ー数週間前ー
一方、その裏路地の奥。誰も寄り付かない廃屋のような場所に、数人の黒ずくめの人影が集っていた。
「……観測者が沈黙か。想定よりも早かったな」
「やはり、ゾロアークの細胞を持った個体は脅威だ。記録では不適合とされていたはずが……」
「それでも適応した。むしろ、制御されていないが故に、“力”の真価が表れ始めている」
冷ややかな声が交錯する。その中心に立つ一人の女が、長い外套を羽織り、端末の画面をじっと見つめていた。
「──“エボル”。この存在は、今後の計画における変数となる」
女の名は、《アカシア》。
観測者を送り込んだ組織の次なる幹部。計画の指揮を担う存在だった。
彼女の隣には、無機質な音を立てて動く銀色の球体──無人偵察機が浮遊していた。
「映像回収は済んだ?」
『……済。戦闘記録・エネルギー反応・対象個体の変異全てを取得』
「上出来ね。あの少年の“覚醒”には、ゾロアーク由来の因子が深く関与している。ならば、試す価値はある」
そう言いながらアカシアは手元の端末を操作し、あるコマンドを送信する。
『サンプルC-03、解凍完了』
低く、重苦しい音が背後から鳴る。鉄の重厚な扉が開かれ、中から姿を現したのは、一匹の異形のポケモン。
鋭利な爪、複数の赤く輝く目、ねじれた骨格。
それは原型こそリザードンに似ていたが、明らかに「何か」が混ざり、変質していた。
「……これが、融合個体第3号。『リザルグロウ』」
アカシアは小さく微笑む。
「観測者は“対話型”だったけれど、こっちは徹底した破壊特化。理性は残していないけれど……指示には忠実よ」
異形のリザードンが低く唸り声を上げると、床の鉄板がミシリと音を立てる。
アカシアは再び、端末に視線を落とした。
「エボル。あなたが力を得たのなら、こちらも準備は進めるだけ。次は──“あなた自身”を試させてもらう」
その言葉が吐き出された瞬間、空気が重く濁った。
とある廃工場の地下。錆びた鉄と薬品の臭いが入り混じる薄暗い室内に、規則正しい低音が響いていた。
「──次の段階に入る」
乾いた女の声が広がる。機械音声のような平坦さでありながら、全体に威圧を感じさせるその響きは、彼女の立場を自然と明らかにしていた。
《アカシア》。かつて、秘密裏に進められていた人為的融合体計画“PROJECT LINK”の中心にいた女性。
だが、今は表立った研究者ではない。ただの“裏側を司る者”に過ぎなかった。
目の前の巨大なコンソールには、観測者が最後に送信した記録映像が再生されていた。
荒れた戦場。少年──“エボル”が覚醒し、変質し、技を操るまでの全記録。
「……ゼロ距離から放たれた“ナイトバースト”。ゾロアーク因子の初期適応にしては、上出来すぎるわ」
アカシアの口角が微かに上がる。
「それにしても──」
隣に控える部下の1人に目をやる。
「観測者の排除、こちらの損失としては軽い方ね。あれは“卒業失敗者”の監視と処分が任務だっただけ。万が一、成功してもデータが取れればそれで良かった」
「……問題は、エボルの覚醒が“自然発現”であったこと。制御のない進化はリスクも伴います」
「そう。だからこそ……早急に“調整”をしなければならない」
アカシアは手元の小型端末に指を滑らせた。そこには、複数の【融合被験体】のリストが並ぶ。
C-03 リザルグロウ:攻撃特化・指令従属型
C-05 グランスフィア:浮遊・複眼制御型
C-06 ディエレクトロ:電磁干渉特化型
「予備群を起動する。次に接触する時には、“選別”をする必要があるわ」
部下の一人が問う。
「選別、とは……?」
アカシアは、壁のスクリーンに再生された少年の戦闘記録をじっと見つめながら言った。
「……価値があるかどうかよ。あの少年が、“世界に残す意味のある存在かどうか”」
部屋の空気が、冷え切ったように静まり返る。
「もし価値があるなら……私達の理想の“礎”として取り込む。価値がないなら──」
「──排除、ですね」
「ええ。そのためにも、まずは“記録者”を送り込むわ」
アカシアが指を鳴らすと、奥の隔壁が音を立てて開き、一人の少女が姿を現す。
無表情なその顔には、感情というものが宿っていなかった。肌は透き通るように白く、瞳はまるで機械のレンズのように冷たい光を宿していた。
「“ルミエール”。観測者とは異なり、お前は“記録”と“判断”の役目を担う。過剰な干渉は必要ない。対象個体“エボル”の接触時に、その存在価値を見極めなさい」
少女──ルミエールは、無言で頷いた。
「理解しました。任務開始の命を、待ちます」
アカシアは席に深く腰を下ろし、細い指先を組む。
「……準備が整い次第、出撃を。まずは“視る”ことから始めましょう」
───
その日の夜。
廃墟の施設の最奥、密閉された実験室の一角。
暗闇の中で、別の“融合体”が目を覚ましかけていた。
鋭く尖った角。しなやかな体躯。空気を吸うたびに、青白いエネルギーが体表を這い、音もなく震えていた。
《個体名:シグマβ》
その瞳は、真っ直ぐにモニターを見据えていた。
かすかに、笑っていた。
「……“エボル”。面白そうだな」
───
まだ誰も知らない。次なる影が、静かに、だが確実に地を這い始めていることを。
少年が持つ“力”を巡る戦いは──まだ、始まったばかりだ。