──広がる一本道。昼下がりの陽光が草の葉に揺れていた。
一行はゆるやかな坂を下っていた。レイカは四足の姿で草を踏みしめながら進み、シルヴィアはエボルの肩に軽やかに乗っている。眠そうなエボルの目は、道の先をぼんやりと捉えていた。
そのとき──
『わっ!?』
小さな鳴き声と共に、藪の向こうから一匹のポケモンが駆け込んできた。まだ幼さを残したミジュマルだった。走る勢いのまま、エボルの背後に回り込み、服の裾にしがみつく。
「……なんだこいつ」
不思議そうに見下ろすエボル。だが、その震え方は尋常ではない。
『誰かに追われてる……?』
レイカがミジュマルの様子を見て呟いた。
間もなく──遠くから男の声が近づく。
「ミジュマルーーッ!どこ行った!? この辺に来たはずだけど……」
声の主は、旅装束を着た青年トレーナー。汗を拭きながら駆け寄ってきて、エボルたちに気づいた。
「あの……すみません!この辺りでミジュマルを見かけませんでしたか!?」
エボルは背中を指さした。
「……そこにいるけど?」
青年の目がミジュマルに移り、安堵の笑みを浮かべる。
「ああ、よかった……やっぱりここに……」
しかしミジュマルはますます服にしがみつき、顔を隠してしまった。
「……? ミジュマル、戻ろう。君の修行はまだ終わってないんだ。君の兄と父が待ってる」
その瞬間、青年の腰にぶら下がっていたモンスターボールが二つ、勝手に開かれた。そこからフタチマルと──凛とした風格を纏ったダイケンキが現れる。
『逃げるな、ミジュマル!』
フタチマルが凛々しい声で叱咤する。
『お前はまだ修行の途上にある。我らと共に歩む者が、己の弱さに逃げてどうする!』
続いて、ダイケンキが威圧的に声を放つ。
『いずれ父を超える武士となるのだ。その心が未熟では、志も折れるぞ』
ミジュマルは顔を上げ、怯えながらも叫んだ。
『ぼ、ボクは……ボクは、兄さんや父さんみたいにはなれないよ!強くなんてないし、武士になんかなりたくない……!』
『わがままを言うな!』
ダイケンキがピシャリと叱る。
『弱さは信念の欠如から生まれるのだ。お前に必要なのは“修練”だ』
『時間を無駄にするな、ミジュマル。俺たちは鍛えるために来たんだ』
フタチマルの目にも、一切の慈悲はなかった。
青年はすまなそうに頭を下げた。
「すみません。特訓から抜け出しちゃって……。ほら、ミジュマル、戻るよ」
だがミジュマルは、首を何度も何度も横に振る。エボルのズボンを両手でしっかり掴み、震えていた。
「……アンタのミジュマル、震えてるけど?」
エボルが低く声をかける。
青年は笑ってみせた。
「ああ、それは“武者震い”ってやつですよ。戦いの前には誰でも緊張するものですから。ミジュマル、そんな時こそ修行あるのみ!」
そのとき──
ミジュマルの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それはまるで、誰にも気づかれたくない悲鳴のように、静かに、でも確かに。
「…………」
エボルの目が細くなり、口がゆっくりと開く。
「アンタ……ミジュマル自身が、本当に望んでると思ってんのか」
「……これは自分たちの問題だ。君には関係ないことだよ」
青年の言葉に、エボルの額にわずかに皺が寄る。
「……関係ない?」
「君には関係ない──ミジュマルが泣こうが、それは成長の一環なんだ。信念が足りないなら、叩き直すまで。……最終的には、一流のホタチ使いとなって、父を超える武士に──」
「──もう一度、聞くぞ」
エボルが一歩、青年に近付く。
「“ミジュマル自身が”望んでるのか?」
「……君、しつこいな。これは──」
その瞬間──
エボルの足元、乾いた地面にピシリと小さな亀裂が走った。
シルヴィアがぼそりと呟く。
『……あ、キレた』
『ご、ご主人様……怒るのは分かるけど、それは駄目よ』
レイカが少し焦った様子でエボルの横に回り込む。
静寂が広がる。
風がぴたりと止み、草木さえも息を潜める。
エボルの足元から、ほんのわずかにひび割れた大地。
そこから漏れ出す空気が、まるで氷のように冷たく張り詰めていた。
『……ご主人様……』
レイカが息をのむようにその名を呼ぶ。
その声には、焦りと、畏れが滲んでいた。
『あ、あれ……エボル……なんか違う……』
シルヴィアも、エボルの肩からすっと降りる。小さな体が、本能的に距離を取ろうとしていた。
「……どうして、お前たちが……?」
青年がようやく気付く。
彼の足元に立っていたフタチマルとダイケンキが、突然、緊張に身を固めていた。
まるで見えない敵を警戒するように、身構え、エボルの動きを一瞬たりとも見逃さぬよう視線を定めている。
『……なん、だ……この圧……』
フタチマルの喉が鳴った。
『戦いの前触れとは、違う……これは……生き物としての“危機感”だ……!』
ダイケンキの目が鋭く細められる。
『……この少年、一体……何者だ……?』
青年はそれでも状況が掴めず、困惑しながらミジュマルを指差す。
「ミジュマル、ほら……父さんたちも来てくれた。だから──」
その言葉を遮るように──
「……動くな」
エボルの声が落ちる。
低く、冷ややかで、ひとつの音に重みが宿る。
背筋に氷柱でも落ちたような錯覚を覚え、青年は思わず足を止める。
「……アンタが気付いてねぇなら教えてやる。震えてんのは武者震いなんかじゃねぇ」
ゆっくりと、しかし確実に一歩ずつ近づいてくるエボル。
「ミジュマルは“怯えてる”。誰かの理想を押しつけられて、自分を見失って、逃げるしかなかったんだよ」
「だ、だけど……っ!」
「“だけど”じゃねぇ」
言葉を重ねる青年に、エボルの瞳が突き刺さる。
「アンタの言葉の全部が、ミジュマルには“呪い”だ。立派な武士?ホタチ使い?兄や父を超える?……そんなもんは、お前らの“自己満足”だ」
青年の口がわずかに開きかけたその瞬間──
エボルがわずかに顔を傾ける。
その動作だけで、再び地面にひびが走った。
フタチマルとダイケンキの身体に、びりびりと走る緊張。
『止まれ!これ以上近付くなら…』『構えるなフタチマル、構えたら……やられる!』
ダイケンキが一瞬、警戒を強めた。
エボルの背後では、ミジュマルがまだ服を強く握っていた。小さな震えは止まらない。
「教えてやるよ、アンタに足りなかったもの──」
青年の目の前に立ったエボルは、わずかに姿勢を落とし、凍てつく風のような気配を放つ。
「“声を聞く”ことだ」
その言葉と同時に、レイカとシルヴィアが左右から進み出る。
それは、あくまで“抑え”に回る動きだった。
『……ご主人様、それ以上はダメよ。』
『エボル……ミジュマルが怖がってるだけじゃない、あたしも、ちょっと怖いかも……』
レイカとシルヴィアの声が届き、エボルは一瞬だけ目を閉じる。
そして、息を吐いた。
すっと雰囲気が和らぎ、さっきまでの氷のような覇気は消えていく。
「……アンタが気づくかどうかは、もう知らねぇ。けど一つだけ言っておく」
エボルは振り返り、ミジュマルに視線を落とす。
「俺は、“やりたくない”っていう気持ちを、無理やり押さえ込む奴を……許すつもりはない」
そう言って背を向けた。
ミジュマルが、エボルの背中をじっと見つめていた。