普通ではない鮮花の普通ではない友達   作:星乃 望夢

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第七話

 

 暗い。

 

 昏い。

 

 冥い。

 

 そこは、光が届かないという物理的な闇ではない。「闇」という概念すらも存在を許されない、絶対的な虚無の淵だった。

 

 上も下もなく、時間も空間も意味をなさず、ただただ「無」が無限に広がっている。

 

 すべての境界が曖昧になり、溶け合い、意味を失って解けていく世界。

 

 自我という輪郭さえも、気を抜けば瞬く間に拡散し、この巨大な虚無の一部として還元されてしまいそうになる。

 

 そんな世界で、僕は必死に一つの確かな感触にしがみついていた。

 

「……離さない」

 

 掌から伝わる熱だけが、ここが夢でも幻でもないことを証明している。

 

 僕は、織の手を掴んでいた。

 

 彼もまた、僕の手を強く握り返している。

 

 ここでは、言葉は音として響かない。思考がそのまま形となり、互いの意識に直接流れ込んでくる。

 

 僕たちは互いを認識し、観測し合うことで、辛うじて「個」としての意味を保ち続けていた。

 

 僕が彼を「織」と呼び、彼が僕を「織姫」と呼ぶ。

 

 その相互観測だけが、この無色の海で溺れずに済む唯一の浮き輪だった。

 

『……お前、ほんっとバカなヤツだな』

 

 織の呆れたような思念が、苦笑いと共に伝わってくる。

 

 自らの命を危険に晒し、現世での生活を投げ打ってまで、死にゆく彼を追いかけてきた僕への、率直な評価。

 

『知らないよ。そんなの』

 

 僕は彼の自嘲を、頑として否定する。

 

『影だろうが、なんだろうが関係ない。僕にとっては、君は唯一の「男友達」なんだ』

 

 たった一度の出会い。みかんを分け合っただけの短い時間。

 

 それでも、魂の深淵で僕たちは繋がっていた。

 

 僕も「織」の名を持ち、彼も「織」の名を持つ。

 

 二人の「シキ」。二つの「織」。

 

 鏡合わせでありながら、根源を同じくする魂の双子。

 

 だからこそ、僕たちは互いを補完し合い、こうして同じ存在として、この極限の領域で形を保っていられるのだから。

 

『……変わったヤツ』

 

 織の手の力が、少しだけ強くなる。

 

『だがまあ、悪くない。最期まで付き合ってやるよ、相棒』

 

 ニヤリと笑う彼の気配を感じながら、僕は改めてその手を握り締めた。

 

 どこへ流されるのか、いつ目覚めるのか、あるいはこのまま消えるのかも分からない。

 

 けれど、この手が繋がれている限り、僕たちは独りじゃない。

 

 無限の虚無の中で、僕たちは確かな「個」として、そこに在り続けた。

 

 

◇◇◇

 

 

 互いに溶け合い、交わり、境界が曖昧になっていく感覚。

 

 そこは精神の深淵であり、魂の揺籃でもあった。

 

 僕も「織」の名を持ち、彼も「織」の名を持つ。

 

 二つの魂は、共に「陽」の属性を帯びている。

 

 本来ならば反発し合うはずの同極の魂が、ここでは奇妙な引力で惹かれ合い、一つの円環を描こうとしていた。

 

 織が僕を抱きしめる。

 

 物理的な腕の感触はないけれど、魂を直接撫でられるような熱く、甘やかな痺れが全身を駆け巡る。

 

『……お前、変わる気か?』

 

 織の思念が、僕の内側に直接響く。

 

 彼の言葉には、驚きと、そして僅かな躊躇いが滲んでいた。

 

『そうしなきゃ、戻れないでしょ?』

 

 僕は答える。

 

 そう、このままではいけないのだ。

 

 二つの「陽」がそのまま一つの器に戻れば、肉体は負荷に耐えきれずに崩壊するか、あるいは精神が摩耗して双方が消滅してしまう。

 

 かつて彼が、「陰」である式と身体を共有し、彼女を支える「陽」として存在していたように。

 

 バランスを取るためには、対となる極が必要なのだ。

 

 僕という身体。「織姫」という名。

 

 その器に、僕と彼という二つの魂を矛盾なく収めるための最適解。

 

 ――織は、織のままでいい。

 

 ――僕が、「姫」になればいい。

 

 僕が陰となり、彼を受け入れる器となれば、僕と織は「織姫」という一つの完成された存在として、あの身体に戻ることができる。

 

 男とか女とか、そんな生物学的な性別なんて、魂の在り方の前では些細な記号に過ぎない。

 

『ハッ……とんだお姫様だ』

 

 織が笑う。その笑いには、呆れと共に、深い愛着と共犯者のような熱が宿っていた。

 

『いいぜ。お前がそれを望むなら、俺がお前を殺してやる』

 

 殺す、という言葉は、ここでは「変質させる」という愛の行為と同義だ。

 

 僕の「陽」としての自我を削ぎ落とし、彼を受け入れるための「陰」へと染め上げていく。

 

 それは緩やかな死であり、同時に新生への儀式でもあった。

 

 熱い。

 

 彼に触れられるたびに、僕の魂が書き換えられていく。

 

 男としての僕が死に、彼のための僕が生まれる。

 

 何度も、何度も。

 

 終わりなき虚無の中で、僕は彼に抱かれ、彼に貫かれ、彼に殺され続けた。

 

 痛みと快楽がない交ぜになった奔流の中で、僕は自らの魂が形を変え、彼と完全に噛み合うパズルのピースへと変貌していくのを感じていた。

 

 ――あぁ、これが「織姫」になるということなのか。

 

 薄れゆく意識の端で、僕は恍惚とした安らぎを感じていた。

 

 僕は織の姫となり、織は僕の一部となる。

 

 そうして僕たちは、二人で一つの「完全な僕」へと還っていくのだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 あの年の瀬。

 

 こたつで向かい合い、ただミカンを分け合っただけの、ほんの数十分の邂逅。

 

 交わした言葉など、片手で数えるほどしかない。

 

 それなのに、コイツは俺を追ってきた。

 

 本来ならば式の代わりに消滅し、無へと還るはずだった俺という「死」を肯定するために、生きたままこの虚無の海へと飛び込んで来やがった。

 

 ――バカな野郎だ。

 

 本当に、救いようのない大バカ野郎だ。

 

 この「境織姫」という存在は、俺とおなじ「織」の名を持ちながら、その根底にある生き汚さも、執着の強さも、俺なんかより余程タチが悪い。

 

 俺は「否定」を担当する人格だ。誰かを殺すこと、あるいは自分が消えることに対して、忌避感なんて持ち合わせちゃいない。

 

 だが、コイツは違う。

 

 俺を生かすために、自分という在り方すらねじ曲げようとしている。

 

『……ハッ、震えてんのか?』

 

 腕の中に閉じ込めた魂が、小刻みに明滅しているのが伝わってくる。

 

 怖いのだろう。当たり前だ。

 

 俺たちは今、魂の輪郭を溶かし合い、再構築しようとしている。

 

 俺とコイツは、共に「陽」の属性を持つ男同士の魂だ。そのままでは混ざり合わない。反発し、摩耗し、やがて共倒れになる。

 

 だからコイツは、自ら「陰」へと堕ちることを選んだ。

 

 俺を受け入れる器となるために。俺という異物を内包できる「姫」となるために。

 

 それは、境織姫という「男」の死だ。

 

 コイツが積み上げてきたアイデンティティを、俺が犯し、食らい尽くし、別のナニカへと変貌させる陵辱に他ならない。

 

『織……、織……ッ』

 

 直接脳髄に響くような、切羽詰まった思念。

 

 縋るように俺の名を呼ぶその響きが、たまらなく愛おしくて、同時にどうしようもない加虐心を煽る。

 

 俺は、両儀式という全体においては「影」でしかなかった。

 

 いつか消えゆく余剰。式のスペア。殺人の衝動を引き受けるだけの負の遺産。

 

 誰も俺自身を見てはいなかったし、俺もそれを望んではいなかった。

 

 だが、コイツだけは違った。

 

 式でもなく、他の誰でもなく。ただ「両儀織」という個を求めて、ここまで堕ちてきた。

 

 世界でたった一人。

 

 俺という存在を「必要だ」と叫んだ、物好きで、愚かで、最高に愛しい共犯者。

 

 ――ああ、いいぜ。望み通りにしてやるよ。

 

『あっ……』

 

 俺はコイツの魂を深く抱きしめる。

 

 物理的な肉体はない。だが、魂が触れ合う感触は、肉欲よりも遥かに濃密で、鮮烈だ。

 

 俺の「陽」を、コイツの芯へと流し込む。

 

 抵抗する「男」としての自我を、俺の色で塗り潰し、組み替え、犯していく。

 

 削ぎ落とせ。

 

 お前の中の、俺と反発する角を。

 

 柔らかく、暖かく、俺を包み込むだけの存在へ。

 

 それは殺人だ。

 

 俺は今、境織姫という少年を殺している。

 

 二つの欠落した魂が、互いの傷口を合わせ、一つの完全な球体へと至るための儀式。

 

『お前は俺のモンだ。誰にも渡さねえ』

 

 俺の激情が、コイツの中へと雪崩れ込む。

 

 苦悶とも快楽ともつかない波動が、コイツから溢れ出し、俺を縛り付ける。

 

 お前が俺のために女になるというなら、俺は喜んでお前の男になろう。

 

 二人で「織姫」。

 

 なるほど、よく出来た冗談だ。星の名前を冠するお前が、この暗黒の宇宙で俺という星を捕まえたってわけか。

 

『覚悟しろよ、織姫。……骨の髄まで、俺で埋め尽くしてやる』

 

『織……っ』

 

 俺は獰猛に笑い、震えるその魂に喰らいついた。

 

 引き返す場所なんてもうない。

 

 俺たちはここで溶け合い、混ざり合い、新しい「一」になる。

 

 その果てにあるのが破滅なのか救済なのかは知らないが――少なくとも、この温もりだけは、俺が消滅するその瞬間まで離してはやらない。

 

 

◇◇◇

 

 

 ゆっくりと、鉛のように重い瞼を持ち上げる。

 

 網膜に焼き付いたのは、何の情感も、変哲もない、無機質な白だった。

 

 消毒液の匂い。空調の微かな稼働音。身体のあちこちに繋がれた管の感触。

 

 それら五感からの情報の奔流が、ここが「生者の世界」であることを冷淡に告げている。

 

「……ッ、は……」

 

 乾いた喉から、擦れた吐息が漏れる。

 

 酷く不思議な感覚だ。

 

 肉体の感覚は、間違いなく「境織姫」のものだ。

 

 記憶には、鮮花との思い出や、この身体が過ごしてきた十数年の記録が鮮明に刻まれている。

 

 だが、この思考の主体を動かしているのは、間違いなくオレ――「両儀織」だ。

 

 オレは、生きてる。

 

 いや、正確には「境織姫という器」に混ざり込み、その座を共有する形で現界している。

 

 内側へ意識を向ければ、そこには深い微睡みの中に居る「彼」の気配があった。

 

 あの永遠とも思える虚無の海で、オレを受け入れるために自らを「陰」へと変質させ、オレに抱かれ、犯され、殺され続けた魂。

 

 すべてを捧げ尽くした疲労からか、今の彼は泥のように深く眠っている。

 

「……なるほどな。勝ったのか、お前は」

 

 唇が勝手に弧を描く。

 

 イチかバチかなんてレベルじゃない、正真正銘の自殺行為だったはずだ。

 

 消滅確定だったオレを拾い上げ、自分の魂の形を変えてまで適合させるなんて、狂気の沙汰だ。

 

 だが、結果がすべてだ。

 

 オレがこうして目を覚まし、心臓が脈打っているという事実が、境織姫がその命を賭した大博打に勝利したことを証明している。

 

 身体を起こそうとして、視界の異変に気づいた。

 

「……チッ」

 

 世界が、ヒビ割れている。

 

 白い天井にも、点滴のスタンドにも、自分の細い指先にさえも。

 

 黒く、不吉な落書きのような「線」が奔っている。

 

 焦点を合わせれば、その線はより明確に、より深く、「モノの壊れやすさ」を死という概念として脳髄に叩き込んでくる。

 

 だが、不思議と驚きはない。

 

 オレは一度、式の中で死んだ身だ。

 

 そして織姫もまた、生きたまま根源の縁まで潜り、オレという死者に殺されながら『 』に触れ続けた魂だ。

 

 死という結末に触れ、生還した欠落者。

 

 神の視座に近い場所から戻ってきたのだから、死を視る眼の一つや二つ、土産に持たされても何らおかしくはない。

 

 オレは意識の焦点をずらし、視界を通常のものへと切り替える。

 

 死の線が消えるのを確認してから、ふと、ある少女の顔を思い浮かべた。

 

 黒桐鮮花。

 

 この身体の持ち主が、誰よりも執着し、誰よりも愛されたがっていた『特別』な友達。

 

 あいつは今、どんな顔をしてこの目覚めを待っているんだろうな。

 

 かつての、純粋で傷つきやすかった文学少年としての「境織姫」は、もう居ない。

 

 ここにあるのは、オレという異物を飲み込み、姫として作り変えられた、歪で新しいナニカだ。

 

「……悪いな、鮮花」

 

 口先だけで謝罪を呟く。その声色は、酷く愉悦に歪んでいた。

 

 お前の愛した可憐なお姫様は、オレが殺しちまったよ。

 

 骨の髄までオレの色に染め上げて、オレなしじゃいられない身体と魂にしちまった。

 

 だが、恨むならオレじゃなく、それを望んだ織姫を恨みな。

 

 あいつは自ら選んで、オレのモノになったんだからな。

 

 それに――。

 

 オレを受け入れてなお、こうして平然と現世に戻ってくるようなタフで、とびきりイイ女。

 

 こんな極上の『織姫』、世界中探したって他に二人と居やしないぜ?

 

 オレは自身の身体を抱くように両腕を回し、内なる相棒へ、そして来るべき再会へ向けて、獰猛な愛を込めて微笑んだ。

 

 

 

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