織が居る生活は、夢幻のように儚く消えることはなかった。
一日、二日、三日。そして一週間。
非日常は堆積することで日常へと変質する。
朝起きて、隣に彼がいる。夜眠る時、その腕に抱かれる。
それが当たり前になった頃、僕は織の気まぐれな「夜歩き」に付き合うことになった。
人形の体は疲れを知らないし、夜の静寂こそが彼の性に合っているからだ。
しばらく歩いていると、街の灯りが疎らになり、不自然なほどの静寂が辺りを包み込んだ。
見上げれば、そこには『巫条ビル』と呼ばれる、天を衝くような高層建築が聳え立っている。
廃墟同然の古さと、現代的な高さを併せ持つその塔は、まるで現世と異界を繋ぐ墓標のようだった。
そのビルの入り口付近、暗がりの中から、一匹の野良犬――いや、仔犬がトコトコと歩いてきた。
愛らしい姿だ。けれど、その足元には違和感があった。
ペタ、ペタ、と。
仔犬が歩くたびに、アスファルトの上に鮮やかな『紅い足跡』が刻まれていく。
それはペンキではない。生温かい、鉄の匂いがする液体だ。
仔犬は僕たちの横を無邪気に通り過ぎ、闇夜へと消えていく。
……僕は吸い寄せられるように、その紅々とした跡を逆に辿っていった。
ビルの真下へ。重力の終着点へ。
すると、そこには。
折れた百合のような、あるいは分厚い図鑑に挟まれた押し花のようなものが、コンクリートの上に更に紅い大輪の華を咲かせていた。
無論、それは植物の押し花などではない。
地面に叩きつけられた衝撃で全身の骨が砕け、皮膚が弾け、中身を撒き散らして平べったくなった、かつて人間だったモノだ。
顔の判別などつかない。性別すら衣服でかろうじて分かる程度。
例の連続飛び降り自殺の、新たな犠牲者であろうと僕は結論付けた。
鮮花が言っていた通りだ。
人間の中身は、意外とピンクで、艶やかで……そして、ただの肉袋に過ぎない。
僕はその惨状に恐怖よりも、奇妙な納得と虚無感を覚えていた。
――だというのに。
足元にはこんなにも重力に縛られた無残な死があるというのに、気配はそこにはなかった。
僕は、ゆっくりと空を見上げる。
――その時、夜空というキャンバスに、人らしき影が幾つも浮かび上がっていた。
彼女たちは飛んでいるのではない。
糸で吊るされた人形のように、あるいは水槽の中を漂う魚のように。
重力という理を無視して、ただそこに『浮遊』していたのだ。
白いワンピースが風に揺れ、長い髪が靡いている。
「なんだ、今日もいるじゃないか」
隣で、織がつまらなそうに、けれどどこか楽しげに呟く。
彼には最初から見えていたのだろう。
僕の腰を抱く彼の手には、何の緊張感もない。
頭上には、不吉なほどに大きく、そして美しい月。
『浮遊する幽霊の群れ』は、その紅い月に嵌め込まれたかのように、音もなく空を漂っていた。
それは、死へ誘うパレードのようであり、現世から切り離された者たちだけの、静かな舞踏会のようでもあった。
◇◇◇
僕と織が昨晩、巫条ビルの影で遭遇したのは、四人目の飛び降り自殺者だった。
翌朝。伽藍の堂の事務所に置かれたテレビから、無機質なアナウンサーの声がその事実を報じていた。
画面の向こうでは、女子高生の遺体が発見されたこと、連続自殺事件としての捜査が進められていること、そして世間の不安を煽るようなコメンテーターの言葉が垂れ流されている。
だが、ソファでコーヒーを啜る織と、いつもの定位置に居る式は、ニュースを見ているようで視ていない。
彼と彼女にとって、死は日常の隣にあるありふれた現象に過ぎない。自分たちに火の粉が降りかかり、直接的な害をなさない限り、それは「向こう側」の出来事であり、どれだけ遺体が積み上がろうとも興味の対象にはなり得ないのだ。
けれども、僕は識っている。
もう僕たちの日常に、この事件は蜘蛛の巣のように絡みつき、侵食し始めていることを。
僕は、向かいのソファに座る幹也先輩へと視線を移した。
彼はいつも通り、そこに座っている。
だが、その輪郭は酷く曖昧で、希薄だった。
まるで中身をくり抜かれた石膏像のように、あるいは糸の切れた人形のように、そこにあるのは「黒桐幹也」という形をした容れ物だけ。
心ここにあらず、という慣用句では片付けられない。魂の不在。
その瞳は僕たちを映しているようで、その実、遥か上空の何かを見つめているような虚ろさを湛えている。
――巫条霧絵。
あの『浮遊する幽霊の群れ』を統べる病める百合に、彼は意識を連れて行かれてしまったのだ。
式はまだ、その事実に気づいていない。あるいは、幹也先輩が「普通」を演じる機能だけは残しているせいで、その欠落を結びつけられずにいる。
だが、僕は「織姫」だ。人の機微や魂の在り方に敏感な僕は、この部屋に漂う致命的な違和感を見過ごせなかった。
そして、その違和感は幹也先輩だけではない。
僕の日常を構成する、もう一つの大切なピースが欠けている。
今週に入ってから、鮮花に会えていない。
僕のことが好きで、隙あらばここに入り浸り、式に悪態をつきながらも賑やかな空気を運んでくる彼女が、ぷっつりと姿を見せなくなった。
僕の日常において、彼女が居ることは当たり前の前提だ。その「当たり前」が音もなく消滅している。
胸騒ぎを覚えて、礼園女学院の寮に確認の電話を入れた。
寮監から返ってきたのは、「黒桐鮮花は体調不良で部屋で休んでいる」という事務的な返答だった。
本当に?
あの、病気らしい病気などしたことのない、エネルギーの塊のような鮮花が?
百歩譲って体調を崩したとしても、鮮花なら電話口に出て直接僕に甘えるなり、愚痴をこぼすなりするはずだ。それすら出来ないほどの重症でも、事前に必ず僕か、あるいは師である橙子さんに一報が入れるはずだ。
それが無いということは、彼女は自らの意志で連絡を絶っているか、あるいは――連絡できない状況に陥っているか。
僕は受話器を置き、デスクで煙草をふかしている橙子さんに訊ねた。
「橙子さん。鮮花、最近ここに来ましたか?」
「ん? ああ、そういえば……幹也が巫条ビルを調べに行くと言っていた時、アイツも妙に張り切って付き添っていたな」
橙子さんは紫煙を吐き出しながら、何気ないことのようにそう言った。
その一言で、散らばっていたピースが最悪の形で噛み合った。
巫条ビル。幹也先輩。そして鮮花。
幹也先輩が魂を抜かれたあの場所に、鮮花も同行していた。
そして今、二人ともが「あちら側」に囚われ、あるいは眠り続けている。
ここまで出揃えば、もう疑う余地はない。
それは状況証拠として充分過ぎる程に、致命的な「黒」だ。
あのビルに巣食う何かが、僕の大切な兄妹を飲み込んでいる。
「……行ってきます」
僕は短く告げる。
式と織が、怪訝そうにこちらを見る気配がしたけれど、今は説明している時間も惜しい。
夕暮れが迫り、空が赤黒く染まり始める頃。
僕は再び、あの禍々しい塔――巫条ビルへと向かって走り出した。
日常を取り戻すために。そして、空に囚われた二人を地上に引きずり下ろすために。
◇◇◇
黒桐幹也という青年は、僕たちのような「こちら側」に足を踏み外した異常者にとっては、かけがえのない、そして唯一無二の「普通」を貫く、ある意味での異常者なのかもしれない。
何一つ特別な力を持たず、魔術回路の一本も通っていない、ただの人間。
それにしたって、砂漠の中から落とした針を見つけ出すような、驚異的で、まるで神懸かり的とも言わんばかりの「物探し」の才能はある。けれど、それすらも魔術や超能力の類ではなく、徹底した調査と推論、そして恐ろしいほどのお人好しさが結実した、あくまで「少し他人よりも秀でた人間」の範疇に過ぎない。
彼は、万物の死を視る『直死の魔眼』を持つわけでもない。
世界を俯瞰し、二重存在として空を漂う『浮遊』の力を持つわけでもない。
事象をねじ曲げ、螺旋を描いて破壊する『歪曲』の異能を持つわけでもなければ、自身の根源を自覚し、現実に塗り替える破綻した『起源覚醒者』でもない。
本当に、混じりっけなしの、特筆すべきことのない「凡人」。
誰よりも傷つきやすく、誰よりも脆い。
けれど、だからこそ、その圧倒的なまでの「無害」と「日常」は、血と神秘に塗れた僕たちにとっての聖域となり得る。
彼がただそこに居て、コーヒーを淹れ、どうでもいい世間話をしてくれるだけで、殺意と狂気で張り詰めた僕や式、そして織の心は、泥水が濾過されるように安らぐのだ。彼は僕たちを繋ぎ止める、重しであり、港のような存在なのだから。
それを、彼女は──巫条霧絵はわかっていない。
彼女は彼を、自分をこの空虚な空から連れ出してくれる王子様か何かだと勘違いして、その手を引いてしまった。
彼を連れ去るということは、この街の「異常」の均衡を保っている要石を引き抜くことと同義だということに、気づいていない。
そして何より、彼女が犯した致命的な、あまりにも致命的な過ちは──僕の愛する人を、鮮花を連れて行こうとしていることだ。
彼女は、僕という歪な存在が、唯一「守りたい」と願い、その笑顔に焦がれる、侵してはならない領域だ。
僕の日常を彩る鮮やかな花であり、僕が織姫として在るための理由の一つでもある。
それを、彼女は奪った。
だから、鮮花を連れて行くのなら──その理由が、病室のベッドで動けず、空を飛ぶ自由だけを夢見た孤独によるものだとしても。独りぼっちが寂しくて、誰かの体温が欲しかったのだとしても。
その哀れで悲痛な心に、同情はするけれども。
僕の境界を侵し、僕の大切な日常を踏み荒らす君は、紛れもない僕の敵だ。
幽霊だろうが、二重存在だろうが関係ない。
その空から引きずり下ろし、地面に叩きつけて、僕の愛する人たちを返してもらう。
◇◇◇
伽藍の堂を出て、どれくらい経っただろうか。
事務所からだと随分遠く、地図の上でも隔離されたようなその場所に、僕は到着した。
巫条ビル。
車を降りて周辺を見回すと、そこは開発から完全に見放されたゴーストタウンの様相を呈していた。一面に広がるのは、廃れ、崩れかけた建物たちの骸。まるで昭和の時代で時間が停止したまま腐敗だけが進んだような、B級ホラー映画のセットそのものの街並みだ。
頭上には、重苦しい曇天が蓋のように垂れ込めている。
僕は身を引き締め、確かな緊張感を持って、その威容を誇る塔の内部へと侵入しようとした。
その時だった。
グシャリ。
背後で、何かが濡れた音を立てて砕ける音がした。
それは、ガラスや陶器の割れる乾いた音ではない。肉と骨が、アスファルトという現実と衝突して弾け飛ぶ、生々しい破壊音。
「────!」
心臓が早鐘を打つ。
まさか。
そんな、ことは――!
「鮮花ッ!」
喉が裂けそうなほどの悲鳴を上げ、僕は思わず不吉な想像に駆られてその物体へと駆け寄った。
アスファルトに広がる紅い華。
恐怖で視界が歪む中、僕はその中心にあるものを凝視する。
……違った。
それは見知らぬ少女の、顔が潰れて原型を留めていない遺体だった。
制服が違う。髪の長さが違う。
他人には申し訳ないが、その事実に、僕は全身の力が抜けるほどの安堵を覚えた。
まだ、間に合う。
僕は再び前を向き、ビルの中へと足を踏み入れた。
エントランスホールだったはずの場所は、一面の錆と、充満する埃と黴の匂いに支配されていた。
廃墟らしい廃墟。
確かに、生者の気配を拒み、死者や幽霊が巣食うにはこれ以上ないほど相応しい場所だ。
ガシャン、と遠くで朽ちた壁の一部が崩れ落ちる音が反響する。
まったく、歩いている途中で突然地面が崩落しなければいいけど。
そう考えて、背後の様子を確認しようと振り向いた、その刹那――。
「――ねぇ」
何の前触れも無く。
風が吹くように、その「白い女」は現れた。
色素の薄い肌、病的なまでに細い肢体、そして病院着のような白いワンピース。
「あなたも、行きましょう」
女は、儚げに微笑んだ。
一面が錆びついた赤茶色の風景から完全に隔絶した、その清廉で美しい笑み。それはまるでこの世のものではない聖性を帯びていて、知らず背筋が粟立つ。
彼女の視線が僕を貫き、脳内に直接語りかけてくるような声が響く。
飛べる、飛べる、飛べる。
昨日も飛んだから、だから今日はもっと高く飛べる。
昔から空が好きだった。
自由に、安らかに、笑うように。
何処へ――?
自由な、空へ。
強烈な誘引。思考がふわふわと白濁し、身体が軽くなる錯覚。
だが、僕は首を横に振った。
「違う……」
僕の口から、無意識に言葉が漏れる。
僕の中にある「空」は、君が見ているような夢幻の逃避場所じゃない。
空は僕だ。両儀という円環の果てにある虚無。
そして「」に至る道は、空へ飛ぶことではなく、深く深く、底へと墜ちるものだ。
僕はそれを知っている。織と共に、あの境界で識ったからこそ、此処まで来れた。
「君はこの空の果てを知らない。ただ浮かんでいるだけだ。……だから、君は飛べない」
「っ──!?」
僕の言葉に、彼女――巫条霧絵は驚いたように眼を見開いた。
巫条家。確か、古くから祈祷や呪術を専門とする退魔四家の一角だったはずだ。
だからこそ、彼女の持つ「共感覚」に近い能力が、無自覚な暗示や洗脳として作用してしまったのか。
彼女は、この巫条ビルに集まる、空を飛びたいと願う少女たちの霊魂と同調し、その「檻」である肉体を此処にいざない、物理的に
自分と同じように、意識だけで浮いている、飛んでいる彼女たちとなら、友達になれると思った。
巫条霧絵が寂しさから呼んでしまったから、彼女たちは応えて、飛んだ。
その残酷な因果を、彼女は知らないままに。
「わたし──やっと空を飛べるようになったのに、ひとりのままなんだもの」
霧絵の表情が、悲しげに歪む。
「こんなにも自由なのに、こんなにも孤独なんて、寂しいもの。だからわたしは、おともだちが欲しいの。彼女はいつもまっすぐで……いつもユメを見てる。彼もそう。ならきっと、わたしたちを連れていってくれるわ」
彼女がそう言うと、周囲の空間が歪み、七人の亡霊たちがゆらりと浮上した。
それぞれが、苦痛と歓喜の入り混じった表情で、霧絵を取り囲むように浮遊している。
「……わたし、あなたの事が気に入ったわ。貴方は空に飛べる。どこまでもユメに焦がれてる。さぁ──いっしょに来て」
女は、無垢な童女のような笑みで、白い手を差し伸べた。
それだけで、世界が反転するような浮遊感が強まっていく。
地面の引力が消え失せ、空へと吸い込まれそうになる。
「お断りだ! 僕も鮮花も、そんな逃避は望まない!」
僕は叫び、その手を拒絶した。
だが。
「そう、残念ね」
そう彼女が残念そうに呟くと、僕の身体は僕の意思に反して、カクンと前へ踏み出した。
足が、勝手に動く。
っ、しまった。
僕の身体は、単なる肉体ではなく、魔術的な器でもある。
僕と織という二つの魂を収めるために調整された、精巧すぎる殻。
精神への直接干渉は防げても、その「器」そのものに対する暗示や操作は、想像以上に効いていたというわけか。
身体の主導権を乗っ取られた。
錆びついた手すりの切れ目。
朽ちた柵の合間。
そこから一歩踏み出せば、その先は何もない虚空だ。
僕の身体は、躊躇なくその断崖へと歩みを進める。
落ちる――!
その時。
ガシッ、と。
僕の腕を、乱暴なまでに強く掴み、引き戻す手があった。
「しっかりしろ、バカ」
その声に、僕はハッと我に返った。
そこにいたのは、不機嫌そうに眉を寄せた、着たもう一人の私。
式だった。
鮮花と同じ様に、僕が迷わないように、その手を引いてくれる存在。
いつの間に来ていたのか、彼女は僕と虚空の間に割って入り、僕を現世へと繋ぎ止めていた。
「チッ、逃げたか」
式の鋭い視線の先。
巫条霧絵は、クスリと悪戯っぽく笑うと、まるで蜃気楼のように揺らぎ、そのまま掻き消えてしまった。
初めからそこには誰もいなかったかのように、後にはただ廃墟の静寂だけが残る。
「……はぁ」
とりあえず、地に足が着いている事を確認して、僕は大きく安堵の息を吐いた。
心臓がまだバクバクといっている。
助けに来てくれなければ、僕は今頃、下で紅い華を咲かせていただろう。
「まったく、何て未熟さだ……」
敵の能力を見誤り、まんまと誘い込まれ、あまつさえ身体を操られるなんて。
そんな自分の弱さに呆れ果てながら、僕は痛む腕をさすり、式と共に一度事務所に戻ることにした。
まだ終わっていない。鮮花と幹也先輩を取り戻すための戦いは、これからが本番だ。