全寮制の礼園女学院。
俗世から隔絶されたその学び舎の規則は厳格で、カゴの中の鳥たちは、そう何度も頻繁に外の世界へ羽ばたくことは許されない。
しかし、黒桐鮮花はその鉄の掟を、優雅かつ大胆にすり抜ける術を持っていた。
以前は、瀕死の重傷を負って入院していた僕への見舞いという、人道的に拒否しがたい大義名分があった。
そして今は、同じく入院を余儀なくされた友人、浅上藤乃への見舞いという、新たな錦の御旗を手に入れている。
だから週に二度程度なら、彼女は大手を振って観布子市の街を歩けるのだ。
鮮花曰く。
「私は途中編入で、しかも全国模試一位の実績を持つ『広告塔』なのよ。学園側にとっても私を飼っておくメリットは大きいの。いわば傭兵みたいなものだから、他の生徒より融通が利くのは当然の権利よ」
友人の見舞いという正当な理由があり、さらに成績優秀で素行(表向きは)善良。教師たちが彼女の外出許可証に判を押すのをためらう理由はないというわけだ。
そして忘れてはならないのが、彼女が当代きっての人形師にして冠位の魔術師、蒼崎橙子の弟子であるという事実だ。
彼女の課外活動の範囲は、病院と学園の往復だけにとどまらない。
魔術の師である橙子さんの事務所、『伽藍の堂』。
そこは彼女の学びの場であり、同時に、僕と両儀式が頻繁に出入りする場所でもある。
だから、三人がそこで鉢合わせるのは、避けようのない必然だった。
問題は、そのタイミングだった。
よりによって、式の手引きによる僕の引っ越しが完了した直後。
僕が両儀の庇護下に入り、式の隣の部屋で暮らし始めたことを知ったその日が、最初の「相対」となってしまったのだ。
重苦しい沈黙が支配する中、鮮花の表情は、怒りを通り越して一周回り、不気味なほどに冷静沈着だった。
能面のような無表情。けれどその双眸の奥には、氷点下の絶対零度で燃え盛る蒼い炎が見て取れる。
見なくてもわかる。肌で感じる殺気が告げている。
あれは過去に例がないほど、有史以来最高レベルに、彼女は激怒している。
「あら、奇遇ね両儀さん。……最近は随分と、ボランティア活動に熱心なようで。ご自分の『お気に入り』だけを囲い込むその手腕、まるで獲物を巣に持ち帰るカササギみたいで感心しますわ」
優雅な笑みを張り付けたまま放たれる言葉の礫。
それは一見丁寧な言葉遣いでオブラートに包まれているが、その実態は猛毒を塗ったナイフの雨だ。
彼女の言葉を直訳すれば、こうなる。
『兄さんがいるのに、私の織姫まで奪おうっていうの!? この泥棒猫! 尻軽女! 恥を知りなさい!』
対する式は、そんな鮮花の激情を柳に風と受け流していた。
「……別に。オレは自分の領分を守ってるだけだ」
興味がない、というよりは、相手にするのが面倒だという態度だ。
実際問題、表向きの図式としては、身寄りがなく路頭に迷いかけていた僕を、大昔の分家筋の末裔だからという理由で、次期当主である式が慈悲深く拾い上げたに過ぎない。
そこには、織という欠けた半身への執着も、僕を「もう一人の自分」として見る奇妙な共感も、一切語られてはいない。
あくまで、両儀家としての正当な保護。
その完璧な建前の前に、鮮花は攻めあぐね、苛立ちを募らせていく。
そして、その矛先は当然、煮え切らない態度でその場に立ち尽くしていた僕へと向く。
「織姫、行くわよ!」
有無を言わさぬ剣幕で腕を掴まれ、僕は伽藍の堂から連れ出された。
観布子市の駅前に程近い、レンガ造りの喫茶店「アーネンエルベ」。
アンティーク調の落ち着いた店内の一角で、僕は鮮花と向かい合っていた。
注文した紅茶の湯気が立つ中、彼女の尋問が始まる。
「織姫も織姫よ! なんで黙ってあんな女の世話になってるの! 私というものがありながら、信じられない!」
まるで浮気現場を押さえられた旦那に詰め寄る妻の如き剣幕。
実際、一字一句間違いのない「浮気」のようなものだから、僕には何の言い訳もできない。
反論の余地など、1ミクロンも残されていないのだ。
ただ、と僕は思う。
この複雑怪奇な関係性を、言葉で説明するのはあまりにも困難だ。
僕は俯き、カップの縁を指でなぞりながら、躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「……言い訳に聞こえるかもしれないけど、聞いてほしい。僕が鮮花を愛しているのは本当のことだ。それは、絶対に嘘じゃない」
鮮花の瞳が僅かに揺れる。
「でも、同時に……僕の中の織にとって、僕は『織の姫』でもあるんだ。そして、式との関係は……彼女は僕にとって、『もう一人の私』なんだ。恋とか愛とかじゃなくて、もっと根源的な、魂のカタチの話で……」
しどろもどろな告白。
けれど、その複雑極まる思慕の断片を口にすると、鮮花の勢いがすうっと引いていくのが分かった。
彼女自身、実の兄である黒桐幹也への禁断の想いを貫きながら、同時に僕を愛するという、矛盾に満ちた綱渡りをしている身だ。
「複数の相手に、異なる形の、けれど本気の愛を抱く」という僕の言葉が、壮絶なブーメランとなって彼女自身の胸に突き刺さったのだろう。
彼女は少し気まずそうに視線を逸らし、コホンとわざとらしく咳払いをした。
「……ま、まあいいわ。貴方のその優柔不断で、誰にでも優しいところは今に始まったことじゃないし。今回は大目に見るわ」
話題を変えるように、彼女は少し声を潜めた。
「それより、聞いた? 最近、この街で起きてる事件のこと」
「事件?」
「ええ。礼園の生徒じゃないけど、また女の子が飛び降り自殺をしたのよ。……巫条ビルからの投身自殺」
その言葉に、僕の背筋が冷やりとした。
巫条ビル。そして、連続する少女たちの飛び降り。
脳内の『知識』が、警鐘を鳴らす。
浅上藤乃の件は、鮮花という「縁」が僕に繋がり、そして僕の魔眼が介入することで、その悲劇的な運命を断ち切ることができた。
けれど、巫条霧絵という少女の運命は、僕とは交わることがなかった。
彼女は今も、あの廃墟ビルの上空を、幽霊のように浮遊しているのだろうか。
『俯瞰する風景』。
その物語は、僕の知らないところで既に幕を開け、そして誰も止められないまま進行している。
窓の外を見れば、夏の高い空がどこまでも広がっていた。
その青の果てに、孤独な魂が一つ、誰にも気づかれずに漂っていることを思うと、僕は言い知れぬ不安と哀しみを覚えずにはいられなかった。
窓の外、夏の陽炎が揺らめくビルの稜線を見上げながら、胸の奥でチクリと痛む良心を僕は押し殺した。
何とかしてあげたい、という気持ちがないと言えば嘘になる。
巫条霧絵。病室という閉じた世界から、精神だけを浮遊させ、空からの俯瞰という視点だけをよすがに生きるしかなかった哀れな少女。彼女が求めた「道連れ」という名の友愛が、結果として死の連鎖を招いていることは知っている。
知識として知っているなら、止められるのではないか。浅上藤乃を救ったように、彼女の手を取ることもできるのではないか。そんな甘い誘惑が脳裏をよぎる。
けれども、僕は即座にその考えを振り払った。
僕は聖人君子じゃない。世界中の不幸を背負い込めるような英雄でもない。
浅上藤乃を助けられたのは、鮮花という「縁」が彼女と繋がっていたからであり、あの夜の出来事がたまたま僕の手の届く範囲で起きたという、数奇な巡り合わせの結果に過ぎない。あれは運命の不可抗力だ。
だが、巫条霧絵の件に介入するのは違う。それは明確な意思を持った「運命への反逆」になる。
だからこそ、僕は細心の注意を払わなければならない。
この観布子市の影で、黒衣を纏い、相克する螺旋の果てに根源を目指す魔術師――荒耶宗蓮という男の存在に。
彼がこの街に用意した盤面には、三つの重要な駒が配置されていた。
無痛の殺人鬼へと覚醒するはずだった、浅上藤乃。
浮遊する死の誘い手、巫条霧絵。
そして、起源に食われた捕食者、白純里緒。
これらは全て、両儀式という「器」を完成させるため、あるいは試すために彼が仕組んだ舞台装置だ。
その駒の内、浅上藤乃は式と出会うよりも前に、僕と鮮花の手によって舞台から降ろされてしまった。
この時点で、荒耶のシナリオには小さな亀裂が入っているはずだ。
そこへ来て、もし僕がここで能動的に動き、二人目の駒である巫条霧絵までも、式と出会う前に無力化してしまったらどうなるか。
一度なら偶然で済まされるかもしれない。だが、二度続けばそれは必然であり、妨害だ。
必ず彼は、その原因を突き止めるために動き出すだろう。
いや、もしかしたら既に、彼の千里眼めいた知覚網は、式の近くに侍る「境織姫」という予定外のノイズを捕捉しているかもしれない。
直死の魔眼を持ち、根源から生還し、あまつさえ両儀織の人格を宿す異端者。
荒耶宗蓮にとって、僕は興味深い研究対象であると同時に、計画を狂わせる排除すべき障害になり得る。
僕が恐れているのは、僕自身の破滅ではない。
僕が主体性を持って運命に介在しすぎた結果、荒耶に「目を付けられる」こと。そして、その視線が、僕の隣にいる鮮花に向けられることだ。
それだけは、絶対に避けなければならない。
僕は目の前で紅茶を啜る鮮花を見る。
勝ち気で、美しくて、僕の手を引いてくれる愛しい人。
彼女を、あの超常の怪物の射程圏内に引きずり込むような真似はできない。僕の軽率な正義感のせいで、彼女が傷つく未来などあってはならないのだ。
それに、僕が動かなくとも、物語は進む。
放っておいても、この事件は両儀式が解決する。
彼女は空を翔ける幽霊と対峙し、その死の線を断ち切るだろう。それは彼女が「両儀式」として覚醒していくために必要な通過儀礼でもある。
だから、僕は。
冷めた紅茶を一口飲み下し、窓の外の虚空へともう一度だけ視線を送る。
ごめん、と心の中で誰かも知らぬ浮遊霊に詫びながら。
僕は黙って、傍観者に徹する。
この茹だるような暑さと、死の匂いに満ちた八月が過ぎ去るのを、ただ静かに待てばいいだけだ。
◇◇◇
本来の両儀式という少女は、心の中にぽっかりと空いた巨大な喪失――失われた「織」という半身の不在を埋めるために、あるいはその残り香を探して、夜な夜な街を徘徊する習性を持っていたはずだ。
何かを殺すためではなく、ただ自身の空洞を実感し、その痛みに耐えるための代償行為として。
けれども、僕が生きるこの世界の式は、そうではない。
彼女の中の空席は依然として残っているかもしれないが、その「欠けたピース」そのものである両儀織は、消滅したわけではない。
彼は僕の中に居る。
境織姫という器を借りて、確かに存在している。
だから、彼女は夜の街を彷徨う必要がない。探すべき相手は、すぐ隣の部屋に、あるいは壁一枚隔てた向こう側に、息をして存在しているのだから。
彼女の夜の徘徊癖は、この世界では鳴りを潜めている。
あるとするなら、それは僕の中の織が「身体が鈍る」とぼやいて、気まぐれに深夜の散歩に出かける時くらいだ。
そんな時、式は何も言わずに玄関で靴を履き、影のように彼についてくる。
言葉を交わすわけでもなく、ただ二人で並んで夜の街を歩く。その静寂こそが、彼女にとっての精神安定剤なのだろう。
そして、幹也が式の部屋を訪ねてくる週末以外、彼女は僕の部屋で寝床を共にするようになった。
最初は僕が気を使って布団を敷いていたが、いつの間にかそれが当たり前になり、今では一つのベッドで身を寄せ合って眠るのが常だ。
そこにあるのは、男女の情欲なんていう生々しいものじゃない。
もし誰かがその光景を見れば、あるいは背徳的な関係を疑うかもしれないが、僕たちの間に流れている空気はもっと透明で、切実なものだ。
僕と式の間にあるのは、「もう一人の私」という根源的な共鳴と、少しねじれた家族愛のようなものだ。
式にとっての僕は、かつての自分がそうであったかもしれない「可能性としての自分」であり、同時に守るべき「年下の妹」のような存在なのだろう。
そして僕にとっても、彼女は頼れる「年上の姉」であり、僕という存在の原型でもある。
鮮花との夜が、情熱的で、お互いを貪り合うような「火」の愛だとするなら。
式との夜は、静かな「水」の愛だ。
抱き合う体温は一定で、決して熱くなりすぎず、けれど決して冷えることもない。
自己愛と姉妹愛が複雑に入り混じり、溶け合って、一つの安らぎを形作っている。
彼女の腕の中は、不思議なほど安心する。
この世のあらゆる敵意から、死の恐怖から、彼女が僕を庇護してくれているという絶対的な信頼があるからだ。
彼女の着物の匂い、髪の匂い、そして微かな死の気配。
それらに包まれていると、僕の中に潜む「織」もまた、安堵して深い微睡みへと沈んでいくのが分かる。
だから僕は、無防備にその腕の中に抱かれることが出来る。
すべてを委ね、子供のように安心して、眠りに落ちることが出来るんだ。
この歪で優しい関係が、いつか壊れてしまうとしても。今この瞬間だけは、僕たちは確かに、世界で一番近い「ふたりでひとり」だった。