普通ではない鮮花の普通ではない友達   作:星乃 望夢

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第一話

 

 中学生という生き物は、どうしてこうも急激に「性別」という枠組みに囚われだすのだろう。

 

 身体つきが変わる。声が変わる。

 

 第二次性徴という生物としての変化は、教室という狭い箱庭の中に目に見えない境界線を引いてしまう。

 

 男子は男子で群れて下品な笑い声を上げ、女子は女子で集まってヒソヒソと秘密を共有する。互いに意識し合いながらも、決して交わろうとはしない奇妙な不可侵条約。

 

 まあ、わたしと織姫に関して言えば、そんな思春期特有の些細な壁など何の意味も持たないのだけれど。

 

 もっとも、周囲からの余計な邪推を招くのは避けられない。

 

 なにせわたしが学校という限られた時間の中で、もっとも長く時間を共有している異性は織姫ただ一人なのだから。

 

 周囲が「付き合っているんじゃないか」と勘繰るのも無理はないけれど、わたしには心に決めた兄さんという人が居る。この一点において、わたしが揺らぐことはない。

 

 それに何より――中学生に上がった周囲の男子たちが、あまりにも子供っぽく見えてしまうのが原因だ。

 

 女子の気を惹きたくて、あるいは男としての順位付けに躍起になって、必死に背伸びをしてカッコつける。

 

 そのあからさまな虚勢は、女子の目から見れば滑稽なほどに幼い。

 

 母性本能をくすぐられて「かわいい」と評価する女子も居るようだけど、わたしにはその稚拙さがどうにも性に合わなかった。

 

 その点、織姫は違う。

 

 あの騒がしい猿山のような男子の輪に混ざることもなく、かといって過剰に斜に構えることもない。

 

 ただ静かに、そこにある空気のようにわたしと過ごしている。

 

 小学生の頃の、あの痛々しいほどの人嫌いは少しだけ鳴りを潜めた。

 

 誰かに話し掛けられれば、愛想こそないものの、ひと言ふた言は返すようにはなったのだ。

 

 その変化は、彼を「陰気な根暗」から「口数の少ないミステリアスな文学少年」へと昇華させたらしい。

 

 近頃では、女子の間で織姫の評判が上がりつつあるのを肌で感じる。

 

 触れれば壊れそうな繊細さと、中学生離れした大人びた雰囲気。それが一部の女子には魅力的に映るようだ。

 

 けれど、そんな織姫と対等に、そして「普通」に会話ができるのは、この学校でわたし一人だけ。

 

 悪い気はしない。むしろ、鼻が高いと言ってもいい。

 

 わたしが認めたライバルであり友人が評価されるということは、それを選んだわたしの審美眼もまた正しいと証明されているようなものだから。

 

 誤解しないで欲しいけれど、わたしは織姫を自分の価値を高めるためのアクセサリーだなんて思ってはいない。

 

 男女の友情だって成立する。それは理知的な人間同士であれば当然の帰結だ。

 

 ……まあ、織姫がわたしのことを好いているのは、隠しきれていなくてバレバレなんだけどね。

 

 

◇◇◇

 

 

 中学生という多感な時期にあって、僕という人間が辛うじて「人」としての輪郭を保っていられるのは、間違いなく鮮花のお陰だ。

 

 彼女と話していると、灰色だった視界に色が差す。心が華やぐというのはこういう事を言うのだろう。

 

 そのリハビリめいた交流のお陰か、他の女子とも会話自体は成立するようになった。

 

 もっとも、僕は基本的に受け身だ。話しかけられれば相槌も打つし話題も返すけれど、相手が何を求めているのかを察するのは骨が折れるし、自分から積極的に話題を提供する情熱もない。だから、会話はキャッチボールではなく、数回ラリーが続けば御の字といった程度ですぐに途切れてしまう。

 

 一方で、男子の輪に混ざることはまずない。

 

 というより、男子の方から僕に対して目に見えない壁を作っている。

 

 鮮花や他の女子と、こともなげに自然体で話す僕への距離感。その心理は手に取るように分かってしまう。

 

 思春期特有の、羨望と嫉妬がない交ぜになったアンビバレンツな感情。

 

 異性と普通に話せるというだけで、僕は彼らにとって「仲間」ではなく「異物」なのだ。

 

 別に、それで構わない。

 

 彼らの輪に入ろうという気概もなければ、今更この精神年齢で中学生男子特有のノリ――あの無駄に騒がしく、バカになれるエネルギーに付き合うのは、正直しんどい。

 

 結果として、僕はクラスにおいて奇妙な立ち位置を確立してしまった。

 

 女子とは自然に話せ、あの学年一の美少女・黒桐鮮花と唯一気さくに言葉を交わす男子。

 

 男子からすれば、羨望と嫉妬の対象であり、一種の英雄あるいは公共の敵。

 

 ……僕自身にそんなつもりは毛頭ないのだけれど、この時期の男子というのは性への目覚めと共にIQが下がる生き物だから仕方がない。

 

 それに、彼らが抱く嫉妬など全くの見当違いだ。

 

 鮮花の矢印は、ここにはいない実の兄・黒桐幹也にしか向いていない。

 

 僕が逆立ちをしたって、天地が引っくり返ったって、彼女が僕に恋愛感情を抱くことは万に一つもあり得ないのだ。

 

 だから今の、「友人」兼「ライバル」というポジションで充分だ。

 

 彼女の『特別』というカテゴリーの末席に座らせてもらっているだけで、僕は満たされている。

 

 それで良い。それだけで、良いんだ。

 

 ――良いはず、なんだけど、ね。

 

 ふとした瞬間に胸の奥で渦巻く黒い感情を、僕は毎回見て見ぬフリをして蓋をする。

 

 僕は、鮮花が好きなんだ、と。

 

 叶わないと知っていて、それでも惹かれてしまっている自分を、理性の檻に押し込める。

 

 だって、この関係には「期限」があることを僕は知ってしまっているから。

 

 そう遠くない未来、僕たちは別れることになる。

 

 彼女は高校に上がれば、愛する兄を追いかけ、そしてその傍らに立つ「両儀式」という名の女性を目撃する。

 

 物語は動き出し、彼女はこの平穏なモラトリアムから去ってしまうだろう。

 

 だから僕との友情も、この心地よい距離感も、それまでの間に見る儚い夢でしかない。

 

 結末を知っている観客が舞台に上がってしまったような、残酷な猶予期間の中で、僕は今日も平穏な友人を演じ続ける。

 

 

◇◇◇

 

 

 中学校に上がった最初の年の瀬。

 

 わたしは久しぶりに、懐かしい実家の敷居を跨ごうとしていた。

 

 この帰省は単なる里帰りではない。

 

 中学に入り、心身ともに見事に成長したこの「新生・黒桐鮮花」を兄さんに見せつけ、妹という安寧のポジションから一人の「女性」として意識させるための、乾坤一擲の大作戦決行日なのだ。

 

 兄さんは鈍感だから、これくらい劇的な変化を見せないと気づかない。

 

 鏡の前で何度も確認した。制服の着こなしも、少し伸びた髪も完璧だ。

 

 意気揚々と玄関の扉を開け、愛しの兄さんの名前を呼ぶ――はずだった。

 

「――は?」

 

 私の口から漏れたのは、再会の喜びを伝える言葉ではなく、間の抜けた疑問符だった。

 

 兄さんは居た。

 

 けれど、その隣に見知らぬ……いや、あまりにも「見知った」顔があったからだ。

 

 なんで、織姫が兄さんの隣に居るのよ!?

 

 一瞬、思考が真っ白に染まる。

 

 だってあり得ない。織姫は今さっき、わたしをここまで送り届けてくれて、まだ玄関の外にいるはずなのだから。

 

 瞬間移動? 分身?

 

 いや、冷静になれば服装が違う。髪の長さも微妙に違う。纏っている雰囲気も、織姫の静謐さとは違う。

 

 けれど、顔立ちは瓜二つだ。

 

 他人の空似なんてレベルじゃない。ドッペルゲンガーだって、ここまで似ていたら自分を見失って裸足で逃げ出すレベルだ。

 

 本人がそこにいると錯覚しても、誰が私を責められるというの?

 

 ……いや、そんなドッペルゲンガー問題なんて、今の私には二の次だ。

 

 問題は、兄さんの隣に「女」が居るという事実!

 

 しかも、あろうことか実家に連れ込んでいる!?

 

 兄さんはずっと独り身で、浮いた話の一つもないと信じ切っていた。

 

 わたしが居ない間に、そんな隙が生まれているなんて想定外にも程がある。完全に油断していた。

 

 兄さんが、女連れで、実家に……?

 

 その事実は、わたしの許容量を軽々と突破し、ショックを通り越してパニックを引き起こした。

 

 このままでは発狂する。

 

 一人では受け止めきれない。

 

「――織姫ッ!!」

 

 わたしは脱兎のごとく踵を返すと、玄関を出て帰ろうとしていた背中を追いかけた。

 

 わけもわからず振り返った織姫の腕を力任せに掴み、有無を言わさず引きずって実家へと連れ戻す。

 

「ちょ、鮮花!? 何事……!?」

 

「いいから来なさいよ! 緊急事態なんだから!」

 

 こんな理不尽な状況、わたし一人で戦えるわけがない。

 

 悪いけれど、織姫には巻き込まれてもらう。だって貴方と瓜二つの女がそこに居るんだから、貴方にも関係ある話でしょ!

 

 リビングに再び踏み込み、兄さんを誑かしたその泥棒猫――両儀式とかいう女を睨みつけ、心の中で盛大に呪詛を吐き散らす。

 

 ええ、わたしは何も悪くない。

 

 悪いのは、わたしの純情を踏みにじったこの異常事態と、兄さんの隣に収まっているその女なのだから!

 

 

◇◇◇

 

 

 運命の悪戯、という言葉で片付けるには、この状況はあまりにも出来過ぎていた。

 

 目の前には、着物を着崩し、こたつに半身を預けて無心にみかんを剥いている両儀織。

 

 そして対面には、なぜかここに座らされている僕――境織姫。

 

 嵐のような剣幕で「ちょっと話があるの!」と幹也さんを引っ張って居間を出て行った鮮花のおかげで、この奇妙な空間には僕たち二人だけが取り残されてしまった。

 

 静寂の中に、衣擦れの音と、みかんの皮を剥く微かな音だけが響く。

 

 僕は、目の前の人物を盗み見る。

 

 僕も、今は表に出ているのが男性人格の「織」である彼も、同じ読みの「シキ」。

 

 それだけではない。どちらも「織」という字をその名に抱いている。

 

 両儀式という器の中に存在する、式と織。

 

 そして僕は、境織姫。「織」という字を持ち、さらに「姫」という字を背負うことで、名前と魂の在り方そのものが両儀の図のように混ざり合っている存在。

 

 この世界に遍在する魔術的な概念といった法則に当て嵌めるのなら、これほどまでに鏡合わせな人間は、世界広しといえども僕と彼らだけだろう。

 

 まるで、本来出会うはずのないドッペルゲンガーが、茶飲み話をしているような非現実感。

 

「――災難だったな」

 

 不意に投げかけられた言葉に、僕はビクリと肩を震わせた。

 

 織は手の中のみかんを放り投げ、器用に口で受け止めながら、ニヤリと笑っている。

 

「え、あ……うん。まさか、鮮花があんな風になるとは思わなくて」

 

「ま、ブラコンだとは聞いてたけどな。実物は想像以上だ」

 

 織は可笑しそうに喉を鳴らすと、改めてこちらに向き直った。

 

「俺は織。両儀織だ」

 

「……僕は、境織姫」

 

「へぇ、アンタもシキって言うのか。しかも字まで同じなんて、奇遇だな」

 

 名前の交換。それだけの儀式が、妙に重みを持って響く。

 

 織は特に気負った様子もなく、まるで長年の連れと話すように言葉を続ける。

 

「妹が居るのはコクトーから聞いてたけどさ。結構かわいい妹じゃないか。ありゃあ、将来美人になるぜ」

 

「……そうだね。鮮花は、自慢の友達だよ」

 

 織の言葉に、僕は淡々と相槌を打つ。

 

 正直に言えば、どう接していいのか分からない。僕は鮮花に引きずられてきただけの部外者であり、本来ならここに居るはずのない招かれざる客だ。早々に退散すべき立場なのは重々承知している。

 

 けれど、どうしてだろう。

 

 織と話していると、不思議なほどに心が凪いでいく。

 

 鮮花と居る時の、華やかで少し気恥ずかしい高揚感とは違う。もっと根本的な、魂の波長が合うとでも言うような静かな安らぎ。

 

 初対面のはずなのに、言葉を選ばなくても通じるような感覚。

 

 男同士の気安さとも、同類ゆえの共感ともつかないその空気感に、僕は不覚にも居心地の良さを感じてしまっていた。

 

 もしも、僕に同性の友人が居たとしたら。

 

 こんな風に、他愛もない話で時間を潰せる相手が居てくれたら――。

 

 ふと、そんな願望が頭をよぎる。

 

 けれどそれは、彼の中に眠るもう一人の彼女――「式」にとっては迷惑な話かもしれない。

 

 一つの体に二つの心。その危うい均衡の上に成り立っている彼らに、僕という異物がこれ以上関わることは許されない気がして、僕は飲みかけの茶に視線を落とした。

 

 

◇◇◇

 

 

 廊下の向こうから戻って来た鮮花は、まるで幽霊のようだった。

 

 足取りは覚束なく、あの勝気で輝くような瞳からは完全に光が失われている。生気のないその顔を見れば、別室で行われた兄妹の対話の内容など聞くまでもない。

 

 おそらく、最愛の兄・黒桐幹也の口から、決定的で残酷な事実を突きつけられたのだろう。

 

 ――彼女と、交際している、と。

 

 僕が居間のこたつで、両儀織という不思議な少年と悪くない雰囲気で言葉を交わしていた、その時だった。

 

 音もなく近づいてきた鮮花が、僕の腕を掴んだ。

 

 その指先は白くなるほどに力が込められていて、微かに震えている。

 

「……帰る!」

 

 吐き捨てるような、短い言葉。

 

 帰るも何も、ここは君の実家だろう、という正論は喉の奥で止まった。

 

 彼女が言う「帰る」が、この場所からの物理的な離脱を指しているのではなく、現実からの逃避、あるいは心の平穏を取り戻せる場所への撤退を意味していることくらい、読み取れないほど僕は鈍くない。

 

 僕と鮮花の付き合いは、それなりに長いし、濃いのだから。

 

「……分かった」

 

 僕は短く答え、織に目だけで別れの挨拶を送る。彼は「やれやれ」といった風に肩をすくめ、小さく手を振って見送ってくれた。

 

 かくして僕たちは、到着してから一時間も経たないうちに、来た道を引き返すことになった。

 

 冬の寒空の下、逃げるように駅へと向かい、電車に飛び乗る。

 

 ガタンゴトンと揺れる電車のボックス席。

 

 暖房の効いた車内はまばらに人がいるだけで、静かだった。

 

 向かい合わせに座ることもできたはずだが、鮮花は迷うことなく僕の隣に座り込み――そのまま、ドカッと僕の膝に上半身を預けてきた。

 

「……鮮花?」

 

「……今は、何も聞かないで」

 

 顔を埋めたまま、くぐもった声が返ってくる。

 

 いつもなら、人前でこんな無防備な姿を晒すことなんて絶対にない。

 

 プライドが高く、常に完璧であろうとする彼女が、こうして弱り切った姿をありのままに見せている。

 

 まるで、傷ついた獣が安全な巣穴で身を丸めるように。

 

 あるいは、親鳥の羽毛に潜り込む雛のように。

 

 僕の膝に重みを預け、全ての虚勢を脱ぎ捨てて甘えてくるその態度。

 

 それが、彼女にとって僕が心を許せる『安全地帯』であり、『特別』な存在であることの証明なのだとしたら。

 

 僕はそっと、彼女の肩に触れない程度の距離に手を置き、車窓の外を流れる冬枯れの景色に目をやった。

 

 失恋にも似た痛みを抱える彼女には悪いけれど、胸の奥に温かいものが広がるのを止められない。

 

 彼女が弱った時に頼るのが、実の兄でも、他の誰でもなく、僕であるという事実。

 

 それだけで、僕は十分すぎるほどに満足だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 本来ならば、膝から崩れ落ちて一歩も動けなくなっていてもおかしくはなかった。

 

 あるいは、あの実家の玄関先で泣き叫び、兄さんの胸を叩いて駄々を捏ねるという、年齢不相応な醜態を晒していたかもしれない。

 

 それほどの衝撃だった。

 

 わたしの世界。わたしの中心。わたしのすべてである黒桐幹也という惑星の軌道上に、見たこともない異質な星が割り込んでいたのだから。

 

 しかも、あろうことか兄さんはその異物を、まるで長年連れ添った相手のように自然に受け入れていた。

 

 わたしという妹の入り込む隙間なんて、ミクロン単位も残されていないほどに完結した世界がそこにはあった。

 

 絶望? 失意?

 

 そんな生易しい言葉じゃ足りない。

 

 わたしのアイデンティティを根底から揺るがす天変地異。

 

 それでもわたしが、あの場で発狂もせず、気絶もせず、こうして電車に乗って移動できているのは、ひとえにこの「杖」があったからに他ならない。

 

 ガタン、ゴトン。

 

 規則的なレールの継ぎ目を刻む音が、思考の海を漂うわたしの耳に遠く響く。

 

 ボックス席の狭い空間。

 

 わたしは今、織姫の膝の上に上半身を投げ出し、その温もりを貪るように頬を押し付けている。

 

 自分でも驚くほど図々しい体勢だとは思う。

 

 中学生の男女が、公衆の面前でとるべき距離感ではないことも分かっている。

 

 けれど、今のわたしにはこうする権利があるはずだ。

 

 だってわたしは傷ついている。世界の理不尽に打ちのめされている。

 

 だから、わたしの所有物であり、わたしを一番に考えてくれる彼に慰められるのは当然の権利だわ。

 

(……あったかい)

 

 織姫の太腿は、運動部のような逞しさはないけれど、骨張っているわけでもない。

 

 華奢な見た目に反して、意外としっかりとした土台だ。

 

 ズボン越しに伝わってくる体温が、凍りついたわたしの内臓をゆっくりと解凍していく。

 

 彼は何も言わない。

 

 「どうしたの」とも「大丈夫?」とも、野暮なことは一切聞いてこない。

 

 ただ、窓の外に流れる冬枯れの景色を眺めながら、わたしの重みを文句ひとつ言わずに受け入れている。

 

 時折、電車の揺れに合わせて、わたしの背中に回された手が、落ちないようにそっと支えてくれる気遣い。

 

 その沈黙が、今のわたしには何よりも救いだった。

 

 もし彼が、「幹也さんのこと、残念だったね」なんて慰めの言葉を口にしていたら、わたしは間違いなく彼を罵倒して、この電車から飛び降りていたかもしれない。

 

 傷口に触れられるのは嫌だ。

 

 同情されるのはもっと嫌だ。

 

 惨めな自分を直視させられるのは、死ぬよりも耐え難い屈辱だから。

 

 でも、織姫は違う。

 

 彼はわたしの惨めさを知っていながら、それを「なかったこと」のように振る舞ってくれる。

 

 わたしが逃げ出したいと言えば、理由も聞かずに付き従ってくれる。

 

 まるで忠実な騎士のように。あるいは、主人の感情を鏡のように映す分身のように。

 

(……あの女)

 

 脳裏に焼き付いた映像がフラッシュバックする。

 

 両儀式。兄さんの隣に居た、着物の女。

 

 悔しいけれど、あの女の顔立ちは織姫によく似ていた。

 

 わたしの大好きな兄さんを奪った泥棒猫が織姫と似ているなんて、神様はどこまで悪趣味な脚本を書けば気が済むのかしら。

 

 でも、決定的に違う。

 

 顔が似ていても、中身は月とスッポン。雲泥の差よ。

 

 あんな女のどこが良いのよ、兄さんのバカ。

 

 目頭が熱くなるのを堪えるために、わたしはさらに強く織姫の脚に顔を埋めた。

 

 

 柔軟剤の香りと、織姫特有の、古本のような落ち着く匂いが鼻腔をくすぐる。

 

 ……ズルイのはわたしだ。

 

 織姫がわたしに好意を寄せているのを知っていて、わたしはそれを利用している。

 

 兄さんに拒絶された(正確には、入り込む余地がなかった)心の穴を、織姫という代替品で埋めようとしている。

 

 彼をサンドバッグにして、クッションにして、傷ついたプライドの止まり木にしている。

 

 織姫はきっと、それに気づいている。

 

 気づいていて、それでもわたしの止まり木であることを選んでくれている。

 

 その献身が、今はただ愛おしくて、同時にどうしようもなく申し訳ない。

 

 けれど、今はまだこのぬるま湯から出られない。

 

 兄さんを失った(と認めたくないけれど)今のわたしから、織姫までいなくなってしまったら、わたしは本当に一人ぼっちになってしまう。

 

 あの孤独な学校生活に逆戻りだなんて、絶対に嫌。

 

「……ねぇ、織姫」

 

 くぐもった声で、わたしは呟く。

 

「……ん」

 

 頭上から降ってくる、短く、けれど柔らかい肯定の響き。

 

「着くまで、起こさないでよ」

 

「うん。分かった」

 

 優しい嘘つき。

 

 貴方はわたしが眠ってなんかいないことなんて、とっくにお見通しのくせに。

 

 わたしは瞳を閉じる。

 

 瞼の裏に残る兄さんとあの女の残像を消し去るように、織姫の温もりだけを意識のすべてで感じ取る。

 

 今はただ、この小さな安息地に引き籠もっていたい。

 

 明日になれば、また「完璧な優等生・黒桐鮮花」の仮面を被らなくちゃいけないんだから。

 

 電車は進む。

 

 残酷な現実がある都会から、わたしたちが唯一「二人だけの世界」でいられる田舎へと。

 

 あの残酷な現実から距離が離れれば離れるほど、わたしは少しずつ呼吸が楽になっていくのを感じていた。

 

 

 

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