あの放課後――私たちの関係が不可逆的に変質してしまったあの日から、表向きの世界は何も変わっていないかのように回っている。
相も変わらず、織姫は静かな影のようにわたしの傍らに控えているし、わたしもまた、それが世界の理であるかのように当然の顔をして振る舞っている。
教室での会話も、私生活での態度も、今まで通り。
けれど、何かが決定的に違う。
ふとした瞬間に肩が触れ合う距離感。
教科書を覗き込む時に、あえて彼のパーソナルスペースへと深く踏み込む行為。
あるいは、彼の襟元や髪の乱れを直す、ほんの数秒の接触。
わたしはそれらを、「隠す」のではなく「見せつける」ように行っていた。
言葉にする必要はない。周囲の空気を読むことに長けた女子たちは、その微細な変化を敏感に察知してくれる。
――『ここは私の領土よ。立ち入り禁止』
そんな無言の警告を、彼女たちは正確に受信したようだ。お陰で、織姫の下駄箱や机にラブレターが舞い込むことはめっきり無くなった。
賢い女子は、勝ち目のない戦場には足を踏み入れないものだ。その察しの良さには感謝すら覚える。
一方で、その辺りの機微を測り知れない男子たちは、どうしてこうも愚かなのかしらね。
卒業を目前に控えて、まるで駆け込み寺にでも駆け込むかのように、わたしへの告白が増え始めたのだ。
玉砕覚悟の特攻精神なのか、それとも最後のチャンスに賭ける一発逆転狙いなのか。
がっつくように女に迫ったところで、袖にされるのがオチだと何故学習しないのか。
その理由を、呆れるわたしに織姫が淡々と解説してくれた。
「……焦りがあるんだよ、彼らには」
織姫は読みかけの本を閉じ、窓の外でボールを追いかける男子たちを冷めた目で見下ろしながら言った。
「中学生も終わりになると、自分がまだ『女を知らない』という事実が、ひどく恥ずかしい欠陥のように思えてくるんだ。だからこの時期になると、最後の思い出作りというか、実績解除のために手当たり次第総当たりに近くなる心理が働く」
「実績解除?」
「そう。高校という新しい環境に行った時、『俺は中学時代に女と付き合っていた』という事実は、男子のヒエラルキーにおいて分かりやすい武器になる。彼らにとって彼女を作ることは、恋愛感情の成就というより、新しい環境で使えるアイデンティティの獲得に近いんだよ」
なるほど、と言いたくなるほど理路整然とした分析だった。
あぁ、その辺は女子とあまり変わらないのね、とわたしは思う。
いや、女子の方が「白馬の王子様」だとか「初めては本当に好きな人と」といったロマンチシズムを抱いている分、貞操へのハードルはずっと高い。
それでも、彼氏がいるかいないかでマウントを取り合う文化があるのは否定できないけれど。
けれど、やっぱり男子の方がどこかバカで、愚かな子供に見えてしまう。
結局のところ、彼らにとって女子との付き合いは、自分を飾り立てるためのアクセサリーであり、男としての格を上げるための踏み台でしかないんでしょ?
そんな浅ましい下心が見え透いているから、わたしは彼らを拒絶するのだ。
「中学生男子なんて、そういう生き物だから仕方ないね」
そう言って苦笑する織姫。
自分も同じ中学生男子だというのに、どうしてこうも彼らを俯瞰して見られるのか。
その精神的な成熟度が、彼を「稀少種」たらしめている。
本当に、こんな稀有な存在を我が物にできているわたしは幸運だわ。
他の女子たちは、あの猿のように騒がしく、自分のことしか考えていない男子たちの相手をしなきゃならないなんて、心底お気の毒様としか言いようがない。
わたしは席を立つと、当然のように織姫に視線を送る。
彼もまた、阿吽の呼吸で鞄を手に取り立ち上がる。
子供じみた恋愛ごっこに興じる彼らを尻目に、わたしは織姫とお先に失礼させてもらうわ。
だって私たちには、彼らには一生理解できないであろう、もっと深く、歪で、甘美な関係があるのだから。
そこまで冷徹に、同年代の男子を客観視できる彼に対して。
わたしは他愛ない悪戯心から、ほんの少し意地悪な問いを投げかけてみた。
「――なら、織姫はどうなのよ?」
「え……? 僕、……?」
不意打ちを食らったのか、織姫はきょとんとして瞬きを繰り返す。
さっきまでの学者然とした冷静な分析はどこへやら。わたしの問いに含まれた意図――「貴方もその中学生男子の一人でしょう? 貴方のアイデンティティはどうなの?」という含み――に遅れて気づいたのだろう。
みるみるうちに、そのきめ細やかな白い頬が朱に染まっていく。
耳の先まで熟した果実のように赤くさせ、彼は居心地が悪そうに視線を彷徨わせ、やがて俯いてしまった。
それは、言葉にするよりも雄弁な、羞恥心に溢れた告白だった。
「僕は、その……あ、鮮花、と、その……そういうのは……」
蚊の鳴くような声。
ステータスだとか、序列だとか、そんな打算的な思考は彼の中には微塵もない。
あるのはただ、わたしという存在への純粋すぎる執着と、それに伴う生々しい記憶への照れだけ。
……あぁ、可愛い。
ここが学校の昇降口でなく、人目という足枷さえなければ、今すぐその細い身体を抱きしめて、甘い声を上げさせて啼かせているところだったわ。
本当に織姫は、生まれてくる性別を間違えたんじゃないかしら。
外見の美しさだけじゃない。その心根の在り方、純真で一途なところなんて、そこらの女子よりもよっぽど乙女チックだもの。
そうよね。
貴方の『はじめて』を奪ったのは、このわたし。
貴方が知っている『女』は、世界でわたしだけ。
他の有象無象の男子みたいに、勲章として経験を語るのではなく、ただひたすらにわたしとの秘め事を大切に抱え込んでくれている。
その事実は、わたしの嗜虐心と独占欲をこれ以上なく満たしてくれる。
フフ、でも良いわ。そんな可愛い貴方にはご褒美が必要ね。
わたしは彼の耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえない声量で囁く。
「……そういえば今日、叔父さんは帰って来ないのよ」
ピクリ、と織姫の肩が跳ねる。
そこまで言えば察せられない彼じゃない。
俯いていた顔を上げ、潤んだ瞳でわたしを見つめ返してくる。その瞳には、不安と、期待と、隠しきれない熱が揺らめいている。
彼は無言のまま、覚悟を決めたように小さく、コクリと頷いた。
よろしい。
わたしは満足げに微笑むと、強引に彼の手を引いて歩き出す。
西日が差し込む放課後の帰り道。繋いだ掌から伝わる彼の体温が高くなっているのを心地よく感じながら、わたしは夜への期待に胸を膨らませる。
覚悟なさい。
今日もたっぷりと、骨の髄までとろけるほどに、貴方を愛してあげるわ、織姫。
◇◇◇
兄さんが、大学を辞めた。
その報せは、晴天の霹靂と言うにはあまりにも唐突で、そして重苦しいものだった。
両親との激しい口論の末、絶縁に近い形で家を飛び出し、大学を中退して就職する道を選んだという。
あれほど思慮深く、誰よりも穏やかだった兄さんが、なぜ。
私は居ても立ってもいられず、両親を問い詰めて、ようやくその理由を聞き出した。
原因は、あの女――両儀式だった。
彼女が交通事故に遭い、意識不明の昏睡状態に陥ったというのだ。
兄さんは、いつ目覚めるとも知れない彼女の傍に寄り添い続けるために、自分の将来を、学歴を、人生のレールを自ら脱線させたのだ。
それを聞いた瞬間、私の心に去来したのは、純粋な同情ではなかった。
もちろん、事故そのものは気の毒だとは思う。昏睡状態という悲劇に対して、人並みの憐憫の情はある。
けれど、それ以上に――正直に告白してしまえば、胸の奥底で安堵の溜息が漏れたのを否定できなかった。
あの泥棒猫が、物理的に兄さんの日常から隔離された。
動くことも、喋ることも、その魔性で兄さんを惑わすこともできない「眠り姫」になったことで、少なくとも今すぐに兄さんが完全に奪われる最悪の事態は回避されたのだ。
不謹慎極まりない思考だと分かっていても、私の本能はそれを「好機」と捉えてしまった。
一応、あの女と面識のある織姫にも、その事実を伝えることにした。
放課後の教室、いつもの窓際の席で、私は努めて淡々とそのニュースを口にした。
「……そう」
織姫の反応は、予想以上に重いものだった。
彼は読んでいた本を取り落としそうになり、視線を宙に彷徨わせたまま、魂が抜けたように呟いた。
その横顔は、まるで自分の半身をもぎ取られたかのように蒼白で、大切な何かを永遠に喪失してしまったような深い喪失感を湛えていた。
その日は一日中、彼は上の空で、いつもの知的な輝きは影を潜め、抜け殻のようになってしまっていた。
その姿を見て、私は内心で激しく苛立った。
心穏やかになど、いられるはずがなかった。
たった一度だ。
彼があの女――両儀式と会ったのは、あの正月のあの一瞬だけのはずだ。
それなのに、なぜそこまで心を痛めるの?
なぜ、私以外の女のために、そこまで深く心を砕くの?
織姫と同じ顔。同じ声。そして、同じ「シキ」という名前。
ドッペルゲンガーだか何だか知らないけれど、あの二人の間に流れる、私には理解できない不可視の共鳴のようなものが、どうしようもなく癪に障る。
一体なんなのよ、本当に。
昏睡してなお、あの女は私の大切な人たちの心をかき乱すというの?
けれど。
ここで彼を問い詰めたり、嫉妬を露わにして当たり散らすような真似はしなかった。
弱っている相手に追い打ちをかけたり、その隙に付け込んで自分の方を向かせようだなんて、そんな安っぽい女にだけはなりたくないというプライドが私を踏みとどまらせた。
だから私は、敢えて何も気づいていないふりをして、いつも通りに振る舞った。
彼の沈黙を咎めず、かといって過剰に慰めることもなく、ただ普段通りの「黒桐鮮花」として彼の隣に在り続けた。
その甲斐あってか、あるいは彼の中で何らかの整理がついたのか。
次の日には、織姫はいつもの彼に戻っていた。
少しだけ憂いを帯びた瞳は、けれどもしっかりと「今」を見据え、私の隣に戻ってきてくれた。
それでいい。
今はまだ、多くを望まない。
兄さんは遠くに行ってしまったけれど、織姫はここにいる。
私は取り戻した日常に満足しながら、彼と共に穏やかな高校生活のページを捲っていくことにした。
◇◇◇
鮮花から告げられたニュース。
それは、世界にとってはありふれた悲劇の一つに過ぎないのかもしれない。けれど僕にとっては、世界の一部が欠落したに等しい、決定的な喪失の宣告だった。
――両儀式が、事故で昏睡状態に陥った。
その言葉の裏にある真実を、僕は痛いほどに理解できてしまった。
彼女が生きているのに目覚めないということは、彼女の中で誰かが犠牲になったということだ。
両儀織が、死んだ。
あの日、こたつで向かい合い、みかんを放り投げながらニヤリと笑った彼。
僕と同じ顔を持ちながら、僕にはない野性味と、どこか危うい色気を纏っていた彼。
ほんの数十分。言葉を交わしたのは、さらに短い時間。
それでも、彼は僕の人生において、初めて心を許せた「男友達」だった。
鏡合わせの存在。
互いに欠落を抱え、互いに「シキ」という運命を背負った同類。
だからこそ、言葉を尽くさずとも通じ合える何かがあった。
もしも違う形で出会えていたら。もしも、もっと時間があったなら。
僕たちは、かけがえのない親友になれたかもしれない。
わかっていたことだ。
いつか彼が消える運命にあることは、物語の結末として知っていたはずだ。
けれど、いざその現実を突きつけられると、予備知識など何の役にも立たない。
胸の奥が、ごっそりと削り取られたように冷たい。
喪失感が、黒いインクのように心臓に滲んでいく。
もう二度と、あの不敵な笑みを見ることはできない。
もう二度と、「よう、元気か」なんて気安い声を掛けられることもない。
僕は放課後の喧騒から切り離されたように、一人静寂の中に沈んでいく。
鮮花が何かを言っているけれど、水底に居るように音が歪んで聞こえない。
ごめん、鮮花。今だけは、君のために笑えない。
今だけは、僕の心を彼に捧げさせてほしい。
僕は窓の外、茜色に染まる空を見上げ、音もなく唇を動かした。
――さようなら、織。
たったひと時でも、僕と友達でいてくれてありがとう。