久しぶりに再会した妹・鮮花は、僕の記憶にある姿よりもずっと大人びていて、そして遥かに殺気立っていた。
玄関を開けるなり、挨拶もそこそこに彼女は僕の胸倉を掴まんばかりの勢いで詰め寄ってきた。その剣幕に気圧され、僕はただただ圧倒されるばかりだった。
「兄さん、知ってるんでしょ!? あの女――両儀式のこと!」
彼女の口から語られたのは、信じがたい事実だった。
鮮花の友人であり、僕も一度だけ会ったことのあるあの少年――境織姫くんが、一ヶ月もの間、原因不明の昏睡状態に陥っているという。
そして鮮花は、その原因が間違いなく「両儀式」にあると確信していた。
彼女の主張は、感情的ではあるものの、無視できない奇妙な符合に満ちていた。
式が事故に遭い昏睡状態になった直後、まるで後を追うように織姫くんも眠りに就いたこと。
二人が同じ「シキ」という名前を持ち、容姿も声も瓜二つであること。
そして、あの正月に一度だけ二人が接触していること。
「絶対に関係しているはずよ! あの女が、わたしの織姫を連れて行こうとしてるのよ!」
鮮花の悲痛な叫びを聞きながら、僕は直感した。
これは、僕のような一般人がどうこうできる領分の話ではない、と。
だから僕は、彼女を連れて『伽藍の堂』を訪れることにした。
この手の不可解な現象に詳しく、魔術師という裏の顔を持つ蒼崎橙子さんなら、何か知恵を貸してくれるかもしれないと思ったからだ。
「――ほう、鮮花じゃないか。久しぶりだな」
意外だったのは、橙子さんと鮮花に面識があったことだ。
世間は狭いと言うべきか、奇妙な縁と言うべきか。
橙子さんは紫煙をくゆらせながら、鮮花の話を一通り聞き終えると、面白そうに、しかし鋭い眼光で呟いた。
「境織姫、か。……なるほど、面白いことになっているな」
「面白いなんて他人事みたいに言わないでください! 織姫は死にかけてるんです!」
食って掛かる鮮花を片手で制し、橙子さんは静かに語り始めた。
「落ち着け。死にかけているのではない、彷徨っているのだよ」
橙子さんの説明によれば、事態は僕が想像していたよりも遥かに魔術的で、因果律に縛られたものだった。
「コクトー、お前は赤の他人の空似でそこまで関係があるのかと疑問に思っただろう? だがな、魔術の世界において『類似』はそれだけで強力なパスになる」
一度結ばれた縁。
両儀と境という、境界を示す名字。
式と織姫という、対にも似た名前。
そして、魂の器としての性質の近似。
「それだけ条件が揃えば充分すぎるほどだ。二人は共鳴している。あるいは、魂の形そのものが似通っているが故に、片方が落ちればもう片方も引力に引かれるように落ちていく」
橙子さんは言葉を選びながら、魔術の深淵には触れないように、しかし事態の核心だけを提示してくれた。
魔術は秘匿されるべきものらしい。その鉄則を守りながらも、彼女は僕たちにヒントを与えようとしてくれている。
「一度顔見知りで、そして二人揃って昏睡状態。そこには決して無視できない太い因果の糸が既に結ばれている。……彼が『友達を探している』と言ったのなら、その友達というのは現世にはいない存在だろう」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏にある記憶が蘇った。
あの日。あの正月のこたつ。
僕と鮮花が席を外している間、織姫くんと二人きりで話していたのは、式ではなかった。
あの時、表に出ていたのは、式の中に存在するもう一つの人格――『織』の方だったはずだ。
式が昏睡状態にあるということは、彼女の中で何かが起きている。
もしも、その過程で『織』に何かあったのだとしたら?
あるいは、深い眠りの底に沈んでしまったのだとしたら?
「……まさか」
僕は思わず声を漏らした。
織姫くんが探している「友達」。
彼がそこまで憔悴し、命を削ってまで追い求めている存在。
それは、両儀式ではなく、彼女の中にいる『両儀織』のことなんじゃないだろうか。
僕の推測を聞いた橙子さんは、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「いい勘をしているな、コクトー。……そうだとしたら、事態はより複雑で、そして切実だ。彼は今、友の魂を探して迷子になっているのかもしれん」
鮮花が息を呑む気配がした。
僕たちの知らない場所で、織姫くんはたった一人、友を救うために暗闇の中を彷徨っている。
その孤独な戦いを思うと、僕は胸が締め付けられるような思いがした。
◇◇◇
橙子さんの事務所で、僕は調査結果をまとめたレポートを提出した。
この調査は、彼女からの直接の依頼だった。
「織姫のことなら何でも知ってるわよ!」と自信満々に胸を張る鮮花を、「お前の情報は主観が強すぎてノイズになる」と一蹴し、僕に白羽の矢が立ったのだ。
「コクトー、お前には余計な前情報を与えずに、フラットな視点で彼を調べてほしい。私情を挟まない、客観的な事実だけの報告書が必要なんだ」
確かに僕は、境織姫という少年について、「鮮花の友達」であること以外、何も知らなかった。
だからこそ、先入観なしに彼の足跡を辿ることができたと思う。
調査を進める中で見えてきたのは、彼が背負ってきた痛ましい過去だった。
小学生の頃、彼は傷害事件を起こしていた。
文字面だけを見れば「加害者」だが、その実態は壮絶なイジメに対する防衛本能の爆発だった。
彼は被害者だったのだ。社会的な理不尽と、子供特有の無邪気な残酷さに追い詰められ、臨界点を超えてしまった悲劇。
事件の後、彼は逃げるように田舎の祖父母の家に預けられ、そこで鮮花と出会った。
他人を拒絶し、殻に閉じ籠もる当時の彼の姿は、僕の知る両儀式と怖いくらいに重なる。
人間嫌いで、孤独を愛し、鋭い刃物のような危うさを秘めた少年。
そんな彼の頑なな心を、力技と根気でこじ開けたのが鮮花だったという事実は、兄として少し誇らしくもあり、同時に彼女の執念深さに苦笑せざるを得ない。
そして運命の歯車が噛み合ったのが、中学に上がった年の瀬。
織姫くんは、式――正確には彼女の中にいる『織』と出会った。
あの時、僕と鮮花が席を外していた短い時間、二人は何を話していたのだろう。
それは今となっては誰にも分からない。
けれど、式が交通事故に遭って昏睡状態に陥った直後、まるで後を追うように彼もまた眠りについたという事実は、二人の間に交わされた何かが、僕たちの想像を絶するほど深いものであったことを示唆している。
さらに調査を進める中で、僕は一つの決定的な事実に辿り着いた。
境家と両儀家。
全く無関係だと思われていた二つの家系図を遡ると、古い時代に枝分かれした血縁関係があることが判明したのだ。
報告書を読み進める橙子さんの眉間には、深い皺が刻まれていた。
紫煙を吐き出し、彼女は重々しく口を開いた。
「……なるほど、両儀の血筋か」
彼女はレポートを机に放り出すと、天井を仰いだ。
「とすれば、最早これは他人の空似なんていう陳腐な言葉で片付けられない関係なんだよ、コクトー。境織姫は両儀式と鏡合わせでありながら、その本質において根を同じくする、いわば一蓮托生のような存在だ」
橙子さんは指先でトントンと机を叩く。
「織姫が出会ったのは、式の中に居る『織』だと言ったな? おそらく境織姫は感じてしまったんだ。同じ『織』の名を持ち、同じ血の因果を持つ者として、無意識レベルでの共鳴が起きた。だからこそ、彼は分かってしまったのだろう」
「分かってしまった、とは?」
「両儀式が眠り続けている理由の一端に、両儀織が関係しているということさ。そして今、境織姫はその両儀織を探して、自らも深い眠りの底へと落ちている」
やはり、僕の推測は当たっていたのか。
織姫くんは、織を探して彷徨っている。
「……じゃあ、二人はいつ目覚めるんですか?」
僕の問いに、橙子さんは首を振った。
「それが分かれば苦労はない。この二人の魂が落ちている場所は、この世ならざる領域……『根源』に近い場所だろう。そこは我々魔術師が一生をかけて到達しようと躍起になっている到達点であり、同時に生者がおいそれと踏み込んでいい場所ではない。私でもお手上げだ」
お手上げ。
あの万能に見える橙子さんから出た弱音に、僕は言葉を失った。
「出来ることはただ一つ。彼らが自力で帰還するのを、祈って待つだけだ」
「そんな……何もしてあげられないんですか?」
「手出しができない、と言っているんだ。下手に外部から干渉すれば、彼らの魂は二度と戻ってこられなくなるかもしれん。……まあ、その境織姫が他の有象無象の魔術師にちょっかいを掛けられないよう、私の目の届く範囲に置いて保護してやることくらいは出来るがね」
「ただ眠っているだけなのに、ですか?」
不思議に思って訊ねると、橙子さんは奥の瞳を鋭く光らせた。
「ただ眠っているだけだからだよ、コクトー。彼らが今、根源に接続している状態にあるということが知れ渡れば、世界中の魔術師が血眼になって彼らを手に入れようとするだろう。今の状態の二人に接触できれば、そうさな……この宇宙のすべてが手に入ると言っても過言ではない」
「宇宙のすべて……?」
「ああ。我々魔術師の感覚を、一般人に分かりやすく噛み砕けば、それだけの価値があるということさ。全知全能へのパスポートが無防備に転がっているようなものだからな」
ただ静かに眠っているだけの式と織姫くん。
その二人が、宇宙に匹敵する価値を持つと言われても、正直なところ僕にはピンとこなかった。
けれど、普段は飄々としている橙子さんが、これほど真剣な眼差しで語るのだ。
その言葉が嘘や冗談ではないことだけは、痛いほど伝わってきた。
僕たちは今、とてつもなく危うい均衡の上に立っているのかもしれない。
眠り姫と、彼女を追った少年。
二人の魂の行方は、神のみぞ知る領域にあるのだとしても。
せめて
◇◇◇
僕の生活は、あの日を境に少しだけ、けれど確実にその色を変えた。
それは目に見える劇的な変化ではない。
朝起きて、仕事をして、病院へ向かう。
そのルーチン自体は何一つ変わってはいない。
けれど、その内側に流れる感情の質が変わったのだ。
これまでは、ただ漠然と「目覚め」を待っていた。
いつか彼女が瞼を開け、不機嫌そうに僕を見る日が来ると信じて、時間の流れに身を委ねていただけだった。
だが今は違う。
そこに、「無事に」という切実な祈りが加わった。
橙子さんの警告は、僕たちの日常の薄皮一枚下に、底知れぬ闇が広がっていることを教えてくれた。
何者かに狙われるかもしれない恐怖。
眠り続けている彼らの魂が、永遠に失われてしまうかもしれない不安。
僕はお見舞いに行くたび、静謐な寝顔を見下ろしながら、神様なんていう不確かな存在にさえ縋るように祈るようになった。
どうか、彼らが迷わずに帰って来られますように、と。
変化といえば、織姫くんの環境も変わった。
橙子さんの根回しによって、彼の身柄は田舎の病院から、式が眠るこの観布子の病院へと移送されたのだ。
警備上の理由と、万が一の事態に橙子さんが即座に対応できるようにするためだという。
奇しくも、同じ「シキ」という名を持つ二人は、同じ病院の、同じような白い部屋で、終わらない夢を見続けることになった。
そして、病院へと向かう僕の隣に、もう一人の人影が増えた。
「行くわよ、兄さん。今日は私が織姫の世話をする番だから」
鮮花だ。
彼女は、驚くべき行動力で人生の舵を大きく切ってみせた。
なんと、あの蒼崎橙子さんに弟子入りを志願し、魔術という神秘の世界に足を踏み入れたのだ。
「止めても無駄よ。織姫を連れ戻すには、これしかないんだから」
頑として譲らない彼女の瞳には、燃えるような決意が宿っていた。
兄としては、そんな怪しく危険な世界に可愛い妹が関わることには反対したい。普通の幸せな青春を送ってほしいと願うのが本音だ。
けれど、織姫くんを救いたいという一心で、自らの人生さえもチップとして賭ける彼女の覚悟を、ただの兄心でへし折ることなど僕にはできなかった。
鮮花はこちらでの生活基盤を確保するため、全寮制の名門・礼園女学院へと転校した。
以前の進学校と比べても遜色のない教育水準と、何より全寮制であるため、実家から離れても生活に困らないという合理的な理由で選んだらしい。
制服に袖を通した彼女は、
「ま、あくまで仮宿よ。織姫が目を覚ましたら、また二人で相談してこれからのこと考えるわ」
と、まるで遠足から帰ってきた後の予定を話すように、彼との未来を疑わずに笑っていた。
そんな風に、慌ただしくも緩やかに、時は砂のように零れ落ちていく。
変わらない白い病室。
変わってしまった日常。
そして、変わろうとする少女と、変わらず待ち続ける少年。
季節は巡り、木々が色づき、やがて葉を落とす。
気づけば、式が深い眠りに就いてから、二年という歳月が過ぎ去ろうとしていた。