白い無機質な病室に、衣擦れの音だけが密やかに響く。
オレは自分の身体に――かつて「境織姫」という少年だけのものだったこの器に、己の手を這わせていた。
細く、白い指が、病院着の裾から内側へと侵入する。
骨張った肋骨のラインをなぞり、柔らかな腹部を撫で、さらに奥、秘められた熱源へと指先を滑らせていく。
これは確認作業だ。
あるいは、所有権を主張するための刻印だ。
脳裏にある記憶の書架から、一冊のファイルを乱暴に引き出す。
『黒桐鮮花』。
彼女がこの身体に何をしてきたか。どこに触れ、どこに口づけ、どこを愛撫すれば、この身体が甘い悲鳴を上げたのか。
その克明な記録を再生すれば、織姫の身体の弱点を特定することなど造作もない。
「……ん、ぁ……」
敏感な箇所を指先で弾くと、オレの喉から、オレの意図しない甘い吐息が零れた。
背筋を駆け上がる痺れ。内腿が小刻みに痙攣する感覚。
身体の奥底で、眠っていた織姫の意識が、熱に浮かされて微かに身じろぎする気配を感じる。
端から見れば、これは単なる自慰行為に映るだろう。
目覚めたばかりの少年が、性欲を持て余して自分を慰めているだけの、浅ましく安っぽい光景。
だが、違う。断じてそんな次元の話じゃない。
これは儀式だ。
オレという異物を受け入れ、オレのために変質したこの魂が、どれほど深くオレに染まっているのかを確かめるための、神聖ですらある冒涜。
「……鳴けよ、織姫」
オレは自らの耳に囁くように、低く呟く。
もっと聞かせろ。
オレの手によって快楽を貪り、理性を溶かされ、雌として喘ぐお前の声を。
この喉を通って世界に響く、オレの女の啼き声を。
指の動きを早める。
記憶の中の鮮花の手つきを模倣し、あるいは凌駕するように、執拗に、無慈悲に、急所を責め立てる。
「あッ、ぁ……っ、ぅ、……ンッ!」
声が高くなる。吐息が熱を帯びる。
それは紛れもなく、オレの中に潜む彼が上げている声だ。
オレが与える刺激に、オレの一部となった彼が悦び、震え、応えている。
その事実に、背筋が粟立つほどの愉悦が込み上げる。
ああ、最高だ。
お前はもう、オレなしじゃイケない身体なんだな。
オレが触れて、オレが愛してやらなきゃ、お前はただの空っぽな器だ。
この背徳感。この支配欲。この一体感。
自分の身体を自分で愛撫するという閉じた円環の中で、オレたちは誰よりも深く交わり、確かめ合っている。
もっとだ。もっと啼け。
その声こそが、オレたちが「二人で一つ」であることの、何よりの証明なのだから。
自分でも信じられないほど甘く、濡れた嬌声が喉の奥からせり上がってくる。
「ぁ、っ、うぁ……ッ!」
それは鼓膜を震わせ、脳髄を直接撫で回すような麻薬的な響きを持っていた。
自分の口から漏れているはずなのに、まるで別の生き物が啼いているようだ。いや、実際にそうなのだろう。
啼いているのは、オレの中に潜む「女」。
そのあられもない鳴き声が、オレのサディスティックな興奮に油を注ぎ、この身体を愛撫する指先に、加虐的な力を込めさせる。
「――イイ声だ。もっと鳴けよ」
もっと、もっと、オレのために哭いてみせろ。
オレは自身の快楽中枢を容赦なく蹂躙する。
記憶の中にある鮮花の手つきをトレースし、さらにそこへオレ自身の欲望を上乗せして、執拗に急所を抉る。
「ひっ、あ、あ゛ッ、もう、――ッ!」
刺激が強すぎるのか、快楽の容量を超えたのか。
シーツを掴んだまま、織姫の身体が弓なりに跳ね上がる。
逃げようとする本能的な反応。だが、オレはそれを許さない。
腰が浮き上がろうとするのを意思の力で縫い止め、無視して指を動かし続ける。
理性のタガが外れ、白濁した思考の中で、彼が――オレたちが、限界を迎える。
「アッ、イッ、――あああああッ!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫と共に、身体が大きく痙攣し、そして弾けた。
目の前が真っ白に染まり、世界が揺れる。
絶頂。
魂ごと持っていかれるような、強烈なスパーク。
荒い呼吸だけが、静寂を取り戻した病室に響いている。
「……ハッ、最高だよ。オレのお姫様」
汗ばんだ額を腕で拭いながら、オレは心底からの称賛を贈る。
本当に、そそるような聲で哭いてくれる。
あの『 』の淵、根源の近くで行った魂の交じり合いも、溶け合うような万能感があって悪くはなかった。
けれども今、こうして「境織姫」という肉体を得て、その鼓膜という器官を通じて聴く姫の嬌声は、格別だ。
生々しく、猥雑で、そして暴力的ですらある色香。
女であっても雄に変えてしまう魔性のフェロモン。
記憶にある鮮花が、あれほどまでにこの身体に執着し、理性を失っていた理由が、今なら痛いほどよく分かる。
これは、犯したくなる。
自分自身ですらこうなのだ、他人が見ればひとたまりもないだろう。
気怠くなった身体を、ゆっくりとベッドのマットに沈める。
波が引いていくような余韻を楽しみつつ、オレは手つきを優しいものに変えた。
愛おしむように、確かめるように。
微かな電流のような甘い痺れを肌に残しながら、オレは緩やかに、いつまでも織姫の身体への愛撫を続けていった。
◇◇◇
怠い。
泥の中を這いずり回ったかのような、鉛色の倦怠感が全身を支配している。
まばたき一つするのさえ億劫で、こめかみの奥で鈍い痛みが拍動しているのを感じながら、僕はゆっくりと意識を覚醒させた。
目を開けると、そこには無機質な白が広がっていた。
見覚えのない天井。消毒液と薬品の混じった、清潔すぎて冷たい匂い。
ああ、ここは病院だろうか。
身体を起こそうとして、ふと、昨晩の――いや、それがいつの夜だったのかも定かではないけれど――強烈な記憶が蘇った。
織に抱かれる夢を見た。
夢、のはずだ。
けれど、肌に残る熱や、内腿の痙攣、喉が覚えてしまっている甘い声色は、それが単なる夢想ではないことを告発している。
鮮烈で、暴力的で、それでいて蕩けるように甘美な快楽の余韻。
思い出すだけで、勝手に顔へと血流が集まり、耳が熱くなるのを感じる。
ズキンッ。
思考を遮るように、一際強い頭痛が脳を突き刺した。
あまりの痛みに僕は再び目をきつく瞑る。
数秒、あるいは数分。
痛みの波が引くのを待って、恐る恐る瞼を持ち上げた。
「……ッ」
息を呑んだ。
視界が、変貌していた。
天井にも、点滴のチューブにも、シーツにも、そして自分の手や身体にさえも。
まるで落書きのように、黒く、不吉な線があちこちに走っていた。
ただの線ではない。それは「壊れやすさ」の具現化であり、万物が逃れられない「死」そのものが可視化されたもの。
視るだけで脳が解ってしまう。あの線をなぞれば、どんな硬いものでもバターのように切れ、どんな強固な概念でも崩壊するということが。
――直死の魔眼。
脳内の型月知識が、即座にその答えを弾き出した。
両儀式が持つとされる、神域の異能。
それが今、僕の瞳に宿っている。
僕は慌てて目を瞑った。
情報の奔流を遮断しなければ、脳が焼き切れてしまいそうだったからだ。
目を閉じれば、闇の中で思考だけが回転を始める。
確か、式は普段、焦点をずらすことで、日常的にこの線を見ないようにしていたはずだ。
だが、それは彼女が「死」に触れることでしか「生」を実感できないという、特殊な精神構造を持っていたからこそ可能だった芸当ではないのか?
普通の人間が、死の深淵を常時覗き込みながら、正気を保ってそれを「見ないふり」するなんてことができるのだろうか。
……いや、待て。
「普通の人間」?
今の僕は、果たして普通の人間と言えるのだろうか。
僕は一度、死んだも同然だ。
生きたまま根源の縁まで潜り、そこで織に何度も殺され、魂を作り変えられた。
死という概念を肌で感じ、受け入れ、それを超えて帰還した存在だ。
死の感覚を知っている。死の匂いを知っている。
だからこそ、それを特別視せず、日常の一部として「無視する」こともできるはずだ。
意識のチャンネルを変えるように。
見えているけれど、見ない。
在るけれど、認識しない。
僕は覚悟を決めて、目を開いた。
視界には依然として、無数の死の線が蠢いている。
だが、僕はそれに惑わされない。
あの線は「死」だ。ただの現象であり、僕を脅かすものではない。
感覚を掴み、ピントをずらす。
死の深淵にチューニングされていた周波数を、表層の「生」の世界へと戻していく。
すぅ、と。
まるで霧が晴れるように、黒い線が視界から薄れ、消えていった。
残ったのは、ただの白い天井と、静かな病室の風景だけ。
「……ふぅ」
成功した。
一先ず、常時死の線が見えたまま発狂するというバッドエンドは回避できたようだ。
「鮮花……」
安堵と共に、一番最初に口をついて出たのは、愛する彼女の名前だった。
どれ程眠っていたのだろう。彼女は心配してくれているだろうか。
僕は織の姫になった。
男としての自我を捧げ、織を受け入れる器として、魂の在り方を変質させた。
けれど、この鮮花への想いだけは、何一つ変わってはいない。
いや、むしろ純化されたようにさえ感じる。
太極図。
黒い勾玉の中に、ぽつんと存在する白い点。
今の僕の魂は、まさにそれだ。
織という男に染め上げられ、陰の属性へと転じた僕の魂。
けれど、その中心にある、決して消えることのない陽の一点。
そこだけは、黒桐鮮花への純粋で熱烈な想いで満たされている。
彼女がいるから、僕は僕でいられる。
どんなに形が変わろうとも、この愛だけが僕を僕に繋ぎ止める。
◇◇◇
決して塗りつぶせない、陰の中の極点。
オレの支配下にありながら、決してオレには触れられない聖域。
それが、どうしようもなくオレを興奮させる。
オレの姫である織姫。
その身体も、魂の大部分も、オレが作り変え、オレの色に染め上げた。
骨の髄までオレに依存し、オレなしでは生きられないように改造した。
だが、その魂の最も深い場所に宿る、針の先ほどの一点。
ダイヤモンドのように硬く、恒星のように熱い、純白の輝き。
そこだけは、どんなにオレが侵食しようとも、傷一つ付けることすら叶わない。
黒桐鮮花。
その少女への想いこそが、織姫という存在を支える脊椎であり、彼の魂における「陽」の極点だ。
夢の中で、オレは織姫を抱く。
これは夢であり、同時に内なる世界での現実だ。
「あっ、んんッ……! 織、っ……!」
甘い嬌声を上げて、織姫が身体を仰け反らせる。
白磁のような肌が紅潮し、汗ばみ、オレの指の動きに合わせて美しく波打つ。
オレの熱を受け入れ、オレに与えられる快楽に翻弄されながら、彼は雌としての悦びに震えている。
絶頂の瞬間、オレはその唇を貪るように奪う。
吐息も、声も、唾液も、すべてを飲み干すように、深く、激しく。
「織ッ、織ぃ……」
蕩けた瞳で、彼はオレに愛を囁く。
その言葉に嘘はない。彼は心からオレを求め、オレを愛し、オレに尽くしてくれている。
だが、オレは知っている。
その心の芯、魂の最奥にある祭壇には、黒桐鮮花という女神が奉られていることを。
オレに抱かれ、オレに愛を誓い、オレの名前を呼びながらイッているのに。
その魂の根源的な部分は、他の誰かのものなのだ。
――ゾクゾクする。
これ以上の背徳があるだろうか。
これ以上の征服欲を煽るシチュエーションがあるだろうか。
身体はオレのもの。心もオレのもの。
けれど、その魂の核だけは、永久にオレの手に入らない。
不完全な支配。
だからこそ、燃える。
だからこそ、何度でも抱きたくなる。
その聖域を穢せないと分かっていても、その周りを執拗に攻め立て、彼をオレの楔で満たし、その聖なる光ごと汚濁の中に沈めてやりたくなる。
それがさらに、オレのどす黒い欲情を刺激していく。
「もっとだ。もっと啼け。鮮花に聞こえるくらい、大きな声で」
終わらない夜の夢の中で。
オレは、オレだけの姫である織姫を、倒錯した愛憎と共に、飽くことなく女として抱き続けた。