「オレ」を演じ続けてきた。
なのに。
激しい夕立に打たれ、ずぶ濡れのまま『伽藍の堂』の扉をくぐったオレの前に、そいつは現れた。
境織姫。
秋隆が言っていた、「両儀織を宿す者」。
一目見た瞬間、思考が凍りついた。
男ではある。だが、その身体はまるで鏡写しのように、自分と瓜二つの姿をしていた。
異なるのは背中に流す黒髪の長さだけ。
背格好、纏う雰囲気。
魂の色が少しでも傾けば、男とも女とも判別がつかなくなるような、中庸の境界線の上に危ういバランスで立っている身体。
いや、その名の通り、魂の在り方は限りなく「姫」に近い。受動的で、何者かの色に染まることを待っているような、湿った気配。
一見しただけで彼を男だと見破るのは骨が折れるだろう。
そんな境織姫の中から、強烈な懐かしさが押し寄せてくる。
匂いがする。気配がする。魂の波長が共鳴する。
それは、オレにとっては致命傷になりかねないほどの衝撃だった。
失ってしまったからこそ、その代償を求めて夜毎街を彷徨っていた、オレの――私の、欠けた半身。
両儀織。
どうして。
なぜ、そこにいるの。
死のうとしたのは私なのに。消えるべきだったのは、何も持たない空っぽの私の方だったのに。
どうして貴方が、私の中からいなくなって、そんな他人の顔をしてそこに立っているの!
問い詰めたい言葉は山ほどあった。
殴ってやりたい衝動と、泣きつきたい衝動が同時に込み上げてくる。
だが、ここには橙子がいる。
魔術師の耳は多すぎる。ここで感情を爆発させるわけにはいかない。
だから私は、無言で境織姫の腕を乱暴に掴んだ。
細い手首。驚いたように目を見開く彼を無視して、オレは橙子の制止も聞かずに事務所を出た。
まだ激しくアスファルトを叩く雨の中、傘もささずに、私のアパートに向かって歩き出す。
彼は、抵抗しなかった。
何も言わず、ただオレに引かれるまま、雨に打たれてついてくる。
その従順さが、かつての彼――織のようでもあり、同時にまったく知らない誰かのようでもあった。
アパートにたどり着き、二人で部屋に滑り込む。
玄関のドアを閉め、鍵を掛けた瞬間、世界から音が消えた。
雨音だけが遠くで響く密室。
ずぶ濡れの服から滴る水が、床に小さな水溜まりを作っていく。
私は振り返り、彼を抱き締めた。
衝動のままに、理屈もプライドもかなぐり捨てて、その身体を強く、強く掻き抱く。
温かい。
他人の体温なのに、自分自身の体温のように馴染む。
決して交わらないはずの、両儀式と両儀織。
一つの器に同居し、表と裏で入れ替わるしかなかった二人が、こうして別の肉体を持って向かい合い、触れ合っている。
ありえない奇跡。あるいは悪夢。
けれども、目の前に器を異ならせながら確かにそこに居る織を、二度と離すものかと、私は爪が食い込むほどに強く抱きしめた。
「……どうして」
喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
どうして、としか言葉が出てこない。
そんな私に、織は――境織姫の口を借りて、静かに言った。
懐かしい、少しぶっきらぼうで、けれど誰よりも優しい口調で。
『シキが、幸せに暮らしているというユメを見たからさ』
だから、自分は死んだ。
あの雨の夜、お前の未来のために、殺人鬼という汚名ごと消え去ることを選んだ。
死ぬはずだった。完全に消滅して、無に還るはずだった。
『……でもな、世の中にはコクトー並みの、底なしのお人好しバカがいたんだよ』
彼は苦笑するように目を細めた。
『そいつが、消えゆくオレの手を掴んで、生きていて欲しいと願った。自分の魂を削って、オレの居場所を作ってくれた』
だから、両儀織は此処に居る。
織姫という、新しい器の中に。
境織姫。
境界の狭間に立ち、男と女、生と死、陰と陽を織りなす姫。
その名前も、その在り方も、あまりにも出来過ぎている。
まるで、最初から両儀の欠落を埋めるために用意されていたかのような存在。
だからこそ、こうして織の魂を受け入れ、定着させることができたのだろう。
「……バカね、あなたも。この子も」
涙が溢れて、止まらなかった。
もう、言葉はいらなかった。
浴室で、二人してシャワーを浴びる。
互いの裸体を晒すなんて、赤の他人であれば絶対にしない。恥じらい以前に、私の領域に他人を入れるなんてありえない。
けれども、彼は織だ。
もう一人の私。欠けてしまった円環の半身。
そして、その彼を宿す姫だというのなら、彼はもう一人の私だ。
私の中からこぼれ落ちてしまった魂を拾い上げ、丁寧に織り直してくれた姫。
なら、私自身として受け入れることに、戸惑いも躊躇いもない。
お湯が肌を滑り落ちる。
彼の身体を洗う手つきは、自分自身を慈しむように優しかった。
彼もまた、私の背中を流しながら、何も言わずにただ寄り添ってくれた。
ベッドの上で、濡れた髪もそのままに、私たちは抱き締め合った。
性愛ではない。もっと根源的で、切実な魂の結合。
パズルのピースが嵌まったような、完全な円環に戻ったような充足感。
欠けていた物が戻った安堵。
胸に空いていた巨大な風穴が、温かな熱で満たされていくのを感じる。
その日の眠りは、あの日以来、私が初めて本当の意味での安らぎを得られた夜だった。
ただ、欠けていた温もりが、朝までずっと私の傍らにあった。
◇◇◇
僕と式が出逢えば、世界は亀裂を入れて悲鳴を上げるのではないか――そんな予感めいた恐怖が、僕にはあった。
かつて同じ「陽」の属性を持っていた僕と織は、互いの欠落を埋め合わせるように友人となった。
けれど、僕は織を受け入れ、その魂を定着させるために「姫」へと変質した。それはつまり、僕の魂の質が反転し、式と同じ「陰」の存在へと堕ちたことに他ならない。
陰と陰は反発する。あるいは、自分の半身を奪った泥棒猫として、式は僕に殺意のナイフを突き立てるのではないか。
直死の魔眼を持つ者同士、どちらかが消えるまでの殺し合いになる未来すら覚悟していた。
けれども、蓋を開けてみれば、現実はあまりにも拍子抜けで、そして温かかった。
式は、僕を受け入れた。
殺意も、嫉妬も、拒絶もなく。
まるで、雨に濡れて震えている捨て猫か、あるいは自分によく似た年下の妹でも出来たかのように、彼女は僕をそのテリトリーの内側へと招き入れたのだ。
身寄りが無いに等しい僕の境遇を知るや否や、式は両儀の家の力を使い、僕の生活基盤を強引なまでに整えてしまった。
経済的な支援なんて生温かいものではない。彼女は「両儀」という巨大な庇護の翼の下に、僕を匿ったのだ。
鮮花が情熱的な炎で僕の手を引く存在なら、式は静謐な月明かりで僕の足元を照らし、無言で袖を引いてくれる存在だった。
そこには言葉はいらない。ただ「ついてこい」という絶対的な引力だけがあった。
退院してから、まだ一月も経っていない。
それなのに、僕の日常は怒涛の勢いで塗り替えられていった。
僕は彼女の隣の部屋へと引っ越しを済ませていた。
壁一枚隔てた向こうに、もう一人の魔眼の持ち主がいる生活。それは奇妙な緊張感と共に、かつてない安堵を僕にもたらしていた。
部屋を行き来する時間が増えるにつれ、僕は式の「二つの顔」を知ることになる。
普段、他人の目がある場所での彼女は、依然として「織」の口調を模倣し、男勝りな振る舞いを崩さない。それは彼女なりの喪失への抵抗であり、世界に対する「彼はまだここにいる」という主張なのだろう。
けれど、僕の部屋で二人きりになると、彼女はふっと力を抜き、本来の「両儀式」へと戻る。
僕の中に本物の織が居るからだ。
彼女にとって、僕の前で織を演じることは意味を持たない。だからこそ、彼女は武装を解き、素の少女の顔を見せる。
そんな時、僕は気を利かせて織に身体を譲り、眠りに就こうとするのだが――織は、肝心な時に出てこないことが多い。
「今はいい。お前が話してやれ」とでも言うように、意識の裏側で狸寝入りを決め込むのだ。
結果として、僕は「織姫」のまま、素の式と向かい合う時間が増えていった。
静寂。お茶をすする音。ページをめくる音。
会話がなくても苦にならない空気感は、やはり僕たちが根源的に似た者同士だからなのだろうか。
「……おい、これを着ろ」
ある日、式はそう言って一着の着物を僕に放り投げた。
彼女が見繕ってくれたそれは、彼女が好んで着ているものと同じような、上質な絹の和服だった。
言われるがままに袖を通し、帯を締める。
女物の着付けなど習ったこともないのに、織としての身体が勝手に動いて、美しく着こなしてしまう。
支度を終え、二人並んで姿見の前に立つ。
そこには、驚くべき光景があった。
鏡に映っているのは、まるで瓜二つの双子だった。
色素の薄い肌。そして虚空を見つめる瞳。
着物を纏った僕と式は、性別という境界線すら曖昧になり、どちらがオリジナルでどちらがコピーなのかすら分からなくなるほどに同調していた。見分ける記号は髪の長さ。たったそれだけの外観の違いだけ。
鏡の中の式が、満足げに口角を上げる。
それにつられて、鏡の中の僕も微笑む。
ああ、そうか。
ストンと、腑に落ちる感覚があった。
僕にとっての式は、織と同じだ。
織が僕の魂の内側に入り込んだ「もう一人の私」であるならば。
式は、僕の魂の外側に在って、僕を映し出す「もう一人の私」なのだ。
内なる半身と、外なる半身。
その二つの鏡に挟まれて、境織姫という存在は、限りなく透明なまま、両儀という名の円環の一部になっていく。
それは決して悪い気分ではなかった。
むしろ、ようやくあるべき場所に収まったような、完璧な調和がそこにはあった。