Nと別れたあと、エボルたちは草原の道をゆっくりと歩いていた。
「……変なやつだったな」
ぽつりと呟いたエボルの声は、風に流されていった。
レイカがその隣で静かに首を傾げる。
『でも、悪い人じゃなかった。ああいう人間もいるのね』
「……あいつも俺と同じ、“聞こえる”側だった。珍しいこともあるもんだ」
『レイカもエボルも、特別なんだと思う』
シルヴィアが草の間を跳ねるように歩きながら振り返った。
『ポケモンの言葉が分かる人間なんて、森にもいなかったし。』
エボルは黙って頷くだけだった。だがその歩みはいつもよりゆっくりで、少し考え事をしているようでもあった。
──
数時間後、丘を越えた先に古びた看板が見えた。
「……“リセルの泉”?」
風化した木の板に、かろうじて文字が残っている。地図にも記されていないような、小さな休憩所だった。
『なんか、綺麗な場所っぽい名前だね!』
『泉ってことは水場があるかも。水浴びしたいなぁ……』
レイカが目を細めて嬉しそうに笑う。
エボルは頷くと、そちらへ進路を変えた。
道なき道を抜けると、木々の間から柔らかな水音が聞こえてきた。そこには、岩の間から湧き出る清流が小さな池を作り、陽光を反射して美しく輝いていた。
「……悪くないな」
エボルは腰を下ろし、水面に手を浸す。
『ふふっ、冷たくて気持ちいい!』
レイカがぱしゃっと水を跳ね上げ、シルヴィアもそれに続いて飛び込んだ。
『わっ!冷たっ!でも最高!』
二匹の楽しげな声に、エボルの表情も少しだけ緩んだ。
──
日が傾き始めた頃、焚き火の準備をしていると、どこからともなく足音が近づいてきた。
「……誰かいるな」
茂みの先から姿を現したのは、小さな荷車を引いた旅の商人風の青年だった。
「こんにちは。ここで休憩中ですか?」
「……ああ。何か用か」
「いえ、たまたま通りがかっただけです。リセルの泉を知ってる人なんて珍しくて」
商人は笑いながら腰を下ろし、小さな革袋を取り出した。
「お近づきの印に。ハーブクッキーですが、良かったら」
エボルは黙って一つ受け取る。
レイカとシルヴィアも不思議そうにそのやり取りを見ていたが、特に怪しむ様子もない。
「……旅か?」
「ええ。僕は道具屋で、各地を巡ってます。そちらも、旅の途中ですか?」
「まあな。特に目的地があるわけじゃないが」
商人は微笑んだ。
「そういう旅、いいですね。風の向くまま、気の向くまま。……でも、気をつけてください。この先の道には、“よくない風”が吹いてるらしいです」
「……?」
「僕も聞いただけですけどね。“黒い煙を纏ったポケモンが現れる”とか、“誰も戻ってこない谷がある”とか……まぁ、噂ですが」
「ふん……ありがとな」
商人は荷をまとめて立ち上がる。
「では、良い旅を」
その姿が木々に消えたあと、エボルはクッキーを一口かじって言った。
「……甘すぎる」
『え?美味しそうだったのに』
『ご主人様、甘いもの苦手だったっけ?』
「味が濃いんだよ。……まあ、悪くはなかったけどな」
その言葉にレイカとシルヴィアが目を合わせて笑った。
『……ちょっと優しいね』
『うん、エボルらしい』
そうして、夜は更けていった。
夜も更け、焚き火の炎が揺らめく。
静寂に包まれたリセルの泉のほとりで、エボルたちは野営していた。
シルヴィアは丸くなってうたた寝をしており、レイカは火のそばでじっと瞳を閉じている。
エボルは寝袋に入るでもなく、木にもたれかかり、夜空を見上げていた。
「……黒い煙を纏ったポケモン、か」
旅の商人が言っていた噂。聞き流すつもりだったのに、なぜか気になっていた。
レイカが目を開け、静かに問いかける。
『ご主人様、眠らないの?』
「……ちょっとな。明日、噂の場所に行ってみるつもりだ」
『……やっぱり。ご主人様って、なんだかんだで放っておけない性格よね』
エボルは無言で目を細めた。
──その時。
ガサ……ガサガサッ……
草むらが揺れる音が近づいてくる。
エボルは一瞬で立ち上がり、手を腰の小刀へ伸ばしかける。
「……誰だ」
焚き火の明かりがわずかに照らす先から、2つの影が姿を現した。
『コォ……』『ターッ』
姿を現したのは、野生のロコンとオオタチだった。
どちらも警戒している様子はなく、怯えるでもなく、興味深そうにエボルたちを見ている。
『……あら、可愛い来客』
レイカが穏やかに立ち上がると、ロコンとオオタチは少しずつ近づいてきた。
『ねえ、こんな時間にどうしたの?』
ロコンが控えめに答える。
『あの……匂いにつられて、つい来ちゃったの。変な人たちじゃないよね……?』
オオタチも小声で続ける。
『それに……旅の人が来たって噂になってたから、見にきただけ……』
「……お前たち、ここに住んでるのか?」
ロコンとオオタチは、エボルの言葉にぴくりと耳を立てた。
『えっ……?あ、人間なのに……』
『しゃ、喋ってるのが分かるの!?』
エボルは無言で口元に人差し指を当て、「シー」の仕草を見せる。
ロコンとオオタチは顔を見合わせてコクンと頷いた。
『わ、分かった、内緒にするね!』
シルヴィアも目を覚ましたらしく、あくびをしながら近づいてきた。
『……んん、誰か来たの?』
『ロコンとオオタチよ。なんだか、ちょっと気になる話がありそうなの』
ロコンが少し声を落として言った。
『その……最近、この近くに“おかしな気配”が出てるの』
『そうそう!森の奥の方に、夜になると黒い靄みたいなのが現れて……。見た仲間が“何かに追われた”って戻ってきたの!』
エボルが目を細める。
「……やはり、何かあるな」
レイカが真剣な表情でロコンたちに聞いた。
『誰か襲われたり、傷ついた仲間はいたの?』
『ううん、実際に怪我はしてないけど……でも、みんな口を揃えて“あの場所は行かない方がいい”って……』
『本能的に、近寄るなって感じたのかな……』
エボルは焚き火の薪をひとつくべて、ゆらめく炎を見つめた。
「明日、行ってみる。……放っておける類のものじゃない」
レイカがうなずく。
『私も一緒に行く。どんな相手でも、守ってみせるから』
シルヴィアも気丈に背筋を伸ばした。
『うんっ!アタシも、怖くなんかないから!』
ロコンとオオタチは目を見開いたあと、少し微笑んだ。
『ありがとう……でも、本当に気をつけてね』
『あの奥には、まだ“何か”が潜んでるって……』
エボルは立ち上がって、空を見上げた。星の数が減ってきている。そろそろ夜明けが近い。
「……夜が明けたら、案内してくれるか?」
ロコンとオオタチは頷いた。
『うん、僕たちでよければ!』
───
それぞれが再び眠りにつく中、エボルは最後まで目を閉じなかった。
「……あの黒い煙……ただの噂で終わってくれればいいが」
風が止み、草が静かに揺れていた。