普通ではない鮮花の普通ではない友達   作:星乃 望夢

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第三話

 

 三年生の夏休みが終わると、空気が変わる。

 

 蝉の声が遠ざかり、代わりに秋の気配と共に受験シーズンという名の重圧が、学校全体を覆い尽くし始める。

 

 進路調査票、模試の結果、三者面談。

 

 同級生たちがピリピリとした焦燥感に追われる中、わたしと織姫の周囲だけは、相変わらず凪いだ水面のように静かだった。

 

 学年首位と次席。

 

 その揺るぎない事実は、わたしたちに特権的な余裕を与えていた。

 

 天変地異でも起きて学校が崩壊しない限り、進学できないなんてことはあり得ない。

 

 わたしが選んだのは、県内でも指折りの進学校。

 

 そして当然のように、織姫も同じ高校に願書を出した。

 

 示し合わせたわけでもない。ただ、わたしが行くなら彼も行く。それが自然の理であるかのように。

 

 そして、季節が移ろう頃。

 

 生徒会の仕事もすべて後輩たちに引き継ぎ、わたしたちは一つの節目を迎えていた。

 

 放課後の教室。

 

 茜色に染まるカーテンが、秋風に揺れている。

 

 部活動の掛け声も遠く、校舎はしんと静まり返っていた。

 

 誰もいない教室で、わたしは織姫と対峙していた。

 

「――僕は、君が好きだ。鮮花」

 

 織姫は、真っ直ぐにわたしの目を見て言った。

 

 その瞳に迷いはなく、かといって押し付けがましい熱気もない。

 

 ただ、心の奥底から汲み上げた清水のような、純粋で透明な好意。

 

 わたしは息を呑んだ。

 

 いつか来るかもしれないと思っていた瞬間。けれど、来てほしくなかった瞬間。

 

 彼は知っているはずだ。

 

 わたしが誰を愛しているのか。誰のために自分を磨き、誰のために生きているのか。

 

 わたしの心臓が、黒桐幹也という存在のためにしか脈打たないことを、彼はずっと一番近くで見てきたはずだ。

 

 それなのに、彼は言った。

 

 そこにあるのは、わたしの心が揺らぐことへの期待ではない。

 

 「もしかしたら付き合えるかもしれない」なんていう、安っぽいワンチャンスに賭ける打算は一ミリたりとも存在しない。

 

 あるのは、覚悟だ。

 

 ここで伝えなければ、一生後悔するという、重く静かな決意。

 

 彼の中で積もりに積もった想いが、卒業という別れを前にして、堰を切ったのだ。

 

 わたしにとって『特別』な織姫からの、混じりけのない想い。

 

 そして、わたしの兄さんへの、狂おしいほどの執着に近い想い。

 

 天秤に掛けるまでもない。

 

 答えは、最初から決まっている。

 

 織姫もそれをわかっている。

 

 わかっていて、傷つくために彼はその言葉を口にした。

 

 なら、わたしがすべきことは一つだ。

 

 曖昧な言葉で濁したり、友達のままでようなんて甘い戯言で繋ぎ止めたりするのは、彼に対する最大の冒涜だ。

 

 わたしは、彼を殺さなければならない。

 

 彼の中に居る「わたし」という存在を、完全に終わらせなければならない。

 

「……ごめんね、織姫」

 

 声が震えないように、腹に力を込める。

 

 喉が張り裂けそうなほどの痛みを堪えて、わたしは告げた。

 

「わたしは、兄さんが好き。……だから、貴方の気持ちには応えられない」

 

 決定的な拒絶。

 

 それは、これまで築き上げてきた共犯関係への終止符だ。

 

 互いを利用し、利用されることで成り立っていた歪な均衡を、わたし自身の手で破壊する。

 

「だからもう、終わりにしましょ?」

 

 さようなら、わたしの共犯者。

 

 さようなら、わたしの避難場所。

 

 貴方はもう、自由になるべきだわ。

 

 私みたいな酷い女に縛られず、もっと普通の、貴方を愛してくれる誰かと幸せになるべきなのよ。

 

 身の裂けるような思いで、わたしは織姫との関係を清算しようとした。

 

 これでいい。これで彼は私を嫌いになる。

 

 傷つき、軽蔑し、背を向けて去っていけばいい。

 

 けれど。

 

「……っ!?」

 

 温かな衝撃が、わたしを包み込んだ。

 

 織姫は、去らなかった。

 

 罵倒もしなかった。

 

 ただ静かに一歩踏み出し、拒絶の言葉を紡いだばかりのわたしを、その細い腕の中に閉じ込めたのだ。

 

 抱きしめられた。

 

 その事実に、思考が追いつかない。

 

 突き飛ばさなきゃ。

 

 「何するの!」って叫んで、彼を否定しなきゃいけない。

 

 これ以上、彼の優しさに触れてはいけない。

 

 彼の想いに甘えてしまったら、わたしは本当に引き返せなくなる。

 

 兄さんへの想いと、彼への甘えの間で、わたし自身が壊れてしまう。

 

 なのに……。

 

 わたしの腕は、鉛のように重く、彼を拒絶することができなかった。

 

 彼の匂い。彼の体温。彼の心音。

 

 そのすべてが、あまりにも心地よすぎて。

 

 張り詰めていた糸がプツリと切れたように、わたしは彼の胸に額を預けてしまった。

 

 ダメなのに。

 

 本当に、ダメなのに……。

 

 わたしは、この期に及んでまだ、彼に許されようとしている。

 

 西日が長く影を落とす教室で、わたしはただ、彼の熱に溶かされるまま、その背中に手を回してしまっていた。

 

 なんで。

 

 どうして。

 

 そのまま何も言わずに去ってくれれば、それで綺麗に終われたのに。

 

 わたしは織姫の腕の中で、彼に向かって呪詛と怨嗟を撒き散らしていた。

 

 声は涙で震え、言葉は形を失いかけているけれど、とめどなく溢れてくる激情を止めることができない。

 

「バカ! 最低! なんで離れないのよ!」

 

 心が苦しい。

 

 まるで素手で心臓を鷲掴みにされているみたいに、痛くて、たまらない。

 

 口から飛び出す言葉は、どれもこれも心にもない嘘ばかりだ。

 

 あるいは、そのすべてが真実で、そのすべてが嘘。

 

「離して!」

 ――お願い、離さないで。この温もりを奪わないで。

 

「どっか行ってよ!」

 ――どこにも行かないで。私を一人にしないで。

 

「嫌いになって!」

 ――私のことを好きなままで居て。他の誰かのものにならないで。

 

「大っ嫌い!」

 ――大好き。誰よりも、何よりも。

 

「バカッ……!」

 ――愛してる。

 

 矛盾。混沌。二律背反。

 

 正反対の感情が、猛り狂う嵐のように私の中で渦を巻いている。

 

 わたしは兄さんが好きなはずだ。

 

 兄さんへの想いは信仰にも似た絶対のもので、誰にも侵されない聖域だったはずだ。

 

 それなのに。

 

 神様はどうして、こうも残酷な結末を用意したのだろう。

 

 手遅れになってから、自分の本当の弱さを、愚かさを、そしてどうしようもない想いを、こんな形で曝け出させるなんて。

 

 気づけば、わたしは織姫の背中に爪が食い込むほどに指を立て、彼を強く、痛いほどに抱きしめ返していた。

 

 拒絶の言葉を吐きながら、身体は彼を求めている。

 

 突き放そうとしながら、縋り付いている。

 

「あんたなんか……あんたなんか……ッ!」

 

 こんなになるまで、彼の想いに付け込んでいた自分への嫌悪。

 

 何も言わずに全てを受け入れ、わたしの心をめちゃくちゃにかき乱した彼への八つ当たり。

 

 罵倒と呪詛、愛憎と後悔がない交ぜになった叫びは、夕暮れの教室に虚しく響き、やがて彼の胸の中で嗚咽へと変わっていった。

 

 わたしは、兄さんが好き。

 

 実の妹が実の兄を異性として愛するなんて、生物学的にも倫理的にも間違っている。

 

 けれど、それがどうしたというの?

 

 そんなものは凡人たちが勝手に決めたルールに過ぎない。

 

 近親相愛。その禁忌の響きこそが甘美であり、決して超えられない壁があるからこそ、わたしは燃え上がる。

 

 普通じゃない? ええ、結構よ。わたしは最初から「特別」なものしか欲しくないのだから。

 

 そして――目の前の、この彼もまた。

 

 わたしのために。わたしを想って。わたしを愛して。わたしを好きでいて。わたしだけを包み込んで。

 

 そんな、わたしにとってのもう一つの『特別』である織姫を、手放したくなんてない。

 

 離れて欲しくない。

 

 誰のものにもなって欲しくない。

 

 織姫はわたしのもの。

 

 わたしの傍を片時も離れない、わたしの手から決して逃れられない、わたしの、わたしだけの――愛おしい人。

 

 ……客観視すれば、本当にわたしは救いようのない酷い女だ。

 

 兄さんという絶対的な太陽がありながら、織姫という月も欲しがるなんて。

 

 織姫に対して、口が裂けても「好き」や「愛してる」なんて言葉は言えないくせに、彼の背骨が軋むほどに力を込めて抱きしめている。

 

 わたしの腕という檻の中に閉じ込めて、絶対に逃がさないと言わんばかりに。

 

 何より嫌なのは、心のどこかで確信している自分だ。

 

 たとえわたしが今ここで彼を突き飛ばしても、罵倒しても、それでも織姫は傷ついた顔で笑って、わたしを包み込んでくれるのだろうと。

 

 その優しさに、甘え切っている自分が疎ましい。

 

 衝動は、理性を置き去りにした。

 

 わたしは織姫の背に回していた片手を外し、ゆっくりと彼の顔へと滑らせる。

 

 驚いたように見開かれた瞳。きめ細やかで、陶器のように白い頬。

 

 その肌に手を添えて、わたしは躊躇いなく顔を寄せた。

 

「鮮花……? んっ……」

 

 吐息が触れ合い、唇が重なる。

 

 あぁ、やってしまった。

 

 兄さんを愛しているわたしが、織姫の唇を奪ってしまった。

 

 心に決めた相手がいながら、別の男に口づけをする。

 

 それは世間一般で言えば不貞であり、裏切りだ。

 

 けれど、今のわたしの頭の中で組み上がった屁理屈は、驚くほど明快だった。

 

 ――『恋する乙女』としてのわたしは、黒桐幹也が好きなのは変わらない。

 

 ――その反面、『愛される女』としてのわたしは、境織姫が好きなのだ。

 

 能動的な愛と、受動的な愛。

 

 ベクトルが違うのだから、両立したって構わない。

 

 そうでしょう?

 

 唇を離すと、熱に浮かされたような織姫の瞳が、至近距離でわたしを映していた。

 

 その瞳に、わたしは魔女のように微笑んでみせる。

 

 覚悟しなさい、織姫。

 

 貴方はパンドラの箱を開けてしまった。

 

 この黒桐鮮花に『愛される』ということがどういうことなのか。

 

 その身をもって、骨の髄まで教えてあげるんだから。

 

 

 

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