暗い。
昏い。
冥い。
そこは、光が届かないという物理的な闇ではない。「闇」という概念すらも存在を許されない、絶対的な虚無の淵だった。
上も下もなく、時間も空間も意味をなさず、ただただ「無」が無限に広がっている。
すべての境界が曖昧になり、溶け合い、意味を失って解けていく世界。
自我という輪郭さえも、気を抜けば瞬く間に拡散し、この巨大な虚無の一部として還元されてしまいそうになる。
そんな世界で、僕は必死に一つの確かな感触にしがみついていた。
「……離さない」
掌から伝わる熱だけが、ここが夢でも幻でもないことを証明している。
僕は、織の手を掴んでいた。
彼もまた、僕の手を強く握り返している。
ここでは、言葉は音として響かない。思考がそのまま形となり、互いの意識に直接流れ込んでくる。
僕たちは互いを認識し、観測し合うことで、辛うじて「個」としての意味を保ち続けていた。
僕が彼を「織」と呼び、彼が僕を「織姫」と呼ぶ。
その相互観測だけが、この無色の海で溺れずに済む唯一の浮き輪だった。
『……お前、ほんっとバカなヤツだな』
織の呆れたような思念が、苦笑いと共に伝わってくる。
自らの命を危険に晒し、現世での生活を投げ打ってまで、死にゆく彼を追いかけてきた僕への、率直な評価。
『知らないよ。そんなの』
僕は彼の自嘲を、頑として否定する。
『影だろうが、なんだろうが関係ない。僕にとっては、君は唯一の「男友達」なんだ』
たった一度の出会い。みかんを分け合っただけの短い時間。
それでも、魂の深淵で僕たちは繋がっていた。
僕も「織」の名を持ち、彼も「織」の名を持つ。
二人の「シキ」。二つの「織」。
鏡合わせでありながら、根源を同じくする魂の双子。
だからこそ、僕たちは互いを補完し合い、こうして同じ存在として、この極限の領域で形を保っていられるのだから。
『……変わったヤツ』
織の手の力が、少しだけ強くなる。
『だがまあ、悪くない。最期まで付き合ってやるよ、相棒』
ニヤリと笑う彼の気配を感じながら、僕は改めてその手を握り締めた。
どこへ流されるのか、いつ目覚めるのか、あるいはこのまま消えるのかも分からない。
けれど、この手が繋がれている限り、僕たちは独りじゃない。
無限の虚無の中で、僕たちは確かな「個」として、そこに在り続けた。
◇◇◇
互いに溶け合い、交わり、境界が曖昧になっていく感覚。
そこは精神の深淵であり、魂の揺籃でもあった。
僕も「織」の名を持ち、彼も「織」の名を持つ。
二つの魂は、共に「陽」の属性を帯びている。
本来ならば反発し合うはずの同極の魂が、ここでは奇妙な引力で惹かれ合い、一つの円環を描こうとしていた。
織が僕を抱きしめる。
物理的な腕の感触はないけれど、魂を直接撫でられるような熱く、甘やかな痺れが全身を駆け巡る。
『……お前、変わる気か?』
織の思念が、僕の内側に直接響く。
彼の言葉には、驚きと、そして僅かな躊躇いが滲んでいた。
『そうしなきゃ、戻れないでしょ?』
僕は答える。
そう、このままではいけないのだ。
二つの「陽」がそのまま一つの器に戻れば、肉体は負荷に耐えきれずに崩壊するか、あるいは精神が摩耗して双方が消滅してしまう。
かつて彼が、「陰」である式と身体を共有し、彼女を支える「陽」として存在していたように。
バランスを取るためには、対となる極が必要なのだ。
僕という身体。「織姫」という名。
その器に、僕と彼という二つの魂を矛盾なく収めるための最適解。
――織は、織のままでいい。
――僕が、「姫」になればいい。
僕が陰となり、彼を受け入れる器となれば、僕と織は「織姫」という一つの完成された存在として、あの身体に戻ることができる。
男とか女とか、そんな生物学的な性別なんて、魂の在り方の前では些細な記号に過ぎない。
『ハッ……とんだお姫様だ』
織が笑う。その笑いには、呆れと共に、深い愛着と共犯者のような熱が宿っていた。
『いいぜ。お前がそれを望むなら、俺がお前を殺してやる』
殺す、という言葉は、ここでは「変質させる」という愛の行為と同義だ。
僕の「陽」としての自我を削ぎ落とし、彼を受け入れるための「陰」へと染め上げていく。
それは緩やかな死であり、同時に新生への儀式でもあった。
熱い。
彼に触れられるたびに、僕の魂が書き換えられていく。
男としての僕が死に、彼のための僕が生まれる。
何度も、何度も。
終わりなき虚無の中で、僕は彼に抱かれ、彼に貫かれ、彼に殺され続けた。
痛みと快楽がない交ぜになった奔流の中で、僕は自らの魂が形を変え、彼と完全に噛み合うパズルのピースへと変貌していくのを感じていた。
――あぁ、これが「織姫」になるということなのか。
薄れゆく意識の端で、僕は恍惚とした安らぎを感じていた。
僕は織の姫となり、織は僕の一部となる。
そうして僕たちは、二人で一つの「完全な僕」へと還っていくのだ。
◇◇◇
あの年の瀬。
こたつで向かい合い、ただミカンを分け合っただけの、ほんの数十分の邂逅。
交わした言葉など、片手で数えるほどしかない。
それなのに、コイツは俺を追ってきた。
本来ならば式の代わりに消滅し、無へと還るはずだった俺という「死」を肯定するために、生きたままこの虚無の海へと飛び込んで来やがった。
――バカな野郎だ。
本当に、救いようのない大バカ野郎だ。
この「境織姫」という存在は、俺とおなじ「織」の名を持ちながら、その根底にある生き汚さも、執着の強さも、俺なんかより余程タチが悪い。
俺は「否定」を担当する人格だ。誰かを殺すこと、あるいは自分が消えることに対して、忌避感なんて持ち合わせちゃいない。
だが、コイツは違う。
俺を生かすために、自分という在り方すらねじ曲げようとしている。
『……ハッ、震えてんのか?』
腕の中に閉じ込めた魂が、小刻みに明滅しているのが伝わってくる。
怖いのだろう。当たり前だ。
俺たちは今、魂の輪郭を溶かし合い、再構築しようとしている。
俺とコイツは、共に「陽」の属性を持つ男同士の魂だ。そのままでは混ざり合わない。反発し、摩耗し、やがて共倒れになる。
だからコイツは、自ら「陰」へと堕ちることを選んだ。
俺を受け入れる器となるために。俺という異物を内包できる「姫」となるために。
それは、境織姫という「男」の死だ。
コイツが積み上げてきたアイデンティティを、俺が犯し、食らい尽くし、別のナニカへと変貌させる陵辱に他ならない。
『織……、織……ッ』
直接脳髄に響くような、切羽詰まった思念。
縋るように俺の名を呼ぶその響きが、たまらなく愛おしくて、同時にどうしようもない加虐心を煽る。
俺は、両儀式という全体においては「影」でしかなかった。
いつか消えゆく余剰。式のスペア。殺人の衝動を引き受けるだけの負の遺産。
誰も俺自身を見てはいなかったし、俺もそれを望んではいなかった。
だが、コイツだけは違った。
式でもなく、他の誰でもなく。ただ「両儀織」という個を求めて、ここまで堕ちてきた。
世界でたった一人。
俺という存在を「必要だ」と叫んだ、物好きで、愚かで、最高に愛しい共犯者。
――ああ、いいぜ。望み通りにしてやるよ。
『あっ……』
俺はコイツの魂を深く抱きしめる。
物理的な肉体はない。だが、魂が触れ合う感触は、肉欲よりも遥かに濃密で、鮮烈だ。
俺の「陽」を、コイツの芯へと流し込む。
抵抗する「男」としての自我を、俺の色で塗り潰し、組み替え、犯していく。
削ぎ落とせ。
お前の中の、俺と反発する角を。
柔らかく、暖かく、俺を包み込むだけの存在へ。
それは殺人だ。
俺は今、境織姫という少年を殺している。
二つの欠落した魂が、互いの傷口を合わせ、一つの完全な球体へと至るための儀式。
『お前は俺のモンだ。誰にも渡さねえ』
俺の激情が、コイツの中へと雪崩れ込む。
苦悶とも快楽ともつかない波動が、コイツから溢れ出し、俺を縛り付ける。
お前が俺のために女になるというなら、俺は喜んでお前の男になろう。
二人で「織姫」。
なるほど、よく出来た冗談だ。星の名前を冠するお前が、この暗黒の宇宙で俺という星を捕まえたってわけか。
『覚悟しろよ、織姫。……骨の髄まで、俺で埋め尽くしてやる』
『織……っ』
俺は獰猛に笑い、震えるその魂に喰らいついた。
引き返す場所なんてもうない。
俺たちはここで溶け合い、混ざり合い、新しい「一」になる。
その果てにあるのが破滅なのか救済なのかは知らないが――少なくとも、この温もりだけは、俺が消滅するその瞬間まで離してはやらない。
◇◇◇
ゆっくりと、鉛のように重い瞼を持ち上げる。
網膜に焼き付いたのは、何の情感も、変哲もない、無機質な白だった。
消毒液の匂い。空調の微かな稼働音。身体のあちこちに繋がれた管の感触。
それら五感からの情報の奔流が、ここが「生者の世界」であることを冷淡に告げている。
「……ッ、は……」
乾いた喉から、擦れた吐息が漏れる。
酷く不思議な感覚だ。
肉体の感覚は、間違いなく「境織姫」のものだ。
記憶には、鮮花との思い出や、この身体が過ごしてきた十数年の記録が鮮明に刻まれている。
だが、この思考の主体を動かしているのは、間違いなくオレ――「両儀織」だ。
オレは、生きてる。
いや、正確には「境織姫という器」に混ざり込み、その座を共有する形で現界している。
内側へ意識を向ければ、そこには深い微睡みの中に居る「彼」の気配があった。
あの永遠とも思える虚無の海で、オレを受け入れるために自らを「陰」へと変質させ、オレに抱かれ、犯され、殺され続けた魂。
すべてを捧げ尽くした疲労からか、今の彼は泥のように深く眠っている。
「……なるほどな。勝ったのか、お前は」
唇が勝手に弧を描く。
イチかバチかなんてレベルじゃない、正真正銘の自殺行為だったはずだ。
消滅確定だったオレを拾い上げ、自分の魂の形を変えてまで適合させるなんて、狂気の沙汰だ。
だが、結果がすべてだ。
オレがこうして目を覚まし、心臓が脈打っているという事実が、境織姫がその命を賭した大博打に勝利したことを証明している。
身体を起こそうとして、視界の異変に気づいた。
「……チッ」
世界が、ヒビ割れている。
白い天井にも、点滴のスタンドにも、自分の細い指先にさえも。
黒く、不吉な落書きのような「線」が奔っている。
焦点を合わせれば、その線はより明確に、より深く、「モノの壊れやすさ」を死という概念として脳髄に叩き込んでくる。
だが、不思議と驚きはない。
オレは一度、式の中で死んだ身だ。
そして織姫もまた、生きたまま根源の縁まで潜り、オレという死者に殺されながら『 』に触れ続けた魂だ。
死という結末に触れ、生還した欠落者。
神の視座に近い場所から戻ってきたのだから、死を視る眼の一つや二つ、土産に持たされても何らおかしくはない。
オレは意識の焦点をずらし、視界を通常のものへと切り替える。
死の線が消えるのを確認してから、ふと、ある少女の顔を思い浮かべた。
黒桐鮮花。
この身体の持ち主が、誰よりも執着し、誰よりも愛されたがっていた『特別』な友達。
あいつは今、どんな顔をしてこの目覚めを待っているんだろうな。
かつての、純粋で傷つきやすかった文学少年としての「境織姫」は、もう居ない。
ここにあるのは、オレという異物を飲み込み、姫として作り変えられた、歪で新しいナニカだ。
「……悪いな、鮮花」
口先だけで謝罪を呟く。その声色は、酷く愉悦に歪んでいた。
お前の愛した可憐なお姫様は、オレが殺しちまったよ。
骨の髄までオレの色に染め上げて、オレなしじゃいられない身体と魂にしちまった。
だが、恨むならオレじゃなく、それを望んだ織姫を恨みな。
あいつは自ら選んで、オレのモノになったんだからな。
それに――。
オレを受け入れてなお、こうして平然と現世に戻ってくるようなタフで、とびきりイイ女。
こんな極上の『織姫』、世界中探したって他に二人と居やしないぜ?
オレは自身の身体を抱くように両腕を回し、内なる相棒へ、そして来るべき再会へ向けて、獰猛な愛を込めて微笑んだ。