地面に崩れ落ちた俺の体を、レイカが抱きしめる。彼女の腕は震えていた。
「ご主人様……エボル……どうして……」
その声は震え、涙がこぼれ落ちる音さえ聞こえてくる。
「なんでこんな時に……どうして……!」
レイカは俺の胸元に顔を押しつけ、声を抑えながらも嗚咽を漏らす。だが──彼女は、すぐに自分の無力さを呪い始めた。
「……私には、癒しの力なんて……無い……っ……!」
震える手で俺の頬に触れるレイカ。火傷の跡や擦り傷に指が触れるたびに、彼女は歯を食いしばり、涙を溢れさせる。
「何も……できない……。私は、ただの……ただの焼け残りで、役立たずで……」
そのときだった。
──空が、輝いた。
天を覆う雲が割れ、柔らかくも神々しい光が差し込んでくる。レイカが顔を上げると、光の中からどこか神聖な声が響いてきた。
『この者の命を、救いたいか?』
「えっ……!?」
レイカは周囲を見渡す。だが、近くに誰もいない。声は確かに聞こえた。頭の中に、心に、直接語りかけるように。
「誰……なの……?」
しかし返答はなかった。ただ、ゆっくりと空から──一枚の羽が舞い降りてきた。
虹色に輝く、それはまるで絵本に出てくる奇跡の羽のようだった。光を反射して、七色の輝きを放っている。
レイカはおそるおそる手を伸ばし、羽を手のひらに乗せる。その瞬間、不思議な温かさが手から体全体に広がっていった。
「……これを……エボルに……」
そっと、レイカは虹色の羽を俺の胸元に当てた。
すると──
眩いまでの光が俺の体を包み込んだ。
レイカは目を細めながらも、その光景を見つめる。まるで太陽そのものを抱いたような、その光。
やがて、光が徐々に弱まり、俺の体から放たれる輝きが静かに収束していく。
「エボル……?」
レイカが呼びかけたその瞬間、俺のまぶたがぴくりと動いた。
「ん……」
ゆっくりと目を開ける。
「……レイカ……?」
その一言が発せられると、レイカは泣き顔を一気に崩した。
「エボルぅっ!!」
彼女は迷いなく、俺の胸に飛び込んできた。
「本当に良かった……良かった……!」
俺はまだぼんやりとしていたが、レイカの温もりだけははっきりと感じていた。
「……お前、泣いてんのか?」
「うるさい、少しだけだから……!」
そう言いながらも、レイカの頬には大粒の涙がいくつも流れていた。
「ありがとう……生きててくれて……!」
レイカの体温と涙の熱が、俺の心にまで沁み込んでいくようだった。
この世界にはまだ、知らない奇跡がある。
そう思えた瞬間だった──。
翌日──。
昨日までの苦しみが嘘のように、体が軽い。目覚めた時、毒の影響など微塵も残っていなかった。
「……あの羽、マジで何だったんだ……」
朝露が残る森の小道を歩く俺の後ろから、レイカがついてくる。
「歩いて平気なの? 本当にもう平気なの?」
「平気だ。こうして動けてる。むしろ体がキレてるぐらいだな」
そう言って、伸びをしながら空を仰ぐ。陽光が木漏れ日のように降り注ぎ、鳥ポケモンの鳴き声が心地よく響いていた。
だが、静寂を破るように──
「シャァァァッ!!」
茂みから飛び出してきたのは、野生のワルビルだった。鋭い牙を剥き出しにして、一直線に飛びかかってくる。
「ちっ、朝からテンション高いな」
だが、俺は動じない。軽く一歩下がって体を捻り、タイミングを見てワルビルの尻尾を掴む。
「おとなしくしてろ」
そのまま片手でワルビルを軽々と持ち上げ、半回転して地面に叩きつけた。
「ギャウッ……!」
ワルビルは目を回し、そのまま逃げていく。だが、去り際、震えるような声を発していた。
『……な、なんなんだあいつ……!ヤバすぎる……!』
「……言葉が分かるのって便利だな」
俺がぼそりと呟くと、後ろからむくれた声が飛んでくる。
「ちょっと! 私いるのに指示くらい出してよ! 私、ただの観客じゃないんだけど?」
「俺が言わなくてもやれ。判断して動けるだろ」
「えぇー……私だってご主人様に褒めてもらいたいんだけど……」
「褒められる前に、隣に立つ資格があるか証明しろ」
その一言に、レイカはぷくっと頬を膨らませながらも、すぐに小さく笑った。
「……はいはい、分かったわよ。自分で動けってことでしょ」
「そういうことだ」
そう言いながらも、俺の視線は遠くを見据えていた。
この森の先に、何があるか分からない。
だが──レイカがいる。
そして、俺には“聞こえる耳”がある。
どんな敵がいようとも、やってやる。
しばらく歩き続けた俺たちは、森の奥に差し掛かった。
朝から緊張しっぱなしだった体に、ようやく静けさが染み渡っていく。
「少し……休むか」
俺はそう呟いて、立ち止まる。
視線の先には、太い幹と広がる枝を持つ一本の大木があった。
その根元は苔むしており、葉の影が程よく日差しを遮ってくれている。
「ここで良さそうだな」
『うん、気持ちよさそう……』
レイカも頷き、俺の隣に腰を下ろす。
俺は背中を幹に預けて、深く息を吐いた。
風が頬を撫でるたびに、森の香りが肺を満たす。
こんな平穏、何年ぶりだろうか。
俺の記憶には、常に訓練、罵声、血と痛みが付きまとっていた。
何の感情も抱かずに動くだけの存在。
だが今、こうして穏やかな空気の中で、隣にはあのレイカがいる。
「なあ、レイカ」
『ん?』
「お前、あの時……怖くなかったのか?」
『怖かったわ。とっても。でも、それ以上に……助けたいって思ったの』
レイカは少し考えた後、ゆっくりと首を振った。
『ふふっ、ようやくお礼言ってくれた』
彼女は柔らかく微笑んでいた。あの夜、命を懸けてまで俺を救おうとした理由。
それは単純なものだったのかもしれない。
「……ありがとな」
レイカがくすっと笑う。
俺はふと空を見上げた。木の葉の隙間から、青空が覗いている。
鳥ポケモンが二羽、空を横切って飛んでいった。
「本当は……あのまま死んでもよかったと思ってた」
『エボル……』
「でも、お前がいて……助かって。今は、少しだけ、変わりたいと思ってる」
『少しじゃなくて、いっぱい変わっていくわよ』
「……ああ」
それはきっと、悪い変化じゃない。
──
しばらく、風に身を任せながら沈黙が流れる。
レイカが隣でうとうとし始め、俺もまぶたが重くなっていく。
その時だった。
「……ん?」
風が不自然に止まり、代わりに森の奥から何かの気配が近づいてきた。
『何か来てる……!』
レイカもすぐに目を覚ました。
俺はすぐに腰を上げる。大木の影から見下ろすように前方を睨むと──
茂みの中から、複数の目がこちらを見ていた。
「……囲まれたか」
現れたのは三匹の野生ポケモン。真ん中にはガントル、その左右にはドテッコツとサイホーン。
どれもこの地域にはそう多くない種だ。
『あいつらだ……“あの羽”を持ってたってやつ』
『仲間がやられたって言ってたぞ……!』
『あの人間、何者だ!?』
言葉が、はっきりと聞こえる。
俺がポケモンの言葉を理解できるのは、もはや当然のことだ。
「……羽を見てたか」
レイカが俺に近づく。
『ご主人様、指示を──』
「お前は動くな」
『えっ?』
「……遊び疲れたばかりだろ。ちょっと俺一人でやってみる」
『もぉ……カッコつけなくていいのに……』
そう呟くレイカの横を通り過ぎ、俺は一歩、前に踏み出す。
「話は聞こえてる。だが、俺はその羽を拾っただけだ」
『……それが“奇跡”の羽か?』
「知らねえよ。だが、邪魔をするなら容赦はしない」
言葉が通じていることに三匹が一瞬たじろぐ。
だが、次の瞬間、サイホーンが突進してきた。
「来るか……!」
俺は前傾姿勢になり、わずかに地を蹴ると、一直線に駆け出す。
サイホーンの角を正面から迎え──その首筋に足をかけて、体を回転させながら背後に跳ねた。
「せいっ!!」
サイホーンの背に拳を落とす。
衝撃に耐えきれず、サイホーンがその場で倒れ込む。
『な、何だコイツ……!?』
「まだやるか?」
ガントルとドテッコツが一歩引いた。
レイカの口元がにやりと持ち上がる。
『ね、だから言ったでしょ?私のご主人様、すっごく強いのよ』
『……もうやめとけ。こいつら、本物だ』
『覚えておく……』
三匹は素早く森の奥へと逃げていった。
俺は肩を軽く回しながらレイカの元へ戻る。
「はぁ……ちょっとスッキリした」
『……ご主人様、ちょっと格好よかった』
「“ちょっと”かよ」
『ふふっ、ちょっとだけね』
再び大木の根元に戻り、俺はどさりと腰を下ろした。
レイカも隣に座り、俺の肩に軽く頭を寄せる。
静かな森の中、太陽は少しずつ傾いていく。
少しずつだが、俺たちの旅が形を成してきた。
──この先も、きっと大変なことがある。
でも今は、この静けさを噛み締めていたかった。