三年生の夏休みが終わると、空気が変わる。
蝉の声が遠ざかり、代わりに秋の気配と共に受験シーズンという名の重圧が、学校全体を覆い尽くし始める。
進路調査票、模試の結果、三者面談。
同級生たちがピリピリとした焦燥感に追われる中、わたしと織姫の周囲だけは、相変わらず凪いだ水面のように静かだった。
学年首位と次席。
その揺るぎない事実は、わたしたちに特権的な余裕を与えていた。
天変地異でも起きて学校が崩壊しない限り、進学できないなんてことはあり得ない。
わたしが選んだのは、県内でも指折りの進学校。
そして当然のように、織姫も同じ高校に願書を出した。
示し合わせたわけでもない。ただ、わたしが行くなら彼も行く。それが自然の理であるかのように。
そして、季節が移ろう頃。
生徒会の仕事もすべて後輩たちに引き継ぎ、わたしたちは一つの節目を迎えていた。
放課後の教室。
茜色に染まるカーテンが、秋風に揺れている。
部活動の掛け声も遠く、校舎はしんと静まり返っていた。
誰もいない教室で、わたしは織姫と対峙していた。
「――僕は、君が好きだ。鮮花」
織姫は、真っ直ぐにわたしの目を見て言った。
その瞳に迷いはなく、かといって押し付けがましい熱気もない。
ただ、心の奥底から汲み上げた清水のような、純粋で透明な好意。
わたしは息を呑んだ。
いつか来るかもしれないと思っていた瞬間。けれど、来てほしくなかった瞬間。
彼は知っているはずだ。
わたしが誰を愛しているのか。誰のために自分を磨き、誰のために生きているのか。
わたしの心臓が、黒桐幹也という存在のためにしか脈打たないことを、彼はずっと一番近くで見てきたはずだ。
それなのに、彼は言った。
そこにあるのは、わたしの心が揺らぐことへの期待ではない。
「もしかしたら付き合えるかもしれない」なんていう、安っぽいワンチャンスに賭ける打算は一ミリたりとも存在しない。
あるのは、覚悟だ。
ここで伝えなければ、一生後悔するという、重く静かな決意。
彼の中で積もりに積もった想いが、卒業という別れを前にして、堰を切ったのだ。
わたしにとって『特別』な織姫からの、混じりけのない想い。
そして、わたしの兄さんへの、狂おしいほどの執着に近い想い。
天秤に掛けるまでもない。
答えは、最初から決まっている。
織姫もそれをわかっている。
わかっていて、傷つくために彼はその言葉を口にした。
なら、わたしがすべきことは一つだ。
曖昧な言葉で濁したり、友達のままでようなんて甘い戯言で繋ぎ止めたりするのは、彼に対する最大の冒涜だ。
わたしは、彼を殺さなければならない。
彼の中に居る「わたし」という存在を、完全に終わらせなければならない。
「……ごめんね、織姫」
声が震えないように、腹に力を込める。
喉が張り裂けそうなほどの痛みを堪えて、わたしは告げた。
「わたしは、兄さんが好き。……だから、貴方の気持ちには応えられない」
決定的な拒絶。
それは、これまで築き上げてきた共犯関係への終止符だ。
互いを利用し、利用されることで成り立っていた歪な均衡を、わたし自身の手で破壊する。
「だからもう、終わりにしましょ?」
さようなら、わたしの共犯者。
さようなら、わたしの避難場所。
貴方はもう、自由になるべきだわ。
私みたいな酷い女に縛られず、もっと普通の、貴方を愛してくれる誰かと幸せになるべきなのよ。
身の裂けるような思いで、わたしは織姫との関係を清算しようとした。
これでいい。これで彼は私を嫌いになる。
傷つき、軽蔑し、背を向けて去っていけばいい。
けれど。
「……っ!?」
温かな衝撃が、わたしを包み込んだ。
織姫は、去らなかった。
罵倒もしなかった。
ただ静かに一歩踏み出し、拒絶の言葉を紡いだばかりのわたしを、その細い腕の中に閉じ込めたのだ。
抱きしめられた。
その事実に、思考が追いつかない。
突き飛ばさなきゃ。
「何するの!」って叫んで、彼を否定しなきゃいけない。
これ以上、彼の優しさに触れてはいけない。
彼の想いに甘えてしまったら、わたしは本当に引き返せなくなる。
兄さんへの想いと、彼への甘えの間で、わたし自身が壊れてしまう。
なのに……。
わたしの腕は、鉛のように重く、彼を拒絶することができなかった。
彼の匂い。彼の体温。彼の心音。
そのすべてが、あまりにも心地よすぎて。
張り詰めていた糸がプツリと切れたように、わたしは彼の胸に額を預けてしまった。
ダメなのに。
本当に、ダメなのに……。
わたしは、この期に及んでまだ、彼に許されようとしている。
西日が長く影を落とす教室で、わたしはただ、彼の熱に溶かされるまま、その背中に手を回してしまっていた。
なんで。
どうして。
そのまま何も言わずに去ってくれれば、それで綺麗に終われたのに。
わたしは織姫の腕の中で、彼に向かって呪詛と怨嗟を撒き散らしていた。
声は涙で震え、言葉は形を失いかけているけれど、とめどなく溢れてくる激情を止めることができない。
「バカ! 最低! なんで離れないのよ!」
心が苦しい。
まるで素手で心臓を鷲掴みにされているみたいに、痛くて、たまらない。
口から飛び出す言葉は、どれもこれも心にもない嘘ばかりだ。
あるいは、そのすべてが真実で、そのすべてが嘘。
「離して!」
――お願い、離さないで。この温もりを奪わないで。
「どっか行ってよ!」
――どこにも行かないで。私を一人にしないで。
「嫌いになって!」
――私のことを好きなままで居て。他の誰かのものにならないで。
「大っ嫌い!」
――大好き。誰よりも、何よりも。
「バカッ……!」
――愛してる。
矛盾。混沌。二律背反。
正反対の感情が、猛り狂う嵐のように私の中で渦を巻いている。
わたしは兄さんが好きなはずだ。
兄さんへの想いは信仰にも似た絶対のもので、誰にも侵されない聖域だったはずだ。
それなのに。
神様はどうして、こうも残酷な結末を用意したのだろう。
手遅れになってから、自分の本当の弱さを、愚かさを、そしてどうしようもない想いを、こんな形で曝け出させるなんて。
気づけば、わたしは織姫の背中に爪が食い込むほどに指を立て、彼を強く、痛いほどに抱きしめ返していた。
拒絶の言葉を吐きながら、身体は彼を求めている。
突き放そうとしながら、縋り付いている。
「あんたなんか……あんたなんか……ッ!」
こんなになるまで、彼の想いに付け込んでいた自分への嫌悪。
何も言わずに全てを受け入れ、わたしの心をめちゃくちゃにかき乱した彼への八つ当たり。
罵倒と呪詛、愛憎と後悔がない交ぜになった叫びは、夕暮れの教室に虚しく響き、やがて彼の胸の中で嗚咽へと変わっていった。
わたしは、兄さんが好き。
実の妹が実の兄を異性として愛するなんて、生物学的にも倫理的にも間違っている。
けれど、それがどうしたというの?
そんなものは凡人たちが勝手に決めたルールに過ぎない。
近親相愛。その禁忌の響きこそが甘美であり、決して超えられない壁があるからこそ、わたしは燃え上がる。
普通じゃない? ええ、結構よ。わたしは最初から「特別」なものしか欲しくないのだから。
そして――目の前の、この彼もまた。
わたしのために。わたしを想って。わたしを愛して。わたしを好きでいて。わたしだけを包み込んで。
そんな、わたしにとってのもう一つの『特別』である織姫を、手放したくなんてない。
離れて欲しくない。
誰のものにもなって欲しくない。
織姫はわたしのもの。
わたしの傍を片時も離れない、わたしの手から決して逃れられない、わたしの、わたしだけの――愛おしい人。
……客観視すれば、本当にわたしは救いようのない酷い女だ。
兄さんという絶対的な太陽がありながら、織姫という月も欲しがるなんて。
織姫に対して、口が裂けても「好き」や「愛してる」なんて言葉は言えないくせに、彼の背骨が軋むほどに力を込めて抱きしめている。
わたしの腕という檻の中に閉じ込めて、絶対に逃がさないと言わんばかりに。
何より嫌なのは、心のどこかで確信している自分だ。
たとえわたしが今ここで彼を突き飛ばしても、罵倒しても、それでも織姫は傷ついた顔で笑って、わたしを包み込んでくれるのだろうと。
その優しさに、甘え切っている自分が疎ましい。
衝動は、理性を置き去りにした。
わたしは織姫の背に回していた片手を外し、ゆっくりと彼の顔へと滑らせる。
驚いたように見開かれた瞳。きめ細やかで、陶器のように白い頬。
その肌に手を添えて、わたしは躊躇いなく顔を寄せた。
「鮮花……? んっ……」
吐息が触れ合い、唇が重なる。
あぁ、やってしまった。
兄さんを愛しているわたしが、織姫の唇を奪ってしまった。
心に決めた相手がいながら、別の男に口づけをする。
それは世間一般で言えば不貞であり、裏切りだ。
けれど、今のわたしの頭の中で組み上がった屁理屈は、驚くほど明快だった。
――『恋する乙女』としてのわたしは、黒桐幹也が好きなのは変わらない。
――その反面、『愛される女』としてのわたしは、境織姫が好きなのだ。
能動的な愛と、受動的な愛。
ベクトルが違うのだから、両立したって構わない。
そうでしょう?
唇を離すと、熱に浮かされたような織姫の瞳が、至近距離でわたしを映していた。
その瞳に、わたしは魔女のように微笑んでみせる。
覚悟しなさい、織姫。
貴方はパンドラの箱を開けてしまった。
この黒桐鮮花に『愛される』ということがどういうことなのか。
その身をもって、骨の髄まで教えてあげるんだから。