珈琲の湯気が、伽藍の堂の張り詰めた空気を緩やかに溶かしていく。
着崩した和服姿の人形――その中身である『織』は、僕の隣に腰掛け、マグカップを傾けていた。
無機質なはずの唇がカップの縁に触れ、黒い液体が喉と思わしき場所へ流れ込んでいく。
本来、人形に消化器官など存在しない。摂取した水分が体内でどう処理されるのか、あるいは魔術的な置換によって概念として消費されているのか。普通なら「どこに溜まるのか」と気にするべき異常事態だ。
けれど、僕はその疑問を喉の奥で飲み下す。気にしてはいけない。
理屈で世界を縛るのは、今のこの空間においては野暮というものだ。
今、この人形は単なる『器』ではない。
両儀織という、本来なら消滅したはずの魂が、明確な意志を持って実体化している『彼そのもの』なのだから。
意識を内側にければ、僕の魂の座――その深淵にある「空いた場所」には、確かに織の気配が鎮座している。
彼は僕の中にいる。それは間違いない。
だというのに、目の前の織は、僕の腰に力強く腕を回し、体温すら感じさせる質量を持ってここに在る。
僕という本体にいながら、外部端末を遠隔操作しているような状態。
「……不思議そうな顔すんなよ。こいつはラジコンみたいなもんだって」
織はカップを置き、ニヤリと片頬を歪めた。その不敵で、どこか寂しげな笑みは、僕の記憶にある彼そのものだった。
魂のパスを繋ぎ、人形という仮の肉体を駆動させる。
橙子さんの作った人形があまりに高性能すぎたが故のバグか、それとも僕たちの魂の混線が招いた奇跡か。
どちらにせよ、彼にとっては些細な問題らしい。
回された腕に力が籠もる。
硬質な関節の感触と、それを覆う人工皮膚の柔らかさ。
本来なら不気味に感じるはずのその感触が、僕にはどうしようもなく愛おしく、安らぎとなって心臓に染み渡る。
それでも構わない。
たとえこれが、一夜の幻影だとしても。
魔術と偶然が織りなした、悪趣味なごっこ遊びだとしても。
あの日。あの年の瀬の夜。
こたつに入って蜜柑を食べながら語り合った、あの切なくも温かい時間の続き。
もう二度と触れ合えないと思っていた彼と、こうしてコーヒーの香りを共有し、肌を接して息づいている。
その事実だけで、僕の「空」は満たされていく。
「……珈琲、美味い? 織」
「ああ。お前が淹れたんだ、不味いわけないだろ」
彼はぶっきらぼうに答え、僕の肩に頭を預けてきた。
カクリ、と人形の重みが僕にかかる。
僕はその髪を――僕と同じ色をした長い髪を、優しく撫でた。
この静寂が、少しでも長く続けばいいと願いながら。
◇◇◇
軋んだ音を立てて事務所のドアが開くと同時に、外の湿った空気とは裏腹な、伽藍の堂特有の静謐とした空気が揺らいだ。
コツ、コツ、と硬質なブーツの音が響く。
いつものように不機嫌そうな、あるいは何もかもが退屈だと言わんばかりの気配を纏って現れたのは、僕たちの起源でもある少女、両儀式だった。
「……トウコ、頼まれてた買い物は済ませたぞ。まったく、なんでオレがこんなパシリみたいな真似を――」
文句を垂れ流しながら、レジ袋を提げて工房の奥へと歩を進めてきた彼女の足が、ピタリと止まった。
それは、野生動物が不可解な天敵に遭遇した時のような、あるいは自分の足元の地面が唐突に消失したかのような、完全な硬直だった。
彼女の視線が、僕と、僕の隣でふんぞり返っている「人形」に縫い付けられる。
その瞬間、彼女の能面のように整った美貌に、亀裂が走った。
涼やかな瞳が見開かれ、いつもは結ばれている唇が、信じられないものを見るように半開きになる。
それは、恐怖でも警戒でもない。純粋な「驚愕」という、式にとっては最も縁遠い感情の発露だった。
あの常に冷静で、万物を殺せる魔眼を持つ彼女が、鳩が豆鉄砲を食ったような、いや、幽霊が自分の死体に出くわしたような、心底「ぎょっとした」表情を浮かべている。
そのレアな表情を引き出せたというだけで、この異常事態には歴史的な価値があると言えるだろう。
「……は?」
式の喉から、乾いた音が漏れる。
無理もない。彼女の魔眼は、あるいは彼女の鋭敏すぎる直感は、即座に理解してしまったはずだ。
目の前にいる人形が、ただの精巧な美術品ではないことを。
その硝子細工の瞳の奥に宿っている光が、かつて自分の中にいて、今は僕の中に居るはずの片割れ、「織」の魂そのものであることを。
外界に、物理的な実体を持って「織」が存在している。
それは魔術的な奇跡というレベルを超えて、彼女のアイデンティティの根幹を揺るがすバグのような事象だ。
本来ならば、陰と陽は一つの器の中で混ざり合い、あるいは相殺し合うものであり、こうして別々の個体として並び立つことなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
「よお、式。……随分と間抜けな面してるな。オレがいなくて寂しかったか?」
硬直する彼女を尻目に、人形の織はニヤリと口角を吊り上げ、マグカップ片手にのたまわった。
その憎たらしいほどに飄々とした口調。
挑発的でありながら、どこか慈愛を含んだ響き。
それは紛れもなく、彼女が一番よく知っている「あいつ」のものだ。
「お前……なんで、そこに……」
式は袋を取り落としそうになるのを堪え、呆然と呟く。
殺意を向けるべきか、幻覚だと切り捨てるべきか、それとも駆け寄るべきか。彼女の脳内処理が追いついていないのが手に取るようにわかる。
境織姫。
人形という仮初の器を得た、両儀織。
そして、オリジナルの肉体を持つ、両儀式。
ここに、三人の「シキ」が顔を合わせた。
同じ根源から生まれ、異なる道を歩み、本来なら決して交わることのないはずの三つの側面。
過去、現在、そして有り得ざる未来の可能性が、この薄暗い工房のテーブルを囲んで同席している。
それは仰天の珍事であり、そして何よりも――どこか滑稽で、泣きたくなるほど優しい家族の再会のような光景だった。
僕と織は顔を見合わせ、そして固まったままの式に向けて、苦笑いと共に手招きをした。
「立ち話もなんでしょ。……こっち来て座りなよ、式。コーヒー、まだ残ってるからさ」
僕の言葉に、式は夢遊病者のようにふらふらと歩み寄り、どかりとソファに腰を下ろした。
彼女の視線は、まだ信じられないといった様子で、僕と人形を行ったり来たりしている。
伽藍の堂の時計が、チクタクと時を刻む。
奇妙な沈黙の後、式は深いため息をつき、諦めたように、しかし微かな笑みを浮かべて呟いた。
「……悪夢か、それともトウコの悪趣味な冗談か。どっちにしろ、頭が痛くなりそうだ」
そう言いながらも、彼女が差し出されたコーヒーを受け取った時、三人の間には言葉好まずとも通じ合う、温かな循環が生まれていた。
◇◇◇
僕たち三人の「シキ」が並ぶという、奇跡とも悪夢ともつかない光景は、伽藍の堂を出て帰り支度を済ませた後も続いていた。
世の中には自分にそっくりな人間が三人居る、ドッペルゲンガーに出会うと死ぬ、なんて都市伝説めいた俗説がまことしやかに囁かれているけれど、今の僕たちの状況はそれを通り越して、世界のバグか何かのように見えているに違いない。
同じ顔、同じ骨格、そして根底に流れる同じ気配を持つ三人が、夏の夕暮れを歩いているのだから。
まるで瓜二つ――いや、瓜三つの三つ子が連れ立っているかのようなその異様なヴィジュアルに、見慣れたはずの観布子の風景が、どこか映画のスクリーンの向こう側のように新鮮に、そして非現実的に映る。
すれ違う人々が、ぎょっとした顔で振り返る。二度見、三度見は当たり前。中には何か見てはいけないものを見たかのように、足早に去っていく者もいる。
無理もない。和服を纏った中性的な美少女(僕)と、同じ顔をした冷徹な美女(式)、そしてこれまた同じ顔をしたニヒルな着流しの男(織)。
この三者が並べば、そこだけ空気の密度が変わって見えるのは当然だ。視線が自然と集まるのは、単なる容姿の美醜だけではなく、僕たちが発する「同質にして異質」な引力のせいだろう。
その隊列は、僕を中央に配置することで完璧な均衡を保っていた。
右には、オリジナルの肉体を持つ両儀式。
左には、人形という仮初の器を得た両儀織。
そして真ん中に、その双方の性質を内包しつつ、どちらでもない僕、境織姫。
それはまさに、太極図の具現化だった。
陰の式と陽の織。死への衝動と生への肯定。女性性と男性性。
相反する二つの極が、僕という「境界」を挟んで並び立つ。
僕はその中心で、世界の理を調停する天秤の支点になったような、不思議な浮遊感の中で歩を進めていた。
特に会話らしい会話はない。
言葉など、この濃密な関係性の前ではノイズにしかならないと、三人が無意識に理解しているからだ。
ただ、静かな時間だけがそこにあった。
アスファルトを叩く下駄やブーツの音、遠くで鳴くヒグラシの声、車の走行音。それらがBGMとして流れる中、僕の身体には左右から確かな体温と意思が伝わってきていた。
左側からは、グイと引き寄せられる力強い感触。
織の腕が、僕の腰に回されている。
それは単なる支えではない。「こいつは俺の女だ」と、世界に向けて、そして隣の式に向けて高らかに宣言するような、明確な所有権の主張だ。
硬質な人形の腕からでも滲み出る、彼特有の荒っぽくて温かい独占欲。
人形の手であるはずなのに、そこにはかつて僕が夢見た「織」の体温が確かに宿っていて、僕はその腕に体重を預けることに、抗えない甘美な悦びを感じていた。
僕は、彼の「姫」なのだから。
そして右側からは、少し不器用で、けれど絶対的な安心感を与える温もり。
式が、僕の手を握っている。
普段なら誰かと手を繋ぐなんて柄じゃない彼女が、まるで迷子の子供を導く姉のように、あるいは壊れ物を扱うように、僕の指をしっかりと包み込んでいる。
「離れるなよ」という無言のメッセージ。
そこには、鋭利な気配はなく、ただ不器用な身内への愛情だけがある。
僕は、彼女の「もう一人の私」であり、守られるべき妹のような存在として、その手掌に導かれていた。
男の腕に抱かれながら、女の手に引かれて歩く。
織の姫として、式の半身として。
この歪で、背徳的で、けれど涙が出るほど完成されたトライアングル。
本来なら消えるはずだった人格。交わるはずのなかった時間軸。
それらが今、この観布子の夕暮れの下で、奇跡的に重なり合っている。
この時間が永遠に続けばいい。
僕は二人の「シキ」に挟まれながら、自分という存在が二つの魂によって肯定され、満たされていくのを噛み締めていた。
◇◇◇
僕たちの並びは、部屋にたどり着き、靴を脱ぎ、そしてシーツの上に身を沈めても変わらなかった。
今日は幹也先輩も鮮花も訪ねてこない、空白の一日。
だから、僕たち三人は誰に遠慮することもなく、シングルサイズの狭いベッドに身を寄せ合い、川の字ならぬ、一つの塊となって横たわっていた。
真夏の夜。
クーラーを強めに効かせているはずなのに、肌と肌が密着した中心部は、熱を帯びて少し汗ばんでいる。
僕を真ん中に、右からは式が。左からは織が。
まるで自らの半身を埋め合わせるパズルのように、左右から僕を強く抱きしめている。
右腕に感じるのは、式のしなやかで温かい肢体。
彼女は僕の胸元に顔を埋め、どこか安心したように規則正しい寝息を立て始めている。普段は決して見せない無防備な重み。
左腕に感じるのは、織の硬質でありながら不思議と温かい、人形の肢体。
彼は僕の背中に腕を回し、脚を絡め、絶対に逃がさないと言わんばかりの拘束力で、僕をその懐に閉じ込めている。
暑い。重い。息苦しい。
けれど、それがどうしようもなく心地よい。
この二重の抱擁は、僕という存在の輪郭を優しく溶かしていくようだった。
どこからが僕で、どこからが式で、どこまでが織なのか。
三つの「シキ」が混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。
男でも女でもない、陰でも陽でもない。ただ「在る」という全能感と安らぎ。
それは、母親の胎内に還ったような、あるいは根源の海に浮かんでいるような、絶対的な充足だった。
微睡みが、波のように寄せては返す。
薄れゆく意識の中で、僕は祈った。
この奇跡のような均衡が、明日も続きますように。
目が覚めても、隣に彼と彼女がいてくれますように。
そんな、当たり前で、けれど何よりも難しい「日常」を願いながら、僕は二人の熱に挟まれて、深く幸福な眠りへと落ちていった。