蒼崎橙子。
魔術世界の深淵――『型月』の理に触れた者ならば、その名を知らぬ者はいないだろう。
稀代の魔術師にして、封印指定という不名誉な(あるいは名誉な)称号を持つ、現代最高峰の『冠位』人形師。
それが、僕の雇い主だった。
彼女の拠点であり、僕たちの職場でもある『伽藍の堂』。
その二階と三階の実態は狂気と美学が混在する人形工房そのものだ。
足を踏み入れれば、そこは無言の視線に満ちた異界と化している。
棚には製作途中の義手や義足が無造作に転がり、ガラスケースの中には精巧な眼球が宝石のように陳列されている。
そして、部屋の隅々には、完成品あるいは製作途中の人形たちが、静謐な空気を纏って鎮座している。
ただの人形ではない。
人の形を極めることで、その先にある根源の渦へと至ろうとした魔術師の作品だ。
陶器のような肌の質感、硝子細工の瞳の奥に宿る虚無、そして関節の駆動音すら聞こえてきそうなリアリティ。
それらは単なる美術品を超え、今にも呼吸をし、言葉を話し出しそうなほどの「生命の模造品」としての迫力を放っている。
夜中にふと目が合えば、心臓が止まりそうになるほどの妖しい美しさだ。
だが、そんな国宝級とも言える人形たちを、彼女は金欠になると惜しげもなく二束三文で売り払ってしまうことがある。
「また作ればいいさ」と煙草をくゆらせる彼女の横で、経理担当の幹也先輩が胃の痛そうな顔をして頭を抱えているのは、もはや日常茶飯事の光景だった。
あの人の金銭感覚と経営手腕の欠如は、彼女の魔術的な才能と反比例しているのではないだろうか。
そんなある日のこと。
工房の片隅に積み上げられたガラクタ同然の資材を整理していた僕は、布に覆われた一体の人形を見つけた。
布をめくった瞬間、僕は息を呑んだ。
そこにあったのは、見慣れた顔――両儀式に瓜二つの少女の人形だったからだ。
切れ長の涼やかな瞳、端正な鼻筋、薄い唇。その造形は、まるで式本人を石膏で型取りしたかのように精巧だった。
けれど、決定的に異なる点が一つだけあった。
髪だ。
式のような短髪ではなく、その人形は腰まで届くほどの艶やかな黒髪の長髪を持っていた。
それは、どこか僕自身の面影とも重なる。
「……橙子さん、これ」
僕が声を上げると、作業机でルーン魔術の刻印を彫っていた橙子さんが、保護メガネ越しにチラリとこちらを見た。
「ああ、そいつか。そいつは手慰みに最近弄った失敗作だ」
「失敗作……ですか?」
どこからどう見ても完璧な仕上がりに見える。
市場に出せば、豪邸が建つほどの値がつくだろう。
「お前をイメージして調整したんだがね。……どうにも、モノづくり泣かせにも程があるお前の『在り方』にしっくりこなくて、途中でほっぽり出したヤツだ」
彼女はため息交じりにそう言うと、リューターを置いて椅子を回転させ、こちらに向き直った。
その言葉の意味が、僕にはすぐには理解できなかった。
僕をイメージした? そして、僕が「モノづくり泣かせ」?
「モノづくり泣かせの僕の在り方って……どういうことですか? 構造が複雑だとか?」
「構造というよりは、概念の揺らぎの問題さ」
橙子さんは新しい煙草に火をつけ、紫煙を天井へと吹き上げながら、哲学的な問いを投げかけるように語り始めた。
「いいかい。人形作りというのは、対象の本質を捉え、それを『空』の器に固定する作業だ。だが、お前という被写体は、その『固定』を拒絶する」
彼女は指先で空中に円を描いた。
「見る角度によって、光の当て方によって、無限に色を変え、陰陽を反転させる……そう、まるで『生きた万華鏡』みたいなもんだよ、お前は」
「万華鏡……」
「男であり女。陽であり陰。日常であり非日常。それらが混ざり合うのではなく、常に流動的に変化し続けている。そんなお前を作例にして人形に投影しても、それはあくまで『その瞬間に見えていたお前の姿』を切り取ったスナップショットに過ぎない。次の瞬間には、お前の色はまた変わっている」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「あの人形は、『式の似姿を持つ女の織姫』としては完成している。だが、『織を内包する男の織姫』という側面は表現できていない。逆もまた然りだ。見る角度によって変わる多面的な陰陽を、単一の物質である人形で表現するのは、冠位の私でもそう簡単にはいかない難題なんだよ」
つまり、僕は芸術的な被写体として、冠位人形師をもってしても完全再現が不可能なほど、複雑怪奇で捉えどころのない存在だということらしい。
そんな大層な自覚はないけれど、彼女の鋭い指摘を受けて、自分の在り方を改めて解体してみれば、確かに納得がいった。
境織姫という物理的な器。
そこに宿る、僕という異邦の魂。
この世界の理の外側からやってきた僕は、本来なら相容れないはずの要素を無理やり同居させている。
陽の属性を陰へと変質させ、空いたスペースに、消えるはずだった「両儀織」という男の人格を住まわせている。
鮮花を愛する一人の少年でありながら、織の姫として振る舞い、式の「もう一人の私」として彼女に抱かれる少女でもある。
男であって女でない。女であって男でない。
僕という存在は、確定しないシュレディンガーの猫のように、観測者によって、あるいは状況によって、その姿を千変万化させる。
見る角度で見え方が変わる万華鏡。
橙子さんのその表現は、あまりにも的確で、言い得て妙だった。
僕自身でさえ、自分が何者なのか、時々わからなくなることがあるのだから。
僕は改めて、その「失敗作」の人形を見つめた。
長い黒髪の少女。その瞳は、何かを訴えかけるように、静かに僕を見つめ返していた。
それは、僕の一部であり、決して僕そのものにはなれない、美しい抜け殻だった。
僕はその、自分によく似た――けれど決定的に「静止」している人形の頬に、恐る恐る指を這わせた。
冷たく、硬質で、完璧な造形。
けれど、そこには熱がない。当然だ、人形なのだから。
しかし橙子さんが言った「しっくりこない」という違和感の正体は、単なる体温の有無ではないのだろう。
鮮花の前での僕、式の前での僕、幹也先輩の前での僕。そして、かつての世界の記憶を持つ「僕」自身。
どれもが本当で、どれもが断片に過ぎない。
両儀の血族特有の二重人格とも違う。僕はもっと複雑怪奇なパッチワークだ。
本来なら消えるはずだった織を繋ぎ止め、本来ならあり得ない「織姫」という性を生き、運命のレールを脱線し続けているバグのような存在。
この人形が未完成で放棄されたのは、ある意味で僕が「生きて動いている」ことの証明なのかもしれない。
誰かの手によって作られた物語の登場人物ではなく、自らの足で歩き、矛盾を抱えながら変化し続ける人間であるという証。
「……光栄、と言っていいんでしょうか」
「皮肉だよ。モデルとしての性能が悪すぎるって言ってるんだ」
ふん、と鼻を鳴らしながらも、橙子さんはどこか楽しげだ。
彼女にとって、解けないパズルや再現できない現象は、退屈しのぎの極上のスパイスなのだろう。
「ま、いつかお前が死んで、その魂が固定されたら、改めて最高傑作を作ってやるさ。それまではせいぜい、その忙しない万華鏡の輝きを絶やさないようにすることだ」
「縁起でもないことを言わないでくださいよ……」
暗がりの中で眠る「もう一人の僕」。
もし、僕が運命に負けて立ち止まることがあれば、僕はあの人形のように、ただ綺麗なだけの抜け殻になってしまうのかもしれない。
そうならないために。
僕は、この矛盾だらけの身体と心を抱えて、今日も今日とて、伽藍の堂の雑用係として、そして誰かの特別として、くるくると色を変えながら回り続ける。
僕がその「失敗作」と呼ばれる人形を整理するために動かそうと、手を伸ばした時のことだった。
等身大の人形は見た目以上に重量がある。重心を安定させるため、介護士が要介護者の身体を支えて移動させる時のように、正面から彼女の脇の下に腕を通し、密着するような形で抱きしめて持ち上げた瞬間。
カクリ、と。
人形の首が、まるで意思を持ったかのように動き、僕の方へと傾いた。
「――え?」
思考が停止するよりも早く、世界が反転した。
ダラリと垂れ下がっていたはずの無機質な両腕が、鞭のようにしなり、猛烈な勢いで僕の背中と後頭部に回されたのだ。
逃げようとする反射神経すら追いつかない。
強烈な力で引き寄せられ、僕の顔が人形の顔へと押し付けられる。
そして、気づいた時には、僕は人形に唇を奪われていた。
「ん……ぐぅ……ッ!?」
硬いはずの作り物の唇。
けれど、触れた瞬間に感じたのは、人肌と変わらない、いや、それ以上に生々しく艶めかしい、柔らかな質感と体温だった。
驚愕に目を見開く僕の唇の隙間をこじ開け、ぬるりとした「舌」が侵入してくる。
それは単なるシリコンやゴムの塊ではない。湿り気を帯び、熱を持ち、まるで生きている蛇のように、僕の口内を荒々しく蹂躙し始めた。
歯列をなぞり、僕の舌を捕らえ、絡みつき、吸い上げる。
逃れようにも、脇の下に入れた僕の腕は逆にロックされ、背中に回された人形の腕は万力のように僕を拘束している。
密着した身体からは、心臓の鼓動すら聞こえてきそうだ。
これが、冠位人形師の作品なのか。
単なる自動人形の域を超えている。魂の器としての完成度が高すぎて、何かが――本来入るべきではないモノが、勝手に入り込んでしまっている。
「んむ……ぅ、ふ……っ!」
息ができない。酸素が奪われる。
助けを求めようと視線を彷徨わせるが、作業机に座る橙子さんは、背中を向けたままピクリとも動かない。
まるで、この異常事態を黙認しているかのように、あるいは「面白い実験結果」として観察しているかのように、紫煙を燻らせているだけだ。
たっぷりと、一分の隙もなく僕の口腔内を犯し尽くした人形が、ようやく満足したように唇を離す。
プハッ、と酸素を求めて喘ぐ僕の視界の中で。
銀色の糸が、きらりと光った。
粘液質な、濃厚な唾液が、まるで架け橋のように、僕と人形の濡れた唇を繋いでいる。
人形が唾液を分泌するはずがない。
だとしたら、これは僕の唾液なのか、それとも魔術的な疑似体液なのか。
そんな理屈はどうでもよかった。
僕を至近距離で見つめる、その硝子玉の瞳。
先ほどまでの虚無は消え失せ、そこには明確な「意志」と、凶暴なまでの「自我」が宿っていた。
端正な顔立ちが歪み、口元が皮肉っぽく吊り上がる。
その、ニヒルで、どこか寂しげで、けれど圧倒的な存在感を放つ笑み。
――あぁ、やっぱり君か。
僕は確信した。
この人形を動かしているモノの正体を。
僕の魂の奥底、深い深い闇の中で眠っているはずの、もう一人の人格。
両儀式の「陽」であり、破壊衝動の体現者。
そして、僕が救い、僕の中に匿っている愛しい半身。
「……織」
僕がその名を呼ぶと、人形は――織は、嬉しそうに、そして少しだけ悲しそうに目を細めた。
橙子さんが言っていた「失敗作」の意味が、ようやく腑に落ちた。
この人形は、僕を模して作られた器ではない。
魂の形が人形の似姿に適合しすぎたが故の、予期せぬ憑依現象。
彼は言葉を発することはなかったが、その瞳は雄弁に語っていた。
『久しぶりだな、相棒。……いい味だったぜ』と。
僕はへなへなと座り込みそうになる腰を支えながら、目の前の「もう一人の僕」に、苦笑いで返すしかなかった。